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33話 「幸福な罰」







 ある女がいた。


 ささやかな幸福を願いながら日々を過ごす女だった。

 人に尽くすことが好きで、穏やかな時間を愛していた。

 平和な時代とまともな主人に巡り合いさえすれば、慎ましくも満ち足りた人生を送れていたに違いなかった。


 けれど女にはどれも与えられなかった。


 尽くすのではなく奪えと教えられた。

 体を弄り回され、自分の許容量を超える数の刃を仕込まれて、主人が指さす『ヒト』をいたぶれと命じられた。


 最初は全然ダメだった。

 痛い痛いと泣く『ヒト』の嘆きを耳にするたび体が強張って、縋るように主人を振り返っては鞭で打たれた。


 女は生まれつき痛覚が鈍く頑丈な作りだった。

 折檻でどれほど肌が腫れ上がろうと痛みはなく、それでも怒りの形相で鞭を振るう主人の形相は恐怖に映った。


『普通がしたい。普通になりたい』


 女が泣くたび主人は髪を引っ掴んで耳元で怒鳴りつけた。


『お前みたいな出来損ないに普通なんてもったいない!』


 気が利かず、手先は不器用で要領もよくない。

 自分に向いていることをしろ、と他より多く鞭を浴びた。

 体は少しも痛まないのに頭を抱えて蹲るおかしな人形。主人の怒りや標的の嘆きといった強い感情を浴びせられるたび、怖くて怖くて怖くて怖くて。



 いつからだろう?

 誰かを傷つけ、それを歓びと誤認し始めたのは。


 多分、ヒトに憧れた時からだ。


 奪う側に立つのは常にヒト。

 奪う側に居続けることがヒトの証明だと信じこんだ。

 それからは仕事が楽しくなった。

 ヒトであると証明するため拳を振るい、ヒトであると信じ続けるため刃を肉に差し込んだ。


 主人はその心変わりを喜び、女は殴られなくなった。

 もう怒鳴られない。怖い目に合うこともない。



 だって自分はヒトになったのだもの。



「待って……」


 主人が喜ぶので女はもっと頑張ることにした。

 残虐な殺し方を学んだ。

 冒涜的な壊し方を覚えた。

 標的の絶叫や苦悶を笑い声で掻き消しながら弄んだ。

 他人を害す獣の性こそがヒトの本質だと信じた。


 自らの行いに疑問を持たなくなった頃、女は殺した命の血を飲み干すようになった。


 意味なんてない。

 自分はもう昔の自分じゃないと言い聞かせるための儀式。

 体に人の血を入れて自分もヒトだと思い込みたかっただけの短絡的な行為に快感を覚え始めた。



 気が付けば女は怪物となっていた。



「待ってよ、オーガぁ……!」


 激情と歓喜のまた壊れかけの体を必死に駆動させる。

 背を見せて逃げる愛しいヒトを追いかける。

 笑いが止まらない。止められない。

 こんな顔がしたいんじゃないのに、刷り込み続けた仮面かおが笑みを象り続ける。


「抱きしめさせてよ、素敵な、アナタ……ッ」


 木々に体を引っかけて内臓器官が抉れる。

 躓きかけた拍子に右足のつま先がぐにゃりと曲がる。

 走る衝撃で体を揺らすたび開いた刃が女に傷を刻む。

 時間を追うごと命が壊れていく。

 でも足は止められない。口が滑らかに破壊を歌う。


「アナタを抱きしめたら、きっとアナタは凄く暴れるよね。力の限り身をよじって、必死の形相で抵抗するよね。その動きがワタシの中でゆっくりと鈍くなってって、目が虚ろになって、びくんびくんって全身を痙攣させて!」


 愛しい少年の背中が小さくなっていく。

 出力が足りない。

 足が何度も縺れるたび、女の救いが遠ざかる。


 ――いやだ、いやだ、待って。置いていかないで。


 そう叫びたいのに饒舌な口はその意に沿わず、汚らしい願いばかりを口にする。


「たくさんの血を浴びるの。温かい血液、温もりの残った臓物、冷たくなる骸! ぜんぶ抱きしめて、やっとワタシは実感できるの!」


 必死に手を伸ばす。

 瞳を涙で溢れさせながら唾を飛ばす。


「生きてるんだって! 稼働してるんじゃない、人形ヒトガタじゃない! 命を奪って喜びを得る『ヒト』でいられるんだぁ……くひっ、ひひひひひ」


 胸の内側で何かが罅割れている。

 凄まじい力で殴られた衝撃が、女にそのことを思い出させてしまった。

 傷付けば痛いのだ。

 殴られれば痛いし、殺されるとなればその比じゃない。

 そんな当たり前のことを、女は思い出してしまった。


 こんなものは知らない。

 こんなものは要らない。

 奥の奥にしまい込んだ理想の残骸が泣いている。


 こんなはずじゃなかった。

 こんなことがしたいんじゃなかった。


 例えヒトじゃなくても、人に尽くすことができて今日もありがとう、なんて労いの言葉をかけてもらえれば、それだけで満たされた人生の中で自然に笑えたはずで。


「ひひ! ひひひっ!」


 ――今更。どの口がそんな世迷言を。


 歓びながら傷付けたくせに。

 笑顔を振りまきながら殺し続けたくせに。

 今もまだ改めようともしないくせに。

 いつか訪れるかも知れない救いを、何の努力もせず待ち続けているだけのくせに。


「ワタシに……生きている実感をくださいぃい!!」


 顔に張り付く殺戮者の仮面は外れない。

 その強欲は、女の体をばらばらに砕くまで止まらない。

 きひひ、きひひ、と息継ぎのように笑みを出力し、女は身勝手な救いを吐き出し続ける。


「誰か、誰か、私を、止めて下さいぃぃ……!」


 それは意図せずして漏れた懇願だった。

 叫んだ女もきっと理解しえない心の深淵から飛び出した願いだった。


 現実の自分はヒトになるためあらゆる残虐行為に身を投じる怪物だった。それを良しとしてきた心があげた悲鳴に、手を差し伸べる者がいるはずがない。


 けれど。


 少年の足が止まる。

 天を仰ぎ、拳を握ったまま大きく息を吐いて。


「ああ、ちくしょう」


 少年が振り向く。

 鳶色の瞳が真っすぐに女を射抜いていた。

 左の掌に右の拳を打ち付け、壊れかけの人形を迎え撃つ。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






『脇目もふらず逃げろ。もう彼女には誰も触れられない』


 そして、とルシカの助言は続く。


『追いつかれなければ、君は勝つだろう。フィストが命を削り切って死ぬまで逃げに徹するんだ』


 言われた通りだ。フィストはとっくに限界を迎えている。

 彼女はいま、生えた数本の刃を足代わりにしているが、踏みしめる度に血が噴き出し、体中に生えた刃をあちこちに引っかけ、血や肉片を撒き散らす様は見るに堪えない。


 恐らくはいずれ失血の影響で足が止まる。

 止まらなくてもいずれ命を落とす。


 ハルはあのまま逃げ続けるだけで良かった。

 あとほんの数分の逃走劇を維持するだけでフィストの体は崩壊を迎えていたはずだ。

 足を止めるのはルシカの指示にない暴挙、それを自覚しつつ前を向く。


「止めてほしい、か」


 あれは悲憤だ。

 朗らかに破壊を謳う童女の人格、その奥底に抱え続けた感情の発露。本当の彼女が上げる叫び声だ。


 顔にだらしない笑みを張り付け、女が迫る。

 もう走ることもままならない様子で、よたよたと血を撒きながら大事そうに一歩を踏みしめている。

 蜘蛛糸に縋りつく罪人のような相貌で、救いを求めて手を彷徨わせている。


「アンタとは、ほんとに悪縁しかないのにな……」


 彼女のことをハルは知る由もない。

 どんな事情があって、どんな理由があって、どんな罪を重ねてきたのか。

 恐らくハルもその罪を余すことなく知ることになれば、彼女へと向けられる害悪の全てを身から出た錆だと切り捨てていたと思う。


 けれど。


「……やり方に文句は言うなよ」


 あの子・・・と再会する日が来た時、救いを叫びながら追いすがる女から逃げ出してきたなんて言いたくなかったから。


 本当に、ただそれだけで足が止まってしまった。

 どうすればいいのか、何をすれば正しいのかも分からない状況で、馬鹿げたことをしているなと自嘲する。


「どうにかできるとすれば――」


 深呼吸をひとつ重ね、状況を再確認。

 女の主武装は右腕の大鎌、三つに分かれた左腕の長剣、肩から足先まで不規則に飛び出た剣山等々。

 まさに機人族マキナの誇る機構兵装の過度膨張だ。


「ァアアッ!!」


 女が大鎌の形状を取った右腕を振り回す。

 技術も何もない飛び出し。後先を考えない身の投げ方。

 後方には逃げず、その脇をすり抜ける形で掻い潜る。全身凶器の肢体をやり過ごした先で。


 無防備・・・な背中が露出していることに気が付いた。


「これだ……ッ!」


 全身を覆ったように見えた剣山の鎧だが、背中部分には改造が一切施されていなかった。


 当然だ。女は自らの機構兵装に『ハルを抱きしめ、その血を浴びたい』と願った。

 強烈な一撃で体内に仕込んだ刃物の大部分が損壊しているため、機構兵装は残された刃を全て前面に展開することで要望をかなえた。


(だから背中に刃が生えていない……! 抱き締めて殺す手段を選ぶなら、背中そこに刃物はいらない!)


 突破口は見つけた。

 同時に、この場を乗り切る方策も閃いた。


(これならいける……大丈夫、のはず……!)


 この時、脳裏には様々な不安がよぎっていた。

 本当に機構兵装は限界を迎えているのか。

 もう体内に余力はものは残っていないのか。

 一見して無防備に見える白い背中の内側から刃が飛び出し、ハルを串刺しにするのではないか。


 そういった不吉な予感を持ち前の思い切りで跳ね返す。


 必要なのは実行する勇気と、痛みを堪える覚悟だけ。

 喉を鳴らしたハルは唇を強く噛み締めて。


「ぐっ、ぉおおあっ!!」


「ッ……アアァア!?」


 フィストの体を、背中から羽交い絞めにする。

 右腕を女の細首に回すと鎖骨部分から生えた棘が指や二の腕を引っ掻く。

 左手は女の腰部分を抑え、申し訳程度に残った衣服の端を引っ掴んで固定、そのまま大地を強く蹴りだすと女の身体が宙に浮いた。


「あっ……!?」


 誰より困惑したのはフィストだ。

 唐突な浮遊感に足をばたつかせ、腕を引き戻してハルの拘束から逃れようとする。

 しかし彼女の両腕は既に人のそれではなく、胸や腹から生えた刃とかち合ってその行為の邪魔をした。


「痛っ、づぅぁ、ぁぁああっ……!」


 しかし無数の刃が生えていることには変わりない。

 身を捩ったり手足を振り回すことで身体を密着させたハルの皮膚が細かく削れていく。

 特に首部分に回した右腕は酷いものだ。

 指や二の腕がズタズタに裂かれていくなか、ハルが強く吼えた。


「おぉぉおああああッ!!」


 女の体を抱えたままハルは疾走した。

 目的地は周辺に散見された大樹アジートのひとつだ。

 フィストの体ごと体当たりをかます勢いで接近し、ぶつかる直前で僅かにその速度を緩める。


 樹に投げつけられるものと体を強張らせていたフィストが、その変速に混乱をきたす、が。


「……あう!?」


 停止するまでには至らずフィストの体躯は大樹に押し付けられた。

 激突と表現するには鈍く、叩きつけられるともまた違う。

 狙いに気が付いたのは、咄嗟に突っ張った両腕が樹皮に根深く突き刺さっていることに気付いた時だ。


 右の大鎌、左の三剣。

 いずれも一本の大樹によって封じられた。


「くっ、う……!」


 耳元で苦しげに少年の吐息が掛かる。

 フィストの背中に自分の体を密着させ、更に強く力を込めて押し出す。

 大樹とフィストの距離がより近くなり、冷たい樹皮が女の頬にも押し付けられる。


 火傷しそうなほどの熱を背中に感じながら。


(そう、いえば……)


 女は、この場にそぐわないことに思いを馳せていた。


(抱きしめられたことなんて、一度もなかったな……)


 病的なまでに人の温もりを求めてきた。

 灼熱に似た血潮を浴び続け、浸り続けて多くの人々を胸の中へと誘ってきた。


 けれど、その温かさを背中で感じたことはなかった。


 誰かに温かさを与えられたことなんて一度もなくて。

 人の温かさに触れた記憶なんて一度もなくて。

 優しさに触れたことなんて当然一度もなくて。


 背中越しに脈打つ少年の鼓動がなんとも心地よかった。

 暖かい体温に、強張っていた女の全身が弛緩していった。

 何だか頭がくらくらして。

 何より例えようのない幸福感があった。


「これで決着だ。……悪いな」


 耳元で囁くような少年の謝罪が届く。

 今もまだ無防備な首に、少年の腕は巻き付いたままだ。

 両腕は樹木に埋まり、全身の力は抜けている。

 刃を突き立てるも一思いにへし折るも思うがまま。


 それでいい、と心から思えた。

 女は静かに目を瞑る。はらりと一滴の涙が頬を伝う。


「あり、がとう……」


 優しい終わりがやってくる。

 待ち望んだ救済の時がようやく訪れる。

 犯してきた間違いも、死という贖いで洗い流される。


 痛みは一瞬だろうか。

 あるいは長い苦痛に苛まれるのだろうか。

 死に思いを馳せながらその時を待った。


 待って。

 待ち続けて。

 待つことが苦痛に感じ始めた頃だった。


 背から温もりが消えていることに、ようやく気が付いた。


「言ったはずだぞ。気持ちには応えられないって」


 首回りに絡みついていた腕が引き抜かれる。

 そのまま耳元に手が伸びると、くすぐったい感触と共に取り付けられていた通信機が外されていた。


「えっ……待っ」


 咄嗟に振り向こうとしたが首が回らない。

 体は痙攣するように震えるだけで動かない。

 恐る恐る視線を下にずらし、絶句した。


「樹、が……?」


 生えた刃の数々が樹皮に根深く食い込んでフィストの身体を縫い留めていた。

 腕や足に力を込めて突っ張ろうとするが、片足の膝が腰付近まで高く掲げられた状態でくっついていて力が入らない。

 宙吊りに近い姿勢で樹にへばりついたまま、フィストはみっともなく体を震わせた。


「あ、うそ……うそ、うそ、ぬけ、抜けな……」


 瞳を潤ませたまま少年を縋るように見返る。

 傷だらけになった右腕の負傷具合に眉を顰めるハルだったが、フィストの視線に気が付くと顔を引き締めた。


「俺が受けたのは、止めてくれって願いだけだ」


「ぁ……」


 フィストの唇がわなわなと震えだした。

 ハルももちろん理解している。

 自分を止めてほしいと懇願した彼女の真意がどこにあるのか、どう止めるのが彼女の本意だったのか。


の願いは、叶えてやらない」


 それを理解しつつ、はっきりと拒絶の意を示した。

 体を無理やり動かすことが女の命を削るなら、動く余地もないほど拘束してしまえばいい。


 樹に縫い付けるだけで拘束が可能かはやってみなければ分からなかったし、更なる自己改造を施して窮地を脱する可能性もあった。

 しかしあのような無茶を何度も繰り返すことはできないようで、それが図らずもフィストの命を繋ぐ形になった。


 女は死なず、そして戦線にも復帰できない。

 通信機を奪うことで仲間を呼ぶことも封じたいま、ハルの言葉通りに決着は付いた。



「じゃあな……できればしばらく、大人しくしててくれ」


「やだぁ……!」


 絹を裂くような悲鳴が上がった。

 フィストは何度も身をよじって拘束から脱しようとするが、丁寧に押さえつけられ限界まで樹木に密着させられた体は自由にならない。

 フィストの懇願がさらに熱を帯びた。


「置いてかないで……ちゃんと私をころしてよぉ……!」


 独りになってしまう。

 温もりがどこかへ行ってしまう。

 待ち望んだ救いが遠くへと消えて行ってしまう。

 いやだ。いやだ。いやだ。

 これ以上、怪物のまま生きていたくないと吼えたてる。


「酷いよぉ! こんな生温いことしないでよ!! これじゃ私、止まらない、止められない。止めるならちゃんと、ちゃんと……! 私、本気で求愛おねがいしてるのに! 本気の、本気なのに! だからちゃんと……!」


 どうせ死ぬ以外に救いなんてないのに。

 どうせ誰にも許してなんてもらえないのに。

 どうせこれ以上先の人生に幸福なんてあるはずないのに。

 優しく殺してもらえるなんて、今この瞬間以外にあり得ないのに。


「やだやだやだやだぁ!! 行かないで、行かないで、行かないで……! ちゃんと刺して、砕いて、潰して、壊して壊して壊してぇッ――!!」


 ハルは振り向かなかった。

 彼女の願いがもっと違う形であれば、もう一つ踏み込んで何かができたかもしれない。

 けれど死に固執し、死に救いを求めるのであれば多分、ハルではだめなのだ。


「アンタの事情を俺は知らない。想像もできない。けれど」


 罪深い彼女を断罪する気持ちにはならない。

 彼女に罰が与えられるとすれば、それは王国法に基づいた正しい裁きであるべきだ。

 私怨や悪縁を掲げて命を奪うには、彼女に対する憎しみが足りない。


 運命を憐れみ救いを差し伸べる資格もない。

 彼女を許す資格があるのは、彼女が殺し傷付けてきた相手であるべきだ。

 彼女が奪ってきた多くの命に対して不義はできない。


 いいや、そもそも。

 立派な建前をいくつ用意しようが、ハルが掲げる理由はたったひとつのみ。


「人殺しは、ごめんだ」


 ただ、そうしたくないだけ。

 誰に誇れるでもない自分勝手な心情のありのままの吐露。


 彼女に手を差し伸べる『いつか』が訪れるとすれば、それは彼女が生きることと向き合えた時だ。彼女の為に何かをしてやるには、ハルに残された時間が少なすぎた。


「――ぁ……」


 女が絶句し、身動ぎも静止する。

 森での戦いが全部片付くまでもう少し掛かるだろう。それまで彼女は放置することになる。

 願わくばその時間を、自分を顧みることに使ってほしい。そう願って一言を添えた。


「生き残っちまうことが苦痛なら、それがアンタへの罰になると思うんだ」


 それが、この夜における彼女への最後の言葉だった。

 後ろ髪を引かれるような言葉をこれ以上投げかけられる前に、ハルは足早にその場を去った。







 フィストはその間、口を開かなかった。

 去っていく背中をただただ呆然と見つめ続け、その姿が消えた後もぴくりとも動かなかった。


 先ほどの少年の言葉を何度も何度も反芻した。

 その意味を噛み締めていた。


「人……だってさ……」


 人殺しは、ごめんだ。

 人で在りたいと恋焦がれた人形に、人を喰らう怪物だと囁かれる鬼が、そんな言葉を投げかけたのだ。


「く、ふふ、ふふふ……」


 笑えてしまう。我慢がならない。

 かれの目は節穴に違いない。

 涎と涙と血を当たりかまわず撒き散らし、刃物を身体から生やして迫ってくる姿を目撃しておきながら、女を『ヒト』と言って見せるなんて。


 馬鹿にしている、有り得ない。

 頭の足りないフィスト自身だって、今の自分をヒトだなんて思えないのに。


 最初から最後まで。

 ずっと彼は自分のことをヒトとして見ていただなんて。


「あはっ、あははは、ぅぐっ……ぅぅう、うぁぁ……」


 笑おうとして、けれど感情が先に決壊した。

 両目から涙が後から後から零れてきた。


 ずっと。

 ずっとずっと、願っていた。

 自分以外の誰かにヒトとして扱ってもらえる日を待っていた。

 死にたいよりも前に後生大事に抱えてきたささやかな願いの残滓を、鬼があっさりと叶えていってしまった。


 もう我慢がならなかった。


「うわぁああああ、ああっ、あああああ……!」


 女は泣いた。

 笑いながら泣いた。その内、笑みさえ消えた。

 被りなれた邪悪な笑みの仮面が剥げていき、産まれたばかりの赤子のようにわんわんと泣き腫らした。


 何故泣くのか自分でも分からなかった。

 ただ胸の奥底でずっと膝を抱えていたはずの小さな自我が、どうしようもなく喚き散らしたくなったのだ。


「ぁああああん、わぁあああああん……うああああっ!!」


 生きていたくなんてなかったのに。

 積み重ねた罪過に向き合いたくなんてないのに。

 あんな言葉を投げかけられたら期待してしまう。


 女の罪が許されるはずはない。

 けれど、ささやかな救いが女の胸を満たし、癒した。

 それだけで人生全てが報われたのだと信じられた。


 幸福な罰に包まれたまま、女は泣いた。

 少女のように泣きじゃくった。





◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 その泣き声は、ハルの耳にも届いていた。

 彼はシャツの一部を引き千切って傷だらけになった右腕に包帯代わりの間に合わせとしてぐるぐると巻いていたが、それが耳に届くと顔を歪ませて胸を抑えた。


「……うぅ」


 言うべきことを言ったつもりだった。

 しかしあの時は熱に浮かされた頭が反射的に導き出した言葉であり、自分がどんな言い方をしたのかはあまり思い出せなかった。


 けれど『罰』だとか『アンタの事情は知らない』だとか、突き放すような言葉を使ったのだ。彼女が泣き喚くのも無理はない。


「胸が、胸が痛い……」


 思えば彼女には告白もされていた。

 それに対して『気持ちには応えられない』と突っぱね、樹にその身体を叩き付けた末に放置。

 優しい言葉の一つも掛けず、捨て台詞を言い放ってその場を離れる始末。当然、女は泣く。


 率直に言って、手酷い振り方なのでは?


「……ぐあ」


 凄まじい罪悪感が胸を抉られる。

 身体中に擦り傷や切り傷を抱え、胸と右腕のきりきりした痛みと微かに漂う血の匂いに堪えながら手に入れたのは、人生初の告白とそれを手酷く振ったという勲章トロフィーのみ。


「ああ……割にあわねえ……」


 目も当てられない成果に、嘆き節で息を吐く。

 心の中で手を合わせ、詮無い願いを呟いた。



 どうかこの選択が、前向きな未来に続きますように。







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