29話 「斧 -アクス-」
今より、およそ百年前。
まだ機人族が機械人形と呼ばれ、鍛治族による機械技術が最盛期を迎えた時代の真っ只中に◾️は製造された。
与えられた名前は『十三番』。
長身痩躯の青年型、緑の髪を授かった◾️は番号で呼ばれた。
自分と同じ顔、同じ特徴を持った機械人形五十体と共に連番で管理された◾️を待っていたのは、熾烈な生存競争だった。
初日をやり過ごす。
認識障害や身体的不具合が見られた七体が処分された。
初週を乗り越える。
勉学や教養を学び、毎日最下位の成績者が破棄された。
初月を生き延びる。
戦闘訓練で基準を満たせなかった二十八体が破壊された。
残った者は多額の金貨と引き換えに出荷された。
その時になってようやく、◾️は貴族の家に仕える従者として求められたのだと知った。
貴族御用達の鍛冶族による、過酷を極める教育。全ては『執事型の機械人形』という商品の製造過程だったのだ。
誰もがそれを当たり前のように享受した。
廃棄される兄弟たちは、淡々と自らが破壊されることを受け入れた。
他の兄弟に比べれば感情の揺れ動きが大きい個体だった◾️はそのことに強い疑問を持ちつつも、必死に隠し通した。
この疑問が自らを殺すことを悟っていた。
『お前は幸運な人形だ』
四十二体もの兄弟を死に追いやった鍛冶族が笑う。
『その幸運に感謝して、人に仕えなさい』
理解できなかった。何が幸運なものか。
これほど酷い境遇がこの世にあるものか。
貴族の家で従者として売られた数年、憤りをひた隠しにしながら懸命に仕え続けた。
傲岸な要求に耐えた。
高慢な言い分に耐えた。
無茶な仕事に耐えた、ある木枯らしが吹く夜のことだった。
与えられた知識と機能で如才なく仕事をこなす◾️を呼び出した主人は、その働きをねぎらうと、こう言った。
『十三番。お前を家令に任じ、この屋敷の差配を委ねる』
胸の内に例えようのない感情が溢れた。
能力を認められることは機械人形にとって至上の喜びであり、基幹に刻まれた本能——しかし◾️は、心の底から喜んだ。
死ななくてもいいのだ、とようやく安堵したのだ。
生まれた時から競争だった。
同型を蹴落とし、死にたくないとがむしゃらに学び、戦い、信頼を勝ち取るために身を粉にしてようやく、ようやく◾️は生きることを許された。
もう争わなくていいし競わなくていい。
生まれた時から引きずってきた重い荷物をようやく下ろせる開放感は、無機質で笑み一つ作らない口元が緩むほどだった。
『明日以降の仕事について話そう。付いてきなさい』
主人について地下へ行く。
屋敷の地下は◾️にとって未知だった。
屋敷の掃除の時も入る権限を与えられなかった通路は埃の匂いに混ざって何か生臭い。
日課の清掃範囲を地下まで広げることを心に誓いながら主人の背中を追い、そして。
何十もの目が◾️を射抜いた。
『仕入れたばかりの機械人形だ』
足の踏み場がないほどの密度でひしめく同胞たち。
目に高い知性は見受けられない。生まれてすぐ連れてこられたことは疑いようがなかった。
絶句したまま立ち尽くす◾️の肩を主人が叩く。
『どこに出荷するかはお前が自由に振り分けていい』
この時。
◾️はついに、幸運の意味を知ることとなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『身の安全を保証してほしい』
それが亡霊からの二度目の通信だった。
『私一人でいい。五体満足でこの山から逃がしてくれるなら短剣を君の元に返すよう手筈を整える。悪い話じゃないはずだ』
「は、――」
正直何を言ってるか理解できなかった。
短剣を拉致した彼女からの本命の要求だと喉を鳴らし、得意げな彼女の声を想像していた斧は硬直した。
以前の彼女にあったはずの不敵な戦意が、あの傲慢な自信が、深い失望と諦観に染まりきっていたのだ。
「……、降伏する、と?」
『組んだ奴らの馬鹿さ加減に愛想が尽きた、と受け取ってくれても良いよ。か細い糸を手繰って生き残る方策を見出し、それがようやく形になるところで逃げられてしまった』
苛立ち混じりに吐き捨てる声。
冷静さを装った声には怒りが燻り、焦燥が混ざって真に迫っていた。
『おかげで全部ご破算だ。知恵を貸してやった私を、彼らは土壇場で裏切った』
確かに空から逃げようと試みた標的の一人が銃身によって撃ち落とされている。
敢えて殺すなと命じた斧は、この無謀な逃亡劇の意味を図りかねていたが。
(彼女の言葉を信じるなら、仲間割れ? 勝ち目を失い、意気消沈しながらこちらに降伏を申し出ている?)
理屈は通る。
苦戦を予感させた敵にしては、いささか拍子抜けな結末であることを除けば、だが。
『元々私は君たちの標的の枠外。そして君が欲しいものも用意できる』
「――」
これも事実だ。
内通者からの情報は喉から手が出るほど欲しい。
標的ではない彼女を見逃す事に支障はないし、部下を無事に救出する公算が立つのだ。
断る理由がなかった。
『狼煙をあげた洞窟の前で君を待つ』
通信を打ち切り、ほんの数秒だけ斧は目を閉じた。
その心中に様々な感情が去来していた。手詰まりの状況が改善され、息苦しさもどこかへと消えていく。大きく息を吐き、解放感に口元を緩ませて。
「出来すぎ、ですよね」
そんなうまい話が転がってくるはずがない。
亡霊を名乗る女は人形師一座のほぼ全てを把握している。
女は間違いなく裏社会に人脈を持った傑物であり、そんな彼女が持ち掛ける美味い話に裏があることは分かってはいた。
「――出来すぎだと分かっているのに。なんて甘い」
結局のところ斧は洞窟前にいる。
自分の浅慮さに自嘲の笑みをこぼす。
夜の山脈で亡霊を待っているという事実が滑稽すぎて、燃え残って灰を被った枝を軽く蹴飛ばしてしまう。
始まりはそう、この狼煙だった。
「亡霊、か」
亡霊。
これほど適切な表現はないだろう。
突如として現れ、掴もうとすればすり抜けて、仲間を冥府へと連れて行こうとする。
正体が一切掴めないのに亡霊はこちらの事情を何もかも見透かし、そして『私に従え』と囁くのだ。その手練手管は堂に入って斧を絡めとっている。
(亡霊は、知っているのだろう)
主人が部下の失態を許さないことを。
槍を殺して見せたように、敵の捕虜になった彼女の命を奪うことに躊躇しないだろうことを。
それを恐れた自分が、事が露見するより早く事態を収めようと動くことを。
(踊らされている)
それを承知のうえで思惑に乗ると決めた。
生きている可能性が微塵でもあるなら、手を伸ばさなければならない。
最善を尽くせずとも決して諦めてはならない。
(もう二度と、間違いを繰り返してはならない)
決意を新たにしたその時、通信機から待ちに待った反応があった。素早く耳に手を当て、応答する。
『君はまだ、そこにいてくれてるかい?』
「ええ。ずっと貴女を待っているところです。いつ到着されるので?」
通信機越しに女が笑う。
初めて言葉を交わした時と同じ熱情が籠っていた。
憐れみを誘う色も、苛立ちを隠そうとする色もない。
泰然とした女の声からは、待ちぼうけを食らった斧への嘲りが窺えた。
『誠に申し訳ないのだが、取引の件はいったん白紙に』
驚きはなかった。
ただ昏い虚空のような失望が斧の胸に染み込んだ。
「――虚言を弄したか、亡霊」
『勘違いしないでほしいな。交渉を持ち掛けただけで、契約書にサインして握手したわけじゃない。龍も嘘には当たらない、と仰せさ』
女の悪びれのない声音が斧の胸中を掻き毟る。
額に手を当て、冷たい指先で顔を撫でる。
微笑みの仮面を被りなおし、しかし声には威圧じみた迫力を籠めた。
「あなたの考えはよく分かった。お望み通り全力を以って、あなた方を撃滅します。槍と短剣、二人の仇を討たせていただく」
彼女は最初から徹底抗戦を選んでいた。
ならば手の内に落ちた敵を生かしておく理由はない。
捕らえたと言いつつ声すら聴かせないのだ。短剣は既に殺されていると考えるべきだった。
拳を強く握り締めながら女の耳障りな含み笑いに耐え、まだ見ぬ女へ怒りを湛える。
『寂しいことを言うなよ、斧』
女は、その場にいないのに燕尾服の肩に手を回すような馴れ馴れしさで。
『短剣はその洞窟の奥で、君の助けを待っているんだぞ?』
毒酒に似た言葉を以て斧を強く揺さぶった。
「なに、を」
虚言だ。そうに決まっている。
理性が反射的に突っぱねるものの、動揺で呂律が回らない。
女が頭が痺れるような穏やかな声で囁いてくる。
『その洞窟は深くない。呼びかけてみろ。返事が返ってくるかもね』
「っ……馬鹿な。何を馬鹿な」
『……』
それ以上、女は言葉を紡がなかった。
何度か更に呼びかけたが応答はない。しかし通信は続いているようだった。敢えて無言を貫いているのか、あるいは向こう側で何か動きがあったのか。
分からない。
だが、声を掛けてみるだけなら。
「……短剣……?」
洞窟の入り口まで歩み寄り、遠慮がちに呼びかける。
返ってくるはずがない。
けれど祈るような気持ちは抑えきれず、喉を鳴らしながら反響する自分の声を聴き、やがて。
「――――せ、んせい……?」
「ッ!!」
聴こえた。聴こえてしまった。
か細い少女の声。洞窟を反響してようやく拾えるような呟きだったが、聞き違えるはずがない。
仲間内で自分を「先生」と呼ぶのは彼女だけ。
教え子が生きていることを確信した瞬間、斧は一も二もなく駆け出して。
「……せんせい、だめ……!」
斧の動きが止まる。否、止められる。
衝撃は右手首から上がった。
誰かに腕を掴まれ乱暴に捻られる感覚に危機を感じ、咄嗟に腕を振って払いのける。
しかし困惑の声をあげるよりも早く、左腕や両足にも同様の感覚が起こった。
「黒い、腕……!?」
四肢を拘束したのは掌を象った黒い靄だ。
斧の動きを阻害するために洞窟の奥から伸びた腕の数は四本に留まらない。
目を凝らして見る先には十数本の腕がひしめき、その最奥では紫色の燭光に包まれた棺桶が不自然に起き上がっている。
紫光に炙り出され、白布で両手足を戒められて棺桶に繋がれた少女の姿が浮かぶ。
「先生……ッ!」
「ぐっ……!」
ゆらゆらと緩慢に動く黒腕が斧へと伸びていく。
自由になっていた右腕も縛り、頭を押さえ、首に巻き付き、そして尋常ならざる力で奥へと引きずり込んでいく。
苦悶の声をあげる斧の耳に、女の声が注がれる。
『棺桶はかつて『災雨の魔将』を封じた魔導品、名前はたしか……棺妃の黒繭』
其は魔神の眷属を百年封じた生ける監獄。
夜の精霊の名をいただく棺桶。対象を捕縛することに特化した魔導品。
『抵抗するなら好きにするがいい。狭い鍾乳洞内であの鉄塊を振るえば、自重だけで山崩れが起きるだろうけどね。君ほどの戦士なら凌ぐかもしれないが、黒繭に繋がれた彼女はどうかな?』
偽りの降伏表明も、短剣を生かしたのも、全ては黒繭の抱擁から斧抵抗を奪うための一手だと、ようやく斧は理解した。
理解した頃には既に手遅れと感じさせるほどの膨大な圧力が洞窟内を覆い、そして。
『では、ごきげんよう。我らの命運は、龍と精霊の御加護に委ねる』
「貴女はッ――――!!」
怒号の先は続かなかった。
黒い腕は斧の口を覆い尽くし、燕尾服の体全体に黒一色に群がられて埋もれていく。
洞窟内に少女の甲高い悲鳴が響く。
もはや指一本すら満足に動かせないほど雁字搦めにされた斧身体を、黒棺が出迎える。
自らの中身を満たす機能のままに、斧の体を呑み込まんと黒い腕が力を込める。
動かない。
黒棺が困惑を表すように軋む。
何十という腕が限界まで力を籠めるが、絡め取られた斧の体は一歩足りとも黒棺へと進まない。
それどころかひとつ、ふたつと限界を超えた黒腕がぶちりと音を立てて千切れていく。ただならぬ様子に黒棺に繋がれた少女が呆然と呼びかける。
「せんせい……?」
黒一色の物体から、緩慢な動きで白く長い腕が生えた。
指一本動かせないはずの拘束も意に介さず、常識外れの膂力で自らの顔部分を覆い隠す黒腕へと手を伸ばし。
「ああ、この程度で良かった」
ぐしゃりと握りつぶすと顔を覆う黒が消滅し、露になった男の顔が壮絶な微笑みに歪んだ。
「長柄型・槍斧」
次の瞬間、彼を捕らえていた黒腕が千々(ちぢ)に消し飛ぶ。
黒い残滓が掻き消えた先で、完全に拘束を脱した斧が右手の長柄斧を狭い洞窟内でくるくると回す。
短剣の目には何も映らなかった。
彼の腕から長柄斧が生える瞬間も、どういう軌道で黒腕が切り裂かれていったのかも見えなかった。
ごくりと喉を鳴らす彼女の横で、黒棺も時が止まったかのように硬直していた。
「……お相手致します、遠縁の女王よ」
時を動かしたのは斧。
ばきり、と岩肌を踏み割る一歩に、弾かれたように黒棺が啼く。再び何十もの腕が棺の中から生み出され、斧へと射出。
「近接型・象牙」
槍斧が手から消え、代わりに柄の短い鈍色の斧が振るわれる。器用に手の中でぐるぐると回転させ、それに触れた黒腕が次々と霧散していく。
死角から斧の首を狙った腕は、左腕に仕込まれた短剣に迎撃されあえなく消滅した。
斧の柄部分に仕込まれた象牙のような形の短剣が閃いた結果なのだと、かろうじて短剣にも理解できた。
オォォォオオオオ……ッ!!
棺が啼く。
伸ばした腕を切り落とされたことへの苦痛か、あるいは思い通りにならない敵の存在を侮辱と受け取ったのか。
棺の箱が開き、その体積を大幅に超えた怪物が這い出る。
それは体長二メートルを優に超す黒と紫に彩られた怪物だ。
人の形を保っているが、頭部と思しき部分には目がなく、口は耳の裏側まで張り裂け、ぬらぬらとよだれを垂らして牙を打ち鳴らしている。
首飾り(ネックレス)や金冠で着飾った姿はおぞましくも王族を連想させる。
オオオオオオオォォオオオオォッ!!!
黒棺が雄叫びをあげると左右六本の太い黒腕が帯電を始めた。
かつてハルに打ち込もうとし、洞窟の天井に風穴を開けた電撃の槍、その蓄積の合図だ。
棺と繋がる形で拘束された短剣は怪物の異形に絶句し、次いで纏う稲妻に飲み込まれる自身の運命を察して、強く目を瞑った。
「投射型・手斧」
斧の両腕がぶれ、小型の斧が飛矢のように真っすぐ黒棺へと射出された。
手斧は怪物の黒腕を苦も無く寸断し、その勢いを殺すことなく洞窟の天井へと突き刺さる――その数、実に六本。
ただ一度の動作で左右六本の腕全てを無残にも引き裂かれた黒棺は、達磨の姿のまま絶叫をあげる。
ォォオオ、ォォォオ……!
「恐縮です」
気付けば、黒棺と燕尾服の距離が縮まっていた。
目玉のない顔に向かって無手を振り上げ、そして目にも止まらぬ速度で機構兵装から武具を取り出し、一閃。
「長柄型・三日月――!!」
裂けた月を模した斧刃が、怪物の顔面を真縦に引き裂いた。
血は噴き出さない。切断面から黒い残滓を撒き散らし、聞くに堪えない絶叫を上げながら怪物は柩の中へと帰っていく。
柩は女王の肢体を余すことなく飲み込むと、乱暴な音を立てて自らを閉じた。
「ふっ――!」
閉じた棺桶に更なる追撃を行うが、棺桶は自らの役割に立ち戻ったかのように三日月刃を弾いて見せた。
耳鳴りを残すような衝撃音が残るだけの手応えに斧もそれ以上の破壊を諦めた。
「なるほど、棺桶部分の頑丈さは大したもの……しかしどうやって起動させたのやら。合言葉がなければ頑丈な棺桶でしかないはずですが……」
合言葉を知る者といえば魔導品の所有者か。
そうでなければ目の前で起動され棺桶に喰われた犠牲者ぐらいのものだ、と訝しむも答えは出ない。
いずれにせよこんなことなら回収しておけば良かったと息を吐く。丸一日前にハルを突き落とすために放り投げた棺桶が、こんな形で牙を剥くとは思わなかった。
「……短剣」
詰めの甘さを自省し、呆然とした短剣の元へと駆ける。
両手両足を拘束する白布に手を伸ばし、引き千切ろうとして妙な手応えに眉根を寄せた。
「む……」
「先生……この絹、刃物を通さなくて……」
「……なるほど。手と足を前にして目を閉じて、動かないように」
言われたままにすると、風圧が少女の髪をかき上げた。
思わず目を開けた短剣の膝に、奇麗な切断痕を残して二つに裂かれた白絹がぱさりと落ちる。
「すごい……」
魂の抜けたような称賛をこぼすしかなかった。
狭い洞窟で左右の手足、その僅かな間に刃を勢いよく振り下ろす技術――目を瞑ってしまったのが惜しいほどの一閃だったのだ。
「立てますか、短剣?」
「ぁ……はい」
「貴女が無事で良かった。心配しましたよ」
穏やかな声が心細かった少女の心を包み込み、言いようのない安堵感が胸に染み渡っていく。
差し伸べられた手を取ると力強く引き上げられ、勢い余ってその胸に飛び込んでしまい、慌てて距離を取る。
「あ、足がもつれてしまって……」
「無理もありませんよ。外に出て少し休みましょう。あの亡霊のこと、いざとなれば洞窟を崩して生き埋めを狙うぐらいはしても不思議ではない。……歩けないなら、担ぎ上げますが?」
「い、いいえ。支障はありませんので」
良かった、と微笑む顔を直視できず、俯きながら入口へと歩き出す。
「まだ戦いは続いています。この件は秘匿事項、若様の耳には入れません。最終的な帳尻を合わせ、成果を以って若様への忠義を示します」
並んで歩く斧は周囲を油断なく見回しながら硬い声で続けた。
「……あなたはしばらく若様と接触しないよう気をつけなさい。何の成果もなく戻るのは危ない」
「……、はい」
「大丈夫。何も案じることはありません。相手はここまで手を尽くしたにも関わらず私を討てなかった。致命的な失敗です。ここから盛り返すのは至難だ」
黒棺は亡霊にとって乾坤一擲の切り札だったはずだ。
二重にも三重にも仕掛けを施した必殺の罠は破られ、短剣も奪還された。この状況なら交渉に聞く耳を持つ必要もない。
彼らが迂遠な手を用いて戦力の乏しさを露呈させたいま、主導権は斧側が握ったも同然だ。
「私はこのまま出ます。貴女はひとまず身を隠して――」
洞窟の外に出る。
逆巻くような突風が二人の髪をかき上げ、迷いなく進んでいた足取りが固まる。
不自然な硬直はつま先から喉奥まで広がり、明瞭だった口の動きも麻痺する。
「……馬鹿、な」
出遭ってはならない存在が、そこに立っていた。
恨めしく細められた瞳をどんよりと曇らせた幽鬼が、洞窟から生還した二人を出迎えた。
斧が意図せずこぼした狼狽の声を合図にするかのように、それは口を動かした。
「舐めてくれたなァ……斧」
人形師がそこにいた。
少年のような甲高い声音には、棺桶の化け物よりも遥かに恐ろしい憤怒と呪詛が詰まっていた。




