30話 「亡霊は糸を手繰る」
「お前。これいったい。どういうつもり、なんだ?」
一言一言を区切る声。
こぼれそうなほど目玉をひん剥き、下唇を噛みしめて荒々しい感情を押し留める姿はまるで血管がびっしりと張り巡らされた爆弾だ。
些細な衝撃でも暴発は必至で、緩慢に斧らを指を差す仕草さえ背筋を凍らせるに足るものだった。
彼が乗ってきた機械馬の隣には盾の姿がある。
彼女の肩は遠目でも小さく震えており、主人の怒りを恐れながら縋るような目を斧へと向けていた。
「こ、れは……その」
「妙な言い訳はするなよ? もう全部聞いてるんだよ? 敵と取引して、負けたクズの身柄を引き取りに行ったってさぁ」
何故だ。
咄嗟に跪き、頭を垂れる斧の脳裏を疑問が埋め尽くす。
主人がこの場に居合わせる状況が有り得ない。
秘密裏に進めていた事情をある程度知っているのもおかしい。
「なぁおい。黙ってないで何とか言ったらどうだい斧。僕はお前の口から聞きたいなぁ」
主人の口ぶりにはある種の確信が窺える。
イワンナッシュは「何をしている?」とは問わなかった。
「どういうつもりか」と問いただしているのだ。
「敵と取引した? 主人の命令よりその部下を優先したの? 僕とお前の立場を噛みしめながら『はい』か『いいえ』で答えろよ」
「――」
唾を飲み込もうとするも口内が干上がったまま。
偽りを口にすることを禁じる。
それが主と従僕の間に交わされた誓約の一つだ。
人形師一座の斧には一つしか答えが用意できず、そして口にしてしまえば致命的な出来事が訪れる。
「ぁ……ぁ……」
背後から、絶望を孕んだ部下の嗚咽が聞こえた。
その声が斧の背中を強く押す。何とかこの場を切り抜けなければ。
憐みを誘うような声音を、取るに足らないと思わせるような表情を心がけて顔を上げる。
「……、はい。取引を、しました。しかし、それは……」
「契約破りだよ、斧」
直後。斧の体の中身がぐじゅりと音を立て、激しい嘔吐感に襲われた。
「グッ、ぁ、ご、ふ……!」
咄嗟に手で口元を抑えるも堪えきれず、嘔吐――鮮やかな朱に染まった水の塊が落ちた。
燕尾服も白手袋も真っ赤に染まり、腹部を無造作に手で掻き回され続けている苦痛と嫌悪に息が止まる。
悲鳴を上げたのは短剣だった。
崩れ落ちそうな体を支えようと腰を浮かし。
「先生……ッ!」
「平伏しろクズ。立って良しなんて言ってない」
無慈悲な主人の声に、本人の意思に反して細い身体が地に打ち付けられる。
頬が地面に張り付いて離れない。
顔をあげることも、手を伸ばすことさえ短剣には許されなかった。
イワンナッシュは斧へと無造作に近寄ると緑髪を引っ掴んで無理やり引き上げ、片手に持った紙面を突き付けた。
「見えるか? お前が龍と精霊に捧げた契約書だよ」
乱暴な所作で顔に押し付けられる契約書は、不気味な赤色に発光している。
その光は炎のようにゆらゆらと揺らめいているが、その輝きが大きいほど斧を締め付ける痛みは強くなった。
この時ばかりは斧も顔を強く歪め、憎悪すら滲ませた。
これこそが機人族を奴隷たらしめる諸悪の根源。十一項目に渡る主人への禁忌が記された誓約の魔術書。
それは生殺与奪の権利すら司る絶対服従の鎖であり、ヒトとしての尊厳を剥ぎ取りし悪魔の契約書――唾棄すべき百年に渡る差別が生み出した因習の名残だ。
「『決定には絶対服従』『嘘偽りを口にしない』……お前が抵触した違反はどれかなぁ。見たところ内臓がどっか潰れた感じ? それでも生きていられるんだから機人族は便利だよねぇ」
耳障りな声が耳を撫でる。
嗜虐に満ちた瞳が、口端が、明滅する斧の意識を炙る。
「けど龍の天罰が本格的に執行されれば、さすがのお前でも死ぬよ? 今はまだ、僕が死ねと言ってないだけ。分かる?」
主人の言葉に嘘はない。
今でさえ全身に気を張り巡らせて激痛を堪えているのだ。気が少しでも乱れれば再び血の塊を吐き出すだろう。
何度も繰り返せば死に至るだろうし、イワンナッシュがその気になれば斧の基幹など即座に弾け飛ぶ。
意識を繋ぎ合わせ、蚊が鳴くような小さな懇願を繰り返す。
「慈悲、を……どう、か……ご慈悲を……」
「うん、いいとも。お前に死なれちゃ僕も少し困る。折檻程度で許してやらなくもない。自動修復を走らせて良し」
途端に体を圧迫し続けた異変が消えた。
空気の抜ける風船のような間抜けな音が喉から零れ、自分が呼吸をしていなかったことにようやく気が付いた。酸欠で飛びそうになる意識をどうにか繋ぎ止める。
寛大な御心に、感謝を。
痙攣した口が、どうにか声を紡ごうと藻掻く。
舌が回らず聞くに堪えない鳴き声を放つばかりの今の姿は滑稽としか言いようがなかった。
さぞ部下たちは幻滅したに違いない。
いまなお巣食う機人族への差別や蔑視、その究極がいまこの瞬間にある。
(けれど、生き残った……)
許すと口にした以上、それは契約に従って必ず履行される。
同じ罪を斧に問うことはもう出来ない。
胸で渦巻く屈辱をどうにか飲み干し、顔をあげて。
「でもお前はだめかなぁ、短剣」
酷薄さを孕んだ声に、背筋が凍り付いた。
「ぁ……」
地面にうつ伏せのまま斧の折檻を見せつけられた少女は、小さく肩を震わせた。
目を見開き、唇を噛んで恐怖に耐えながら主人を見上げる。
イワンナッシュの顔から気味の悪い笑みが消えていた。足元の虫を見るような眼差しだけがあった。
「負けて敵に付け込まれた責任はお前にあるよな?」
「――――」
言葉もなかった。
敵に負けて捕虜となり、作戦全体を危険に晒し、恩義のある師匠を殺しかけた。
目の前で彼に血を吐かせ、崩れるその背を支えることさえ叶わない。
そんな役立たずは死ぬべきだ。
命乞いすら罪深い。
「お前、僕の顔に泥を塗ったよな?」
主人の濁った瞳が恐ろしい。
甲高い声がおぞましい。
癇癪の憂さ晴らし時の子供じみた怒りとは違う。
静寂と理性によって律した殺意を向けられ、少女は己の運命を悟る。
「命令だ」
ああ、と短く深い嘆息があった。
生きていたかった。
誰にも誇れないような人生にしがみついて『いつか』を待ちたかった。
「自分で首を掻っ切って死ね」
体に圧し掛かる重圧が消える。
糸で操られる人形を思わせる動きで身を起こし、手慣れた動作で刃を取り出し両手でつかむ。
懸命に力を込めて命令に抗おうとする。
でも体はまるで言うことを聞かなかった。
唇を噛み、涙をこぼしながら数秒後の痛みを想像して目を閉じる。
そして刃は命じられた通りに肉を貫き、血が派手に飛び散って少女の服を真っ赤に染め上げた。
「ぁ……ああああぁ」
「……」
刃は彼女の喉を突く直前、大きな掌を串刺しにした。
燕尾服の腕が後ろから短剣の細い体を優しく抱き留め、片方の手が彼女の喉を突くはずだった刃を阻んでいた。
主人は血走らせた瞳をまんまるに見開き、何かを口汚く喚き散らしていたが短剣の耳には届かない。
「ご、ぼ……」
血の塊が灼熱のような熱さを伴って短剣の体に注がれていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(ああ――)
『あなたに通信を? 新入りの盾ならともかく短剣が、ですか? 彼女がそのようなミスをするのは珍しい』
『けど、指揮官への直通場所はすぐ分かったんだよ? 構成員なら頻繁に連絡が取るだろうし、それなら初期配置から少し捻るだけで繋がるようにする。後は利き腕とか癖とか機材の摩耗具合とか、そのあたりで推理さ。きちんと君に繋がって一安心だ』
『妙な言い訳はするなよ? もう全部聞いてるんだよ? 敵と取引して、負けたクズの身柄を引き取りに行ったってさぁ』
『では、ごきげんよう。我らの命運は、龍と精霊の御加護に委ねる』
(――そういうことか)
血を吐き出しながら、斧は全てを悟った。
始まりは銃身への誤通信から始まっていた仕込みだ。亡霊は斧との連絡手段を看破しておきながら銃身に通信を繋げた、あの予兆。
(亡霊は試していたのか、手に入れた通信機が主人に繋がるかどうかを、総当たりで)
この救出劇は主人の耳に入れないことが絶対条件だった。
亡霊はそれを承知の上で斧に取引を持ちかけて独断専行を強い、その情報をイワンナッシュに漏らした。
言い逃れのできない現場に踏み込んだイワンナッシュが斧を罰するように。
どうやってイワンナッシュの信用を得た、などは些末な問題だろう。
主人は若く未熟で、そして短慮だ。彼女がイワンナッシュを操るなど造作もない。斧自身、彼女の言葉に惑わされ、この状況に誘導されているのだから。
棺妃の黒繭はイワンナッシュが到着するまでの足止め。
真の本命は龍と精霊に誓わされた契約書。イワンナッシュという猛毒を用いて、斧を殺す算段だったのだ。
(恐ろしい……)
亡霊の意図は短剣を救う直前で気付くことができた。
彼女を守らないという選択さえ取れば彼女の思惑を上回ることはできた。
けれど出来なかった。
出来ないことまで亡霊は読んでいた。
他力本願な手段に見えるが、人形師一座の性質を鑑みた確かな理論に裏打ちされている。
一体どちらが人形師なのだろう。
度重なる従者の裏切りに我を忘れて喚く主は、自分の身体に糸が垂れていると気が付かない。
「馬鹿か!? 何で逆らうんだ! お前は許すって言っただろ、なぁ!?」
「離して先生……もう、これ以上は……ッ!!」
体が滅茶苦茶になっていくのが分かる。
口からごぼごぼと真っ赤な血の塊が零れていく。
誓いを破った愚か者に罰が降り注ぐ。短剣に申し訳なさがこみ上げる。何度も血を浴びせられるなんて気持ち悪いだろう。
しかし彼女の両手は未だに喉を突こうと力が籠っていて、離れるわけにはいかなかった。
それが死に至る道だと知っていても。
「おい。おい待て、おい! 手を放せよ! 放せって言ってんだろ!!」
「いや……いやぁああああ、先生ぇ……!?」
右目の機能が停止した。
物理的に潰れたのかもしれない。
短剣を押し留める右の掌の感覚が消えた。
神経が焼き切れたのかもしれない。
吐き出す血の量が勢いを失ってきた。
体中の血を流しきったのかもしれない。
二人の悲鳴が遠い。意識が散り散りになって消えていく。
(ああ、どうすれば良かったのだったか)
どうすれば教え子を救えるのだったか。
同胞が泣かずに済むには、どうすれば良かったのだろうか。
どうすれば。
(私は許されるのだったっけ――)
側頭部からぐしゃりと音がした。
誰かの悲鳴が聞こえたが、何一つとして意味を認識することはなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――これでいい」
その一部始終を通信機越しに聞いていたルシカが、深く息を吐く。
拳と銃身の二人だけでも手に余る乱戦に、斧の介入を許すことだけは避けなければならなかった。
「斧相手に正攻法は無謀の極み……その確信にやはり、間違いはなかった」
黒棺による不意打ちも真正面から食い破られた。
期待値を足止め程度に抑えていて本当に良かった――彼を撃破するには、契約破りに伴う龍の天罰しかないと踏んだのは間違いではなかった。
後はイワンナッシュが斧にどのような契約を強いたかを推察しなければならなかった。
主人を殺傷してはならない。
主人に偽りを話してはならない。
主人の決定に異を唱えてはならない。
どうせ他にも細かい禁則事項を設けているのだろうが、この三つの制約は必ず押さえる。『戦闘奴隷』への首輪、その大前提を破らせることで斧は殺せる。
(主の殺傷は現実的ではない。主への偽りも『嘘』さえ付かなければどうということはない)
この二点は回避が容易だ。
天罰を踏ませるには、主人の決定に逆らわせるしかない。
その最高の切り札が短剣であり、最強の凶器が人形師自身だった。
「――だから言ったんだ。君は、仕える主を間違えた」
憐憫の混ざった呟き。しかしルシカの表情は浮かない。
「……困ったな。達成感がない」
より正しくは、うまくやったという実感がない。
元々どれだけ完璧に誘導しようと人形師の愚者加減ひとつだった下策だ。斧が死んだと確信する前に通信が途絶えてしまったのは痛かった。
「もったいない。本来なら人形師もまとめて片付いていたのにね」
彼を誘き寄せることに成功したのなら、奇襲をかける絶好の機会だった。
あの場にハルかシオンを潜ませていれば彼の身柄を速やかに取り押さえることができたし、龍の天罰に苛まれる斧も確実に攻略できていただろう。
両者の撃破が叶えば、この争いの趨勢は決まっていた。
返す返すもキーファの暴走に見抜けなかったことが恨めしい。
「――お前の外道っぷりは筋金入りですね。吐き気がします」
吐き捨てる旅の道連れに笑みを向ける。
誰に物を言っているのかな、と嘲りを混ぜて髪をかき上げた。
「綺麗な勝ち方を悪党に求めないでほしいな、ハルの弟」
「良心が痛みませんか?」
「ははぁ。さては私を笑い殺すつもりかな。刃を以て惨殺するのと、言葉を以て謀殺することの何が違う?」
嘲りを隠さず、妄言を鼻で笑う。
どんな事情があろうと敵は剣を執って自分たちを殺す。
剣が持てないルシカは、自分だけの武器でもって敵を殺す。そこに違いなどありはしない。
「大体君だって昨日今日と賊を斬ってるわけだけど、なに? 良心が痛むのかい?」
目元を痙攣させて不快感を露にするシオンだが、真一文字に引き結んだ唇から言葉が続く様子はない。言い負かしたルシカはこれ見よがしの溜息をついて。
「善い人のふりはやめてほしいな。君も私の同類だろうに」
「一緒にしないでください」
「味方を死なせたくなくて? てせも善良な敵だって救ってみせる? そんな芸当は人の仕事じゃない。絶対にどこかで破綻する。誰だってそれが嫌で、せめて味方だけは守る。私たちはそういう生き物だろう?」
「敵だって救ってしまう人は、います」
口に出してから失言だったとシオンは舌打ちした。
利己と合理の化け物みたいな女にそんな夢物語を聞かせても鼻で笑うだけだ。それはシオンにとって耐えがたい恥辱でもある。けれどルシカは切れ長の瞳をそっと柔らかくすると。
「そういう人はね、英雄っていうのさ」
私たちの柄じゃないね、と肩をすくめた。
想像がつかないほど穏やかな声に驚き、むしろ気味の悪いものを見たような面持ちで振り返る。
既に彼女の目つきは傲慢さに彩られ、先ほどの声がどこから出ていたのか想像もつかない。
「手を止めるなよ、労働担当。君の仕事が終わったらすぐにでも移動するんだからね」
「その呼び方やめてくれません?」
黒尽くめの言いなりになって働かされるのは、シオンにとって苦痛だ。
しかし必要な事と割り切って土壌を削る作業に戻る。
頭脳担当を言い張るこの女が機人族を一人仕留めたのは事実。気に入らない相手だろうが何だろうが、手を取り合うしかないのだ。
「全部終わったら覚えていろよ」
「奇遇だね。私もぜひ君とゆっくり話がしたいんだ。今から楽しみだよ」
お互いに笑みがこぼれた。
美しい二人が微笑み合うには毒気のある視線の交換。
周辺の小動物たちは巣穴を放棄して飛び出し、枝で羽を休めていた鳥たちは夜にも関わらず一斉に空へと舞い上がるほどの、強烈な敵意を浴びせ合いながら、二人は足早に移動した。
断続的に響く轟音は、ハルが抵抗を続けている証だ。
彼女たちの行き先も自然、そちらの方へと行くわけだが――
「――それにしても」
ハァ、と息を上げたルシカは樹木に背をやって。
「お互いに、体力がないのは、痛いな――」
「一緒にしないでくれます? こっち重傷人なんで」
自分たちの遅れがハルへの負担に繋がると分かってはいるものの、無い袖は振れない。お互い額に珠のような汗をかきながら歩く姿は、似た者同士に見える二人なのだった。




