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44話 「ある幸運な男の話」





『おめでとう、十三番』


 寿ことほぐ主人の声を遠くに感じたことを覚えている。

 家令への昇格で得たはずの喜びと安堵は、檻の中にすし詰めにされた同胞たちの無垢な瞳に凍り付いた。

 二の句が継げない様子を感極まったと受け取った主人が、その肩を叩いて破顔する。


『明日までにこの書類に目を通しておきなさい』


 渡された書類には数多くの仕事が羅列していた。

 到底受け入れられない内容もあった。

 けれど一つとして突っぱねることは許されなかった。


『人形どもはひと月ごとに仕入れる予定だ。檻の中はその都度、総入れ替えとなるが、できるだけ多く振り分けておくれ。廃棄処分は少ないほうが良いからな』


 はい、と掠れ声を返す。

 頭の中で生みの親の声が鳴り響いていた。


 お前は幸運だ。

 幸運な人形――全くその通りではないか。

 檻の中でどんな死に方をするか、他人に無作為に選ばれるばかりの機械人形かれらに比べて、自分はなんて恵まれていたのだろうか。


 努力することを許されていた。

 兄弟を蹴落とす権利を持っていた。

 その前提に立てない多くの同胞を踏みつけにして、生きることを許されていたのだと初めて気付いた。


『さあ、家令に相応しい立派な服をやろう。お前だけの新しい執務室を用意しよう。そうだ。いつまでも十三番ではいけないな。お前のために名前も考えてやらねば――』


 新しい、ヒトの名前を与えられた。

 金の刺繍が織り込まれた立派な執事服を与えられた。

 今までの待遇では考えられない豪奢な個室を与えられた。


 部屋に飛び込んだ◾️は全身をわなわなと震わせ、壁に背中を預け、肩を震わせて泣いた。


 涙を流す機能が自分にあることに驚いた。


「ぁぁ、ぁぁぁ」


 なんて精巧な人形―――まるでヒトみたい。


 ◾️が人形から人へと変貌を遂げたのはこの時だ。

 喜びを得て、恐怖を知り、人として産声を上げたのだ。


 誰からも祝福されない自我の獲得だった。

 夜が明けるまでに殺してしまわなければいけない感情だった。


『あああ、あああああ、あああああああああああああああああああああああああああ』



 明日には、同胞を地獄の窯へと投げこむ仕事が待っているのだから。





 ――見殺しにした。


 食事も水を与えられず餓えて死ぬ者を。


 ――見殺しにしてきた。


 危険な鉱山の採掘に従事し鞭を打たれる者を。


 ――見殺しに、してきた。


 剣闘士として闘技場で殺し合いをさせられる者を。


 ――見殺しに、してきたのだ。


 魔獣が人をどう喰うかを調査するための餌になる者を。


 

 身なりの良い服を着て、鼠や蟲が這う狭い地下牢を歩く。

 檻の中を覗き込んでは人柱を選別する日々。

 運が良ければ生きていられる仕事もあれば、一寸の余地もなく死ぬ仕事もあった。

 誰に希望を振り分け、誰に絶望を強いるのか。

 そういう選別を何年も続けた。


 出荷される同胞たちは、いつも無機質な瞳に様々な感情を宿して◾️を見る。


 どうして立場がこんなに違うの、と困惑して。

 同じ機械人形オートマタなのに、と憎悪して。

 私は運が悪かったんだね、と自嘲して。

 あなたは良かったね、と羨望して。



 けれど機械人形かれらは、何一つ恨み言をことばにしないまま淡々と消費されていった。



 そういう時代だったのだ。

 あらゆる非道が当たり前のようにまかり通る時代だった。

 あらゆる犠牲を享受するしか許されなかった。

 嫌だ、と叫ぶ機能なんて自分にはないのだと心を凍り付かせるしか自分を守る術を思い付けなかった。



 十数年もの年月、◾️はこの地獄しごとに従事した。



 ――ああ、そうだとも。



 自分を許せなくなるのに、長い時間は掛からなかった。



 ――幸運な私には、彼ら以上の無残な最期が相応しい。






 やがて世論に変化が生まれた。


 各国の首脳が集う大陸会議。

 そこで七種族の定義が定められた。

 世界を生きる七種族、その一席に機械人形オートマタが認められたのだ。


 彼らは新しく機人族マキナという名前を与えられた。

 その人権をすべての国が認めると宣言された。

 彼らもまた自らの意思で生き、人々に寄り添い続ける『ヒト』であるのだと、ようやく――ようやく認められたのだ。


 ――ああ、ついに。


 長い苦役から解放された。

 ◾️が死地に送り込んだ機人族マキナの数、実に二万七千人。

 生きてこの日を迎えることが叶ったのはたったの百人。

 生きる権利を得た新しい人々を地下牢から解放し、膝をついて頭を垂れながら言った。


『自由です。あなた方はもう、ヒトなのだから』


 彼らはきょとんとした顔で見つめるばかりだった。

 それが何を意味するか考えるべきだった。少し考えれば分かることだったのに。


 技術も教養もない彼らは路頭に迷った。

 一人で生きる術も持たず自由を持て余すと気付かなかった。

 その空白を突かれ、心無い人々に騙されて再び消費されるだろうことは予想して然るべきだったのに。


 ◾️は、またひとつ罪を重ねたのだ。


 表立った迫害が禁止されていようと、何かを踏みにじることで生きていく人々は存在することを知らなかった。

 無知という罪はせっかく生き残った同胞たちを殺した。


 権利は保証された。けれど誰も正しくはいられない。

 命は保証された。けれど誰も守ってはくれない。

 自由は保証された。けれど誰も導いてはくれない。


 ◾️自身も、他の同胞を救う余裕がなかった。

 寄る辺を失い、新しい時代の奔流に呑まれながら必死に生き抜くことを強いられた。

 長い時間を差別と偏見に晒されながら過ごし、そして信用を積み重ねて居場所を得た。


 何年も、何十年も積み重ねた。

 機人族マキナは少しずつ世の中に受け入れられた。


 きっとこれから、ゆっくりと時間をかけて当たり前のように人々に寄り添える日が訪れる。

 いつかは、その日が来ると信じてる。


 けれど今はまだ、その時ではなかった。

 悲劇は、表に出ないだけなのだ。



「――――」



 ある日、虐げられる機人族マキナの存在を知った。

 人生・・を歩む権利がある時代に生まれ、しかし人としての扱いを得られない同胞たちが。


 運悪く、ほんの些細なことで天秤が偏った結果、檻の中の同胞のように泣くことも怒ることもできない者たちが、今の時代にも。


 ――馬鹿げてる。


 二万七千人も殺した男は、まだのうのうと生きているのに。


『殺し屋に仕立てようと思ってたけど、御覧のとおりの鉄屑だよ』


 ある噂を聞きつけ、貴族の門を叩いた。

 嗜虐趣味を拗らせた主人と、虐待じみた戦闘訓練が身に付かず、処分寸前の同胞。

 ◾️がそこに辿り着いた時には酷薄に笑う少年のような男によって一通りの無体が働かれた後だった。


 裸同然の格好をさせられ、白かった肌を汚れた靴跡に蹂躙された同胞しょうじょたちの姿を見る。

 感情を消し心を閉ざす者。

 狂ったように笑う者。

 ただ辛い時間が終わるまで震えあがる者。

 彼女たちはのろのろと◾️を見上げる――出荷される直前の、あの濁った眼。


 ――我慢がならなかった。


『私めにお預けください』


 ――ああ、もうたくさんだ。


『育てて見せます、一人前の殺し屋に』


 誰も彼らを救わないのなら。

 誰も彼らに寄り添わないのなら。

 自分は、機人族マキナに寄り添う人間オートマタとして在り続けよう。



 きっとそれは、今日まで幸運にも生き延びてきた自分の贖罪せきにんに違いないのだから。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






 死んだ。

 そんな錯覚も、はや三度目を数える。

 背筋に走った死の予感に全身の金毛を逆立たせながら、斧が振り下ろされる軌道を睨み付ける。


 一度目は胴体を上下に切り分ける軌跡、二度目は太い首がボールのように切り飛ばされる予感、そして三度目は薪割りの要領で放たれる斬撃による唐竹割りだ。

 

「あっ、ぎゃぁあ!?」


「シッ」


 大戦斧による両断でキーファの体が左右に真っ二つになる直前、シオンの大剣が火花を散らして軌道をずらした。


 燕尾服の一撃はキーファの巨体を逸れて地面を粉砕するに留まり、ごろごろと這う這うの体でキーファが巻き上がった砂や土と一緒に泡を喰う。


「し、し、死ぬ死ぬ死ぬぞこれぇ!?」


 涙声で喚く姿を尻目に、燕尾服の追撃を捌き切ったシオンがこっそりと溜息を付く。


「……まぁ銅貨級ブロンズに期待してなかったんですけど。思った以上に邪魔と言うか役立たずと言うか、失望を隠すのに苦労するというか」


「隠せてねえ!!」


 二対一での戦いも既に五度、刃を交えた。

 扱い慣れない大剣に苦戦するシオンと、半獣化で身体能力を引き上げてなお戦いに付いてこれないキーファのコンビネーションはお世辞にも順調とは言い難い。


「負傷一つせず、時間を稼げていると言えば聞こえはいいですが。今のままでは勝ち目がないですね」


「ど、どうしてだよ」


てきの動きがどんどん鋭さを増してます。時間を追うごと傷が癒えて……どっちが時間を稼がれてるのか分かりませ、げほ……」


 吐く息が熱い。

 命の火が時間を追うごと弱まっていく。

 ランスに裂かれた脇腹の傷が開き、薬草樹アグネイトの薬の効能が切れ始めているのだ。

 このまま長期戦に持ち込まれた場合、先に限界を迎えるのはシオンの方だろう。


 ――大丈夫。まだ自分を騙せる。


 声は震えないし、振るう剣筋に揺らぎは見せない。

 倒れるのも死ぬのも全ての脅威を払ってからだ。そうと心に決めれば限界の一つや二つは越えられる。


 だが、それほど命を燃やし尽くしてもなお状況が好転しないことが、何よりシオンの精神力を圧迫する。


「また、来ます。そろそろ逃げたほうがいいですよ」


「そ、そ、そんな怪我したガキ一人置いて、に、に、逃げられるわけ、ねえだろふざ、ふざけんな!」


 奮起して毛を逆立たせる彼には悪いが、この戦いでキーファの役目はほとんどない。たまに不用意な動きで燕尾服の注意を逸らしてくれるだけだ。


 その隙を突いて燕尾服の腕一本ぐらいなら奪える可能性があるかもしれないが、三度における決定的な好機は全てキーファの命を救うために使ってしまった。


 我ながら馬鹿をしているとシオンは思う。

 それに状況が悪いのは、アクスに限った話ではない。


「……まだ、巨大化していく」


 天上を仰ぎ見るほど肥大化した樹木の巨人。

 貪欲に樹々を喰らい尽くし、ミトラの王城に迫らんとするほどの巨躯を完成させようとしている。


 自重に耐えるため支える足は六本に増え、もはや人の形を維持する心積もりもなく、ただ巨大な怪物を創り上げようと苦心している。


(アレが暴れ出したら――)


 ドゥロン山脈一帯はきっと地図から消える。

 自分も兄も、目の前の脅威アクスでさえも圧倒的な質量差の前に抗いようもなく潰されてしまう。


 まさに契約者リアクターの真骨頂。

 今のイワンナッシュは契約と龍に愛されし人間族ヒューマンの権能を十全に発揮した、生ける災害だ。

 

「本当に、どうにかできるんでしょうね、あの女……!」


 燕尾服が地面を蹴って斧を振り下ろす。

 合わせて地面を這い、下から斬り上げて鍔迫り合う。

 単純な膂力差に加えて体重が上乗せされ、たまらずシオンは斜めに刃を滑らせ受け流しの姿勢。


 頑丈な大剣の一部ががりがりと削られる感覚に歯噛みしつつ、身を翻して距離を取る。


シオンそっちばかり見てんじゃね、ってうおあ!?」


 飛び掛かるキーファの爪を気配だけで察知したアクスは体を傾けて回避し、長い足をキーファの首に絡め、曲芸じみた動きで背後を取ると首を絞めあげた。


 半獣化して常人とは比べ物にならない怪力を備えたキーファだが、アクスの剛力はそれすら上回ってギリギリと呼吸を圧迫。

 拘束から抜け出せないキーファが白目を剥いて手足をばたつかせる。


「あ、ば、がァ――」


 窒息――否、先に首の骨が限界を迎えるのが先だ。

 アクスは片腕でキーファを捻り上げ、視線ともう片腕は奇襲を狙うシオンへの対処に備えている。


 迂闊な動きはキーファの命を無為に絶つだけの状況を突き付けられ、シオンは思考する。


 ――キーファごと斬るか。


 この状況で迷えば彼は死んでしまうわけだし。

 彼の肩から先を犠牲にする覚悟で剣を振ればアクスの指ぐらいは斬り飛ばせるかもしれないし。


 ――死ぬよりはマシでしょう、うん。


 天秤があっさりと傾いて、爛々と巡ってきた好機に瞳をギラつかせるシオンが「恨まないでくださいね?」と小さく呟くと、気絶しかけたキーファの口角が僅かに笑みを作った。


 なんだそれは。本当に彼らしくない。

 人でなしの心に僅かにチクリと痛みを覚えながら、シオンが剣を構え――


 重苦しい山鳴りに視界が揺れた。


「ぐわばぁ!?」


「……ッ!? イワンナッシュの巨人が!?」


 山脈全体を踏み鳴らす轟音と地震。

 それが建造物じみた巨躯の人形が踏みしめる、ただ一歩が巻き起こした破壊だと誰が思うだろうか。


 地に足を付けていたシオンの小さな体が跳ね、同じく地に伏せていたキーファの獣躯が衝撃に耐えきれず、燕尾服を巻き込んでごろごろと地面を跳ねる。


「――ッ!」


「げほげほごぼぇっ」


 衝撃にたまらず燕尾服はキーファの拘束を解く。

 激しく咳き込むキーファが苦し紛れに太い腕を振り回すが、あっさりと徒手空拳で捌かれ、掻い潜られる。


 キーファの無防備な脇腹に、鞭のようにしなった長い脚が叩き付けられた。


「いぎぃアッ!!」


 口から胃液を吐き出しキーファの体が吹き飛んだ。

 地に体が叩き付けられるより早く燕尾服が戦斧を取り出し、その体を両断せんと僅かに前かがみになる――その時、背後から清涼な鋼の鳴る音がして。


「隙あり――抜刀ッ」


「ッ……グッ」


 無機質なアクスの貌に、初めて苦痛の感情が生まれた。

 それは勝敗を決するに足る合図だ。

 全身を強張らせた燕尾服がゆらり、と戦斧を持ち上げる挙動も既に徒労――彼の背後には既に、残心を終えたシオンが居る。


「ふうー……」


 重い重い息を吐き出す。

 大剣であった得物は、数分の攻防でその刀身を削り取られていびつな長剣と化していた。


 すなわち、シオンが得意とする長剣の形。

 雷閃の如き速度にて放たれるのは、一撃必殺の居合抜き。


「……血雨ちさめ


 キン、と納刀と共にアクスが血飛沫が上げた。

 右脇腹から左肩を深々と切り裂いた手応え。

 業名わざなに恥じぬ景色の通り、袈裟斬りの軌跡から噴き出す血が雨となって大地を濡らす。


「は、ぁ……!」


 同時に欠損した腹部の熱が急激に高まり、シオンの体からは加速度的に熱が失われていった。


(倒れろ――)


 残った体力はほぼ全て、今の一撃に使い果たした。

 膝が折れる。立ち上がる気力さえ注ぎ込んだ。

 もう体を支えることもままならない。額に脂汗を流しながら地面に崩れ落ち、シオンは唇を強く強く噛み締めて念じた。


(倒れろ、倒れろ倒れろ倒れろ――ッ!)


 常人ならば即死。

 少なくとも意識を刈り取るには十分な傷だ。

 シオンさえも上回る致命傷を負い、自己修復リカバリィ機能も焼け石に水。稼働限界をとうの昔に越えているはずのアクスは――


(倒れ――ないッ……!?)


 なおも、健在。

 引き結ぶ口端から血をこぼしながら戦斧を構えなおし、糸目の奥の無機質な瞳には未だ戦意の光が揺らめいている。

 その形相、まるで鬼の株を奪うかのよう。


「――アア」


 アクスの口から嘆息に似た声が漏れた。

 破損した歯車を無理やりに稼働させた機械が吐き出すような、異音に似た呟きが一歩、また一歩と近付いてくる。


「私ハ、幸運――」


「ぐっ……」

 

「幸運ナ私ハ、責任ヲ取ラナイト――」


 彼はシオンと同じだ。

 死ぬべき傷を負おうと、まだ死ねないから死なないだけ。

 信念と激情が体の機能を支え、今なおこの戦場に立ち続け――今もまだ、死ねない理由を探している。


「アア、デモ、私ノ――責任ハ、ナンダッケ」


 奪われてしまったのだ。

 死ぬべきでないという理由を。

 成し遂げなければならない信念を。

 自らの人生に刻み付けたはずの決意を。

 その根源たる想いを奪われて、今はただ抜け殻だけが壊れた機械のように駆動を続けるだけ。


「私ハ、ドウスレバ、許サレルノダッケ――」


 細い瞳から、真っ赤な血涙が滲んで頬を伝う。

 誰かに向けた呟きではなかった。

 暗闇の中、手さぐりで己の根幹の在り処を探し、彷徨う哀れな人形が舞台で踊るかのようだった。


 その腕が、膝を突くシオンの頭部に伸びる。


「はぁ、は、は――くそっ――」


 シオンは動けない。呼吸が戻るまでの数秒が遠い。

 キーファも動けない。彼は遥か遠くの地べたで大の字で横たわったままだ。

 無造作にシオンの頭を引っ掴み、そのまま首を捩じ切ろうとするアクスへの対処が間に合わない。

 力の入らない体に鞭打ち、虫のように這いながら少しでもアクスの腕から逃れようとし――



 横たわる大地が揺れた。

 筆舌に尽くしがたい衝撃のままに誰もが吹き飛んだ。



「ぁあ゛あ――ッ!?」


 絶体絶命だったシオンを救う前触れではなかった。

 その小さな体躯が宙を舞い、天地が何度も入れ替わる。

 その度に執拗に何度も、何度もその体は地面へと叩き付けられ、折れたあばら骨が体の中身を傷付けた。


 首を捩じ切られたほうが、まだ苦痛の無い死に様だったと思い返すほどの、激痛が奔る。


「ぁぁぁぁあああああああああッ!!!」


 苦痛が精神力を凌駕する。

 誤魔化しきれない。痛い。苦しい。死ぬ。

 弱気の代わりに口を突いて出るのは、悲鳴と苦悶ばかり。

 例えどれほど許しを乞おうとも、大地の脈動は留まるところを知らないだろう。


(動き、だした――)


 涙が滲んでぼやけた視界がその景色を見る。

 途轍もない高さまで成長した樹木の大巨人――その一歩を大地に刻むだけで山が悲鳴をあげてのたうち回る。それが行進ともなれば、どれほどの破壊がもたらされるだろうか。


(どうすれば……どう、すれば――)


 圧倒的な質量に裏打ちされた破滅が迫る。

 あるいはその破壊がシオンを踏み潰すより早く、再起を果たしたアクスがこの首を刈り取るほうが早いか。


 天地がひっくり返りそうな地鳴りの中、離された距離を再びゆっくりと詰めてくる燕尾服の姿が見える。


 傷付いた反抗心がゆっくりと熱を剥ぎ取っていく。

 意思に反して目蓋が沈んで――けれど。


「――ぁ」


 ふわり、とシオンの体が担ぎ上げられた。

 血も活力も絞り尽くした抜け殻のような体を慈しむよう抱き留められ、先ほどまで全身を苛んでいた激痛さえもどこかへ消え失せていく。


 触れた先から熱を、活力を、生きる理由を流し込みながら、彼は言う。


「ありがとう、シオン。もう大丈夫だ」


 それは忌まわしき鬼の姿をしていて。

 自分と兄が忌み嫌った怪物の血をどこまでも身近に感じさせながら、それでも彼が備える純朴な善性さを内包した穏やかで力強い笑みが。


アクスもあの巨人も、全部俺たちが何とかしてやる。キーファたちと合流して、どこかに隠れててくれ。いいな?」


 ――いやだ。


 平時はいつも頼りない癖に、こうと決めたら途端に頑固で意地っ張りで格好付けな兄――縋るように指先を伸ばす。


 ――またこの人は、無茶をするんだ。


 首を振ることも億劫で、身を捩ることさえ苦痛。

 一度ならず騙してきた体はみるみると弛緩し、もはや意思表示さえままならない。


 激しかった地響きが徐々に遠ざかっていく。イワンナッシュの大巨人は何かの目的を見付けたのか、彼らとは真逆のほうへと歩いていったようだ。


「……頼むぞ、ルシカ」


 進軍していく巨人を見上げ、ハルは小さく呟いた。

 シオンは比較的平坦な地面に寝かされた。壊れ物を降ろすような丁寧さが何だかくすぐったい。


 けれど兄はすぐに踵を返すと最後の戦いへと赴く。

 その背中を見送ったシオンは深く深く息を吐いて、しかし取り戻した体力のすべてを再び一事に注ぎ込む。


 ああ、もう少し。もう少しだけでいいから。

 命が削れても構わないから。

 


「動け、体……」






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






 シオンが使っていたボロボロの剣を携え、前へ。

 遠ざかっていく巨人の背を守護するように血濡れの燕尾服が立ち塞がる。


「意外だな。待ってくれたのか?」


 俯く燕尾服は答えない。

 今にも崩れ落ちそうな痩躯の背筋をピンと伸ばし、煙を吐き出すような息苦しい呼吸を整え、軽々と戦斧を構えてハルを射抜く。

 胸に刻まれた斬傷の深さに思わず息を呑む。


「……シオン、よくここまで」


 あの強敵を追い詰めたものだ。

 鬼化したハルでさえ拮抗が限界だった相手は今、虫の息。

 それでもなおアクスは大上段に構えたままハルの不用意な動きを待つ。油断や憐憫、そういった隙を見せれば絶殺せんという構えだ。


 本当に馬鹿みたいに強靭つよすぎる。


「辛かったんだよな、アンタ」


「――?」


 尤もらしい反応があった。

 小首を傾げてハルの言葉を呑み込み、斧を下ろし、小さく口が動く。


「――違ウ。私ハ、幸運ナ」


「違げえよ」


 怒気を纏って牙を向き、その先を言わせない。

 彼が口にする『幸運』の意味をハルは知らない。

 そこに込められた想いも後悔も、本当の意味で理解することはできないだろう。


 ああ、胸の内がざわついて仕方がない。

 今だけではない。アクスという人となりを知れば知るほど、奇妙な不快感がずっとこびり付いていた。

 暴走状態で鬼化した時、アクスへの理解しえない感情が彼自身への執着を生んでいた。


 いま、対峙して彼が口にする『幸運』を耳にして、その理由がやっと分かった。


「自分がどんな顔で言ってるか分かんねえのか? 『幸運』だとか『幸福』だとかは、そんな顔で言っていい言葉じゃねえんだよ」


 かれは同じだ。

 幸福だと、そう口にしながら涙を流す短剣しょうじょも。

 強要されたわけでなく自らを『幸運』だとそう言い聞かせて、傷付くことは当たり前で、不幸な目に遭うのも当たり前。ああ、本当の本当に腹が立つ。


 彼らもハルも同じなのだ。


 村で唯一『幸運』にも生き延びた幼き日のハルが、居なくなってしまった人々を想い、命を落とした彼らに比べれば『幸福』なんだと思い詰めて生きてきた時と同じだ。


 生きてこられたのは、少女の微笑みがあったからで。

 そんな心の拠り所さえなかった彼らは、どれほど――どれほど苦しかったのだろうか。


「――せんせいッ!」


 声が上がった。

 短剣ダガーと呼ばれた少女の声だった。

 シールドと共に身を隠していたはずの彼女は、師の有様に口元を抑え、ハルを見て瞳に恐怖を宿し、けれど唇を噛み締め何度も足を取られながら二人の間に立ち、手を広げて。


「……ぅ、ぁ、ぅぐ」


 口にしようとした啖呵が、形にならない。

 帰って、だとか。

 怪物め、だとか。

 あるいは私が相手だ、とか。

 そんなことを言おうと、ハルの姿を垣間見ただけで震え上がり気絶していた彼女はいま、真っすぐにハルを睨み付けている。


「――は、」


 笑みがこぼれた。

 少女の場違いな勇気を哂うものではなかった。

 かれが死に物狂いで守ろうとした機人族ひとびとが、かれのために当たり前のように勇気を絞り出せることに安堵した笑みだった。


 ハルがやるべきはやはり、たった一つだけだ。


「――俺は今から、上でふんぞり返ってるあのクソ野郎をぶん殴りに行く」


 宣戦布告をぶちかます。

 天高く聳える巨人の頭部、橙色の障壁に守られた搭乗席コクピットを指差すと、アクスの顔色が変わった。


 偽りの主人への忠義を果たさんと斧の柄を握る指に力が籠もり、ハルも応じるようにシオンが使っていたボロボロの剣を鞘に納めたままきつく縛って。


「立ち塞がるってんなら、ぶん殴ってアンタを止める」


「――」


「悪いな、勘弁してくれ。俺にはそれしか思い付かないんだ」


 決着は間もなく。

 黎明を告げる陽が森を遍く照らすまでの、数分間。

 人と鬼と人形と怪物が織りなした争いが、一つの結末へと辿り着く。



 ――山を揺るがす轟音が響き渡った。




 


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