48話 「後始末とその顛末」
ドゥロン山林を抜けると草木の数が明らかに減る。
代わりに広がるのは乾いた砂地で象られた街道、その先に二人の目的地はあった。
「ここが、ゼッダの風見鶏亭……」
樹や石造りが目立つ聖龍国の気風とは真逆の、固められた砂や粘土を土台に造られた紅龍国仕様の建造物を見上げ、二人はどちらともなく息を吐く。
砂交じりの乾いた風が途切れることなく吹き、家屋の天辺に拵えた風見鶏をからからと回して弄んでいる。
ごく、と緊張の面持ちで唾を呑むハルの背を撫でながら、ルシカは前へ進む。
「ではハル、手はず通りに」
扉の前まで進み出ると、来訪を告げる鐘を鳴らす。
高窓から誰かがジロリとハルたちを見下ろし、様子を窺っているのが見えた。
剣呑な目付きと目が合い、引き攣った笑みで頭を下げるハル。窓の向こう側で複数の男の、嘲弄するような笑い声が聞こえた。
扉が開き、金色の顎ヒゲを撫でる美丈夫が顔を出す。
「いらっしゃいませ」
一見線が細いように見えて、切り立った崖肌のような頑強さを備えた背の高い男の名はゼッダ。
かつて聖龍国と紅龍国を股にかけ、それぞれの国で銀貨級の階級を与えられた元冒険家であり、今は両国の国境線に居を構える止まり木『ゼッダの風見鶏亭』の主人でもある。
彼は黒尽くめの少女を上から下まで眺めて考えに耽る様子だったが、やがて端正な顔立ちを苦笑に歪めて頭を下げた。
「失礼、不躾でした。あまりにもお綺麗だったもので」
「構わないよ、そういう賛辞にも慣れている。初めまして、護衛品『A』の受け取り先、風見鶏亭のゼッダ。顎髭を生やしたのかい? 似合わないな」
「……どこかで会ったことが? いやいや、職業柄、顔を覚えるのは得意ですよ。貴女ほど印象深い方を見忘れることはないはずだ。お名前を伺っても?」
「自分の素性をペラペラ話す運び屋がいると思う?」
きっぱりとした否定にゼッダの口の動きが止まる。
冒険家の素性を詮索するな、と暗に指摘され「いやはや」とゼッダが困ったように額を掻く。
しかし尚も食い下がろうと口を開いたその時、ズシッ……、と足場が僅かに揺れた。
「……早く話を進めてくれ。重かったんだ」
努めてぶっきら棒な声をあげ、ハルは滑車を傾けて黒棺を地面に転がしつつじろり、と無遠慮な視線をゼッダに向ける。
途端に例えようもない不快感がゼッダの背筋を這い、元冒険家としての直感が疑問を呑み込ませた。
「はは……それはお疲れでしょう。中へどうぞ。道中、暑かったはずだ。冷たい飲み物でもご馳走しましょう」
「遠慮するよ、うん。その手には乗らない」
ルシカは目を妖しく光らせ、細腕を上げた。
僅かにハルの重心が下がり、彼女が手を降ろした途端に飛び掛かりそうな姿勢を見せた。まるで猛獣だ。
ひく、とゼッダの口元が引き攣るのを確認したうえで、ルシカは更に言葉を続けた。
「私たちの用事は貴方一人が居れば事足りる。話すべき事柄を速やかに終わらせようじゃないか。お互い、人目に付いて得をする事はないだろう?」
当然ゼッダの素性は裏の顔を含めてルシカの既知だ。
彼が紅龍国の奴隷商人と多数のコネクションを持つ裏社会の顔役であることも。
密入国や人身売買に手を染めた悪党であることも。
そもそも『ゼッダの風見鶏亭』に所属する冒険家たちは彼を頂点としたゴロツキ崩れの傭兵団であることも。
(この反応を見るにやっぱり、役目を果たした運び屋を始末するまでが彼の仕事かな)
店の中では屈強な男たちが息を潜めて出番を待っているはずだ。招かれ迂闊にも店の中に足を踏み入れたら最後、絡め捕られるに違いない。
だが少年少女二人だけ、と見くびり、ゼッダ一人で出迎えたのは彼の浅慮だ。鐘の音に釣られ、誘蛾灯に張り付く虫のように誘き寄せられたゼッダを見上げて微笑む。
誘き寄せられたのはお前だ、とそう告げるように。
「依頼品の見分なら外でもできる。さあ」
「……分かりました」
機先を制され面食らっていたゼッダだが、すぐに澄まし顔を取り繕うと黒棺のほうへと歩み寄る。
顎ヒゲを撫で、時折付いた傷跡に僅かに眉を顰めるも、特にそのことを言及する様子はない。
ゼッダの視線はやがて黒棺の一点、聖絹で申し訳程度に隠した頭部に向く。
「ご存じだとは思いますが、念のため」
「……何かな?」
「棺桶と中身、それが揃って初めて『A』――箱が無事でも、商品が入ってなければ意味がない。よろしいか?」
ドキリ、とハルの鼓動が強く波打った。
ハルの従令に関わる最大の肝は、ゼッダ自身がどこまでAの詳細を知っているか、だとハルは考える。
ゼッダはあの黒衣装の貴婦人とどこまで深く繋がり、詳細を耳にしているか――現実と、伝聞の差異こそが突破口なのだと。
(ゼッダは棺桶の中身について知っている……?)
口ぶりも『そちら』の本命だと言わんばかりだ。
これは多くの情報を握っていそうだ、とハルの首筋にしっとりと脂汗が垂れる。
「もちろんだとも」
ルシカの表情は何一つ変わらない。
妖しさと陽気さが同居する大人びた雰囲気を醸し出し、ゼッダの揺さぶりに眉一つ動く素振りも見せない。
まるで手慣れた作業に取り掛かるような仕草で続きを促され、ゼッダは小さく眉を顰めながらも聖絹を解く。
そして彼は目を見開き、動揺を見せた。
「こ、これは……」
ゼッダが困惑の声を上げるのも無理はない。
小窓から覗くのは、止まった時間の中で眠るあどけない寝顔であった。
苦労を知らない育ちの良さそうな肌の色。
恵まれた環境で培われた純正培養の美しい顔立ち。
赤く腫れた左頬でさえ、見る者の嗜虐心を煽り立てるような、その手の好事家が生唾を呑むほどの美少年――
つまるところイワンナッシュ・イングウェイであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『イワンナッシュを身代わりにする!?』
『そう。私の代わりに黒棺に入れて、それをゼッダに引き渡す』
イワンナッシュの存在は巨大な爆弾に等しかった。
国に突き出せばハルたちが違法な荷物の運び屋だったことを証言されるかもしれず、大貴族の家柄ゆえに事件そのものを揉み消される可能性もあり得た。
彼なら手先であった斧たちに全ての罪状をなすりつけ、逃げ切りを図るのも想像に難くない。
見逃してもそれを恩を感じる人柄ではないだろう。
彼は権力と金を持つ貴族であり、後でどんな報復行為に出るか想像も付かない。
ならば、その命を奪うことで禍根を断つしか手段はないのでは――そんなハルの煩悶を、少女はばっさりと否定した。
『彼もまた悪党の端くれであるのなら、罪科の報いを命で支払うのも妥当な決着ではあるだろう。けれどね』
ひらひら、と手を振り、少女は小さく肩を竦めた。
『こんな虫けらの命でも、君に傷跡を残しかねないし』
『むう……』
『だから命だけは助ける。でもそれ以外は全て剥ぎ取られて、他国の奴隷として裸一貫で放り出す」
ルシカは自らの長い黒髪の間に指を埋めながら、くるくると巻き上げつつ気絶したイワンナッシュを見下ろして。
「新しい土地では、ミトラ貴族の尊き血なんて誰も気にしない。地位と血筋を笠に着て、多くの人々を虐げてきた男には、よく出来た相応の末路だよ』
反対の声が上がるはずもない。
イワンナッシュに待ち受ける破滅の形は決まった。
何のしがらみもない真っ新な環境の中で、彼がいずれ自らを省みるのか、あるいは辛い境遇の前に折れてしまうのかは分からない。だが。
『全ては己だ、ハル』
殴り飛ばされ腫れあがったイワンナッシュの頬にささやかな治療を施すルシカが、生き物の出荷を見送るようなハルのしかめ面を見上げて。
『原因も結果も、あるいは再起さえも』
ハルの耳にはそれが、イワンナッシュに向けた餞別のように聞こえた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「中身の確認は済んだのなら、早く受け取りの手続きを終わらせてほしいな」
ルシカの淡々とした催促と蛇に似た目付きが茫然とするゼッダを射抜き、思考の空白へと畳みかける。急かされたゼッダは混乱の境地の只中、流れ出る額の汗を拭った。
「いや、いや、それは少しお待ちを。事前に聞いた話と若干の食い違いが。中に居るのは女のはずで――」
「依頼主が見間違えたりしたんじゃない? 何しろ、女と見紛うほど綺麗な顔をしているのだし」
「た、確かにそうですが、しかし念のためと申しますので」
「『念のため』? 妙なことを言うじゃないか。まさか私が中身を入れ替えたとでも? ねえ、ゼッダ?」
呼びかけには、決して威圧感などなかった。
旧知の仲であるかのような、頭の固い友人を嗜めるような、声。すらすらと高きから低きに流れるせせらぎのように紡がれていく音色には、魔力が込められている。
「黒棺を開くための合言葉なんて、私は知らない。言いがかりを付けるというなら、どのような手段で黒棺を開いたのか説明を求めるけれど」
悪魔の証明を求められ、ゼッダは答えに窮した。
彼が『棺妃の黒繭』の詳細を事前に聞いているならば、切り立った崖の上から落とそうが傷一つ付かない頑丈な封印をどう破るのか思い付かないだろう。
まさか背後に控える少年が力づくで抉じ開けたのが真相とは思わないし、その答えだと指摘することも馬鹿馬鹿しい。
(しかし本当によく口が回るな、あいつ)
見事なもので、ここまでルシカは嘘を一つも吐いてない。
少女の既知は空っぽの黒棺を起動させる捕縛の合言葉のみで、中身が入った後の操作方法は知らない。何なら『運び屋が自分だ』とも明言を避けている。
だがゼッダも簡単に押し切られはしなかった。
彼はひくひくと眉が強張るのを根気強く耐え、柔和な笑みで自分を律し、穏やかな声音を吐き出していく。
「……今回は従令由来の仕事と私どもも聞き及んでおります。妙な企みは龍の怒りを買いますぞ。まこと恐れ多いことだとは愚考する次第で……やはり、中で詳しい話をですね」
「察しが悪いじゃないか、悪党」
急転直下のような失望の声音。
物分かりの悪さを嘆き、頭痛を抑えるように額に指をあて、深い溜息を添える。
それが演技だと知るハルでさえ、その仕草が本音にしか見えないほど堂に入っている。
「……なんですと?」
「道中、運び屋が襲撃されることを貴方は知っていたはずだ。黒棺の傷や私たちの身だしなみから戦闘の名残も確認した。その上で黒棺を届けに来たのが、貴方が聞いた風貌と違うのなら……」
争いがどういう顛末を迎えたのか、察することができるはず――その最後の部分は敢えて口にしなかった。
代わりに、男なら誰でも目を奪われる可憐な微笑みを向ける。
ゼッダは見惚れたりしなかった。
何か恐ろしい物を見たような顔で唇を引き結び、そして。
「本当の運び屋は、アンタたちが殺したのか」
歯を剥き出しにして笑った。
清潔な美丈夫が一転して卑しくも精悍な顔立ちになり、伸びていた背筋が猫背になって纏う雰囲気に野性味が混ざる。
まるで飢えた野犬か、そうでなければハイエナだ。
その変貌ぶりにはハルも息を呑む。
今にもルシカの喉元に喰らい付きそうな剣幕に飛び出していいものか悩み、けれどルシカが静止の合図を出してその短慮を押し留めた。
「だとしても、そちらに不都合はあるか? ないだろう?」
否定も、肯定もしなかった。
表情と声音で作り出す雰囲気だけで作り上げた虚構に、悪党ならではの真実味が増す。ゼッダは整っていた髪を乱暴にかき上げ、くっくっ、と肩を震わせた。
「そうだな……そうだよ、そうだろうぜ、へへっ。マジかお前、マブい顔してイカれてんなぁ……」
取り繕った態度はもはや霧散した。
下卑た無遠慮な目付きがルシカの顔、胸、腰回り、足までをなぞる。
腕を組み、豊満な膨らみを下から持ち上げる仕草に口笛を吹く有様に眉を顰めるハルと、どこ吹く風のルシカを見比べ、やがて大きく一度頷き、邪気なく破顔したゼッダが両腕を広げた。
「気に入った。笑ってコロシを自慢できる女、そうはいねぇ。いやぁ悪かったよ、確かに今日の俺は察しが悪かった。そうだ、詫びと言っちゃぁなんだが――」
「ハル」
ルシカの白い手があっさりと降りる。
直後、二人の間にハルが体を滑り込ませ、伸びた腕がゼッダの胸倉を引っ掴んで宙へと吊り上げる。
呼吸を制限された男が「ぐべぇッ」と野太い悲鳴を上げた。
「……ルシカ? 今なのか? 俺、間違えてないよな?」
「ああ。よく反応したね、偉いぞーハル」
「ま、待で待で……!? お、おれは、何も……!」
「左の腰巻き」
指示された場所をまさぐると、こぶし大の武骨なククリナイフが腰巻きの影に隠され、既にゼッダの手が柄に伸びていた。
ハルは険しい顔で騙し討ちを狙った男を睨みつつ、内心で心胆を冷やす。
(気付かなかった……)
ゼッダから害意はまるで感じなかった。
ルシカがどのような判断でゼッダの悪意に先んじたのかまるで理解できなかったし、何よりあんな無邪気な顔で人を騙せるゼッダも恐ろしい。
悪党という存在の一端をまざまざと見せ付けられた思いだ。
「受け取って、いただけるね?」
指が鳴る。
事前に指示された合図ではない。
少し困惑しつつも意図を汲み、彼の胸倉をきつく締める。
万力を締め上げるように、じわじわと、しかし確実に呼吸を奪っていくと、唾を飛ばしたゼッダが手を挙げ降参の意を示した。
「う、受げ取る……受げ取るから……!」
「君を含めた風見鶏亭の構成員の手出しを禁じる。先ほどの無礼の値打ちは銀貨十枚。それから……ああ、そうだ。快適な馬車を一頭、融通してもらおうか。徒歩でエリュシードまで歩いて帰るのは骨だから」
容赦なく要求を突き付けられてゼッダの顔色が屈辱で赤く染まる。が、彼には選択の余地がなかった。
やがてぐったりと項垂れ、全ての条件を受け入れることを龍と精霊の名のもとに誓い、ようやくゼッダは解放される。
「……クソッタレの業突く張りが」
「照れるなぁ」
その後、全ての約束は正しく実行された。
イワンナッシュ入りの黒棺はゼッダの手元へ。
代わりに逞しい肉付きの馬に曳かれた小綺麗な馬車と、謝礼金が入った革袋が用意され、じゃら、と硬貨が弾ける音にルシカの頬も緩む。
しかし。
「……ルシカ」
声の震えを、ハルは抑えられない。
胸部をじりじりと毒熱が染みていく痛みは、ハルに対する強烈な警告だ。
契約の不履行を、誓約への不義理を許さぬと猛る龍の炎が、ハルを内側から焼き尽くさんと広がっていくような。
――やっぱり、誤魔化されてはくれないか。
条件は『黒棺及びルシカをゼッダに渡すこと』だ。
この場にルシカが居るだけでは不可。
黒棺に身代わりを入れておいても不可。
ならば、ゼッダ自身が荷物を『受け取る』ことを承諾することで条件の達成を認められればと、ハルはその一点に望みを賭けていた。
だが――
【誓いを果たせ】
耳元で龍の唸り声が響き、ささやかな抵抗を嘲笑う。
【さもなくば死ね】
ハルはせり上がる恐怖を必死に噛み殺した。
侵食していく熱は裁きの方向性を知らしめるようだ。
体の内から灼熱で骨の髄まで焼き尽くされる自らを幻視しながら、それでもハルは彼女の名を呟く以上の行動を起こそうとはしなかった。
ハルには、ルシカを差し出すなんて選択は――
「良い取引だった」
胸部を抑えて俯き耐えるハルを尻目に、ルシカはゼッダの元へと歩み寄る。「まだ何かあるのかよ」と心底迷惑そうなゼッダへ口元を吊り上げた双眸が迫り。
「まぁ、握手ぐらいはいいじゃないか」
ひょい、とゼッダの太い指先に自らの指を絡ませた。
その瞬間だ。
ハルを苦しめていた圧迫感が霧散した。
「……ぁ」
内側から広がっていた熱が急激に冷め、唸るような龍の息吹はどこか口惜しそうな名残を残して、蜃気楼のように消え去ってしまった。
「は――ぁ、えっ……?」
残った熱が吐息となって口から漏れるのが最後だった。
ハルを苦しめる全ての異常は綺麗さっぱり消失した。
信じられない、と顔を上げる中、握手を終えたルシカが目の前に立っていて。
「帰ろう、ハル」
彼女は、ハルの挙動不審など承知の上と言った表情で。
「全ての荷物は確かに、ゼッダの手に渡ったのだから」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……」
「……」
機械馬の蹄が荒々しく大地を削る音だけの帰り道。手綱を握るキーファも、荷台の中で顔を俯かせるコレットたちも何も喋らなかった。
丸一日近く眠っていないし、体は鉛に包まれたように重い。けれど瞼は一向に落ちず、ただ物思いにふける時間だけがあった。
「……これから、どうしましょうか……」
掠れた声が馬車の駆動音に掻き消されていく。
だが、不思議とキーファの耳には鮮烈に響いた。それはキーファ自身がずっと考え続けていたことだった。
昼寝する狸亭は、主人と看板冒険家を失った。
生き残った彼らにしても、もう一度飛べるようになるかも分からないコレットは冒険家の引退を視野に入れるべきだ。そして銅貨級のキーファ一人で店が回るはずもない。
(……引退かぁ)
資金繰り一つにしたって店の維持費にコレットの治療費、その他様々だ。止まり木の廃業は避けられず、彼ら自身も身の振り方を改めねばならない。
けれど新しい仕事をする自分たちなんて思い描けなかった。
彼らはまだ大人になる前から冒険家の生活を続けてきた。マゴーやザジに庇護されながら、どうにか生きてこられたのに。
(……見苦しいよね、翼。こんなにぐしゃぐしゃだとみる人を不快にさせるだろうし、一目見てハーフだって分かるし、誰がこんなの雇ってくれるのかな)
「心配すんじゃねえよ」
昏い展望に沈みそうな思考を、力強い声が引き上げた。
半身で振り返り自分を案ずるように眉を下げる兄貴分の顔付きは、今までより少し大人びていた。
「キーファさん?」
「全部、俺がどうにかしてやっから。具体的な考えは、まだねえけど……死に物狂いで働けば、お前ひとりぐらい、何とか食わせてやれるだろ。任せろって。もちろん贅沢だって、たまにはさせて――」
「……ふふ」
「……コレット?」
「ふふ、あははっ……なんか、変なの……」
目尻を拭い肩を震わせて笑った。
笑えるぐらいは世界が変わったような心地だった。
独りではなかったのだ。
そんな当たり前のことを忘れる自分が妙に可笑しかった。
――きっとこの山での思い出は、深い傷になる。
今はまだ心が麻痺して現実味がないだけで。
マゴーが、ザジが居なくなった事実を正しく受け入れるまで時間がかかると思う。
何度も何度も思い出しては泣くだろう。
彼らの名残を感じるたび、ドゥロン山林道の名前を聞くたび、背の翼が張り裂けんばかりに痛むとき、今日のことを思い出して息ができなくなるだろう。
けれど。
「キーファさん」
「……ああ?」
「ありがとう、ございます」
――生きていてくれて。
自分の翼のことより家族が隣にいてくれることの方が、何倍も嬉しかった。独りはあまりにも寂しいから。
「……礼が早ええよ。せめて翼が治ってからだろ」
「えへへ……」
きっと彼は気付かない。
兄貴分が隣でふんぞり返ってくれるだけで、どれほどコレットを勇気づけてくれることか。
一人遺される寂しさに比べれば、翼を失くすことだって些末事――そう思えるぐらいコレットは『家族』に飢えていて、家族のためなら何だって出来てしまうのだ。
そんな益体のないことを考え、ふと気付く。
「何でもできる、と言えば……」
視線を隣に移すと、脱力したシオンの横顔が見えた。
初めて路地裏で出会った時と同じ、繊細な横顔。
あの時以上に全体的に薄汚れて、傷だらけで、けれど目を閉じて平時の険が取れた剣士は、本当に見惚れるほど可憐に映る。
この子も多分、自分と同じ。
素直ではないけど、家族のために身を削ってしまう人だ。
「起こすなよ。飯の時以外に起こすと斬られるぞ」
「あは」
そういえば出発時にはそんなことを言っていた。
野良猫のように気まぐれで警戒心が強くて、マゴーが用意した食事でさえ中々手を付けようとしなかった。
シオンが常に纏う張り詰めた空気が変わったのは、思えばハルと合流した時からだった。
一向に警戒を緩めてはくれなかったけど、少し冗談を言えるぐらいの柔らかさが出てきて、嬉しくなったのを覚えてる。
きっとそれだけシオンにとって、ハルは大切な人なんだろう。
「でも、私たちの前で眠ってくれるようになりましたね」
無防備な姿に安堵を覚える。
目覚める様子がないほど熟睡している姿は新鮮だった。少しは自分たちのことを信用してくれたのかもしれない。
失ったものを数えるだけで気が滅入る戦いの中で、彼らと結ぶことのできた親愛の証がささくれだったコレットの心を甘やかに癒すのだと――
撫でたシオンの額は、ゾッとするほど冷たかった。
「――――ぇ」
触れた指先が痙攣を起こした。
見る見ると青ざめていくコレットの顔色よりなお青白い頬に、指先が触れる。
冷たいのは額だけではなかった。
頬も、二の腕も、肩も。
命の息吹を感じないほど冷たくて――
「し、シオン、ちゃ……?」
肩を揺らす。
だらりと力感なく腕が垂れた。
声にならない悲鳴を上げながら、コレットはシオンの体を抱き寄せた。
少女の細腕でも簡単に持ち上がるほど軽かった。
まるで体中から血液が抜かれてしまったような、気力どころか魂までも零れ落ちた抜け殻の反応であった。
機械馬の蹄が強く地面を踏みしめる。
怒号。泣き声。
二人分の、切羽詰まった声が馬車の中で木霊した。
シオンは目を覚まさなかった。




