35話 「最後の一射」
「はあ、はぁ、はあー……はぁ」
森を彷徨う銃身の姿はまるで遭難者だった。
鬱蒼と茂る木々の間を抜け、時には樹木に背中を預けて深い息を吐く。
頭の中に叩き込んだはずの地図情報が霞んで歪む。
精神的な摩耗も酷い。
背に背負う愛銃の重さはまるで岩の塊だ。
体の変調が銃身からまともな思考を奪っている。
(分からない。何故居場所を見抜かれる? 分からない。何故ミスを犯さない?)
思えば、度し難い失策だった。
拳への援護で乱入してきた男を撃ち、それをあの剣士によって阻まれたあの時、弾丸を剣で斬り落とす技術に心が震えた。
狙撃と剣技。方向性は違えば技術の極致。
あれが銃身の心に強い対抗心が芽生えさせたのだ。
技術を極めて存在を証明してきた銃弾の、嫉妬だった。
あれを越えなければ、という使命感が判断を鈍らせた。
退却時を見誤り、頭に流れる危険信号を乗り越えた先にこそ技術の極みがあると信じ、限界まで体と頭を酷使した挙句、殻を破ることができず敗北の一歩手前で足掻いている。
(なんて無様、なんという、醜態……)
自分こそが優秀な兵器であることを証明しようと技の競い合いに固執し、挙句に自らの価値を貶めることになろうとは笑い話にもなりはしない。
(負けは、死だ)
それが当然だと銃弾は心の底から信じている。
槍が主人に殺されたと聞いた時も眉ひとつ動かさなかったし、価値を失った道具が処分されることも当然だと思えた。
けれど、それは自らの価値に絶対の自信があったがための傲慢だった。いよいよ自分の番が訪れたのだと思うと、足に込める力に熱が入る。
(まだだ。まだ終わらない)
形勢を逆転し、標的の額を撃ち抜く。
その誓いを遂行することでしか、この失態は取り返せない。
技だけは誰にも負けてはならない。
気持ちだけで震える手足を前に動かし次の拠点を目指す。
そして――
『ごきげんよう、銃身』
通信機が起動し、女の声が届く。
返事には少しだけ時間を要した。弱みを見せないよう呼吸を整え、最低限の応対だけに留める。
女の通信に応じたのは賭けだった。
何でもいい、相手がこちらの居場所を読んでいる手段を知ることが出来れば、と考えたのだ。
『降伏したまえ。もはや君に勝ち目はない』
屈辱的な勧告に唇を噛む。
しかしここで通信を打ち切られれば元の木阿弥だ。
震える舌をどうにか動かして会話を引き延ばす。
「勝負がついているとは、思ってない」
『気付いているはずだ。この戦場は私が君のために用意した狩り場だとね』
「有り得ない」
女の妄言だと銃身は確信をもって言い放つ。
「狩り場の用意には地理の把握が絶対だ。僕は森の下見に丸半日を要した。山側に追い詰められていたお前たちにその時間はなかった」
幾つかの拠点が荒らされていたのは事実だ。
しかし彼女らが陣取る憩い場はこの森で最も拠点を多く用意できる場所であり、何より彼女たちは山の中腹付近にまで追いやられていた。
「下調べをするタイミングは、なかったはずだ」
通信機の向こう側で女は笑った。
『山小屋に狩人用の地図があってね。大体の地形はそこで把握した。運が良かったよ』
「――有り得ない。平面な地図を見るだけで、立体的な狙撃を予測できるはずがない」
『実際に目で見るしか把握はできないとでも?』
「ッ……角度に射線、風向きに成長した木々の生い茂り方! ありとあらゆる不確定要素を潰すには、目で確認するしかない! 地図だけで読み取れるはずが……!」
女の妄言は狙撃手としての矜持を嘲笑うに等しい。
それが可能なら彼女は観測者として銃身を遥かに上回る技術の持ち主ということになる。
彼女は観測者としての立場から、狙撃手としての銃身の未熟さを嗤っているのだ。
『――北の見晴台』
「は……?」
『東、草の丘陵と砂坂。西に大樹の丘と湿地帯、南西に樹木群だ。南東は多いね。三本樹と土塊で固めた丘陵、それから山脈入り口付近だ。南は……』
女がつらつらと単語を並べていく。
やがて銃身は意味を理解して愕然とした。
彼女が口にしているのは銃身が広場で使用するために下見をしてきた拠点の特徴なのだ。
『……以上、全十二箇所。この内、都合の悪い幾つかの拠点を壊して君の行動を限定し、誘導した」
信じがたい。
だが、確かに彼女は憩い場を中心にした全ての拠点を言い当て、証明して見せた。
『頭のできが違うんだよ、人形。言われた通りにしかできない指示待ち機械の限界だ。君如きが、亡霊を測り切れるものか』
傲慢に満ちた挑発に、膝の力が抜けた。
格の違いを見せつけ、技術を信奉する銃身の心を折らんと煽り立てるルシカの目論見通りに。
震える唇がようやく声を絞り出した。
「時間を……くれ……」
そう言って通信を打ち切る。
銃身の心中で久しく感じなかった感情がせり上がった。
それは惨めな敗北感ではない。
羞恥心や屈辱、挫折、嗚咽、そういった悪感情とは似ても似つかない――高揚感。
「ふっ……ふふ……」
体の節々に力が注がれていく。
ノイズ混じりの脳内は鮮明になって周辺地図を映し出し、鉛のように重かった手足が充足感に包まれて自在に動く。頭痛も指の震えも気にならない。
傲慢な女の勝利宣言から、一筋の勝ち筋を見出したのだ。
「南へ……」
女は拠点の数が十二箇所だと言った。
その言葉自体に誤りはない。確かに憩い場を狙撃するのに適した狙撃場所は、彼女の語る十二箇所に相違ない。
(だが、憩い場からの距離を更に広げた先はどうだ?)
本来は別の場所の狙撃に適した狙撃点で、憩い場を狙うためにわざわざ選択する場所ではない。
(……だからこそ、女の裏をかける)
迷彩装束を起動し、力を振り絞って疾走する。
出し惜しみはなしだ。
体力もマナも全てつぎ込んで乾坤一擲の狙撃を見舞う。
「……ここだ」
辿り着いたのは十三箇所目の拠点。
石碑の並ぶ林道に人の手が入った形跡はない。
憩い場までの距離を目視で測る。
これまでの狙撃距離の二倍強。
風の強さもベストとは言いがたい状況。
コンディションのほうは言わずもがな。
難易度はこれまで銃身が行ってきたどの仕事よりも高い。無謀とさえ思える状況を前に、小さな笑みが溢れた。
「それでいい」
心から銃身はそう呟いた。
「それでこそ」
全ての困難を乗り越えてこそ、と自らを奮い立たせて愛銃を構え、猛る感情のままに呟く。
「――我が手にかかり、黄泉へと還れ、亡霊」
今宵、銃身は自らの限界を越える。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……本当に地図一枚で全部把握できるんですか?」
「そんな人物がいるならぜひ会ってみたいな」
あっさりとルシカは否定し、軽く肩をすくめる。
銃身が言う様々な要因を、本当に地図一枚で把握できるというのなら、そもそもこんな受け身な戦い方は取らない。
「でも、材料が揃えば似たようなことはできるんだよ」
必要なのは膨大な知識だ。
それから入念に下準備に、隠し味程度の詐術。
目まぐるしく変わる情報の更新と精査を迅速に行う思考力。
一度の見聞きで内容を諳んじるほどの記憶力。
あらゆる情報を俯瞰的に見つめた未来予測が、銃身の思考と行動を絡め取った蜘蛛の糸の正体だ。
(とはいえ、下見はずっと前に終わらせていたけれど)
森を下見する時間はなかったと狙撃手は言ったが、それは違う。薬草樹採取のための囮役としてルシカは一度森へと降りている。
肉体労働を全てハルに押しやり、その間ルシカは実際にその目で森を見て回る機会を設けているのだ。
もちろん広大な森の全てを見ることはできない。
この時点では誰が敵なのかも分かっていない。
だからこそ貪欲に、森を駆け回るハルにしがみ付きながら、目に入る全ての情報を記憶した。
「結局、何事も準備の差が明暗を分ける。商人が交渉を挑むなら、テーブルについた時には既に勝負を決めておくのが望ましい」
周辺地形の特徴。
生い茂る樹々の健康状態。
視界の端に見えた小動物や野鳥の種類や数。
太陽の差す場所と差さない場所。
ありとあらゆる、意味合いの薄い情報さえも見逃しはしない。
膨大な情報を戦利品として持ち帰り、短剣との邂逅を経て明確な指針を頭の中に思い描いた。
人形師一座を洗い出し、特にこの森で相手取るに厄介な銃身の存在を意識した。
山小屋で地図を睨み、脳内の地図と照らし合わせ、ルシカは狙撃手とどう渡り合うべきかを思案してきたのだ。
「準備は、ただ時間をかければいいものじゃない」
銃身は自らの下準備に胡坐をかいた。
半日かけて森全土を把握しようとも、こちらが重点的に下見を重ねた戦場に誘導するだけで差は埋まる。
その場所での戦いだけに限定させてしまえば追いつける程度の下準備なのだ。
彼はそれで満足した。
地理の把握に固執し、敵の把握を怠った。
彼は己の目で槍を斬った剣士の危険性だけは何を差し置いても把握しておくべきだったのだ。
「降伏すると思いますか?」
「しないだろう。彼なら命を捨ててでも誇りを取る」
敢えて降伏を勧めた意味は挑発の意図が強い。
優位に戦いを進めてきたルシカだが、断続的に続いていた狙撃の頻度が急激に落ち、秒読みでの位置把握が困難になりつつあるのだ。
混乱と消耗で判断力が低下している今だからこそ付け入る隙があるが、冷静さを取り戻して仕切り直しをされてはここまでの仕込みが水の泡だ。
ゆえに、口にする断言には願望も混ざる。
「最後の一射は、間違いなく来る」
「そうですか。で、どの方角を見ていればいいんですか?」
「――」
「……?」
思えば、それは予兆だった。
今まで全ての判断を素早く下してきた彼女が、最後の攻防を前に一度沈黙する意味を考えるべきだった。
弾丸の発射位置を目に頼るため、彼女のほうを振り向くことはできない。もし振り向いていたなら、きっと気付けたはずなのに。
「……北だ。一番最初の見晴台を警戒してくれ」
「なんか歯切れが悪いようですが?」
「そんなことはないさ」
薄い微笑みが混ざった声に硬さを感じ取り、シオンの中で不吉な予感が膨らんだ。
今までの彼女なら見晴台を選んだ理由について、聞いてもいないことを得意げに語っているはず。
ここにきて予測の精度に自信が持てないのか、と直感が警鐘を鳴らす一方で、最後の一射を仕向けたのもルシカの主導、ならば全ては計算通りのはず、と理性が訴える。
こういう時、直感のほうが当たるのがシオンの経験則だ。
「本当の、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫。君が狙撃を防いだなら、見晴台で気絶した銃身にとどめを刺して戦いは終わり。……きっちり計算通りに収まるよ」
ルシカの中では、既に勝利までの道筋は定まっていた。
それは銃身との争いに限った話ではない。
数を頼みにした山賊団は壊滅し、機人族も五人中三人を撃破した。
(残る障害は銃身と拳のみ。イワンナッシュの手足さえ奪えば、闇夜に乗じて山を降りられるはず)
二日間に渡る長い戦い、その終わりがようやく実感できるところまでやってきた。後は想定通りに事を進め、全てを掌握したまま銃身を完封するだけ。
「……っ」
通信機が反応を示したのは、そんな未来を思い描いていた時だった。
この時、ルシカの眉が小さく寄った。
「早い……」
気が付かないうちに喉が干上がっていたらしく、咄嗟に口をついて出た声音が枯れていた。
緊張で強張る指先の震えを抑えながら耳元に伸ばす。
応答の意を示したその瞬間、ルシカの肩が震えた。
「? 何ですか、通信が入るなんて聞いては――」
その時、シオンは首を回してルシカを見やった。
ほんの一秒にも満たない動作、危険と知りつつも胸の内で膨れ上がった不安がシオンを振り返らせた。
ルシカの顔は見えなかった。
彼女もまたシオンと同じ方角である南を振り向いて。
あってはならない光が、空を走るのが見えた。
数多くを撃ち落としてきた狙撃、その前兆がルシカの指示した方角の反対側でちかり、と瞬いたのだ。
「ッ――!!!」
脳内が落下する凶星を防ごうと、あらゆる手段を模索する。
槍の投擲による奇襲を防いだ時と同じように時間の流れがゆっくりと動き、その間に取りうる最善の手を見つけ出そうと脳が回し、けれど弾きだす答えはひとつの結果しか見いだせない。
地を蹴り潰す勢いで跳んで射線に割り込む。
間に合わない。
抜き身の剣を前に突き出し弾丸の軌道を弾かんと試みる。
間に合わない。
女の横腹を鞘で殴り飛ばして回避、間に合わない。
剣や鞘を投擲させて弾丸に命中させ、間に合わない。
怒号をあげ体を強張らせて急所だけでも、間に合わない。
間に合わない。間に合わない。間に合わない。
「避け――ッ!」
ろ、と続けることもできなかった。
飛来した光は寸分も狙い違わずルシカの頭部を直撃した。
大きく仰け反った彼女の身体が宙を浮き、ゆっくりとした動作で冷たい地面へと倒れ伏す。
光を目にしてから一秒程度の時間でシオンにできることは何もなかった。




