42話 「イワンナッシュ」
「ぅ、ぁ」
危難が去ってなおイワンナッシュは動けなかった。
瞳からは滂沱の如く涙が零れ、口元は垂れた鼻水とよだれがごぽごぽと口の中で煮詰められ、下半身からは生暖かい小尿が止め処なく琥珀の部屋に異臭をもたらしている。
赦しを乞うような恐怖混じりの喘ぎがしばらく続く。
「ひっ、ひぁ、ぁ」
目に焼き付くのは鬼の形相。
何かが間違っていれば、命を引き裂く鬼の爪が自分に届いていたという事実がイワンナッシュから思考を奪う。
助かった――そんな安堵感などない。
今なおイワンナッシュの耳には、鬼と道具が樹木の巨人の身体を足場にして、激しく鋼を打ち合わせる音が届くのだ。
未だあの怪物が身体を這い回っている。
そんな怖気に体の震えが止まらないのだ。
「ふぐっ、ふぐぅ、あぉ……」
食い縛ろうとする歯がガチガチと鳴る。
腰を抜かしたまま両の掌に視線を落とすと、子供としか思えない小さな白い掌があった。
十本あったはずの指が一つ欠け、痛々しく尊き血が黒ずんで、小刻みな震動を繰り返している。
矮小で脆弱な、只人の姿がそこにある。
「――ちがう」
否定する。
小さくて可愛らしくて繊細で、短い指も。
既に三十に手が届こうという年齢でありながら幼子のような背丈も。
いつまでも甲高い音を発す喉も、幼い顔立ちも。
「ちがうちがうちがうちがうちがぁう!」
イワンナッシュという英雄に相応しい姿じゃない。
本当の姿は違うはずなのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
英雄。
どれほど、この称号を渇望したことだろうか。
イワンナッシュは大貴族の一員として生を受けた。
聖龍国建国に貢献した家の一つで、王家からの覚えもめでたく、それに相応しい教育と環境も与えられた。
多くの者に傅かれ、尊敬と畏敬の目で見られ、口々に功績を称えられる。それが自らの歩く道であるべきだと信じた。
なのに、血筋以外は何も欲しいものが手に入らなかった。
――おかしいだろ。僕は由緒正しい大貴族の人間だぞ。
騎士学校に入学してその意識はより顕著になった。
同年代と比べて体の成長が遅い。
頭の回転でさえ下から数えた方が早かった。
格で劣る家柄の貴族どころか、一般枠で滑り込んだ平民にさえ後れを取る始末。
――生意気だ。ふざけやがって。
人を使って立場というものを思い知らせた。
何人も。何人も。
優秀だと勘違いしてる連中を教育し、自分こそが周囲に評価されるに相応しい存在なのだと模範を示してやった。
奴らは徒党を組んでイワンナッシュの排斥を目論んだ。
企みはあっさりと露見し、学校内での居場所がなくなるのに時間は掛からなかった。
自分は運が悪いだけだ。恵まれていないだけだ。
そう訴えているのに、どんどん人が離れていく。
誰も自分を助けない。
誰も同情してくれない。
――ふざけやがって。こいつら全員クソだ。
やがて、騎士学校を落第した。
厳めしい顔をした平民の教師がその判断を下した。
泡を食って罵ってやった。
自分は大貴族に相応しい振る舞いを心掛けているだけ。
正しいことをしたのは自分なのに、何故そんな判断が下るのか。理不尽な判断を今すぐ取り下げろと食って掛かった。
『勘違いも甚だしい凡骨が』
一通り喚き散らした後、平民の教師が言った。
『貴様の所業と己の判断は全くの別物だ。――貴様は弱い。騎士として使い物にならない』
聳え立つ山の権化が語るような、重低音の断言。
一切の反論を封じる凄みのある声にただ愕然とした。
教師は道端の汚物でも見るように見下ろして。
『惰弱が。どこへなりと疾く失せろ』
騎士の道を閉ざされた瞬間だった。
手に入るべき栄光も賞賛も奪われ、いい気味だと嗤われながらもう二度と潜ることのない正門を通る。
口から漏れ出るのは、己への憐みと恨み節だ。
剣ひとつまともに振れないこの体躯が悪い。
まともな魔剣ひとつ用意できない実家が悪い。
親が悪い。兄弟が悪い。教師が悪い。学校が悪い。先輩が悪い。同級生が悪い。後輩が悪い。国が悪い。民が悪い。世界の仕組みが悪い――自分だけが悪くない。
そう言い聞かせるしかなかった。
実家に転がり込むと、家族に失望の目を向けられる。
同じ文句を吐き、同じように眉を潜められた。
お前らも同じクソか、と早々に見切りをつけ、しかし裕福な家を出る選択肢もなく、針の筵のような日常を送った。
だから、自然な流れだったのだろう。
日々積もり積もっていく不満や嫉妬を解消するため、自分よりも立場の弱い生き物に目を向けるのは。
血筋と金に物を言わせて、弱者をなぶる。
彼らは自分が言ってほしいことを口にしてくれる。
言われて当然の賛辞を哀れみを誘うような声で喚く。
それがとても気持ち良くて、そんな遊びに夢中になる。
奴隷が織りなす世界の中では、王にも英雄にも成れた。
だが一度我に返ってしまえば、現実との隔意を突き付けられて余計に惨めな気持ちになった。
――ずっとこの劣等感を抱えて生きていくなんて。
耐えられない。
我慢がならない。
称えられたい。求められたい。認められたい。
今の現実は仮初の姿。
ただ蝶になる前の蛹に過ぎないのだと言い聞かせ、ぐつぐつと不平不満を煮込んで日々を過ごす。
何年もの年月が過ぎた。
手足の短さは一向に少年のまま変わらず。
自分を再評価する流れなど訪れるはずもなく。
同期の何人かが出世し、活躍する噂話を耳にするたび胸を掻き毟り、実家から居ない者のように扱われるばかりの、地獄のような怠惰を経て。
ついにイワンナッシュは、一つの真理に気が付いた。
「あぁ――僕以外、バカかクソしかこの世に居ない」
理由はどうあれ、独り立ちをするきっかけになった。
誰もがイワンナッシュを英雄と称える、そんなあるべき世界を取り戻すための試み――その手段を、長い怠惰な人生の中で見出していた。
「そうだよ。僕の代わりに血を流し手を汚す、そんな奴らを用意すればいいんだ。騎士だって魔剣に頼ってるんだから不公平じゃあないか」
それが人形師の始まりだった。
しかし彼には人を扱う才能もなかった。
持ち前の傲慢さと狭量さを振りかざし、ろくな訓練も教育も受けられない奴隷に無理難題を押し付け、うまく出来なければ廃棄、その繰り返し。
いずれ手段の限界を感じて諦めるか、違法とされた奴隷の売買などに足がつくか――もしも斧という教育係が現れなければ、そのどちらかの結末になっていたに違いない。
ともあれ人形師としての日々はこれまでの鬱憤を晴らすに足る充実感を得られた。
自分が一度「殺せ」と命じれば道具がそれを叶えていく。
生意気な奴も。
幸せそうな奴も。
才能に恵まれていた奴も。
分不相応な夢に目を輝かせていた奴も、人形師の名のもとに絶望しながら死んでいく。
「楽しい、愉しい、こいつはたまらないなぁ……!」
頭の中で思い描くばかりだった夢が叶うのだ。
命を奪う瞬間、這い蹲って許しを請う顔を踏み付けにする快感に脳髄が痺れた。
けれど。
けれど、嗚呼けれど――飽きた。
飽きてしまった。
結局、踏みにじる相手の範囲が広がっただけなのだ。
最初は金で買った奴隷や人形。
次は悪党どもに死を願われる哀れな人間。
どちらも一時的にイワンナッシュの無聊を慰めてたものの、肥大していく虚栄心に見合う刺激には足りなかった。
「そうだ、そうだよ、なんで気が付かなかったんだ」
自らの夢を、思い出す。
「僕は、英雄になりたかったんだ」
誰もが喝采をあげる英雄に。
尊敬され敬愛され、誰もが口を揃え栄光を讃える存在に。
聖龍国の王族や騎士のようになりたかったのだ。
否、なるべきだった。
成って当たり前の、特別な存在なのだから。
特別な、自分。
特別な、特別な、特別な自分。
誰よりも強く逞しく聡明な自分に相応しい、地位と名誉。
誰にも馬鹿にされないために。
誰にも憐れまりたりしないために。
継ぎ接ぎ、継ぎ接ぎ、己の虚飾に人生を捧ぐ。
仰ぎ見て、偉大なる英雄を讃えよ。
特別な自分には英雄としての扱いこそが相応しい。
「はぁぁっ……はぁぁぁぁぁ!!」
我に返る。
英雄とはかけ離れた、矮小な虫にも劣る自分が居た。
凡人で凡俗で凡才なるイワンナッシュ。
轟音が響くたびに怯えて、未だに顔中から液体を撒き散らすばかりの哀れな自分を顧みて。
カチリ、と頭の中で何かが噛み合った。
「違うんだ!!!」
恥がイワンナッシュの全身を沸騰させた。
琥珀造りの部屋に撒き散らされた従令の契約書が不気味な赤色の光を放ち、再起を果たしたイワンナッシュを祝福するように照らす。
「惰弱じゃない!!」
天を見上げて獣のように吼えたてる。
「軟弱じゃない矮小じゃない愚者じゃない不憫じゃない無残じゃないっ、惨めじゃない憐れじゃない浅ましくも情けなくも、ないッ――!!」
証明しなければ。
証明。証明。証明証明証明。
本当のイワンナッシュ・イングウェイを。
誰もが龍の如しと崇める、本当の本当の、本当の自分を証明しなければ。
「剣!! 魔剣よ、応えろ!! 誰よりも強い英雄を!! 山より巨大なイワンナッシュをォ!!」
ブヂリ、と額の血管が弾けて血が飛び散った。
過ぎた願いの代償を示すように顔が真っ赤に染まる。
指を斬り落とされた時と比べ物にならない激痛が走るが、イワンナッシュは構わない。痛みを感じる機能はとうに激情が塗り潰した。
今の彼を動かすのはこれまで培ってきた虚栄心と恥。
矮小な自らを一度も顧みず。
在りもしない根拠と自信を傲慢さで取り繕ってきた人生の総決算。
いまここに、図らずも。
イワンナッシュは数十年破れなかった自らの殻を破る。
「巨大な英雄を創り上げろ!! もっと高く! もっと強く! もっともっと大きく!!」
願いを受けた樹喰の巨神が稼働する。
周囲の樹々を、根を、枝を、葉を、樹液を接収し、魔剣の限界を越え、或いは主人の器を越えてなお駆動を果たす。
巨人は雲にまで手を届かせんばかりに膨らんでいく。
継ぎ接ぎ、継ぎ接ぎ。
山脈の背丈を越え、天上の浮雲すらこの手に掴まんと――
「これだ! これでこそ僕だ! 誰の追随も許さない!! 古の悪鬼も! 龍でさえも!! はは、ハハハハハハハハッ!! ギヒヒヒハハハハハハハハハ――!!!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
まるで、この世の終わりの光景だ。
山脈一つを呑み込んで膨れ上がる大巨人の一部始終を目にしたコレットの、偽らざる感想だった。
無秩序に引き抜かれ命を奪われ黒く染まる樹木は数千を超え、逃げ遅れた動物たちや隠れ潜んでいた魔獣らしき影が次々と吸い寄せられ、血を撒き散らして圧死していく。
瞬く間に自然の営みが破壊され、命がゴミのように潰える光景を「地獄」と称して何の間違いがあるものか。
「こんなの……こんなの、無理……」
山小屋の丸太柱に体を寄せて少女が呻く。
ここはオーガ山賊団のアジト。
圧倒的質量を誇るイワンナッシュの魔剣に対抗するため、十分な物資があると見込んでルシカ、シオン、キーファと共に訪れた場所だ。
残る三人は山小屋を物色し、ほぼ戦闘では役立てそうにないコレットは状況の変化を知らせるための監視役を頼まれていた。
その役目も忘れ、ただ震えあがるしかなかった。
「巨人に、機人族の斧使いに、知らない怪物……! 何が、何がどうなってるんですか!? もう、どうしたってこんなの、どうしようもないじゃないですか……!!」
一つ一つが自分たちの手に余る代物だ。
特に突如現れた怪物――膨れ上がる巨人を足場にして斧と激しく打ち合う誰かの姿を目にした途端、コレットの背筋に悪寒が走った。
種の本能が、あれはおぞましき災害の徒だと訴える。
たとえ今、斧と敵対していようと、いずれその爪が自分の首を引き千切りに来ることを疑いようもない。
数日の極限状態で疲弊したコレットの精神は、理屈不明の悪感情に振り回されていた。
「やだ……やだ、誰かっ」
逃げたい。逃げ出したい。
でもあそこにはハルがいるのだ。
危険を顧みず自分たちを助けに来てくれた恩人がいるのだ。
でも、けれど。
あんな大災害の渦中にいたなら、もう助かるはずも――
「どうしよう、どうしよう……どうしよう……!」
「――にい、さん?」
気が付けば、シオンが隣に立っていた。
元から血が足りず青白かった顔色が、更に輪をかけて青く染まっていく。
視線は怪物と化した兄に釘付けになり、絶望に満ちた呟きが零れる。
「だめ、だめ、兄さん、その力はだめ……」
あれは呪われた力だ。
この世界の誰よりもシオンはそれを知っている。
理性を蕩かし、良心や道徳や理性を身勝手な欲望に塗り変えていく呪詛の力――ハルが今まで、一度も制御できたことのない鬼化による暴走状態。
今までも侵食の兆候は何度かあった。
死線を潜るに当たって鬼化した経験もゼロではない。
けれどシオンのいない所で鬼化はこれまで一度もなく、また長時間の使用には精神が耐えられない。
(このままじゃ、兄さんが――)
兄ではない怪物になり果ててしまう。
一も二もなく兄の元へ駆け出そうとするその肩に、黒尽くめの少女の手がかかる。
「あれが、ハルだって?」
「それは、……」
失言に気付き唇を噛む。
鬼の真体を目の当たりにした人間の反応はいつも同じだ。
それまで積み重ねてきた行為も恩も消え去って、身に覚えのない嫌悪と憎悪を向けるのだ。
シオンが一言肯定するだけで仮初の仲間たちが豹変する。そんなもの、見たくなくて。
「……お前たちに」
肩に載った手を半ば無意識に払い除ける。
感情に振り回されるような腕の動きはルシカの肩を突き飛ばし、思った以上に軽い手応えと共にその体が後ろによろめく。
「ぐっ……」
体勢が崩れキーファの胸板に背をぶつけ、小さく呻くルシカの姿に我に帰る。
一斉に突き刺さる困惑の視線。耐えきれず顔を俯かせ。
――騙したな! 化け物め!
口汚く罵り、排斥する人間たちの声が脳裏に過ぎった。
謂れなき迫害を正義と謳う連中への憎悪が内側を焦がし、怒りに眦が吊り上がって。
「人間たちに、関係あるものかっ!!」
言い捨てて一目散に兄の元へと駆け出した。
困惑が敵意や憎悪に変わる様など目にしたくなかった。
どうせ排斥されるなら、こっちから関係を断てばいい。それで嫌な思いはしない。
――そんな言い訳を盾にした。
「シオンちゃん!」
「おい……!!」
呼び止める声に耳を塞ぎ、シオンの姿はあっという間に森の中へと消えていく。
冒険家の二人が当惑するなか、突き飛ばされたルシカが態勢を整えつつ巨人の方角を見て形の良い眉を寄せる。
「……状況は切迫しているようだ。君たちは予定通りに事を進めたら、避難していい。後は私たちの役割だ」
「本当に行くのかよ」
「もちろん。最低限、巨人を落とす準備は整ったはず……後は私たちの奮戦と切り札の出来次第」
預かったものを手に笑いかけると、コレットは青い顔で肩と唇を震わせてぎゅ、と目を瞑った。
「だ、だめですよ……! あんな手作りの、間に合わせ! 私、自信ない……まして、勝ち目なんて!」
「いいや。いいやコレット。君は私の望む通りに仕上げてくれた。私が太鼓判を押すとも。むしろ問題は……」
膨張を続ける大巨人の陰に隠れ、熾烈な戦闘を繰り広げる二つの影を見やる。
絶対に真正面から攻略は出来ないと位置付けた斧を相手に、ハルと思しき鬼人は互角に渡り合えている、ように見える。
「ハル……」
常に変動する足場を上手に伝い、鋼を激しく叩きつけ合うハルを見ていると、もしかしたら最大の障害であった斧をも単独で打ち倒せるのでは、とさえ思わせる。
ああ、けれど。ひどく胸騒ぎがする。
鬼化は力の代わりに、あらゆる可能性を殺す諸刃の剣。
たとえ斧を打倒する唯一の手段だとしても、その先に待つ結末は破滅だ――なんて、ルシカの判断力を奪おうと鬼への悪感情が騒ぎ立てている。
「信じられねぇな。あの化け物が、あいつなんてよ」
「……君は彼を直視しても平気なのかい? キーファ」
キーファは返事代わりに顰め面を作った。
やせ我慢だと理解してルシカは手を上げ、二人に別れを告げた。
「では二人とも、お別れだ。私は行くよ」
「……死んじまうぞ」
「まだ借りを返しきってないんだ、私は」
笑みを作る。キーファたちの顔が強張った。
灼熱の只中に身を投げる間際の、罪人のような微笑みと共にルシカはハルを想う。
血反吐を吐きながら、血涙を流しながら、血をまき散らしながら、今も体を張り続ける恩人――彼に対して積み上げた負債は、一言や二言程度では語り切れない。
「最後の仕上げ、小屋への細工だけはしっかりと頼むよ。それでは御機嫌よう、勇気ある狸亭の冒険家たち。母なる精霊のご加護があらんことを」
二人を置き去りにしハルの元へと駆けながら、言い捨てられた言葉を思い返して。
「関係ない、だって?」
あんまりな言い様だ、と歯を食いしばる。
舐めるなよ、どこの誰とも知らない『弟』風情が。
ようやく――ようやく訪れた機会なのだ。むざむざ手放したりするものか。
「全く、仕方のない人。あんな鉄火場に商人を出向かせるなんて――」
事前に打てる手はこれで打ち止めだ。
足りない分はいつものように、この命と口八丁で補っていくしかない。
時間を追うごと、ハルは取り返しの付かない事態になるだろう。急いで対処しなければ、と息を切らせ、そして――
「ぁ……」
がくり、と膝が折れた。
前のめりになった姿勢が災いし、派手に転倒して膝や胸を強く打ち付ける。
鈍い痛みが全身に走り「全く何をやっているのやら」と自嘲しつつ足に力を込め、立ち上がろうと――けれど。
「――は、ぁ」
足に力が入らない。
まるで生まれたての小鹿だ。
痙攣する自分の足に気付いて愕然とする。
咄嗟に突っ張った手も似た状況で、まるで体を支えてくれない。
馬鹿な、と反射的に吐き捨てる。
死地に赴く恐怖など今更感じようはずもない。
どんな窮地であろうと泰然と構え、笑みを作る異常性こそがルシカの根源であるのだから。
ならば、この手足の震えは、まさか。
「冗談は止めてくれ……」
棺より這い出て丸一日。
日中はハルの背にしがみ付き、陽が再び落ちてからは自らの足で山中を駆けずり回ってきた。
振り返ってみれば馬鹿げた話ではないか。
自分という虚弱体質に、そんな無茶を続けられる道理があるはずがなかったのに。
「それでも、今まで保ってきてたじゃないか……!」
意図せず再会を果たした喜びが活力を与えてきた。
度重なる状況の変転に対応するため思考を回し続けた。
ゆえに自らの変調に目を向ける暇など、あるはずもなく。だからこそ――ルシカはついに、読み違えた。
――死ぬな。死んじゃ、だめだ。
最初の恩義を、この野望の原点に想いを馳せる。
あの日から今日に至るまで、自分は彼に救われ続けた――それどころか、救われすぎた。
そんな彼が、言ったのだ。
涙をこぼしながら、今にも消えそうな声で言ったのだ。
――どうしていいか、もう分かんねえんだよぉ……
ああ、胸が張り裂けそうだ。
山々に響く鬼の雄叫びが、慟哭にしか聞こえない。
今も昔も誰かのために奔走して、自分を切り売りして、心が砕けそうになるほど意地を張り続けて――得られたのは、夢の一つを口にすることさえ恥じるような、挫折。
そんな馬鹿げた話が、あるものか。
「ハル……ハル……っ」
伝えるべき言葉があるのに。
言われて当然の、報酬でさえない激励一つ。そんな些末な願いさえ、どうして自分は叶えてやれない?
脆弱で役立たずで大嫌いな自分への情けなさがこみ上げ、二の腕に爪を立て、血がにじむほど唇を噛み締めて、立ち上がらんと手足に喝を入れて。
(間に合わない……)
突風と獣臭がルシカを包んだのは、そんな絶望に思考が満たされていた時だった。
「っ……うあ!?」
気が付けばルシカの体は獣人の肩の上にあった。
瞬きの間に彼女と巨人の距離がぐんぐんと近づいていき、彼女にしては珍しく目を丸く見開いて二の句が告げないなか、不景気そうな面構えで。
「クソッタレ……!」
「――キ」
「黙ってろ! 舌ぁ噛みたくなけりゃな!!」
二人分の影が地獄へと突き進む。
樹木造りの巨人が跋扈し、鬼と人形が命を削りあい、今も地形が秒単位で移り変わる死地へと、半獣化を維持したキーファが疾走する。
「俺が連れていってやらァ!! テメェは自分の出番が来るまで、大人しく運ばれてろ!!」
――夜明けまで、あと僅か。
奇しくも人形が口にした決着の時が刻一刻と迫っていた。




