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43話 「鬼だって夢を見ていい」









 何度目かの交差があった。

 剛力無双を身に宿す赤鬼と、鋼刃の斧を振るう人形。

 斬傷が鬼の左肩に刻まれ血飛沫を撒き、爪撃が人形の脇腹を掠めて赤黒い肌に返り血をまぶしていく。


 ――これで何度目の相打ちだ?


 記憶している限りでは六度。

 しかし体にはその倍を優に超える傷痕が刻まれ、記憶の不正確さを物語る。


 互いの距離が重力に従って離れた。

 巨人の胸部付近で歪に突き立った足場の上にハルだった獣が着地。水平とは言い難い巨木の足場を四つん這いで着地し、餓鬼同然の唸り声を発す。


「うっ……ぐ、ぅぅぅぅァア……」


 裂かれた肉片が鋭い痛みを伴って修復。

 完全な治癒とは程遠い、裂けた割れ目に粘土を詰めるような応急処置だ。

 歪なカサブタが傷を癒す前に再びアクスに切り裂かれて見るに堪えない有様を残すばかり。


「足りねえ……ッ!!」


 まるで足りない。鬼の本能が喚く。

 もっと寄越せ。怪物の衝動が蠢く。

 贔屓目に見て互角、否。ここまで人間性を捧げてもなおアクスの優位は動かない。


「足りねえ、足りねえ、足りねえんだ……!!」


 変幻自在の斧捌きに目が慣れない。

 先立った仕掛けを心掛けようと後の先を取られて傷を負う。

 今では傷を受けても構わず攻撃を見舞うことで、相打ちを狙うのが精いっぱいだ。


「もっとだ……もっと……ッ!!」


 更に人間性こころを捧げて鬼を宿す。

 誰かとの心温まる思い出をまた一つ炉にくべて力を得る。


 これは我慢比べだ。

 ハルが鬼の力に魂を全て喰い荒らされるか。

 満身創痍のアクスが蓄積する損傷に耐えきれず力尽きるか。


「ぁぁぁ、ぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああ」


 大丈夫。

 まだ行けるはずだ。


 自分を見失ってはいない。

 やるべきことを忘れてはいない。

 守るべき人たちの顔を忘れてはいない。

 周りもきちんと見えている。これでいい。

 どれほど禍々しく恐ろしい力でも上手く制御できれば――



 こんな呪われた力だって■■■たちを守ることが。



「……ぁ?」


 背筋が凍り付いた。

 愕然と、悪い夢を振り払いたくて首を振る。


「ぁぁ、ぁぁぁぁ……!?」


 名前。

 誰かの名前が出てこない。

 黒尽くめの少女の名も。

 狸亭の冒険家たちも。

 弟の名前でさえも。


 何時いつからだ。自分でも気が付かないうちに、侵食が取り返しの付かない部分まで。


 ――まて。まて、じょうだんだろ――?


 意識が加速度的に汚染されていく。

 もはや周囲の音さえも聞こえない。縋るような呟きさえも呑み込まれていく。


「待、――」


 視界が底の見えない暗闇に呑まれる。

 何も見えない漆黒の空間に薄ぼんやりとした自意識が漂っている。

 首を動かした覚えがないのに景色が切り替わった。

 顔部分が真っ黒に染まった燕尾服の青年が、自分めがけて斧を振り下ろすのが見えた。


 ――よけ、ないと。


 軽いステップを踏む感覚で後退する。

 爆発的な推進力を得た脚力が、ほんの一歩前の景色を塗り替える。


 凄い。

 早い。

 強い。


 まるで自分の体の操縦桿を、自分よりもうまく操縦できる誰かが握っているようだ。


 けれど燕尾服も構わず付いてくる。

 雷が奔るような斧撃が空間と地面を切り裂いて、ハルが立っている足場を真っ二つに切り裂いた。踏ん張る地面を失ったハルの体が暗がりの沼底へと落ちていく。


 心良い浮遊感。次いで背中に衝撃。

 ゴム毬のように何度も床を跳ねていく。楽しい。

 腕や足が壊れた人形のように明後日の方向に曲がっている。可笑しい。

 寝転がったまま顔を上げると、真っ暗な世界を切り裂いて燕尾服の青年が斧を大上段に構えて降ってくる。格好いい。


 ――、ああ、立たないと。立って、戦わないと。


 足に力を込める。立ち上がるだけでも難しい。

 蛸みたいにグニャグニャした手足がいけないのだと気付く。

 頑張れよ、と活を入れると手足が真っすぐに伸びた。

 途中、気味の悪い音を何度も立てていたが、治ったのなら過程は気にしない。


長斧型ハル――」


 上空から長斧を大上段に構えた燕尾服が迫る。

 高所より全体重を乗せた一撃は易々と人体を両断するだろう。

 隕石じみた斧撃に対し、ハルは無防備に両手を翳す――赤黒く変色し、白い蒸気が揺らめく怪物の両腕を眺めて、にへり、とだらしない笑みが零れた。


「その斧……」


「――槍斧バード……!!」


「邪魔だな」


 鮮血が飛び散った。


「ッ……!!」


 血が滴る。

 ハルの両手の皮膚に刻まれた痛々しい裂け目から。

 それだけだ。

 怪物の腕と化したハルの腕は、必殺の斬撃を押し留めた。


「オオオオッ……!!!」


 爪が伸びた両の指が鉄刃に添えられ、次の瞬間に柄ごと燕尾服の持つ槍斧ハルバードが粉々に砕け散った。

 感情の起伏がない燕尾服の目が驚きにみはり、その隙を突いて放たれたハルの回し蹴りが側頭部に突き刺さる。


「ハッハッ……!!」


 最初の鬼化以来、二度目の会心撃クリーンヒット

 常人ならば首が千切れる蹴りを受け、燕尾服の長身痩躯が荒野と化した大地へと叩き付けられる。脚に残る手応えの重さに、ハルの口元が破壊への悦びに歪んだ。


れるっ……!」


 ぐひゃ、と自分でも驚くほど汚い笑みが飛び出た。

 脳髄に快感を直接撃ち込まれる解放感に体を震わせ、今まで怖がってきた己の浅はかさに唾を吐く。

 何故こんな素晴らしい力を拒んできたのか。

 この力は紛れもなく天が与えた唯一無二の権能ギフト

 

 見るがいい。

 あれほど強大な機人族マキナの戦士も、この力の前に未だ立てずにいる。

 人間オマエには出来ない芸当だ。

 凡才極まる向こう見ずな夢想家には到底届かない高みだ。


 ――そんなことは、ない。


 認めてしまえ。

 人間のままのお前では、あの子に相応しい男になんて一生成れはしないのだ、と。


 ――そんな、ことは。


 騎士になりたい?

 無残な詭弁には反吐が出る。

 お前はただ憧れた人の隣に居たいだけだ。

 焚き火に焦がれる羽虫と同じで性質たちが悪い。


 身分も強靭つよさも弁えない夢想家め。

 最強無比の一人騎士団アインスロットの隣に立とうなど傲岸の極み。

 脆弱な人の身でよくもまあ。


 ――それは。


 だが、あるいは。


 ――。


 誰よりも強く在れば。

 あるいは振り向いてもらえるかもしれない。


 ――。


 何一つの拠り所もない自分を捨てて。

 願いを吐き出すばかりの軟弱な善性なんて切り捨てて。

 手段を選ばず、格好を付けず、ただ無我夢中に欲しいものに手を伸ばせれば。


 あるいは、もしかしたら――


「兄さん……ハル兄さんッ!」


 耳鳴りがした。

 自分のしらない名前を呼ぶ誰かの声。

 訝しんで周囲を窺うも、真っ暗闇の世界には自分と、敵の二人だけ。それ以外の何がいるというのか。


 いや、気が付けば自分一人だけ。

 血だらけの人形がいつの間にか視界から消えていて。


「危ない!!」


 鍔迫り合いの音がした。


「ぐっ、ぅぅぅああっ!!」


 誰かがそこにいる。

 自分と、敵の間に滑り込むように。

 肌が凍り付くような透き通った剣筋の風が薙いだ。

 音の発生源は耳元だ。

 振り向けば、燕尾服が振るう長柄斧が自分に向けられ首へと至る直前で停止していた。


「……この人形風情がッ!」


 迫る暴風を凌ぎ、苦しげに呼吸を吐き出す誰か。

 顔が見えない。

 姿が見えない。

 声もよく聞こえない。

 でも、じわりとその輪郭が赤く赤く赤く染まっていって。


「糸に吊られた木偶人形が! どこか遠くの国で手前勝手に消費されていろ! たちに関わるな……!」 


「――怪我してるじゃないか」


 そんな間抜けた声が口に出た。

 特に脇腹が酷い。

 半月型に肉が削ぎ落とされ、自分の肌と同じどす黒い赤色がじわじわと全身へ広がっていくのが分かる。

 鉄錆に似た血と濃密な死の臭いが漂う。


「ッ、……ぁぁ、くそ、せめてまともな剣があれば……!」


 ぐらり、と赤い輪郭が崩れる。

 まるで踏み潰されていく蛙のよう。際限なく圧し潰されて命の潰れる音が――


 助けないと。

 拳を強く握りしめる。

 手が塞がったてきの顔面向けて振りかぶり――


「兄さん!? 駄目――ッ!」


「――?」


 大振りで未熟な拳が無様に空を切る。

 一拍も置かず斬撃の光が閃き、今度はハルが地面を跳ねる番だ。

 胸板に深い断層クレパスが生じ、熱い血潮が噴出――真白と深紅と漆黒の灯りが不揃いに明滅を繰り返す。


「ぎゃ、あぁぁあああッ……!」


 鋭い痛みが夢心地の意識を強引に呼び覚ます。

 瞬きを一度。ハルという少年の意識が水底から浮上。

 冷たい地面が頬に引っ付き、苦い味が口中に広がり、砂利混じりの涎を舌で転がして――舐めた地面に血の色が混じり、致命的な一撃を叩き込まれたのだと気が付いた。


(でも――誰かが)


 誰かが、ここに居たはずだ。

 今なら見える。

 顔を思い出せる。

 名前だって言えるはず。

 血を撒き散らしながら痙攣する瞼を堪えて目玉を忙しなく動かし、そして。


「ぁ――」


 人形が表情一つ変えず自分を見下ろす光景を見た。

 三日月型の斧が無感動な動作で振りかぶられて――命を散らす鉄塊が、一秒後の自分を殺すために降ってくるのが分かって。


長柄型・三日月バルディッシュ


 一歩も動けなかった。

 息を呑む時間も瞬く暇さえもなく。

 音速を超えた斬撃が、ハルの首を両断する――その刹那。


「うぁああああああああっ!!!」


 アクスの真横に、シオンの全体重をかけた突貫が刺さった。


 手負いの獣の形相を目にしたハルが息を呑む。

 いつも整ったすまし顔を崩さなかった弟の相貌が怒りと焦りに彩られている。

 細い刃渡りの短剣が深々とアクスの脇腹を一突きにし、確かな損傷ダメージを証明するように、かふ、と燕尾服の口から血が噴き出る。


 しかし。


「ご――……ォオッ!!」


 燕尾服の口から漏れる短い雄叫び。

 長柄の三日月斧が横ばいに巨大な円を描き、鋼の突風がシオンの小柄な体を巻き込んだ。シオンの卓越した動体視力が、一瞬の間に生み出された死の竜巻の絡繰りを見抜く。


 渦の外は刃物の領域――距離を取れば死あるのみ。

 活路は渦の中。ただ近接戦をさばき切る余力が、もう。


 死か、死に等しい破壊か。

 選択肢はなかった。

 更に体を密着させ、刃物を握る手に力を込める。

 内臓を掻き回す手応え。

 衝撃。

 衝撃、衝撃。

 停止。


 死を確信させるほどの暴力に苛まれてなお、剣士は泰然と再起する。


「――、――――は、ぁ」

 

 即死を免れたのが眼の為せる業なら、まだ立ち上がれるのは意志の強さに寄るものだ。

 肋骨が数本と左肘。折れた箇所を冷静に数える。

 新たな損傷個所は問題ないと結論付け、ハルを背中に庇って仁王立ちした。


「内臓を掻き回されて、平気だなんて、はぁ、まるで屍体と、斬り結んでいるような心地……人間だか人形だか知りませんが、大概にしてほしい……」


 未だ健在の燕尾服に悪態を吐きつつ口の血を握る。

 シオンは知る由もない。既にアクスの中身は龍の天罰によって掻き回された後。


 その時から今に至るまで絶えず筆舌に尽くし難い苦悶の責め苦を受けながら、アクスという人形は今も立っている。


 未だその細く閉じられた瞳が、ハルを絶殺せんと向く。

 シオンは呼吸を整え皮肉交じりの顔を作ると、血に濡れた短剣を突き付けた。


「そうだ……お前とよく似た槍使いを斬りました」


「――」


「腕を四度、足を三度、頭を二度。胴体には槍も埋め込んで。お腹に風穴を開けられたので、お互い様ですけど?」


 挑発的に剣先を揺らしつつ、アクスの視線をハルから剥ぎ取る。


「そう。そのまま私を見てろ、木偶でく……」


 尻目に横たわる兄の様子を窺う。

 重傷だ。体も心も、致命の一歩手前。

 鬼化による生命力の供給があればこそ、まだ生きている。

 鬼化による精神の浸食がこれ以上続けば、心が死ぬ。

 二律背反だ。

 今すぐにでも駆け寄って、鬼の血に適切な天秤をもたらさなければならないのに、状況がそれを許さない。


 自分の体が二つあれば。

 あるいは自分の代わりに誰かが――


(――愚か者)


 己の弱気を叱咤する。

 頼れる人などもう何処にもいない。

 今の兄に近寄る人間など居るはずもない。

 つい先ほど見切りを付けて拒絶したばかりの身で、なんて浅ましい願望を。


(ああ、でも)


 胸の裡に僅かな後悔が過ぎる。

 何かが違っただろうか。

 彼女たちに八つ当たりじみた憎悪を叩き付けなければ、何かが。

 恥も外聞もなく額を地面にこすり付けて「助けて」と泣き叫んでいれば、彼女たちは頷いてくれただろうか。


「ハッ」


 乾いた笑みがこぼれた。

 例え時間が巻き戻ろうと、同じ間違いを繰り返して開き直る自分の姿しか思い描けなかった。

 あのキーファでさえ出来たのに、と自嘲して。

 元々私って人でなしでしたね、と詮無い妄想を打ち切った。


「ごめんなさい兄さん。シオンはダメな弟でした」

 

 別離のような囁きだった。

 眉を吊り上げて『やるべきこと』を確認する。


 眼前に立ち塞がる凶手を斬って。

 鬼へと変ずる兄を安全な場所に移して。

 膨れ上がる巨人をどうにかして――ああ、例の棺桶と黒尽くめの女も確保して奴隷商に引き渡さないといけなかった。なんだ結局最後はあの女と敵対することになるじゃないか、と複雑な笑みを作る。


 どれか一つさえ、満足にできない体を引きずって。

 溶岩のように熱を持った脇腹の痛みに耐えて。


「もはや。刺し違えてでも――、……っ?」


 その時だ。

 決意に水を差す獣の咆哮が届いたのは。

 鋭い光沢を放つ両刃斧を構えた燕尾服に、彼以外の影が差す――上空よりまるで弾丸のように飛来した金色の毛並みの獣が作る陰影は、シオンの呼吸さえも止めた。


「がぁあああああああああああああッ!!!!」


 完璧な形での不意打ちだ。

 当たり前のようにそれを阻み、打ち払うのはアクスの技量と経験が為せるわざか。


長柄型・騎馬墜ポール・アクス


「ぐうぉ、おおおッあ……!?」


 長柄斧の中でもとびきり長い射程を誇る片刃斧が、突如現れた獣の爪を受け流すとそのままお返しとばかりに弾き飛ばす。


 が、獣はその反発を利用してシオンの近くに飛び、それから大きな腕を広げて立ち塞がった。まるでシオンを庇うようだ。


「げほっ……間に合わせてやったぞ、おらぁ……」


 台詞の割には景気の悪い、青年の不貞腐れた声。

 それが半人半獣の姿をしたキーファだと分かっていても理解が及ばない。彼の背に庇われたシオンは、その金毛の腕に支えられた――黒尽くめの少女を茫然と見上げた。


 ――なんで。


 顎を伝い地面に落ちる汗と呟きが、得意げなあの笑みに掻き消される。


「……乗り心地だけどハルに比べて面積が大きい割に乱暴でどうにもしっくりこないというか……毛深いのも私としてはマイナス査定かな。もう少し包容力を養って?」


「その長げえ駄目だしって、いま必要かァ!?」


 二人の行動がシオンには理解できない。

 彼らは鬼化したハルを見たはずだ。

 兄が怪物だと知ったはずだ。

 武力のない女と勇気のない男、どちらもこんな死地に駆け付けるには力不足で、理由だってないのに。


「わざわざ追いかけてやって、倒れてるテメェをこんな場所まで運んでやった俺に、もっと他に言うことあんだろうが!? アア!?」


「うん、ご苦労様」


「損したァ!! 転がしたままにしときゃよかったァ!!」


 雑な対応に吼えるキーファの背をぽんと叩くと、ルシカは兄弟の前に立った。

 自分より背の高い女の顔を見上げ、威嚇するよう縋るような疑問がもう一度口の端からこぼれた。


「どうして……?」


「キーファが半獣化で理性を保ててること? 半獣病は血の病気だからね、暴走状態が酷いのは最初の一度目だけ。一度元に戻れて乗り越えてしまえば制御できなくも――」


「そ、そうじゃない、そうじゃなくて――」


「うるっせえんだよ、ごちゃごちゃとテメェらは!!」


 困惑に応えたのはキーファだった。

 彼は燕尾服が放つ威圧感プレッシャーに身を竦ませ、ただ対峙するだけで体中の水分を大量の冷や汗で消耗しながら、涙声で言い放った。


「お前らが助けに来たのが先だろうが!! どうしてもクソもねえ! 借り返しに来たんだよ、言わせんな! 振り絞った勇気が秒単位で萎むだろうが!!」


「――は」


 そんな美味いばかな話があるものか。

 無知で狭量な恩知らず。それこそが人間おまえらのはずじゃないか。


 本当に助けに来てほしい時に来てくれて。

 その手を自分から振り払った怪物相手に、また手を差し伸べる――そんな懐の深い生き物なんかじゃないはずだ。

 なのに。


「く、クソッタレ……その傷でなんてやべえ奴相手にしてやがる……マジでやべえって、痛い目見る前に逃げちまうからな!? くっちゃべってねえでやること済ませちまえ!!」


「そうだね、時間が惜しい」


 黒尽くめの視線が燕尾服に向く。

 静かに佇んだままのアクスは時折、ぎしり、と体を傾かせつつ、異音を吐き出している。


 体の中から歯車が回る音を奏で、小さく揺れる長身痩躯の姿を確認して。


自己修復リカバリィ機能を走らせているのか。これはすぐに動き出す。ハルの治療をする間、何とか二人でアクスを食い止めてくれ」


「……お前なんかに、兄さんを」


 唇を噛み、悔しそうに顔を歪めるもその先が続かない。

 分かっているのだ。言い争いもしてる場合でも、敵愾心や独占欲を剥き出しにしていい状況でもないことを。


 いかに半獣化しようがキーファでは役者不足。

 あの斧使いと対峙し、時間を稼ぐ役目はシオンにしかできないのだと。


「やれば……いいんでしょう」


「よろしい。キーファが一緒に持ってきた剣が、確か……ああ、そこに落ちてる。使うといい」


 視線を追った先に転がるのは両刃の剣。

 刀身が分厚く重量もあるそれは、本来ハルに渡すはずの得物だろう。拾い上げ、手首に掛かる負担に舌打ちする。


「重い……」


「生半可な武器ではかれの一撃に耐えられない。ハルの弟、なんて言うからには使いこなして当然と思うけれど?」


「ほんと、いやな女……」


 なまじ正論を盾にするのだから始末に悪い。

 一呼吸置いて短剣をしまい直し、両手で剣を抱えて一度、二度と風を切る。剣の道を知らない素人ルシカでも理解できる、一流の剣筋が頼もしい。


 互いに向き合うべき相手に向き合う。

 背中合わせの向こう側。どちらも獰猛な表情を作り、舌にとびきり悪意を乗せて言い放つ。


「貸しにしといてやるよ、ハルの弟」


「お前が借りた側の間違いでしょう? いい加減、お前を守る立ち位置には飽きたんですが」


 互いに唾を吐き掛け合うような激励を交わし、地面を蹴った。

 剣戟の音が響く。

 苦痛の声と悲鳴。苦戦必至の時間稼ぎ。

 その全ての背にして、ルシカは膝を折った鬼の肩にそっと手を掛け――


「――ハル」


 万感の思いで、その名を呼んだ。


 



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 気持ち悪い。


 赤く隆起した肌の色が。

 指先で歪な鋭さを放つ爪が。

 口を閉じていられないほど不格好に伸びた牙が。


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。


 膨れ上がる破壊衝動が。

 内側を塗り潰していく誰かの憎悪が。

 胸を焼き焦がす憤怒が。

 肉が膨れ上がって修復していく身体の造りが。


 全てが『お前は人じゃない』と嗤うのだ。


 何もかも全て気持ちが悪い。

 こんな姿、知らない。こんな感情、知らない。

 自分の内側にこんなおぞましい鬼が棲んでいるなんて信じたくない。

 否定したくて。頭を抱えて首を振る。

 ぴったりと耳元に息が吹きかける距離で古めかしい声が降ってくる。


『血の衝動に身を委ねよ』


 自分と全く同じ声。

 怪物の姿に変貌した自分の息遣いに恐怖して目を瞑る。

 振り返ればきっと終わりだ。

 破壊を囁く鬼に意識を乗っ取られて、衝動のままに荒れ狂ってしまう。


 ……違うんだ。違う、そうじゃない。


 欲しいのは誰かを守るための力で。誰かを傷つけるための力じゃなくて――ああでも、その時点で矛盾してる。

 力なんて誰かを傷付けるための手段でしかないのに。


『……なぁ。血の衝動を、拒むんじゃねえよ』


 口調がハルの存在に寄ってくる。

 浸食が進んだ証だと嘲笑うように馴れ馴れしく肩を組みながら、理性を溶かす甘言を唄う。

 上から下から、右から左から、近くから遠くから声が飛ぶ。

 

『このままじゃやばいだろ、おまえ。破裂しそうな風船みてえで見てらんねえ』


『気付いてるんだろ? 機人族あいつらは未来のお前だって』


『不当な扱いに我慢して、我慢して、我慢して、無理やり自分を切り売りしながら生きて……いつの日か、破裂しちまうんだ』


『そうなる前に発散しろよ』


『お前、もう限界なんだよ。もうずっと前から、心が悲鳴を上げてんだよ』


 駄目だ。

 駄目だ駄目だ。

 鬼人族かれらがどれだけ人間を憎んでいるか、ハルは知っている。

 その衝動に身を任せてしまえば、絶対に取り返しのつかないことを仕出かしてしまう。


 敵を殺すだろう。

 下衆野郎イワンナッシュ操り人形アクスも。


 敵以外も殺すだろう。

 恐怖に支配された機人族マキナの少女たちも。


 味方だって殺すのだろう。

 狸亭の二人も、黒尽くめの少女も、弟でさえも。

 それが分かっているのにどうして衝動に身を任せようなんて思うのか。


『……』


 頼むからもう引っ込んでくれ。

 力を借りたのは間違いだった。制御できるはずがなかった。

 顔を俯かせ、祈るような懇願を続ける。


 許してくれ。

 許してくれ。

 許してくれ。

 許して――


「ハル」


 清らかな、鈴の音に似た良く通る声が暗闇を切り裂いた。

 微睡みに落ちたハルの肩を誰かが揺さぶる。

 脳がじんわりと熱を持って痺れるような少女の声。

 一瞬で鬼の気配が消え失せ、代わりに救いの光が差し込んだ心地が、しかし一転して真っ暗闇に染まる。


「――いやだ、見ないでくれ……」


 見られてしまう。

 怪物の姿を見られてしまう。

 機能を取り戻した聴覚がルシカや、キーファらしき声も拾う。

 余計に恐ろしくなって自分の体を抱く。


 怖いんだ。

 嫌われるのが怖いんだ。

 恐れられるのが恐ろしくて仕方がないのだ。

 自分の夢を笑わないで肯定してくれた彼女だからこそ、失望や嫌悪を向けられたくなくて、必死に目を瞑って首を振り、声を震わせた。


「逃げろ、逃げろ、ルシカ。いまは、だめなんだ、俺は、俺が、お前を殺しちまう、だから」


「――」


「俺が、こいつを抑えるから……きっと、抑えて見せるから……だから見ないでくれ、どっかに、いってくれ……お願いだ……」


「嫌だ」


 鋭い刃物で一突きにされるような、短い否定。

 絶句するハルの全身を柔らかな感触が包んだ。


「ぁ……」


 背中に回された腕に力が籠もり、血泥が少女の服を穢していく――少年の体を抱きしめる少女の声に熱が籠もる。


「次はきっと、こうすると決めていたんだ」


 何を言われているのか分からない。

 耳に直接吐息の熱さが染み渡る囁きに、体が硬直する。


 それは、よくない。

 だって汚い。服が汚れる。

 美しい少女の在り方さえも穢してしまう。


 こんな化け物を抱きしめたりなんかしたら、周りにどんな目で見られるかなんて火を見るほどに明らかで。


「何度だって、何度だって言葉を重ねるよ、ハル。君の正体がなんであれ、誰も及ばぬ善良さこそがハルきみの本質だって」


「――」


「今この瞬間も、自分以外の誰かの心配ばかりする大馬鹿者で、独りぼっちで戦うしかないのだと思い詰めているだけの、御人好し。そんな馬鹿を、恐れたりするものかよ」


 染み渡るような肯定であった。

 否定と拒絶の日照りに晒されて荒野と化した心を潤す雨に似た、言霊による治癒だった。


 化け物の姿を見てもなお。

 荒れ狂う姿を見てもなお。

 黒尽くめの少女はハルが歩いてきた道行きを慈んで、けれど、千切れかけたハルの衣服を掴む。

 ぐっと乱暴に引き上げようとする。


「でもね、私は悪党だから、そんな善人きみを利用するんだ。お願いだハル、立ってくれ。どうか私たちを助けてくれ。君の力が、必要なんだ」


「――ぁ」


「立てよ、善人ハル、立ってくれ」


 彼女の膂力ではハルの体は持ち上がらない。

 握力はとうに限界を迎え、胸板に顔を押し付け肩を震わせる姿はまるで縋るようだ。

 それでも、その表情は――


「君が鬼だろうが、悪魔だろうが構わない、だって――」


 ギラギラした、灼熱を宿した瞳に射抜かれた。

 夢を語る時の、あの目。自分とハルを共に夢追い人だと語った時の、あの欲望に塗れた美しい双眸がハルを捉えて離さない。


「鬼だって、悪魔だって、夢を見ていい。そうだろう」


 自嘲気味な、照れ隠しのような、獰猛な獣に似た微笑みで。


「悪党にここまで言わせて、まだ弱音を吐く気かい?」


「――そうか……」


 足に力を込めて、ルシカを抱き留めつつ立つ。

 先ほどまでの醜態が嘘としか思えない。背筋が真っすぐに伸びて、全身の機能が腕に抱く少女の熱を受け止めて燃え上がる。

 薄闇の世界に閉じこもっていた視界こころが開かれる。


「こんな鬼みたいな俺でも、夢見ていいのか……」


「そうとも」


「こんな鬼みたいな俺でも、あの子に――」


 口にするべき言葉が麻痺する。

 畏れ多くて不敬な、浅ましい夢の氾濫をささやかな理性が阻む。けれど、ハルを見上げる悪党の目が開き、口元が獰猛に歪む様を見て堕落はくじょうする。


「『あの子に逢いたい』なんて、願っていいのか?」


「――いいとも。君の願いを、私が叶えてやる。君の隣で、君の道を敷く。独りぼっちになどさせないさ。ああ――ようやく、君の本心が聴けた」


 言祝ことほぐ少女の声は歓喜に満ちていた。

 鬼の腕、腕の躰、鬼の牙。

 目を開いてもまだ怪物の姿のままの自分と、それに拘泥せず縋り付き見上げるルシカの瞳を見つめて。


「怖く、ないか?」


「君よりあっちの執事のほうが百倍怖い。何せあの状態じゃこちらの口車に乗ってくれないからね」


「俺もあいつは怖い」


「だろ? 世の中には君より怖い生き物なんていくらでもいるのさ」


 互いの体が離れる。

 引いていく熱が名残惜しい。

 押し潰されそうだった心が羽根を得たように軽かった。

 現金な自分に呆れる余裕さえ生まれ、差し迫った状況にも関わらず、どちらからともなく笑みがこぼれた。


「この姿で、自然に笑える日が来るなんて思わなかった」


「笑顔の秘訣を教えた甲斐があった」


 赤黒い背に陶器のように白い手が添えられ、そして。


「決戦だ、ハル。アクスもイワンナッシュもまとめてどうにかして、私たちはこの山を全員で生きて降りる。そのための準備も整えた。――これを」


 ルシカが内ポケットから緋色の光沢を放つ丸石を取り出す。


「天高く増長した人形師マリオネッテの大巨人、樹液を固めた琥珀の部屋に守られたイワンナッシュを打倒するための、とびきりの切り札――ようやく、君にこれを返す時が来た」


 見覚えもない丸石を返され疑問符を浮かべるハルを導く様に、ルシカは視線を促すようにある一点を指さした。

 天へと向く指先の向こう側に、大巨人と化した人形師マリオネッテを守る橙色の操縦室コアが――


「――あぁ、そうか」


 天啓を得たような閃きがあった。

 何に使うべきものかを理解したハルは、確かな熱量を放つ『それ』を利き腕とは逆の拳の中に握り込む。それから天高く聳え立つ巨人を見上げて。


「……でも、高いな。あそこまで登り詰めるのは骨だぞ」


「言ったはずだよ。君の道筋は私が作る。その後は――」


 君次第だ、と背を叩かれる。

 空気が破裂する音と背への衝撃に息が詰まる。

 痛みはない。むしろ頑丈な背肉を叩いた代償でルシカの細い手首が折れてしまわないかが心配なほどで――ああでも、本当に今の発破で正真正銘、目が覚めた。


「ああ、任せてくれ」


 もう鬼の声は聞こえない。

 薄闇の世界に閉じこもる必要もない。だって――


「――お前の期待に、きっと応えてみせるから」


 この瞳は、その先の夢を見据えてキラキラと輝きを放っているのだから。





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