27話 「機械仕掛けの猟犬ども」
「あ、なた……ザジさん、を……」
「うん、殺したよ?」
あまりにもあっさりとした肯定であった。
悪びれず微笑みその姿に、コレットの中で抑圧されていた怒りが込み上げ、歯を噛み締めて敵意を向ける。
女はその視線を心地良さそうに浴びながら黒ずんだ手甲を誇らしげに掲げた。
「ほら。綺麗でしょ、手。これぜーんぶ彼の命。大きな体だったからたくさん詰まってたんだ。うれしかったなぁ……雑巾みたいにね、搾ったの。たぁくさん浸らせたの」
嬉しそうに見せびらかす生々しい痕跡に胸が苦しくなる。
遺体を損壊し、亡骸すら凌辱した行いに視界が歪み、脳がぐつぐつと煮詰まっていく。
(体さえ動けば、あの首に噛み付いてみせるのに……!)
そんな憎悪の感情を向けられるのが嬉しいのか、女は体全体を歓喜に震わせて。
「うふ。ああだめ。人形らしく御淑やかでいないといけないのに。あんなたくさん、テンションあがっちゃって無理。地が出ちゃう、くふっ……」
家族の死が嗤われていた。
無自覚に辱めていく女の口を塞ぐことさえできず、経験したことのない怒りと無力さが渦巻き、我慢ならない憤怒が罵倒となって噴き出した。
「人でなし……っ!!」
その、血を吐くような悲鳴で女の哄笑が止まった。
陽気だった表情が嘘のように削ぎ落ちて不気味な停滞が場を支配し、コレットの背筋が知らず知らずにうちに凍る。
女はポツリと呟いた。
「人扱いしてくれないの?」
猛獣の尾を踏んだ感覚があった。
精一杯の罵倒が、思いのほか深刻な損傷となって拳の体を震わせている。
逃げなきゃ、と本能が騒ぐ。
キーファを置いていけないと理性が訴える。
「悪い子だね、鳥」
僅かな逡巡が、致命的であった。
倒れ伏すコレットのすぐ頭上に、女が立って。
「私、こんなにヒトらしいのに。大丈夫、ちゃんとやるから。二人ともちっこいけど絞ればそれなりの量になるよね。鳥の人、また悲鳴あげてもいいよ。聞いてて心地よいし、音楽って言うんでしょこれ?」
抑揚のない早口の言葉と共に腕が伸び、コレットの左翼――まだ無事であった方を乱暴に引っ掴むと、手の中で強く捩じり上げた。
「ぁっ……あぁああああああ!!!」
「ああこれこれ! 綺麗な悲鳴! 羽根? 痛いの? こう? こうこうこう?」
「うあああっ、あぁああああ!!!」
悲鳴を聞いた途端、彼女の声と顔に色が戻った。
口元を無邪気に、そして残忍に歪ませながらコレットの左翼をぐりぐりと引っ張る。
見た目からは想像のできない怪力に晒され、翼の関節が千切れる音がした。
想像を絶する激痛はコレットの精神の許容量を超えた。
意識が断絶し、びくりびくりと体を震わせるばかり。
反応が薄くなり、不満げに拳の手からぐんにゃりと折れ曲がって体積を小さくした左翼が解放される。
「……あれぇ? 鳴かなくなっちゃった? あ。こっち千切れかけてる。取っちゃおうか? きっと目を覚ますよね。神経ごとぶちってすれば起きるよね」
くすくすと微笑み、穴が開いた右翼に手をかける。
せーの、と可愛らしい掛け声をあげて、雑草を引っこ抜くような気軽さで力を込めた。
「あ」
その直前――拳の顔面に毛むくじゃらの太い腕が突き刺さった。
「がああアアアアアアアアアアアッ!!」
黄と黒の毛並みがひるがえり、拳の体を弾き飛ばす。
崩れ落ちるコレットの体を大事そうに抱え、虎人は荒い呼吸を吐きながら距離を取る。頭部からは血がぼたぼたと流れ、顔の右半分まで真っ赤に染めた顔が、獰猛に歯を剥いて。
「ハァァァ、ガァァ……ざっ、まぁみやがれ……ッ!!」
渾身の一撃を見舞ったという確信があった。
大の男をぐちゃぐちゃに潰してみせるほどの、魔獣の膂力。男たちを容赦なく引き裂いた力を遠慮なく叩き付けたという感触が手の中に残って――
「ッ――痛ッ……!?」
殴りつけた右の拳が砕けていた。
そもそも女を殴ったような手応えなんかじゃ全くなかった。
まるで人間大の岩の塊だ。振り抜いた右腕を通してキーファの全身が軋んでいた。だというのに――
「たぁりないよぉ、虎ぁ」
不満げな甘ったるい声音に、全身の痛みすら忘れた。
一撃を受けて立ち上がる女は顔面に痣を残すばかりで、出血すら見受けられない。キーファの心に何度目かの絶望が迫る。
「なにそれ。だいぶ人に戻っちゃってる。化けて、また化けて。絞れる量少なくなるじゃない。あと返して。まだ千切ってない。もっと鳴かせたいのーほら。いい子だから」
「うる、せえ……!!」
狂人の催促を精一杯の眼光で突っぱね、キーファは歯を噛み締めた。
(なさけねえッ……!!)
獣に堕ちても何も変わらなかった。
血の衝動に負け、欲求に負け、目の前の機人族にも負け、裡からあふれ出る恐怖心にも負けようとしている。いっそ魔獣に堕ちきってしまえば何かが変わるかもしれないのに、キーファの体は意思に反して人間へと戻っていこうとする。
勝てない、と心が屈していた。
あるいは手の中の少女がギリギリのところでキーファを引き戻した奇跡の産物か。
「変な顔。ぐしゃぐしゃで、ばっちい。情けないね、虎」
どちらにせよ最悪の状況を変えることはできなかった。
ザジを殺した張本人を前にして、二度目の機会を与えられても奮起すらできない。噛み締めているはずの歯がガチガチと怯え震えるばかりだ。
「可哀想。こんなに震えてて、可哀想にね」
憐れんだ女の声すら恐ろしい。
ザジの体やコレットの翼をグシャグシャに潰して見せた姿が、その恐怖がキーファを囚えて離さない。
想像上の痛みが、苦悶が、絶望がキーファを縛り付ける。
女がひたひたと近付き、無造作に伸ばしてくる手から逃れられる術を思いつけない。
「怖くないよ大丈夫。虎の命もちゃあんと抱きしめてあげる」
言葉どおり女が歓迎するように両手を広げる。
愉悦に歪んだ口元が、獲物を狙う獣の目が迫る。
その何気ない仕草で抱擁された時、自分の命が終わるのだと理解した。
理解してなお体は動かず、もはや腕に抱えるコレットのことすら慮ることもできず、痛みがせめて少ないことを祈って目を瞑った。
そして。
「ぁ……?」
一陣の風が、キーファの頬を撫でた。
とんでもない質量の何かがキーファのすぐ横を通りすぎて、女の体に直撃した。
「ぱぎゃっ————ががががばぁあッ!?」
女は奇妙な悲鳴をひとつ残して森の向こう側へと消える。
咄嗟に目を開けたキーファの目に飛び込んできたのは、両腕を回しても一周できそうにないほど太い樹木だ。槍のように投擲された巨木が女を薙ぎ払っていくまであっという間で、キーファには何が起きたのか分からなかった。
(な、にが?)
もっとも、目にしても到底信じられなかったことだろう。
今更自分たちを助けに来る誰かがいるだなんて、そんな都合の良い話が——
「死にたいのか! 伏せろッ!」
「ぎっ……!?」
鋭い女の声が奔った。
キーファの頭が抑えつけられ姿勢が下がり、ヒュン、と風を切って飛来した魔弾は直前までキーファの額があった位置を通りすぎた。
「ッ……! 右の木陰に走れ! 姿勢を低く! 急いで!」
「な、なんで、アンタ――ギャッ!?」
バチリッ! と強烈な平手打ちが見舞われる。
煮立っていた思考があっという間に冷える。右手を振り抜いた女はもはやそれ以上の言葉を投げかけることなく、一目散に木陰へと走っていく。
慌ててキーファも倒れたコレットを抱えてそれに倣うと、前を走る女が叫んだ。
「方角一時! 三本杉の丘だ! 見えるか!?」
「……ええ、はい。捉えました」
丸一日近く聞くことのなかった、抑揚の少ない声。
木陰に走る二人を遮るように身を投げ出したのは、小柄な剣士だ。
病人を思わせる重い足取りは一見無防備だが、半開きの瞳は遠く、森の広場を一望できる丘へと向いている。
チカッ、と蒼い光が走った途端、剣士は腰の得物を抜いた。
「視えたからには――」
命を無残に奪う、マナの弾丸が飛来する。
目にも止まらぬ速度、雷を思わせる速度で突き進む凶弾は。
「斬れない道理は、ない」
振るわれた白刃によって真っ二つに切り落とされた。
追撃が阻まれ、静寂が森の広場を包む。キーファらが指定された木陰に飛び込んで身を隠すと同時に、弾丸を剣で迎撃してみせた剣士の元へハルが走る。
「下がるぞ! シオン!」
ハルはシオンの腰に両腕を回して抱え上げた。
俵抱きされたシオンはぐったりと体から力を抜き、全体重を兄に預けると深い息を吐く。額から顎まで伝って暗い地面まで滴る汗。あまりにも辛そうな様子に案じるハルの声が飛ぶ。
「大丈夫か!? き、傷か……!?」
「はぁ……そんなことより……もう一人の機人族は――」
返事は、背筋を這い回るような甲高い笑い声だった。
「く、くひっ、クククククヒククヒヒヒヒ……!!!」
女が消えた茂みの向こう側で哄笑が木霊した。
常人なら潰れて肉の華になるほどの一撃を受け、なお健在を示す女の歌声には、狂気を孕んだ歓喜と戦意が漲っている。ぞわりと背中に悪寒が走り、ハルの喉から悲鳴にも似た声が上がる。
「すまんルシカ、倒しきれなかった!!」
「ハルの怪力なら一撃で、と淡い期待を寄せていたのだけど……さすがは人形師麾下、最硬の機人族か」
黒衣装の女は切れ長の目を三本杉が生えた丘のほうに向けた。
射線、角度。その他の要素を頭に入れ、照準器越しにこちらを窺っているだろう銃身の視線を感じながら。
「退こう。頭を撃ち抜かれないよう、姿勢を低くして」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ああ、美味しい……」
額から唇へと滴る血液をぺろりと舐める。
口いっぱいに広がる鉄の味が嬉しかった。
血を流すのは随分久しぶりだ。頑強さに特化したこの体は、常人に比べて感覚が鈍い。痛みは女にとって刺激でしかなかった。
「……ヒトと同じ味。同じものが流れて、滴って……」
『拳』
咎めるような男の声が通信機越しに響く。
『標的は現地点を南東へ逃亡中。封鎖指示は出してある。完了まで秒読み段階。四人全員が固まっている好機を逃すな』
「もうちょっと浸らせてよ銃身」
感動に打ち震えていた女は不満そうに唇を尖らせた。
事務的に仕事の話を振られると、せっかくこの胸に宿っていたあらゆる感動が台無しになってしまう。
甘えた声音への返答は溜息だった。
『お前のペースに付き合ったら狩りにならない。舌なめずりの隙を突かれるとは情けない。僕は警告したのに、どちらの奇襲もわざと受けるような真似をして』
「もったいなくてぇ」
『被虐倒錯者め』
嫌悪の感情が籠もった返事がおかしくて、女はくつくつと笑いを噛み殺す。
けど仕方ない。これが拳の在り方だ。
日頃から御淑やかであろうと心掛けているのだから、たまに欲求を満たしても罰は当たらないと心から思っているのだ。
だから今夜は、特に楽しい。
素敵な出会いがあったのだから。
「ね。銃身。聞いて。私ね、一目惚れしちゃった。虎じゃないよ? 鳥でもない。三番目に来た男の子。アタシを大木で薙ぎ払ってくれた人」
『彼がどうした』
「くひっ」
拳の唇が弧を描くほどの角度で歪んだ。
あの時、右方で樹木が圧し折れる音を女の耳は拾っていた。銃身に警告されるよりも早くその異常を察知していたし、樹木の投擲に反応できる時間も十分だった。
けれど『もったいない』という感情以前に、彼を目にしたその時から拳の体は硬直していたのだ。
「きっとあの人だよ」
直接、その瞳で彼の姿を見た。
その瞬間に根源的な恐怖が全身を支配し、身体の自由を奪った。
「あの人が斧が言ってたオーガなんだよ!」
仲間内で最も感覚が鋭い短剣には及ばないが、魔族を屠るために生み出された機体としての本能がその正体を察知した。
照準器越しに見ていた銃身では感じなかっただろう、全身を駆け巡った衝撃を思い返し、熱い息を吐く。
あの背に走る戦慄。
あの基幹を締め付けるような怖気。
同僚が恐怖のあまり気を失う姿と同じものを見て。
「ああ、素敵……!」
あろうことか拳は微笑んだ。
胸の前で指を組み、恋する乙女のように中空を見上げ何度もその姿を思い返した。
警鐘を鳴らす本能はまるで雷に打たれたかのようだ。
「素敵、すてき、ステキ! こんなにドキドキするの初めて……!」
自分を薙ぎ倒していくほどの生命力に満ち溢れた存在。
この手で抱きしめればどれほど気持ちいいのだろうか。目にした時の恐ろしい姿と嫌悪感、胸が苦しくなるこの感覚が恋でなくて何なのか。
銃身には、その高揚は伝わらなかったが。
『遊びは終わりだ。殺し屋としての仕事をこなせ』
「はぁい、はぁい。分かりましたぁ」
返事に不真面目が垣間見えた。
この同僚の扱いづらさには上司も手を焼いていたことを思い返して銃身は何度目か分からない嘆息の後に一言を添えた。
『手を抜きたいなら好きにしろ。オーガの首は僕がもらう』
「だめ!! あの人は私の!! 絶対あげない!!」
慣れない発奮が効いたらしい。
知る者が見れば目を丸くするような機敏さで背筋を伸ばすと、鉄甲を打ち鳴らして猛速度で駆け始めた。
一度走り出したらもう止まらない。
ハルたちが逃げ去った方角に向け疾走を始める同僚の声に眉をしかめながら、照準器越しに標的を見る。
引き金を引くより僅かに早く、その姿は木陰に隠れて消えてしまった。
「――移動するか。いや……」
銃身をさらに低くする。
鬱蒼と樹木が茂る森の、ただ一点。
標的たちが逃げた先にある、僅かに視界が開ける窪地に銃口を向けて構える。
全神経を集中させ、微動だにせずその時を待つ。
それはいつも通りの習慣だ。
標的を狙い、引き金に指をかけ、命を撃ち抜き、息を吐く。
この手順に変更はなく、結果もまた狙撃手を裏切らない。
両手の指に反動が返る。
会心の射撃に口元が歪む。
窪地で標的の一人が倒れるのを目で追う必要もない。
「――信条に少々反するけど、今夜はそういう日だ」
素早く愛銃を手放すと、それを肩に担ぐ。
途端に狙撃銃は音を立てずに肩口から機構兵装の中へと収まった。
身軽になった銃身は丘から身を投じると、獣のような素早さで疾走する。
森の地形は全て把握済みだ。
高所や茂みおよそ四十四箇所に姿勢制御のための砂袋を設置し、効率的な移動経路も事前に調査済み。
先ほどは位置を把握され銃弾を切り払うなどという神業に阻まれたが、それも場所を移して的を絞らせなければ脅威ではない。
この森はすでに狩り場――後は足をもがれた獲物を追い立てるのみ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ギッ――」
疾風が迸って青年の膝が爆ぜた。
皮を裂き肉を貫いた弾丸は内側で破裂し、致命的な傷を青年の足に刻み付ける。
脳が何かを理解するより早く、全身の力が抜けて派手に地面を転がった。
遅れて脳が痛みを認識し、苦痛が喉奥からせり上がる。
「――――ッ!!」
切羽詰まった顔の少年が何かを叫ぶ。崩れる青年を見返り、手を伸ばすが届かない。
「ッ……ッ、ご……!」
咄嗟に身を捩じって背中から倒れ、衝撃を与えないよう腕に力を込めた。
腕の中の少女の苦しそうな吐息を耳に受けながら激痛に耐える。
地面に叩きつけられた背中と撃ち抜かれた右足の主張が激しい。特に右足は膝から下は吹っ飛んでしまったのだと錯覚するほどだった。
「キーファ!!」
少年が駆け寄るのが分かる。
馬鹿だ、救いようのない大馬鹿。
助けに来てくれたことも、いまなお下手を打ったキーファのために足を止めることも愚かとしか言いようがない。
キーファには、その慈悲に縋るしか道が残されていない。
「頼むッ……!」
這いずりながら両腕を前に差し出す。その行為にハルの顔が強張った。
「お願いだ……!」
何かを言う前に懇願を重ねる。
一瞬の判断ミスで全てが終わる。
声一つあげる時すら惜しいというのにハルは硬直したまま動けない。
キーファの顔に焦燥が走るなか――
「黙れ」
黒尽くめの女が、二人のやり取りをばっさりと斬り捨てた。
両方がその口調の鋭さに硬直する中、ルシカの身を躍らせるような体当たりがハルの背中を襲った。
二人揃ってもんどりうつほど強烈に身を倒す、その暴挙にキーファが絶句。しかし何かの罵倒が口をつくより、ルシカの底冷えする声のほうが早かった。
「死にたくなければ、そのまま黙れ」




