46話 「盾 -シールド-」
手足を無くした虚木の巨人が天を目指す。
少しでも、僅かでも、迫る脅威から逃げようと身をよじりながら巨人の頭部が細く、細く伸びていく。しかし、伸び続ける胴こそはハルが目的地にたどり着くための道筋。
反り返った巨人の胴体、その躯の背を駆け上がる。
顔面をこれ以上ないほど引き攣らせたイワンナッシュを確認できるほど距離が縮まるなか、ハルはルシカの言葉を思い返す。
――君の道筋は私が作る。
「ははっ……!」
あまりにも馬鹿げてて痛快だ。
巨人の頭部までの道を作るのではなく、その図体を崩して物理的に届く距離まで近づける?
スケールがデカすぎて妙な笑いが込み上げる。
彼女の仕事は全て完遂された。
ハルはその成果を確かに受け取った。
後は彼女の期待に応えてイワンナッシュの元へ、快足を飛ばして辿り着くだけ。
だが、それさえ簡単なことではない。
「長柄型・三日月」
「――ッ、ぉ、ぉぉおおおおおおおお!!」
背後から猛烈な威圧感を放ちながら斧が迫ってくる。
ハルより僅かに、だが確実に速く見る見ると距離を詰めてくるのが分かるのだ。
(振り向く時間はねえ……!)
左の拳を硬く握りしめ、その中の感触を確かめたハルは上を見上げる。
鬼の接近に泡を吹く本命が居座る玉座へ到達し、一刻も早くこの戦いを終わらせるために。
早く。
もっと早く、速く、迅く、前へ――!
「ぐ、来るな、化け物……はあ、ぁぁ、来るなって言っでんだろォォオオオッ!!」
恐慌状態に陥ったイワンナッシュの声に応じ、傷付いた魔剣の刀身を中心に青白い光が瞬いた。
ズン、と足元が揺れて巨人の背筋が伸びて、少しでもハルから距離を取ろうとイワンナッシュが上空へと逃れていく。
「往生際が悪りぃ……!!」
舌打ちを禁じ得ずも、歪な樹木の胴体へ剣を突き刺し、それを支えに登攀を試みる。その時、迫る烈風に鳥肌が泡立ち、直感に従って首を捻る。
「投射型・手斧」
「――ぐぅッ!?」
投擲斧が頬を掠めて樹木を抉り刺した。
その命拾いを好機と捉え、突き刺さった斧を足場にして更に上へ。
自分がトカゲにでもなった心持ちで壁を這い、頑丈な足場を確保するやいなや踏み壊す勢いで蹴り、上の階層への跳躍を果たす。
踏み台にされた足場はハルの乱暴なステップで崩れ、追撃者は壁の前で立ち往生を――
「はあ、は……嘘だろ、クソ……」
そんな安堵を嘲笑うように、追撃者は地面からただ一度の跳躍でハルと同じ階層に降り立った。
その馬鹿げた脚力に頭を抱えるべきか。
一寸の無駄なく空を歩くような跳躍に感心すればいいのか。
彼からの逃走劇はこれで二度目を数えるが、あの時も今も全く歯が立たないまま。二人の間に未だ横たわる純然たる実力差が、逃亡さえも
――戦うな。
ルシカの助言が頭の中で警鐘を鳴らす。
(そうだ、いま一番最悪なのは……)
時間を稼がれ、再びあの大巨人が再生を果たすことだ。
この千載一遇の好機を無為にしてはならない。
ならばこの場で踏ん張っても得るものはないのだ。
(ッ――イチかバチか!)
踵を返し、一目散に再び上を目指す。
振り向くな。一切の迷いを捨てろ。防御は考えるな。
命の危機に対して働く直観力だけを研ぎ澄ませろ。
迷いなく、上へ。ただ上へ――!
対する斧はしかし――動かない。
不用意に見せた背中へ叩き付けようとした斧の動きが止まる。
ヒヤリ、と首筋に冷たい風が過ぎ去った。
数瞬反応が遅れれば首と胴が永遠に分かたれていた――そう確信させるほどの剣圧が、斧の足を釘付けにした。
今にも死にそうな剣士が、そこにいた。
「……そう。そのまま、私を見ていろ……木偶」
長い浅紫の髪を強風で巻き上げながら、剣士は唇を引き結んで斧の内臓を掻き回し汚れに汚れた短刀を水平に構えると、一目散に駆けていく兄の背を眩しげに見送った。
この酷い有様を見られなくてよかった。
太ももを伝って爪先までを侵食する赤い染みを見下ろし、小さく息を吐く。
脇腹から湯水の如く流れる血河を見られてしまえば兄の足は止まっていただろうから。
(だからきっと、これでいい)
限界まで絞り出した体力も、この場に辿り着いて殺気を飛ばすだけで使い切った。
斧が不愉快そうに眉を吊り上げこちらを見る。
今ならあのいけ好かない女の気持ちが少しだけ分かる。
この土壇場で嫌がらせをかます快感は確かに、病みつきになりそうだ。
「来い人形。お前の数十秒、私の命で買ってやる」
あの女ならきっと、こんな生意気な口を叩くのだろうな。青白い顔を壮絶に歪ませ嗤った。
そうして、シオンの体は血飛沫を上げながら宙を舞う。
反応も抵抗もできなかった。
三日月型の斧を薙ぎ払った姿勢の燕尾服を見送り、シオンの小柄な体躯は巨人の外へと弾かれて地面めがけて真っ逆さまに落ちていく。
(――あぁ、死ぬ)
手を伸ばす。兄は振り向かない。
左右にぱたぱたと、力なく振る。別離の時にそうするように。
落ちていく。
落ちて、落ちて、あっという間に兄の背が豆粒みたいに小さくなっていく。
この身が流れ星になったような錯覚。
体の中身が全て下から上へと競りあがる嗚咽感さえなければ、風を切る心地に癒しさえ感じるような、終わりに向けた数秒間を――
(――――勝ってよ、兄さん)
ただ、兄への祈りの時間に捧げた。
自分が居なくて大丈夫だろうか。
御人好しの善人で。
騙されやすくて、嘘を吐くのが下手で。
目を覆いたくなるほど痛みに鈍感な、馬鹿な人。
妙な生真面目さを発揮して、自分のことを傷にしなければいいけれど――なんて詮無いことを想う。
瞳を閉じ、少し熱くなった目蓋に力を込める。
後はもう静寂だけがあった。
静かな、静かな星の煌めきが呟いた静謐な祈りが――
「――――ぉぉぉお」
「?」
何か、野太い雄叫びに遮られた。
「おおおおおおおおおおおおおぉおおおおおおおっ、ぁああああああああああああああ取ったぁああああああああああああああああッ!!!!!!!」
ゴッ、と後頭部に肉厚な何かが激突した。
「は、ぁあっ……!?」
瞼の裏で火花が散った。
墜落の衝撃と灼熱に似た激痛とは似ても似つかない、まるで誰かに拳骨でも見舞われたような痛みに目を白黒させた。
文字通り天と地が何度も何度も入れ替わる。
「ぁああああああああっ、ガッ、痛でええええええっ、げっ、うぉおあぁあああああああああああああああっ!?」
極め付けは耳元でけたたましく鳴り響く青年の怒号だ。
揺れて、揺らいで、揺さぶられて。
喉奥から胃液が競りあがって口の中で暴れ出すのを必死で嚥下しながら、ハチャメチャな竜巻の中で歯を食い縛り、やがて停止した。
(……あれぇ)
くたびれて垂れた細腕が地面の砂をなぞった。
生きている。
激突の瞬間、誰かに受け止められたのだと気付いた。
あれだけ覚悟を決めて未練を吐き出したのに何とも締まらない、いや、生きているに越したことはないのだが、とシオンは救世主――キーファを見上げる。
半獣化した黄色の体毛が半分ほど削れて真っ赤だった。
地面を何度も転がり擦過傷を全身に刻んだ体躯が、限界を迎えるように解かれて人の姿へと戻っていく。
相当の激痛に苛まれてなお、青年は空を見上げた。
「行け……」
こぼれた呟きは天へと駆ける鬼への祈りだった。
豆粒のような後ろ姿、僅かに見える赤い点――にも拘らずキーファの心を掻き毟るのは、鬼を視認したことによる憎悪の呪いだ。
膨れ上がっていく敵意、怖気、そして一抹の罪悪感――
だが関係ない。
関係あるものか。
「行け、行け、行っちまえ……!!」
理由も不確かな憎悪など情熱という火にくべてしまえ。
燃え盛る炎に似た激情のままに拳を高く高く突き上げ、吼える。自分のその姿を振り返る時、キーファはこの感情に一つの名前を付けるだろう。
出逢った時からずっとずっと感じていて。
それが情けなくて認めたくなかったこの感情の名は――
「行けええええええええええええええええええええッ、ハルぅうううううううううううう!!!!!」
ハルという少年への――『憧れ』だ。
――ああ、聞こえた。
激励が、祈りがハルの背中を強く張る。
預けられた期待、信頼が炉心となってハルを昂らせる。
全身に溢れんばかりの活力が漲って、急斜面を駆け上がる足が翼を得たように軽い。
背に迫る斧を突き放さんと速度が上がる。
ズタボロになったイワンナッシュの姿を再び目視できるほど迫ったハルは、残る距離とステップの数を測る。
――あと、三歩。
三度の跳躍を以て、ハルは玉座へ到達する。
「おおぉッ!!」
一歩目。
限界まで引き絞った矢の射出を思わせる速度で、ハルの体は跳んだ。
彼我距離の半分近くを詰める大跳躍に対し、イワンナッシュは言葉を紡ぐ余裕さえ失くして小指の欠損した掌を号令を下す将のように振った。
主人の合図と意思に応じた魔剣が電撃の如く魔力を奔らせ、足場からゆらゆらと枝が伸びて折り重なり、人間を貫く槍と化して伸びてくる。
「邪魔ッ、だあああ!!!」
雨あられと降り注ぐ槍を撃ち落とす。
こんなものは悪足掻きだ。
自壊しつつある魔剣は既に限界を越え、どれほど権能を振り絞ろうと鬼化したハルを串刺しにする馬力を発揮できない。
跳躍を撃ち落とすことも、前進を阻むこともできやしない。
二歩目。
天へと再び昇らんとした巨人の台座が急停止。
主人を再び天の頂へと押し上げんと伸ばし続けた首は、元の巨大さの半分にも満たない高度でついに止まった。
【樹喰ノ巨神】の刀身に致命的な傷が刻まれ、流し込んできた魔力は底を突き、もはや虫の息。
主人を支える重さにさえ耐えきれず、長くしなった巨人の首がしだれ花の如く斜めに傾いていく。
もはや斜面とも呼べない一本道が、二人の間に続くのみ。
「ぁぁ、ぁあっ」
絶望を孕んだ敵の声さえ耳に届く距離。
握り締めた左手の感覚を確かめつつ、ハルは最後の跳躍のために足裏へと神経を集中させる。
この距離感は決定的だ。
三秒先の決着はもはや、後ろから追い縋る斧の介入さえ間に合わない――!
(……なっ!?)
勝勢と結論付けるに足る状況下において、ハルの判断が一瞬遅れた。
油断でも怠慢でも慢心でもなく、ただ有り得ない光景を前に足と、そして息遣いが止まったのだ。
木の葉の如く、人の形がハルめがけて飛来した。
少女が漏らすか細い悲鳴、その細い肢体が前のめりになったハルの体へと直撃した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「くひっ――!」
窮地の中にあってイワンナッシュの狂貌が喜びに歪んだ。
逃げ惑いながら、怪物を押し留める何かのキッカケはないかと無我夢中で視線を動かした彼は見付けたのだ。
地上から息を呑み見上げる無防備な少女を。
彼女は何の役にも立たない鉄屑だった。
愛想も技術も覚悟も足りない半端者に、イワンナッシュは適当な名を与えた。せめてこれぐらいはやれ、と気紛れに付けた名前――盾。
目が合い、恐怖に顔を引き攣らせた機人族を認めた瞬間、天啓が降りた思いだった。
イワンナッシュの人生、一番の閃きに脳髄が痺れた。
「ひっ……!」
逃がさない。
深い皴の刻んだ笑みと共に少女へと触手を伸ばす。
捕獲は赤子の手を捻るかのよう。
抵抗もできず絡め取られる少女を自分の手元に引き寄せたイワンナッシュは、大量の脂汗を流しながら凶笑を作った。
「盾ぉ……その名をぐれでやっだのは何のだめだ?」
今にして思えば、なんて冴えた名付けだったのだろうか。
少女に求め、期待したのはただ一つの献身。
それは――
「命を投げ出じで、僕を守るだめだろうがぁぁ!!」
少女を、鬼めがけて放り投げた。
同時に彼女の従令書が禍々しい赤光を迸らせ、盾の体も同じ光を纏う。
期待通りの――否、期待を遥かに上回る効果があった。
数秒程度を稼ぐはずだった苦肉の一手は、ハルの行動を縛り付けた。
――なんなんだ、おまえ。
頭が沸騰しすぎて思考が定まらない。
飛んできた少女――盾は歯の根も合わずガチガチと顔を恐怖に歪め、怯えるように首を振り、涙を流し、全身を怖気で震わせながらハルの体にしがみ付く。
『命を捨ててでも主人を守れ』
そんな馬鹿げた命令に従い少女は「いやだ、いやだ……」と繰り返しながらも意思に反して腰に回す腕の力を強くする。
樹の槍が再度、伸びてくる。
少女ごと串刺しにせんと風を切る槍の軌道を斬り飛ばしつつ、ハルは眉を逆立て伸びた牙を剥き出しにした。
「――お前はッ!! 性懲りもなく!!」
身体に線が奔って血が滲み、赤肌をより朱に染まる。
動きを封じられ躱す猶予も身をよじる暇もなく、撃ち落とし損ねた一撃に苦悶の声を上げ、しかし激情が痛みを凌駕して吼えたてる。
「何が英雄ッ……! ふ、ざ、けやがってぇええええええええええッ!!」
だが怨嗟さえ込めた絶叫も、無意味。
今やイワンナッシュは英雄に憧れる幼子ではなく、窮地を脱しようと藻掻き手段を選ばず敵の必殺だけを考える悪党だ。
ハルの絶叫でさえ策の有用性を示す福音でしかない。
「グッ――――!!」
あと一歩、あと一度の跳躍が遠い。
腰を落とし全体重を乗せて前進を阻む少女の肩に腕を回すハルは、少女をどう取り扱っていいか分からず歯噛みする。
力任せに振り払うことは憚られた。
この高度なのだ。投げ出された少女が墜落すればどうなるか想像に難くない。
ハルの首筋に生温い熱がチリ……と弾ける。
生唾を嚥下する喉奥が火を呑んだように焼り付いた。
無機質な殺意の塊が細長く伸びた足場へと到達し、歯車と鉄が削り合うような駆動音を奏でながら迫りくる。
「斧ぅ――ッ!!」
待ちわびたとばかりの歓喜の声。
命を刈り取る形をした禍々しい戦斧が威嚇するように振るうたび、大気を切り裂く音がハルの耳朶を痛烈に叩く。
生暖かい汗が首元を伝い、振り返ったハルは唇を噛む。
(追い、付かれた……!)
盾の妨害から逃れ得ない最悪の状況で、ついにハルの背中へと機械仕掛けの死神が到達した。
「殺ぜぇ!!」
叫ぶイワンナッシュの手に赤い光を放つ従令書。
斧を形作る人格の全てを奪い尽くした元凶を握りしめ、目を血走らせ糸を手繰るように人形師は――
「盾ごど斬り殺せ斧ぅうう――ッ!!」
最悪の命令を口にした。
その瞬間、盾の目から光が消えた。
オーガの呪いが引き起こす恐怖と嫌悪の感情さえ消えた。
斧を迎え撃たんと振り返るハルの動作を妨害しながら、小さく、小さく、少女の口端に煤けた笑みがこぼれた。
全ての望みを投げ捨てるような、死人の笑みだった。
――ひどい。
少女の声にならない呟きは、捨て石にされたことへの恨み言ではない。主人が機人族の命を消耗品としか見ていないことは痛いほど突き付けられてきた。
けれど、いくらなんでも『これ』はあんまりだ。
贖罪を果たすため身を削ってきた斧、その矜持を地に貶めるような、再びの同胞殺しの強要。
彼は、何のために自らの人格さえ捧げたのだろう。
何のために傷付け、傷付いてきたのだろう。
無情さや虚無感が少女の心を蝕み、無感動な絶望を孕んだ視線がのろのろとハルを見上げる。
地獄へ引きずり込まんとする亡者に酷似した目が、ハルへと選択を突き付ける。
「……もういい、もう」
殺せばいい。
少女の目がそう告げていて――
「馬っ鹿野郎――ッ」
罵倒は命を諦めた少女に向けたものか。
あるいは命令に忠実に従い戦斧を振り上げる青年に向けたものか。
「ッ――があぁああああああああッ!!!」
左腕を少女の腰に回して強引に担ぎ上げ、雷の如き速度で打ち下ろされる斧撃の軌道に右の剣を合わせた。
鋼の結晶が砕ける甲高い悲鳴があった。
まるで足りない。絶対的に強度が足りない。
刀身を犠牲にしたただ一度きりの防御は、迫る破滅をほんの数秒だけ先送りにした。
受け流された斧の刃が、即座にハルへと刃の向きを変える。
(間に合え――)
一連の動きで身を翻したハルの体は回転し、終始硬く握り締められた左の拳が唸りをあげる。
相打ち覚悟の裏拳。
狙いは燕尾服の側頭部、死の運命ごと拳を握りて薙ぎ払う。
(間に合えッ――!)
初動が遅れた。回転がハルの思い切りに反して鈍い。
空手になった右腕に盾を移す余分な動作が、盾自身を抱える僅かな重量の差異が、直観に従って放つはずの反撃にほんの僅かな歪を生んだ。
(間、に合ええぇえええぇえッッ!!)
――間に合わない。
駄目だ。これは無理だ。ハル自身さえ理解した。
放つ拳より、下から斬り上げる戦斧の速度のほうが圧倒的に、絶望的に早すぎた。
庇おうとした少女の細い首ごと、胴体が上下に真っ二つ――確信に近い予感にハルの全身の産毛を逆立った。
そして――
間に合わないはずだった裏拳が、斧の左頬へと突き刺さった。
「「「―――は?」」」
三者三様の、驚愕を孕んだ声。
(――届い、た……?)
一つはハルの口から漏れたもの。
会心の手応えが斧の頬骨を砕き、回転の速度に従って右から左へ振り抜かれる。
鬼化によって増幅した怪力は男の痩躯を軽々と殴り飛ばし、弾き飛んだ斧の体は風に舞う木の葉のように呆気なく、巨人の胴体から射ち出されて地面へと落下していった。
「――、なんで」
二つ目は死ぬはずだった少女のもの。
盾は確かにこの目で見た。自分の首筋、その薄皮一枚に戦斧が届く寸前、青白い光が斧を包んだのを。
結果、斧の動きは明確なほど鈍り、金縛りを受けたように停止したのだ。それはまるで彼の中に残った僅かな人間性が起こした奇跡のようで、けれど。
「ぁ――有り得ないいいぃぃっ!!!」
髪を掻き毟るイワンナッシュのだみ声が響き渡る。
三つ目の困惑の声をあげた彼は、くしゃり、と従令契約書を握り締め、天に向かってそれを掲げながら喉を枯らして叫ぶ。
「絶対のはずだぁ!! 契約は!! 命令は!! 僕の言葉に逆らえるはずがないのにどうじで!! 龍ど精霊の契約は!! なんでぇぇぇえ!!?」
天に、あるいは龍へ不条理を訴える人形師の咆哮に応えたのは。
「逆らう意思も!! 記憶も!! 全部取り除いだはずじゃないがぁああ!? ふざげるな!! ふざけ、……ぁあ?」
龍の息吹のような、青白い炎であった。
「ぇ……? ――ぎえぁあっ!?」
火種もなく端から生じた蒼炎は、絶句するイワンナッシュの目の前で斧の従令契約書を包み込み、炭一つ残さず消滅させた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……先生」
短剣もまた、一部始終を目にした一人だった。
イワンナッシュの非情な命令も、師と仰ぐ斧がそれを受諾し同胞を手にかけようとしたのも、間に合っていたはずの一撃は実現せず、間に合わなかったはずの拳によって倒された姿も。
そして。
殴り飛ばされた斧が、安堵するような笑みを浮かべ落ちていく姿も目に焼き付けた。
「――誓約と従令が鬩ぎ合ったんだ」
「っ……!?」
突然背中から掛けられた声に慌てて振り返る。
黒尽くめの少女が立っていた。
反射的に身構えるが今の短剣には刃物一本持たされていない。
当然だ。廃棄処分になる予定の人形に武器など持たせない。
その事情を知ってか知らずか、黒尽くめの少女は無防備に近寄ってくる。
「植え付けられたばかりとはいえ、自我を喪った状態では従令には逆らえない。逆らう理由が頭にないからだ」
他ならぬ短剣から奪い取った通信機の波長をイワンナッシュに調整し、全ての会話を傍受していたルシカは、平常の人を食った笑みを引っ込めて、どこか感慨深げに空を見上げた。
「けれど、無意識であろうと抵抗できる手段はある。従令を結ぶより前に、龍誓約を結んでおくことだ。誓った年月が古い契約の方が強い。当たり前の話だ」
感じ入るようなルシカの声音。
見事、とその覚悟を称賛するような戦慄が籠もっていた。
「考え付かないはずがない。どんな形であれ再び同胞殺しを強要される可能性を」
あの無常な主人がいずれ最悪の命令を口にするだろうことを。従令に縛られたままでは同じ過ちを繰り返しかねないことを。
「だから斧は先手を打った。『機人族を決して傷付けない』という誓いを龍に奉じておいたんだ。恐らくは、イワンナッシュの配下に収まる前から」
「ぁ……」
――龍と精霊がきっと。
貴方たちを守ります。だから心配しなくて大丈夫。
イワンナッシュに人格を捧げる直前、斧は確かにそう言った。
あれは斧自身の手から守るという意味だった。
自我を喪う過程で狂おうが無意識の状態で短剣らを手にかけるよう命じられようが、魂に刻まれた誓約がその凶行を未然に防ぐ。
あれは斧自身が自らの命を賭けて仕込んだ、主人へと一矢報いるための時限爆弾を示唆したものだった。
「皮肉だな。盾と名付けられた少女は、確かに役目を果たした。同胞殺しの禁忌を課した斧にとって、少女は何よりも強固な盾だったんだ」
奇跡ではない。
理論の破綻もない。
意志が契約を捻じ伏せたという話でもない。
龍への誓いを逆手に取られた愚か者が敗北するという当たり前の結論が残るだけの、なるべくして成った誓願への執念。
ルシカは戦慄を覚えながら、座り込む短剣の傍を抜け、そして振り返る。
「君は来ないのか?」
「ど、どこへ……?」
ルシカは足首に巻いた聖絹を指差し、小さな笑みを作った。
「まだ、助かるかもしれないよ?」
「ッ――!! 行きます、行きます、でも……」
慌てて駆け寄ってくる短剣は黒尽くめの背に「何故?」を問う。主語の抜けた問いかけに答えを返す必要性を感じず、代わりにルシカは巨人の残骸を見上げて。
「さて……上の決着はついたかな」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……此処にいてくれ」
できるだけ声を落とし、上着の端を握ったまま離そうとしない盾の拘束を上着を引き千切ることで脱す。
彼女の意思とは無関係にまた体を絡ませてこようとする前に距離を取り、そして今度こそはと敵を見据える。
「ど、どこだ……どこにいった?」
「……」
「僕の、僕だけの特別な証なのに……ど、どこに……?」
目の前の光景に理解が追い付かず、イワンナッシュは膝を折りながら虚ろな目で宙を見つめ失くした契約書を探して両手で空を掻く。
折よく太陽が山を登り、森全土に朝焼けの輝きをもたらした。従令の赤い光を探すイワンナッシュの瞳がやがて『それ』を映す。
――赤鬼が、三度目の跳躍を果たす瞬間だ。
「ひぎぃぃいいあ!!? 剣!! 剣ぉぉぉッ!!!?」
尻餅を付き、這いながら魔剣に縋った。
既に少し前から光を喪い、錆びた色合いの刀身はまるで亡骸のようだがイワンナッシュは気付かない。再び巨人を生み出せ、と。今すぐにあの鬼を殺せ、と必死の形相で念を飛ばす。
「なんで!! なんで動かない!? 動け、動けよ! た、助けて、たすけてぇ、剣ォ……!!」
「っ……!!」
喚くイワンナッシュの頭上に影が差す。
斧の頬を打ち抜き血が飛び散った左の握り拳がギシリ、と軋むほど硬く力を籠めたハルが眦を吊り上げる。
たとえ無抵抗だろうが遠慮するつもりはない。
ハルは応報の拳をイワンナッシュめがけて振り下ろし――
橙色の障壁がハルを阻み、巨大な大槍が形成された。
「なにっ……!?」
全体重を乗せたシオンの斬撃さえ防いだ防御機構。更には同等の硬質で生成された兵器はまるで大石弓の矢を思わせるほど太く鋭い。
「まだ、動くのか魔剣……!?」
これこそは【樹喰ノ巨神】最後の手札。
煌々と青白く輝きを放つ魔剣を中心に魔方陣が樹木に刻まれ、花の蜜を吸うように樹液を吸い上げ、琥珀に生成して作り上げた矛と盾がハルを待ち受ける。
「っ……!!!」
戦慄が背筋を這いあがる。
間違いない。魔剣はこの展開を読み切り、備えていた。
樹木で編んだ槍では鬼の皮膚を貫けないと悟り、いずれハルの拳が主人に届くと計算し、人知れず力を蓄えて突進を殺す障壁と、心臓を貫く槍の生成に全権能を注ぎ込んでいた。
ハルの迂闊な跳躍を迎撃する必殺の罠を用意していたのだ。
跳躍は既に終えてしまった。引き際はない。
「オォッ!!」
拳と琥珀の障壁が激突した。
大気を切り裂き唸りを上げた拳が障壁を飴細工のように砕く。が、何重にも重ねて織りなされた堅牢な防御は一度や二度の破壊など物ともせずに押し返してくる。
「こっ、……のぉおおおおおっ!!!」
視認できる限り、防壁は六枚重ね。
三枚を初撃の着弾で一息に貫き、残る二枚を強引に力を込めて押し砕く。
だが最後の一枚をどうしても破ることができない。
無数の罅が広がり、こぶし大の穴がイワンナッシュまでの僅かな隙間を生み出すものの――決して、決して魔剣はハルの拳を主人には届かせない。
天秤は勝者へと傾き、根負けしたハルの体が弾かれた。
「ぐっ――あッ!!」
打ち負けた。
固く握った拳が砕け、ほどけて圧し折れる。
人の英知たる魔剣の執念が、魔族随一たる無双の膂力を凌駕した瞬間だった。
乾坤一擲の一撃を防がれ、無防備になった心臓めがけ、展開された大槍が射出されるその瞬間にハルは――
ぴん、と何かを指で弾いた。
『森精族みたいにマナを込めることができれば、こんなものでも炸裂弾と遜色ない威力を出せるんですけど……私たちは魔力の代用品を用意しないと』
そんな言葉を思い出す。
『ハル? どうして君が魔貨を、それも赤銅貨を?』
そんな言葉を思い出す。
『魔貨は切り札になると言ってるんだ。金は力だよ、ハル』
あの時から彼女はこの展開を思い描いていたのだろうか。
頑なに握り続けた左の手のひらに包まれていた『それ』は、イワンナッシュの目には赤みがかり発光した石ころに見えた。
穿たれた障壁の穴から放物線を描いて自分のひざ元に転がり、その物体の正体に小さく彼は小首を傾げた。
「硬、貨……?」
正式な名称はまだこの世にはない。
ルシカが考案し、コレットが作り、シオンが導きキーファが救い、そしてハルの手で届けられることとなった『それ』――希少な魔貨を使い捨てにしたただ一度きりの切り札を、敢えて名付けるならば。
火炎弾と。
「俺たちの勝ちだ、人形師」
爆発や破裂といった動の挙動ではなかった。
火の帯が硬貨を中心に文様を描き、木材と空気を喰らって静かに勢力を拡大する様は赤い蛇が這い回る。
熱風が逆巻いてイワンナッシュの髪を掻き上げ、目が眩む。暗闇の中、目蓋を閉じた視界が赤に染まり、全身からは滝のように汗が噴き出す。
恐る恐る目を開けた時、全ては手遅れだった。
彼は燃え盛る火炎の中心で、腰を抜かしていた。
「ぁ――」
火炎の檻がイワンナッシュの四方を囲む。
逃げ道がない。
周囲一帯を見渡しても炎に阻まれ、近寄れない。
声。
声が出せない。
息を吸うことさえも。
全身が震える。
灼熱に炙られ、指先が痺れ、力が抜け、樹木の床を這い回りながら誰かを探す。
自分を助けてくれる誰かを。
今日まで彼が頼りにしてきた誰かを探し、そして気付く。
「……ぁぁ……」
契約書の束が燃えていた。
従令を取り扱う奴隷商人が失火で全てを喪う笑い話に曰く、マナで編んだ誓約と違って羊皮紙製の従令は火に弱い。
イワンナッシュと機人族の間に結ばれた契約はいま、この瞬間に破棄された。
「…………そぉど……」
魔剣は炎の中で息絶えていた。
最期まで主人に力を尽くした【樹喰ノ巨神】は、ハルを貫くはずだった琥珀の大槍を全てイワンナッシュを炎から守るためのリソースに回していた。
炎の只中にあって未だイワンナッシュが意識を保っていられるのは、中心へと迫る炎を琥珀の壁が押し留めているからだ。
もっとも、長くは保たないだろうが。
死。
死が目の前に迫る。
へにゃり、とイワンナッシュの口元に笑みがこぼれた。
何もかも喪失し、炎の中で藻掻き苦しみ息絶える自分を想像し、平時なら泣き喚いて許しを請い、理不尽を誰かの責任にして声高に呪っていただろう彼は。
「……あは、ははは」
恐怖と安堵が混じり合う涙声で、笑った。
朝焼けと炎で真っ赤に染まった世界の中に、もう自分しかいない。
「ひ、ひひ、ヒヒヒヒヒ……」
もう誰の目も気にならない。
もう誰かと比べられることも、失望されることも、溜息を吐かれることもない。
もう誰かに、期待されないで、済むのだ。
風が吹いた。
「……ヒ?」
狂人じみた笑みが止まる。
四方八方から肌を炙る熱風ではなかった。
肌を刺す感覚さえ覚える冷風――否、確かな質量を持つ何者かの腕が巻き起こした突風であった。
イワンナッシュを焼き尽くさんとした炎の壁も、イワンナッシュを守らんとした琥珀の守りも突破した風は、彼の胸倉を乱暴に掴むと一気に引き抜いた。
「ぎ――ぃぃぃぃゃああッ!?」
覚悟も何も決まらないまま灼熱に一瞬炙られる。
喉が焼け、肌が泡立ち蒸発していく錯覚がイワンナッシュに地獄の苦しみを予感させた。
だが、苦痛は長くは続かなかった。
熱風が遠ざかり、視界が逆さまに傾き、顔面いっぱいに凄まじい強風が吹き荒れた。
落ちている、と気が付いた時には地面は目の前。
墜死――その前に誰かが衝撃を肩代わりし、イワンナッシュの矮躯は雑に放り投げられ地面を無様に転がった。
その際に大量の土を口に含み、苦痛と混乱に胃液が込み上げ、我慢できずに嘔吐する。
「ごっ、おべっ、ばっ、ぉ、ぇぇぇぇ」
何が起きたのか分からない。死んでいたはずなのだ。
炎が、熱がイワンナッシュが抱える苦痛や劣等感を残らず消し去るはずで。
無数の疑問が頭の中を埋め尽くす。
何故助かったのか、誰が助けたのか、魔剣も従令も喪った自分に、誰が――怯え混乱する目が上を向き、頬が引き攣った。
「オ、ぉ、がぁ……ぁ」
見るも恐ろしい赤鬼が仁王立ちしていた。
全身に刻まれた裂傷と火傷が、赤みがかった皮膚をいっそう凶悪な様相に仕上げてイワンナッシュを怖気させた。炎に囲まれた時の笑みが、張子の虎だと思い知らされた。
――喰われる?
そうだ、喰い殺されるのだ。
自分を助ける理由なんてそれ以外、有るはずがない。
「たっ……」
途端に湧き上がってきたのは生への執着と咀嚼への恐怖だった。顔面をぐしゃぐしゃにして首を振る。
「た、べないで……たべりゃいで……」
懇願しながら後ずさる姿は今まで自分が虐げてきた者たちと同等、いやあるいはそれを上回る無様さだった。
培ってきた虚栄心が砕け、大粒の涙と共に流れていく。
誰もがざまを見ろ、と嘲笑うだろう醜態を見下ろして――
「イワンナッシュ」
ハルは笑わなかった。
最後まで互いの英雄像を賭けて争う悪党として扱った。
右腕を見やり、赤い皮膚が崩れて元の人間の細腕に戻りつつあるのを確認して拳を作り、ガチガチと歯を鳴らし目を見開くイワンナッシュの左頬に焦点を合わせた。
彼が痴態を晒そうが馬鹿にしないし、容赦もしない。
機人族を虐げた応報だと嘯くつもりも更々ない。
ただ、ハル自身の身勝手な理由だけを拳に乗せて。
「歯ぁ、食い縛れ――ッ!」
蛙が潰れたような悲鳴が上がった。
それが長い夜の戦いの終止符を打つ合図であった。




