49話 「墓参りの日」
陽射しの強い日の帰り道。
高台の上にあった涼やかな風も、長い階段を降りてしまえば大理石造りの道を炙る熱気を取り込んだ温い風に切り替わる。
今日は猛暑日だな、とハルは頬を伝う汗を肩で拭いながら黒尽くめの少女の手を慎重に引く。
「足、気を付けろよ。突然転んでも助けられないぞ」
咄嗟にどこを触っていいか迷うし、と心中で付け足す。
両腕をハルの手と服の裾に固定したルシカが苦しげに顔を歪め、しかしいつもの気丈な笑みを作って。
「……手を引いてもらって助かるよ、ハル。備え付けの手すりもぐつぐつ煮えて触れたものじゃない。でも出来れば背負うか、抱きあげるかしてくれても良かったんだよ?」
「絶対嫌だっつったろ」
「良かったんだぞ?」
「ごり押しやめろ」
今も周囲の生温かい目が突き刺さって居心地が悪い。
道行く彼らの目には我儘を言う恋人を素気無く突っぱねつつも手を貸す男、にでも見えるのだろうか。
いや、多分奔放なお嬢様の世話をうんざりしながらこなす下男がせいぜいだ。
少なくともハル自身にはそう見える。
「そら。ここでいいか?」
「ふう……ご苦労様。いや、霊園の階段はしばらく遠慮したいな。ハルがいないとこんなに大変だ」
どうにか階段を下り終え、木陰に設けられた休憩所のベンチまで連れていくと、ふらり、とルシカの細い体が背もたれに乗っかかる。
ぐったりした姿も絵になるのは何か納得がいかない。
「前より虚弱体質になってないか? もっと山や森を動き回れてたような気がするんだけど」
「あの時が色々と特別だったんだよ……」
曰く、疲労が自覚できないほどテンションが上がりすぎた反動だとルシカは疲労混じりに首を振る。
「君のせいだからな」
「何でだよ。絶対、俺は関係ないからな。体力付けるためにも、お前も俺の日課に付き合った方が良いんじゃないか?」
「無理。朝からあんな量の筋トレはあり得ない」
あれ以降、度肝を抜かれる度合いで虚弱体質ぶりを発揮する彼女だが、ハルは内心、楽をするための演技ではないかと疑っている。
中々尻尾を掴ませない所も彼女の食えない部分だ。
「俺はこの後、診療所のほうに寄るつもりだけど……ルシカはどうする? 一緒に来るか?」
「コレットには昨日も会ったし、私は遠慮しておこうかな。少しここで涼んでいくよ。君も日が傾くまでには教会に戻ってくるように」
廃教会地下の住居スペースが今の自分たちの仮住まいだ。
裏通りの奥の奥、まるで存在を忘れられたかのようにポツリと残ったその場所は、まだ自由の身だった頃のルシカが確保しておいた隠れ家の一つだという。
かなり老朽化しているものの、物価の高い王都では雨風を凌げるだけでも貴重だった。
「じゃあ、後でな」
手を振って別れ、王都へと続く東門へ。
弟と二人で歩いた道のりを、一人で歩く。
入都の手続きを取って、順番が来るのを待っていると声を掛けられ、顔を上げた。
「よぉロクデナシの兄貴。ようやく戻ったか」
今ではすっかり顔見知りになった衛兵の男だった。
赤銅貨を提供してくれた命の恩人だと後で聞かされ、何度も頭を下げて感謝を告げたのも記憶に新しい。
その時の彼は下げられた頭をポカリ、と小突いて、ハルの出所を祝福してくれた。
男はハルの周囲を見渡して、首を傾げた。
「そういやあの子は? 最近見ねえな」
答えに窮して、口ごもる。
ハルが言い淀んでいる間に招集が掛かったらしく面倒そうに顔を顰めながら手を振る。
「今度は妹と一緒に来いよ。礼を言われるならそっちが良い」
がははは、と豪快な笑みを作って、衛兵の男は行ってしまった。一人置いていかれたハルは所在なく視線を床に落とすばかりだった。
喧騒が絶えない街並みを歩く。
最初は二人で歩いた道も、今はたった一人。
ふと思い出して荷物袋を手繰った。
丸まってぐしゃぐしゃになった王都のパンフレット。乾パンを齧りながら手も届かない料理店へと思いを馳せる。
「……ぁ」
弟と二人で食べた肉串屋の看板が見えた。
以前に比べて今日は盛況のようだ。威勢の良い主人の声と肉を炙る音が絶えず弾け、香ばしい匂いが辺りを包んで更に客を惹きつけている。
ハルもまた無意識に引き寄せられて。
――約束ですよ。
無事に帰ったら、その時は。
「……馬鹿野郎」
自分を叱咤し、その先に続く言葉を振り払う。
店の前を素通りすると、拗ねるように頬を膨らませた弟の姿が脳裏によぎった。そんな幻想も振り切って先を急ぐ。
大通りを抜け、やや薄暗く細い路地を進むと古びた診療所が見えてくる。
「着いた、診療所……」
白い建物が立ち並ぶ王都には似つかわしくない薄茶色のドーム状の建物だった。
窓や壁には所々ツタや雑草で緑色の装飾を施され、一見すれば廃墟と見紛うほどだが、行き交う人の多さがその認識を改めさせる。
入り口で列を為す診療所の利用者たち。
包帯や薬箱を片手に忙しなく飛び回る白衣の女性たち。
大通りとは種別の違う盛況さにハルはいつも感心させられる。
「さすがは、冒険家御用達の診療所……」
利用者は主に荒事に従事する冒険家たち。
強面を泣き顔に歪めながら長蛇の列を作る彼らの声、声、声。
冒険で負った傷。
日常の諍いで作った傷。
体調不良、二日酔い、腹下し。
様々な不調を声高に訴えながら、今日も冒険家たちは白い天使たちの前に列を為す。
「今日も大変そうだな……えーと、勝手には入るわけにもいかないし、どうするかな」
面会の申請をしようにも白衣の女性たちに声を掛けるタイミングが掴めない。
仕方がないので誰かの手が空くまで端の方に身を寄せながら、彼らのやり取りに耳を傾けた。
「相変わらずこの人は人気だなあ」
特に人気なのは小さなモノクルが特徴的な得意の女性だ。
「頼むよ、フェリ……包帯みてえな間に合わせじゃなくて森精族お得意の精霊術でぱーっとさ……」
「酒場の喧嘩で作ってきたタンコブなんて絆創膏でじゅーぶん! はい次!」
「痛てえよお、痛てえんだよフェリィ……助けてくれよぉ……もぅ俺きっとだめなんだよぉ……」
「二日酔いの人ならこっちに並ばないでくださーい。こっちは傷専門なんでーす。はい行った行った」
フェリと呼ばれた彼女は雑な応対で患者たちの尻を蹴飛ばしながらテキパキと列を片付けていく。
冒険家たち相手にふてぶてしく立ち回る所作は、ついこの間知り合った看板娘を思い出させた。
何しろ森精族の精霊術だ。
その即効性の高さたるや癒薬や薬草樹の根っこをも凌ぐ。
あくまで自然治癒を早める効能の延長線ではあるのだが、激痛や苦しみが一瞬で和らぐのなら誰だって頼りたくなるはずだ。
(……万能というわけじゃない、はルシカの言葉だっけか)
ふと、今頃ホウロンで療養中のピーターを思い出した。
彼にも治癒師の手を借りて傷を癒しているはずだが、それでも起き上がれるのに何日もの時間を要するらしい。
命に係わる状態を癒すには、精霊術の出力がどうしても絡む。
「はーい、じゃー往診に行くんで解散ー!」
そりゃねえよぉ、と情けない声をあげる男たちを置いて、フェリは白い帽子をぽふり、と頭にのせて治療箱を片手に歩き出す。
その歩みがハルを見かけて止まり、ハルもまた軽い会釈をして近寄る。
「こんにちは。忙しいんだな、先生」
「大の大人のほーがしょーもない怪我の頻度が高くてイヤになります! 診療所を何だと思ってんですかねー。まー冒険家っていうのはどいつもこいつも怪我ばっかりこさえるんですけど!」
はぁ、とフェリの整った顔立ちがへにゃり、と崩れる。
無理もない、とハルも苦笑を返して、常人より長く尖った細耳へと視線を向ける。
(森精族……この人と会う口実を作るために怪我をこさえてくる冒険家も、多いとか多くないとか)
特徴的な長い耳は森精族の証だ。
大気中に漂うマナを自在に操り、治癒を施す彼女は一部の界隈で『白妖精』なんて異名をいただいている。
今や数も少なくなった純血種の森精族が詰めるこの診療所が人気を獲得するのも当然と言えば当然で、むしろもっと立派な診療所を立ち上げればいいのに、などと思ってしまう。
「その点、あなたはいつも無傷で感心感心。自分の体を大事にする人、私の中でポイント高いですよ」
「ハハ、ハハハ」
今のは危なかった。
自然な笑顔ができただろうか、と口端が痙攣する。
鬼化の影響で自然治癒しているだけで、実際はここに居る誰よりもいつも傷だらけになっているハルとしては、何だか騙しているようで申し訳ない気持ちになる。
(万が一この人の前で戦う羽目になったら、地道に稼いできた好感度が地に落ちるな……)
どうかその日が訪れませんように、と心の中でひっそり祈りながら頬を掻く。
「えーと、面会に来たんだけど」
「んー。今日は持ちこみもないようですね、許可しますー。病室の場所は変わってません。では私はこれで」
フェリは忙しなく表通りの方へと消えていく
文字通り、彼女の森精族としての治癒術を必要とする患者たちの元を回るのだろう。
診療所の利用は冒険家だけではないので、文字通り王都中を飛び回る予定かもしれない。頭が下がる思いだ。
「……行くか」
よし、と一度自分を鼓舞して建物の中へ。
横に長い診療所の玄関ホールに見知った顔がいた。
「キーファ」
彼は硬い表情で白衣の女性と言葉を交わしていた。
何度か頷き、額に手をやって口端を引き攣らせる様子に只事ではない、と感じたハルが声を掛けるべきか迷っていると、キーファの方がハルの姿を見付け、そして話を切り上げて近寄ってきた。
「よぉ、ハル」
「お、おう」
「? んだよ、その間抜け顔は。何か変かよ」
口が裂けても言えない。
キーファが自分の名前を呼んでくれることが落ち着かないなんて。
もし口にすれば不機嫌そうなキーファの顔がより険しく歪み、ついでに自分の気持ち悪さに鳥肌が立つに違いない。
(いやだって、仕方ねえだろ……?)
キーファには怪物の側面を見られたはずなのに。
もちろんルシカやピーターのように以前と変わらず接しようとしてくれる人は居る。これからも少しずつそんな心優しい人々と巡り合えれば、これほど嬉しいことはない。
けれど、彼の場合は少し違う。
正体を明かす前より今の方が親しくなれたと実感できたのはキーファが初めてだった。
「その、コレットの容態は?」
「アンタに心配かけるほどじゃねえよ」
素っ気ない声の後で「あ、いや」とキーファが首を振る。
「違げえんだ、迷惑とかじゃなくて……なんだ? と、とにかく心配はいらねえよ。コレットの翼、元通りに治すアテはあるらしいって話でさ」
「ホントか!? 良かったなぁキーファ!」
朗報を心から喜ぶハル。
けれどキーファはさっと表情を曇らせハルの視線から逃れるように顔を背けた。
その様子を不思議がると、彼は痛みを堪えるように身を震わせて。
「……悪りぃ。俺たちのことばっかで、アンタの……」
「キーファ?」
「何一つ、アンタに返せねえまんまだ。ほんとに、何一つ役に立たねえ……あいつのことも、俺たち全然だめで……」
言葉に詰まり、沈黙が下りる。
どう声を掛けていいか分からず、当たり障りのない言葉を選んで、キーファの肩を叩きながら諭した。
誠心誠意、本音から出た「ありがとう」を伝えるしか思いつかなかった。
「分かってる。いいんだキーファ。精一杯、やってくれたじゃねえか」
その言葉がどれほど彼への救いになれたかは分からない。
彼は自分の力不足を嘆いて、目に涙を滲ませて自分の無力さを呪っていた。
それだけでも救われる気持ちがあるのだと言うしかなかった。
その気持ちだけでもう十分だと笑顔を作るしかなかった。
キーファの右腕全てを包む包帯を流し見る。
中身は擦過傷で酷い有様だ。腕だけでなく右半身全体に広がるそれは、シオンを守るために負った傷だ。
何一つ役に立たない、なんて彼の誤解なのだ。
そんな馬鹿げたことを口にする奴がいたら、他の誰でもなくハルがそいつをぶん殴ってやろうと思う。
「そうだ、キーファ。俺たち、明日一日は王都を離れることになると思うんだ。ホウロンって村に向かう予定でさ。だから……」
「……ああ、分かった。こっちは任せてくれ」
力強く請け負う声が頼もしかった。
じゃあ、と声を掛け合って別れる。
キーファは外で、ハルは内へ。
ドーム状の建物外周を回る左曲がりの長い廊下を歩き、目当ての人物の名札を探しながら物思いに耽る。今までの当たり前と、これからの当たり前の齟齬を埋めるように。
――あの日、知ることができたもの。
自分の隣に当たり前のようにあったもの。
当たり前のようで、当たり前じゃなかったもの。
失くして初めて気付くもの。
半身を食い千切られるような、文字通り身を引き裂かれるような痛みと喪失感。
自分の目の前で命が零れていく時の後悔と無力感。
痛みに強い鬼の自分でさえ、喪失は耐えがたい苦痛だと知ることが出来た。
――あの日まで、忘れていたもの。
思えば、そうだった。
久しく忘れていたのだ。忘れようとしていたのだ。
誰かを失うことがこんなにも辛いことだと。
もう二度と言葉を交わすことも、笑いあうことも、ふざけ合うことができない。
それが死という形での別離だ。
キーファたちもまた苦しみ続ける痛みだった。
どうして忘れていたのだろう。
炎に包まれた村に置き去りにしてしまった恐怖を。
気付いた時にはもう遅いことも多々あって、もう一度それを突き付けられれば、この心は砕け散ってしまうと知っていたはずなのに。
地獄はすぐ隣り合わせに存在していて。
その時に奪われるのはいつも自分以外の誰かだと、一度は知っていたはずなのに。
「……はっ、ぁ」
一歩、また一歩。
清潔さが保たれた廊下を慙愧の念ごと踏みしめていく。
忘れまいと今度こそ心に刻み付ける。
何一つ欠けてはならなかったのだ。
誰一人として喪ってはならなかった。
才能も実力も大義も条理もない只人のハルが、それでも浅ましく願いに手を伸ばし続けるためには。
弱くて凡庸なハルの背中を、強く押してくれる人が必要なのだ。
「……着いた」
目当ての名札を見付け、笑みを作る。
扉を叩くと一人分の声が返った。
扉の取っ手に手を掛け、横へとスライドさせた。
――だからハルは感謝する。
あの日、そんな地獄の中にあって。
現在も、変わらずにいてくれたものがあることに。
「兄さん」
狭い病室のベッドの上。
来訪者を待ち詫びる中性的な、耳慣れた呼び声。
視界が滲む。胸が熱くなる。
ただ一言。ただ一度の微笑みで、ツンと鼻が痛くなったハルは唇を噛み締めて込み上げる何かに耐え、息を吐き出し、そして笑顔を作った。
「――シオン」
「はい、兄さん」
にこり、と見惚れるほど綺麗な微笑みが返る。
ハルの抱擁を待つかのように両手を広げるシオン。
幻でも幽霊でもなく、けれど神秘的な雰囲気を醸し出す弟は、艶やかで甘い声音でハルを呼び寄せて――
「お土産の肉串は?」
「ぁ、ないです」
直後、神秘的な空気が死んだ。
生臭い現実に一気に浸食された病室内で、ピシリ、と綺麗なままのシオンの笑みが石化した。
どろり、と輝きを放っていた目が腐り淀む。
吊り上がった口角は下がり、開いた口の先ににょきりと牙が生える姿はまるで餓鬼だ。
いや事実飢えている鬼なのだから文字通りだが。
「……よいしょ、と」
ハルは耳を塞いだ。
鬼としての第六感がそれを推奨したのだ。シカタナイ。
直後、病室に醜い罵声の嵐が吹き荒れた。
そんな、墓参りの日の、帰りの出来事。




