41話 「英雄にはなれない」
「もういいよ」
声があがり、休まず殴打し続けた燕尾服の動きが止まる。
指の間を伝って滴った血が頬に落ちる中、ハルは喉奥に詰まった血の塊を吐き出した。
「げほ……ごぉえ」
胃液と血液の混ざった吐瀉物を何度も吐く。
ぜえぜえと息を吐き、乱暴に顔を拭うと袖が自分の血で真っ赤に染まり、あっという間に水分を吸って使い物にならなくなる。
「つまんないなぁ、こいつ」
一方で高みの見物をしていた少年は、心底退屈そうに吐き捨てる。
「僕は鬼が見たいって言ったよねぇ? 何やっても人間のままじゃないか。役立つ情報は寄越さない、いくら殴っても悲鳴さえ満足に上げない。何なのお前?」
「……」
何なんだ、はこちらの台詞だとイワンナッシュを睨む。
応じる気にもならない要求ばかりを突き付け、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言を吐き散らすばかりの、聞き分けのない子供――見た目だけが子供の姿なのが、余計に不気味さを際立たせる。
「なんで鬼にならないの? そんなに人間の振りが大事? お前もこいつら人形と同じだね」
真っ黒に汚れた道徳観を滲ませて、這いつくばるハルへと嘲りの笑みを向けて。
「機械仕掛けだろうが魔物崩れだろうが大差ないじゃん? ヒト様になれるわけないのになんでそんな無理なことするの? 頭に蛆湧いてんの?」
「アンタこそ、げほっ、時代錯誤も大概にしやがれ……」
イワンナッシュという人物はとにかく歪だ。
短く切り揃えた黄金色の髪は清潔感と高貴さを醸し出し、普段の抑揚で喋る声は鈴を鳴らすような美しささえあるというのに、化けの皮が剥がれれば酷いものだ。
顔付きは卑しく歪み、声には硝子を引っ掻くような不快さが混ざり、口にする内容は選民思想と貴族至上主義に塗り固められて――筆舌に尽くしがたい。
「機人族を買って、従令で縛って人殺しを強要させて……はぁ、アンタのやってることは、七種族を虐げる立派な違反行為じゃねえか……!」
「七種族? もしかして機人族も鬼人族も、人族の一員として扱えっていうアレ? 世界会議で定められたあの馬鹿みたいな決まりのこと? あんなのに縋ってんのお前?」
見下ろす人形師の瞳が泥水のように濁った。
美しい造形を歪ませ蔑みと悦びが混ぜた視線は、眉を吊り上げるハルを憐れみ――それ以上の悪意に満ちていた。
「バァァァァカ。地龍国だか火龍国だか、出生に頓着しない蛮族国家が騒ぎ立てて無理やり通した枠組みに、偉大なる聖龍国がなんで付き合ってやんなきゃいけないんだよ!!」
「――」
「人権尊重? 七種族ぅ? 僕らヒトと、お前らヒト以下が同列に語られていいわけねえだろ!!」
絶句するほかなかった。
話せば分かる、となんて思っていたわけではない。
機人族を奴隷のように扱うことに痛痒を感じない、そういう種類の悪人と対峙しているつもりでもいた。
けれど言葉を交わせば交わすほど、そんな言葉では片付けられないほどの隔たりがあることに気付かされる。
「お前らは僕らに管理されるのが正しい世界の在り方なんだよ。だからきちんとこちらの言う通りに動いて、こちらの都合で速やかに死ねよ」
悪人だとか、そういう話ではないのだ。
彼はただ貴族としての自分を愛しているだけ。
聖龍国に属する自分を愛し、人間として生まれた自分を愛して、常に平民を、他種族を見下ろして悦に浸れればそれでいい。
そんな自身の悪性に一切の疑いを持とうとしない。
(こいつは――)
自分だけの特別性を愛して、愛して、愛していたいだけなのだ。
人間に生まれたことを、大国の貴族として生まれたことに歪んだ誇りを持ち、その立場が少しでも脅かされることを許さない。
自分より下に誰かがいることに安心したい。
もっと多くの人を下に見たい。
自分を高く高く見せたい。
自己愛と承認欲求の塊。
それがイワンナッシュ・イングウェイという概念だ。
「早く鬼の姿になれよ。ちゃんと化け物の姿をした奴を殺さないと証明にならないかもしれないだろ。早くしろ。早く。早く早く早く」
他人は自分に合わせて当然という傲慢さ。
身分の差から来る価値観の違い。
それら全てが混ざり合ったおぞましさを突き付けられ、ハルは俯いたまま唇を噛み締めた。
そもそも、イワンナッシュの言葉が聖龍国の貴族の総意でないと否定できるのだろうか。こんな男を野放しになっている以上、聖龍国も同じ考えなのではないか。
(もしかしたら……)
貴族も。
そして王族も。
(あの子も、もしかしたら……同じ価値観で……)
馬鹿げた絶望だった。
決して疑ってはならない部分に考えが及んだ途端、怒りを堪えて握っていたハルの拳から力が抜けた。
鋼のように鍛えたはずの克己心が欠けそうだ。
「……なに? 泣いてんの? 気持ち悪ぅ」
「誰が……ッ」
カッとなり自然と体に力が籠もる。
瞬間、不用意な敵意に反応した斧の手がハルの頭を引っ掴むと、硬い地面へと再び叩き付けられた。
「やっぱり鬼畜生のことは理解できないね」
ハルの頭が万力に晒されて軋み、かすんだ呻き声をあげる姿を見降ろしイワンナッシュが嘲笑う。
「斧もそうだ、性能はピカイチでも管理してやらないとだめなヒト以下の家畜。そうだよ、もっと早く自我を飛ばしてやればよかったんだ。そうすればこんなに時間をかけなかったのに」
「じっ……自我、……ぁ?」
「そう。道具は僕の言うことだけ聞いてればいい」
イワンナッシュは羊皮紙を取り出し、見せびらかすようにハルに向けてゆらゆらと揺らした。
従令の契約書を一目見て、イワンナッシュが考えそうなことを想像し、斧を変貌させた理由に思い至る。
「お、まえッ……まさか!」
「なに、その目? えっ、お前、可哀想だとか思っちゃうの? 鬼なのに? 頭おかしいんじゃない? お前らだって目についた人間を頭からバリバリ食べちゃうんだろ?」
偏見に満ちた無自覚な悪意が嗤う。
頭が痛い。
斧による万力の妨害とは別種の、脳の奥を無遠慮に弄られるような不快な鈍痛がハルの思考を蝕んでいく。
吐き気も止まらない。
胃の中身を全部吐き散らすほどの強烈な嘔吐感。
淀んだ少年の声音が、ハルの精神をがりがりと削っていく。
「大体、こいつはそんな同情される人形じゃないよ。ある意味じゃお前なんかよりずっと極悪人だったんじゃない?」
自分をどこまでも棚上げし、他人の価値を下げるために舌を回すイワンナッシュが、会心の笑みで。
「二万七千体」
頭を鷲掴みにする斧の腕に震えが走った。
人形そのものになった彼の心の奥底に残った僅かな人間味の残滓が、その数字に強い反応を見せるほどの何かがあった。
「斧が殺した機械人形の数だって聞いたら、お前だって考えを改めるだろ?」
「は……?」
機械人形。
それは機人族が人権を得る前の呼び名だ。
彼らは元々鍛冶族らの手によって大量に生産された疑似人格の魔導品であり、大量に消費されていた時代があった。
彼らの人権が認められたいま、機械人形の名は忌まわしい時代の象徴として今日まで語り継がれている。
人が傲慢であった時代の、その最たる罪として。
「凄い数だろぉ? 斧、造られた機械人形を大量に買い込んでは売り捌く商会の家令でさ。機械人形を表沙汰にできない仕事を割り振ってたのさ」
ハルはその時代を知識でしか知らないが、当時の機人族の扱いは非道の一言に尽きたという。
危険な鉱山での人足。
新薬の効能調査。
そんなものならまだ安全なほうで、酷いものなら――
「一番イカしてたのはあれかなぁ。人形に毒を喰わせて死にかけの状態で魔獣の巣に放り込むやつ。ギヒャヒャ、ネズミ駆除の毒だんごかよってねぇ」
そういう無法が許された時代だった。
鬼人族が現代でも根強く恐怖の象徴であるように、機人族もまた偏見や蔑視とは切り離せない存在だった。
「そうやって二万七千体の死体を積み上げた、世界最高峰の同胞殺し。それが斧さ」
「――」
「ギヒャヒャ……そんな奴がさぁ。何を血迷ったのか、うちで廃棄処分寸前だった奴らの噂を聞きつけてやってきて、一人前に仕立て上げて見せるから処分しないでくれって言うんだよ」
どんな想いでそれを口にしたのだろうか。
彼の目に、時代が変わっても変わらず虐げられる彼女たちはどう映ったのだろうか。
人権が認められた今ですら、人殺しを強要され続ける同胞がいるのだと知った時、彼はどれほどの衝撃を受けたのだろうか。
ハルには、とても想像できない。
「最初は意味わかんなかったけど、少ししてピンと来たね。『あぁこいつ、気に入った人形に手を出してたんだ』ってさぁ」
「……」
「機械人形時代から、人間の真似して好みの人形を抱くのが楽しみだったのさ。ギヒャヒャ、気持ち悪い」
イワンナッシュには一生理解できないだろう。
他人に責任を押し付けていいはずの罪をずっと抱えて生きてきた男の苦しみを。
斧が血反吐を吐く思いで抱えてきただろう苦悩も誓いも、身勝手な傲慢で洗い流してしまうような男には決して。
「……なんだよ、笑えよ。笑いどころだぞ、ここ」
「何様だテメェ……お前なんかに、そいつらの人生をどうこうする権利なんかあるわけねえだろうが!!」
「貴族様だって説明したけどぉ!?」
衝撃が降ってきた。
イワンナッシュは靴底でハルの頭部を激しく踏み付けながら、目を見開き、唾を飛ばす。
「権利だってちゃんとある! この誓約書がそれを許してる! 龍も! 精霊も! こいつらみたいなヒト以下の家畜を有効に使って差し上げろ、と言ってんだよ!! なんでそれがわっかんないかなぁ!!」
羊皮紙造りの誓約書の束を振りかざし、よだれを撒き散らす勢いでイワンナッシュは破顔すると。
「死ぬまで戦え、死んでも戦え! 身体が砕けても心が壊れても戦え! 駒としての役目を全うしろ! 新たなる英雄となる僕がそう命じて何が悪い!!」
何かの冗談のような身勝手な号令が、誓約書を介して強制力を発揮してしまう。
戦意を失っていた短剣は嗚咽交じりで剣を握る。
主人への忠誠を失くした盾は希望を失くした目を向ける。
満身創痍の銃身は意識も定かでないまま主の元へと這う。
身動きできない拳は今も泣きじゃくりながら天罰を待つ。
時代に取り残された機械人形たちの嘆きが木霊した。
それが新しい英雄のために奏でられた讃美歌だった。
「…………えい、ゆう?」
恍惚の表情でその音色に聞き惚れるイワンナッシュに、ハルはどうにか言葉を紡いだ。
彼にしては無機質な、ひどく乾ききった声音だった。
「英雄っつったか、お前……?」
「ぁ?」
「そいつらが泣いてるのも分かんねえお前が、英雄……?」
それは多分、問いかけでさえなかった。
自身の内側に落とし込むような小さな独白だった。
「道具が涙なんか流すわけないないだろ! 人の形を取ってるからって感情移入しすぎじゃない!?」
耳聡くイワンナッシュが聞き拾い、顔を醜悪に歪めながら勝手に盛り上がっていく。
「こいつらは幸せ者さ。使えないのをどうにか使ってやってんだ。だからみんな僕に感謝してるのさ。……なぁ?」
粘り付くような問いかけに晒されたのは足元に跪かされた短剣と、枝腕の戒めから解放されたばかりの盾だ。
無造作に二人の髪を引っ掴んで顔をあげさせ、怯える少女たちの耳元で囁く。
「なぁそうだろお前ら。なあ、なあなあなあ?」
否定が許される状況ではなかった。
盾は唇を噛み締めながら俯くように首肯した。せめて言葉にしないのが彼女に許された抵抗だった。
短剣は敢えて口を開き、唇を震わせながら主人の喜ぶ言葉を探した。それが最後の一線を守ろうとする後輩への、精いっぱいの配慮だと信じた。
「し、しあわせ、です……」
心の奥底から汚されたような喪失感に表情を曇らせる短剣らとは対照的に、イワンナッシュは我が意を得たりとばかりに得意げな顔を作った。
「ほら見たことか! まだ納得しない? やっぱりオーガみたいな畜生には主従の絆とか上に立つ者の心得とか理解できないかなあ!?」
「――――」
「ほら、もっと僕を讃えろよ人形、もっと幸せそうに寄り添えよ、もっと嬉しそうに鳴けよ、もっと、もっと……!」
命令に応じ、短剣は細い腕を回してイワンナッシュの足元に媚びるように縋り付いた。
その姿を師に見られる情けなさが込み上げ、微笑みの代わりに瞳から小さな雫がこぼれて冷たい風にさらわれた。
「もういい。もう、喋るな」
ハルの中で何かが切れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ヒッ……?」
栄光と嗜虐に満ちた語りを遮られ、イワンナッシュはその不調法を嘲笑おうとして頬を硬くした。
いつものような罵詈雑言を吐き出す舌が痙攣し、顔が引き攣ったまま動かない。
靴底で踏みつけた少年から何かが生えて足を押し返してくる感触の不気味さに思わず足を退けて後ずさり、目を見張った。
瘤だ。
少年の額の一部が内側から隆起している。
「お前、最悪だ」
怒気が籠った声に混じって熱風がイワンナッシュの頬を炙り、蒸し暑かった夜の気候が更に息苦しい熱を帯びる。
陶酔はどこかへ消え失せ、どっと冷や汗が背中を濡らす。
熱の根源は目の前の少年だ。
彼が内側に溜め込んだ激情がそのまま炎を纏っていくような錯覚――しかし、事実として少年の皮膚がゆっくりと朱に染まっていく。
「お前みたいなみっともないガキ、見たことない。頼むからもう黙ってくれ。お前の承認欲求は聞き苦しくて、耳が腐りそうだ」
「おま、おまえッ……! なんだよ、その口の利き方ァ!」
無意識に感じた恐怖を、愚弄された怒りが凌駕した。
何を恐れる必要があるというのか。
何かしらの変貌が少年に起こっていたとして、依然その体は斧の拘束を脱せてはいない。
「お前なんか世界中の嫌われ者じゃないか! 死ねばみんなに喜ばれるような、誰にも愛されない、誰からも認められない鬼畜生!」
所詮は悪あがき、その無意味な抵抗を踏みにじってやろうと自らを鼓舞する。
「それが尊きミトラの血筋に連なるこの僕に、新しい英雄である僕に、なんて口を……!!」
「お前なんかが、英雄を騙るんじゃねぇよッ!!」
ハルが知る英雄は、もっと綺麗だった。
振り抜いた剣閃は死にかけた心を洗い流すほどに美しくて、どこか不慣れで、思い遣りに満ちた声音には慈愛があった。
絶望する誰かを圧倒的な力強さで打ち払い、涙を流す見ず知らずの誰かを当たり前のように救って、笑いかける。
それこそが英雄の姿だ。
「お前は、違う。紙切れ一枚で縛り付けて、その上で胡坐をかいてるだけの、気持ち悪いクソガキだ」
ハルはずっと英雄の背中を追いかけてきた。
愚直に、泥臭く、ただ一人の英雄に憧れた一人として、イワンナッシュを認めない。否定してやらなければ気が済まない。
身を焼きかねないほどの憤怒が、ハルの中で燻っていた最後の配慮を消し飛ばした。
「お前なんか英雄じゃねえ。鬼だの機人族だのを巻き込んで、ごっこ遊びに夢中になってる――」
紛い物の英雄気取りに、憧憬を汚されてなるものか。
「性根の腐った、ただの怪物だ――ッ!!」
「ッィィィ首を落とせ斧ゥゥ!!」
イワンナッシュの額に浮き出た血管がブチリと音を立て、癇癪のままに執行の号令が下る。
けれど遅い。
覚悟がもう決まってしまった。
後には何も残さず、それが何よりも恐ろしくて踏み出せなかった最後の一線の、その先へ。
今日まで歪に積み重ねてきた信頼を、全て全て全て激情で燃え盛る焔の中に投げ込んで。
「――鬼が見たいんだったな?」
怒りを燃やせ。
嘆きを燃やせ。
喜びを燃やせ。
憎悪を燃やせ。
悲憤を燃やせ。
歓喜を燃やせ。
自分の内で揺蕩う人間性を残さず炉に焼べて。
弾け飛びそうな激情の全てを残らず費やして。
【熾きろ、童子】
目の奥で火花が散って撃鉄が下りると、ハルの意識が昏い海へと沈む。
水底では忌まわしい衝動を抱えた誰かが喜悦に満ちた笑みのままハルを迎え入れ、馴れ馴れしく肩に手を回す。
待ちくたびれた。
そう言いたげな彼に、全てを託す。
【龍喰らいの鬼】
全ての感覚が遠く、そして鈍い。
斧を振り下ろす人形の裁断が首を裂くまでの僅かな時間が過ぎ去るよりも、身体の組み換えのほうが圧倒的に早い。
当然だ。鬼はこの時をずっと待っていた。
どんな土壇場だろうが窮地だろうが、間に合わせなくて何が――
鮮血が飛び散った。
くるくると独楽のように宙を舞う『それ』に誰もが目を見張った。
見間違えようもなくそれは人体だった。
人形師はそれが両断されたハルの首だと信じて疑わなかった。
愉悦に口元を歪ませていた彼がその事態を正しく認識した時、口から間の抜けた空気が漏れた。
「…………、はぇ?」
宙を舞うのは燕尾服の青年。
地面にどしゃりと叩き付けられ、ごふっ、と血の塊を吐く。
拘束を脱し、のろのろと起き上がるのはハル――いや、つい先ほどまでハルだった何か。
細くとも引き絞られていた体躯は一回り膨張し、肌の色が頭から爪先まで怒りを体現するかのような赤に染まっている。
「クッ」
瞳は喜悦に揺れていた。
口元は野卑な笑みをたたえていた。
牙は猛獣のように伸び、額に生じた瘤はさらに鋭さを増して灼熱色の角へと変貌を遂げた。
その姿は、他の何にも例えようがなく。
「鬼……」
誰かの呟きが、その存在を明確にした。
「グヒャ……ハハハハハハハハハハアアーーッ!!!」
「……ぁ、ぁ――」
短剣は意識を手放すことを選んだ。
最初の交戦の時に感じた怪物としてのハルの側面、師を弾き飛ばした怪物の視線が自分に向く――感覚が鋭敏な彼女に耐えられるものではなかった。
理性を根源的な恐怖が上回ったのだ。
「ひ、ぃ、ぃぁぁぁ、ぁぁぁ」
盾は頭を抱え、髪を掻き毟って競り上がってくる恐怖に身を震わせた。
全身の産毛が逆立ち、息苦しい圧迫感に呼吸も満足に行えず、やがて耳を塞ぎながら蹲って許しを乞うように嗚咽を紡ぎながら足音が自分に近づいてくることを恐れた。
生きたまま喰われるかもしれないという恐怖がそうさせた。
「ハハハハハ、ハハ……」
見開かれた鬼の目が、苦痛に歪んだ。
解放感は呆気なく霧散して、後に残るのは無常な寂寥感。
腰を抜かしたまま後ずさる盾を見下ろし、鬼はぶっきら棒に言い放った。
「巻き込む前に、どっかに行ってくれ」
「ひっ、ぁ、ぐ、ぅ」
彼女は従順だった。
何度も何度も足を縺れさせながら、気絶した同胞に肩を貸しながら森の奥へと消えていく。
そんな彼女たちの背中を見送って、小さく自嘲した。
【ほら見ろ、こうなった】
もしも、自分が正しい英雄であれば、誰かを傷付けることも怯えさせることもなく、ただ倒すべき怪物を薙ぎ倒して、彼女たちに手を差し伸べることができたのだろうけど。
現実の自分はそんな尊い存在とは程遠かった。
涙を止めるどころか怖がらせて。
助けたいと思った相手さえ傷付ける怪物でしかなかった。
【こんな姿、誰でも怖がるって分かってたはずだ】
朱に彩られた皮膚も、伸びた爪や牙も、額に生えた角も、怪物の象徴でしかない。
感情すら自分では制御できない。
一度暴れだせば、暴虐の化身となるに違いない。
元に戻れる保証さえない。
だから、こんな姿を晒したくなんてなかった。
怪物ではなく、英雄のように手を差し伸べたかった。
けれど、ハルが差し出せるのは異形の腕。
いつも誰かを怖がらせるだけの、鬼の手だけで。
「ルシカ――キーファ、コレット」
自分の夢を笑わないでくれた黒衣の女性。
一緒に苦難を乗り越えた狸亭の冒険家たち。
彼らはこの姿を見ても笑いかけてくれるだろうか。
それともやっぱり数日かけて積み上げてきた親愛は、いつものように喪われてしまうのだろうか。
「……シオン」
あの子は、怒るだろう。
弟はまた独りぼっちになってしまうハルに、今度こそ愛想を尽かしてしまうだろうか。
でも、ハルは全員で生きて帰りたい。
そして。
「な、なんだよお前……なんだよそれぇぇえええ!?」
目の前の英雄気取りの怪物を乗り越えたい。
世界中の嫌われ者だと言われても。
誰にも愛されず認められないと言われても。
それが真実だろうとも、違うと吼えなければならない。
こんな怪物な自分でも。
英雄の真似事さえもできない自分でも。
手を伸ばし続けていれば、いつか必ず夢まで辿り着けると、幼子のように信じて。
だから、その日に繋ぐためにいまは。
「征くぞ。勝負だ、人形師」
「ギッ……!?」
顔を引き攣らせたイワンナッシュの反応は素早かった。
枝や蔓がその身体を固定すると素早く中空へと退避し、体当たりする勢いで頭部の搭乗席へと飛び込んでいく。
「つ、潰れろ……」
鬼の呪いを間近で見て、背に汗をびっしょりとかいたイワンナッシュの唇が震えた。
四つん這いの態勢を維持していた巨人が立ち上がり、脇から何本もの腕が製造されて。
「潰れろ、潰れろ、潰れろ……この、化け物ぉお!!」
「オオオオォォォアアッ!!」
振り下ろされる第一の腕。
テーブルの上を這う虫を潰す軌道を掻い潜る。
鬼化に伴う身体能力や動体視力の向上は著しく、無造作で直線的な動きがハルを捉えることはない。
――狙いは、巨人の額ッ!!
足場として樹木の巨人の踏破に利用する。
二本目は左側、真横から羽虫を咄嗟に払うような雑な動作が迫る。
跳び上がっての回避を選ぶ直前、三本目の軌道が時間をおかず真上からろうとしているのが見えた。
「死ねえッ!!」
反射的に跳び上がった虫を叩き落とそうという狙いにハルの動きが硬直し――間髪入れずに激突。
一本目の腕が衝撃に耐えきれず根元から圧し折れ、地面に向かって落ちていく。
「やった……ッ!?」
逃げ場を失っていた鬼の姿が無くなったことを、イワンナッシュは好意的に受け止めた。
原型も無くなるほど潰れて一本目の腕の残骸と運命を共にしたものと信じて喜びに拳を握った、次の瞬間だ。
「ッ……ひぃぎぃぃ!?」
搭乗席を守護する琥珀の守りに、鬼が張り付いた。
瞠目し甲高い悲鳴をあげるイワンナッシュの至近距離に口端を邪悪に歪めた鬼の顔が迫る。
「――ハッハァ」
間近で見せつけられた鬼の形相は、喜悦で歪んでいた。
怖気で肩を震わせるイワンナッシュの顔色を丹念に楽しみながら、ゆったりと鬼の拳が掲げられる。
「やめッ……」
無意味な静止を最後まで言い終わる前に、衝撃が何重にも重ねた琥珀の障壁に余すことなく亀裂が入った。
罅割れたガラスのように視界がひしゃげ、鉄壁だったはずの守りが砕かれていく。
逃げ道はない。
抵抗しなければ間違いなく殺されると顔を引き攣らせながら、砕かれていく琥珀の再錬成を全力で試みる。
「来るなぁ……来るなっ、来るなって! やめろぉ!!」
砕けた障壁が潤沢な材料を吸い上げて新品同然に修復。
それも束の間、再度叩き付けられた拳がたった一撃で致命的な損壊を与える。
イワンナッシュは無我夢中で琥珀の再錬成を試みた。
製造と展開に全神経を費やし、自分の身を守るための壁の維持に終始する。
修復、破壊、修復、破壊。
この繰り返しはイワンナッシュにとって悪手だ。
吸い上げるべき樹液は有限で、鬼の放つ拳に限界はない。
状況を打破するなら守りを突破されるまでの僅かな時間を、鬼の排除に当てなければならなかった。
しかし心中に巣食う怖気がイワンナッシュの判断を誤らせた。
琥珀の守りが突破された時、無残に殺されるという想像がどうしても頭を離れない。
「た、助けろ!! 誰か助けろ!! 斧! 斧ッ!! この役立たず! 主人の危機だぞ!? 分かってんのか!? 早く助けに来いって言ってんだよォォォォオッ!!!」
喚きながら障壁を展開し、それが砕かれる。
砕かれた琥珀の破片がぱらぱらと小雨のように荒れ果てた大地へと降り注ぐ。
大粒だった破片がやがて、薄く小さな形になっていく。
障壁の限界は近い。
あと数度、同じことが繰り返されれば琥珀の壁は尽きて、鬼の拳は恐怖に引き吊らせた怪物の顔面へと突き刺さる――しかし。
「――――――っ?」
一陣の風が吹く。
鬼の首筋を薄ら寒い空気が撫でていく。
悪寒、あるいは虫の知らせか。それとも戦士として類まれなる鬼人族の第六感が為せる業か。
「ッ、ァ!?」
あと数秒の攻防に固執していれば、ハルの命はなかった。
直前まで首があった空間を断絶する勢いで、唸り声をあげた鋼が通り過ぎていったのだ。
回避したにも関わらず、斬撃から生じた烈風が肌を刺す。
刃で切り開かれたような裂傷がハルの鎖骨付近に刻まれ、赤黒く変色した肌色を鮮烈な朱が伝っていく。
こんな絶技を繰り出せるのは一人だけだ。
「アクスゥ……!」
鋭い痛みに顔を歪め、眼を吊り上げて燕尾服を睨む。
まだ立ち塞がるのかという驚きがあり、一方でそれも当然かという納得もある。
――そうとも、あの程度で倒れるもんかよ。
彼はあのルシカをして『戦ってはならない』と位置付けられた兇手。理由の忘却を以て全力を出し切れない状態にも関わらず、あるいは鬼化したハルを更に上回って――
「ク――」
鬼としての本能が強敵の予感に奮い立つ。
闘争への喜びが胸に満ちていく。
時を追うごとに、理性が飴細工みたいに溶けていく。
深い水底に沈んだ良心の声も、もう届かない。
嗚呼、是非もなく壊そう。
戦う理由はない、戦いたくない、そんな馬鹿げた感傷に蓋をする。戦う理由なんて幾つでも思い付く。
アレは仲間を殺した仇敵だ。
アレは命令をこなすだけの人形だ。
アレは家族を傷付けた敵対者だ。
怪物で、忌敵で、障害で、魔物で、天敵だ。
迷えば死ぬぞ。
躊躇えば死ぬぞ。
お前が死ねば、皆が死ぬぞ。
どくん、と心臓が絶叫をかみ殺せないほどに収縮し、思考を狂わせる激痛が奔った。
「オ――ォォォォオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
人の本能に訴えかける怖気の咆哮。
耳にすれば戦意を削がれる威嚇を前にして、応じる燕尾服は無感情な糸目の眉に小さな険を載せるに留まる。
名の由来となった斧を水平に構え、時折ギシリと体を軋ませ、契約に縛られ忠誠を強要された操り人形はただ、己が責務を果たすために命を捧ぐ。
共に、ヒトの世で搾取され続けた種族なれば。
今もなお、自分以外の誰かのために自らを使い潰す。
救いはなく希望もなく。
正しいかも分からない何かの為の、命を削り合う争いの始まりであった。




