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25話 「希望の小鳥が落ちたとしても」







「ぁ、ぇ……」


 唇を震わせるキーファの姿は、陸に打ち上げられた魚のようだった。


 いま、何が起きた?

 あれは、誰の声だった?

 沈黙が場を支配し、誰かの決定的な一言を待っていた。認められない現実を、誰よりも早くルシカが口にした。


「撃たれた……」


 ハルの全身が、理解と共に脱力した。

 ルシカは茫然とするキーファの胸倉を左手で掴んだまま、切れ長の瞳をいっそう激しく吊り上げた。

 それは奇しくもこの二人が初めて出会った時の構図だ。

 詰め寄る相手が、入れ替わっただけで。


「分かるか!? 撃たれたんだ!! 空路が無条件に安全だと誰が決めた!? 遠距離から撃ち落とされる可能性を考慮しなかったのか!?」


「か、考えたに、きまって……そんなはず、ねえんだ……」


 キーファの返答は哀れなほど弱々しかった。

 非力な女の腕を振りほどく気力もないまま、がくがくと肩を震わせ、目を泳がせて、動悸が収まらず息も絶え絶えのまま、唇だけが無為な言い分を吐き出していく。


「夜になれば……暗闇に紛れれば……安全なはずで……」


 虚ろな目には現実が映っていなかった。

 あの悲鳴が誰のものか――起きてしまった事態の認識を本能が拒絶し、その残滓が涙となってじわり、と瞳から零れていく。


 崩壊の予感があった。

 認めてしまえば全てが消えてなくなる予感があった。


「……銃身バレルという男がいる。狙撃と隠密に特化・・した人形師マリオネッテ一座の隠し玉」


 黒服に身を包んだ断罪者は、キーファの逃避を許さなかった。


「銃器――マナを弾丸にして撃ち出す、世界最速の飛び道具使いだ。一発撃つごとに大量のエーテルが飛ぶが、使い手によればその条件は無視できる……知っていたか?」


 反射的に知らない、と首を振るが意味はない。

 本当は知っていた。『銃器』という武器が実在することも、金がかかりすぎて冒険家には縁遠い存在であることも知識の上では。


 幼稚な否定を鋭い視線で看破され、キーファは唇を震わせて別の反論を試みた。


「じ、銃は、使い手を選ぶ、って」


弾丸マナを用意できるのが森精族エルフだけだと思ったか? 機人族マキナは生きた魔導品アーティファクト――魔力マナは、彼らを構成する血肉の一部だ」


 ルシカの声音が恐ろしくて仕方がない。

 怒りをぐつぐつと煮込んで、けれど噴火寸前に抑えてなお憤りが滲み出るような顔付きで――でも声だけは、それを感じさせないほどに平坦だった。


「自らに許された拡張機能の全てを狙撃と隠密につぎ込み、夜空を羽ばたく鳥の目すら射貫く長距離射撃の達人――それが銃身バレル。空路を殺す、私たちの敵」


「そ、んなの……」

 

 そんなのずるい。

 どうして黙っていた。

 そんな大事なことをどうして教えてくれなかったんだ――声にならない、懇願のような非難。


「この情報はな。あの小屋の中でハルに話した内容だ。銃身バレルだけじゃない。他の連中についても、私の知る限りのことを話して聞かせた!」


 自我を守るために吐き出した弱々しい自己弁護を、ルシカは落雷を落とすかのような苛烈さで叩き落とした。


「私は言ったな。機人族マキナについて話をするから入ってこいと。大事な話だと、そう言ったな!?」


「う、ぁ……」


「自分の妹分が死地へと旅立つなか、よく呑気に寝転がっていたな! 送り出してお前の仕事は終わりか!? あの時点でも知りさえすれば食い止められただろうが!!」


 ルシカがキーファの身体を乱暴に突き飛ばす。

 ハルの目から見てそれほど勢いのある突き飛ばし方ではなかったが、立ち上がる力さえ失ったキーファは受け身ひとつ取れずに転がった。

 横たわる青年に向けて、ルシカは更に距離を詰めた。


「……裏切るなら裏切るでいいさ。それはお前の信用を獲得しようとしなかった、私の落ち度だ」


 声に乗るのは僅かな後悔。

 見下ろす瞳にほんの少しだけ憐憫が混じり、しかし一度の瞬きの間に激しい憤怒へと色が変わる。


「けれど、その怠惰は何より度し難い。一番大事な最後の努力を怠る、その浅はかさにはつける薬もない! 言いたいことがあるなら言ってみろ。どうして何もしなかった?」


「うぅ、ぁあ……ぁぁぁ……」


「言えないなら言ってやる。生きることを諦めていたからだ。どう死ぬか、今のお前はそれしか頭にないんだ。上等な死に方をして生き残った後ろめたさから、ただ逃げたいだけなんだからな!」


 断罪の声に、息が詰まる。


「もはやお前はただ息をしてるだけの屍だ! 我々を裏切り、周りに背を向け、誰も信用せず、先走った結果がこれか!!」


 振ってくる声にキーファはのた打ち回るしかなかった。

 死に場所を失い、生きる意義を無くし、一番守りたい少女すらくし、恥と憎悪と自己嫌悪に身を焼きながらじたばたと地べたを這う――ルシカは、そんな哀れな虫を見下ろして。


「ああ、見事なもんだ」


 その賞賛は、死神が鎌を振り上げる予備動作だった。

 耳を塞がなければきっと終わりだと本能が訴える。けれど半狂乱になった身体はまるで言う事を聞かず、駄々っ子のように体をゆするばかりで何の抵抗もできなかった。


 聴きたくない――そんな逃避を、女は許さない。



「お前の怠惰は、あの子を死に追いやったぞ」



 容赦ない断罪の宣告は不思議なほど透き通って耳朶から脳へと染み渡っていった。

 キーファの目の奥で火花が散った。


「ぁ……、」


 胸の奥に大事にしまっていた少女の笑顔が――拗ねた顔が、泣き顔が、次々と罅割れて砕けていった。


「あ……ぁ……あああ……」


 認めてしまった。

 全部、自分が全てを台無しにしたのだと認めてしまった。

 彼らが危険を冒して辿り着いた山を降りるための策も、一番守りたかった少女の人生も、何もかもを滅茶苦茶にしてしまったのだと理解した。


 理解したら、もうだめだった。


「ああああああぁああああがぁああああああッ!!!!」



 発狂と同時に――キーファの筋肉が盛り上がり、膨れ上がった。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






「なんだ……!? 一体なにが起きてんだ!?」


 事の推移を息を呑むままに見ていたハルは、困惑した。

 キーファの黄と黒の体毛が急激に伸び、まるで鎧のように身体を包み込んでいく。


 その変質の異様さに息を呑むハルを見下ろすほどキーファの身体は膨れ上がり、両手の先は鋭い爪が尖り、口元には禍々しい牙が生え、そこから吐き出された息は慟哭となってこぼれていく。


「……半獣病だよ、ハル」


 そう答えるルシカの声音は、場違いなほど穏やかだった。

 先ほどまでの激情に満ちた獰猛さは鳴りを潜め、キーファの身に起こる変質を当然の物のように受け止めている。理解が及ばず、ハルの口から間抜けた声が出る。


「はんじゅう、びょう?」


「どうして混血種ハーフが世に疎まれるか、その理由の一つがこれだ。獣人族ビーストの血に抗えなくなった混血種ハーフが罹患する病気の一つ」


 耳を塞ぎたくなるほどの絶叫をあげ、一回り以上も肥大していくキーファを怜悧な瞳でルシカは見上げ、つらつらと感情を込めずに口を動かす。


「病気自体は珍しくないが、肉食獣のハーフは強力な獣化の反面、血に呑まれやすい。血の味を覚えて理性を失えば人を喰らうようになる。稀に人里に現れ集落を喰い散らかす魔獣……ブラッドハウンドの出来上がりだ」


「それって――」


 不意に、ある村を襲った魔獣の存在が頭をよぎった。

 奴隷商人騒ぎの容疑者だった村の跡取り息子を食い殺し、ハルたちによって討伐された魔獣。思えば『あれ』は今目の前で変貌しようとするキーファとよく似ていて。


「ど、どうすればいい!? 止められるんだよな!?」


「…………」


 無言のまま静かにルシカは目を伏せた。

 止める手段がないと言うよりは、止める気がないと言いたげな仕草――思えば彼女らしくもない激昂から全てが始まった。


 ああ、今にして思えば――彼女はキーファを一目見て『虎人族ティグレ混血種ハーフ』だと見抜いていた。精神的に追い詰めればどうなるか、その意味を全て分かっているのなら。


「まさか、お前……」


『いやだ……』


 かすれたハルの呻きは、低く唸るような苦悩に遮られる。

 獣は爪を剥き出しにした両手で頭を抱え、首を振る。

 黄黒の肌が裂け、赤い血が溢れる。それでもなお内側から湧き上がる感情を制御できず、自らを傷つけ続ける。


『たすけてくれ、もういやだ、いやだ……ゆるしてくれ……』


「……許されやしないさ」


 許しを請う姿を見上げ、ルシカが静かな声で言う。


「どんなに自分を罰しても救われやしない。死なせてしまえば謝ることも、許してもらうこともできない。永遠に、永遠に苦しみ続けるんだ」


「やめろ!!」


 ルシカの黒袖を強く引っ掴み、それ以上の言葉を阻止する。

 これ以上の挑発は危険だ。キーファの魔獣化を促進する危険性もさることながら、太く膨れ上がった腕が彼女に振り下ろされる可能性もある。

 何のつもりだ、とルシカを問い詰めようとして、その顔付きに喉が引き攣った。


「邪魔をしないでくれ、ハル」


「――ぁ」


「いま、詰めの段階なんだ」


 無だった。

 抑揚や感情を一切を排した能面のような顔。

 ハルを一瞥することもなく、黒曜の瞳に宿っていたはずの美しい光が掻き消えている。


 生き物を見る目ではない。

 打ち捨てられたゴミを流れ作業で片付けていくような、楽しさや苦しさといった余分ものを処分し、ただ残酷に言葉を紡ぐだけの機械のような。


「――ルシカッ!!」


 ルシカの肩を両手で掴み、額同士を打ち付けるような距離でハルは叫んだ。

 彼女の視界にはいま、ハルの顔しか映っていないはずだ。けれどルシカは瞳すら揺れず、ただ虚ろな目でハルでないどこかを見つめていた。

 その口が決定的な一言を紡ぐ前に、ハルはもう一度声を荒げた。


「それ以上はだめだ! いいな!? ダメだ!!」


 ルシカは冷静さを失っているのだ。

 怒りが沸点を越えて暴発しているに違いない。

 そうでなければ説明が付かない。

 激情を爆発させた様子も、いま虚無をたたえた瞳を迎えているのも、全て計算づくの行動だと思いたくない。


 こんな恐ろしい目を、人が人に向けていいはずがないのだ。


「…………、」


 静寂が三人を包んだ。

 キーファの姿は魔獣に近しいところまで変貌しているが、暴走するまでは至らず腰を下ろしたまま頭を抱え、哀れな呻き声すら聞こえず。


『……ぉ、ぉぉ……』


 否、身動き一つ取らなかったのは諦観からのものではない。

 呻き声ひとつあげなかったのは自暴自棄によるものではない、そのことにようやくハルは気が付いた。

 虎人は全神経を何かに集中させ、そしてゆっくりと顔を上げた。

 涙と鼻水とよだれでぐしゃぐしゃになった怪物の顔は、救いの糸を見つけた罪人のようで。


『の、音響弾ノイズだ』


「え……?」


 先程まで濁り切っていた瞳にか細い光が宿る。

 口端がだらしなく釣り上がり、もはやハル達すら視界に入れず、縋るような面持ちで背後の崖下を見つめた。鬱蒼としげる一面の森を見やって目を見開いて。


『聞こえたんだ……コレット手製の、音響弾ノイズが……下の、森の中からァ……!』


 言われてハルもまた意識を聴覚に集中させるが、風が木の葉を揺らす音しか拾えない。

 慌ててルシカにも視線を向けると、先ほどまでの恐ろしい眼差しは消え、怪訝そうに眉をひそめて何かを思案しているようだった。


 ハルの視線に気付き、そっと首を振る。

 彼女にも聞こえなかったのだ。けれどキーファの声は確信に満ちていた。元より彼らに同意を求めるための呟きでもなかった。


『コレット……!』


 続く言葉は形にならなかった。

 虎の姿にほぼ近くなったキーファは森を一望できる崖まで駆けるとその巨躯を投げ出した。


 無謀な試みは身投げにも見えてハルもルシカも崖上まで追いかけたが、キーファは四つん這いのまま器用に崖を降りていき、見る見る間に森の中へ消えていった。





◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 策は全て水泡に帰した。

 頭の中で慎重に組み立てていた脱出への手立てを、ルシカは断腸の思いで廃棄した。

 元々がハルと自分の二人だけでの脱出が叶わなかったから人員を求めたのだ。

 これでは元の木阿弥、いや、足手まといの重傷人を更に一人抱え、状況はさらに悪化した。


 ――ああ。選ぶべき時が来た。


 誰かを切り捨てて、生き延びなければ。

 救わない誰かを選ぶ時が来たのだと、ルシカはその事実を受け入れた。

 錆びた鉄の塊となった心臓を想像イメージする。

 どんな非道を行っても、どんな慟哭を耳にしてもまるで傷付かないよう、よわい心をしっかりと鍵を掛けた頑丈な金庫の中に仕舞いこみ、それでようやく準備が整う。


 もう大丈夫。何をしても、辛くはない。


 ――コレットのことを想う。


 悲鳴があがったなら即死はしなかったのだろう。

 銃身バレルならば脳天や心臓を射抜くことも容易かったはずだが、そこを敢えて外してきた。

 彼は悲鳴を愉しむ性質ではない。一発必中の腕前を誇りに思う人種だ。ならば人質ダガーの身の安全に配慮したか。互いに人質を取り合う状況に持っていくのが狙いだろうか。


 いや、どうせ最終目標は皆殺しなのだ。

 悲鳴をこちらに聞かせるだけで役目としては十分すぎる。

 仮に生きていても一網打尽を狙った罠の餌に使われるだろう。

 コレットはどうあっても助からない。


 助けない・・・・と心に決めた。


 ――キーファのことを想う。


 妹分を大切に想うあまり暴走した男。

 その背景からコレットを助けないという選択を絶対に取れない。

 よって邪魔だ。どんなに言葉を尽くしても死地に赴いてしまうだろうし、そもそもどこか投げやりで生きようとする意志が薄い。

 キーファも救えない。


 救わない・・・・と心に決めた。


 ――どうせ死んでしまうのだから、一片の命すら残さず使い尽くそう。


 半獣病の罹患者は『瞳』に特徴が表れる。

 キーファは虎人族ティグレとの混血種ハーフだ。肉食獣の獣人族ビーストの血は色濃く残りやすい。

 その瞳を至近距離で覗き込んだ時から、彼を扱う際のリスクとメリットは常に天秤にかけてきた。


 散々に煽った。

 彼の恥を、罪を、浅はかさを声高に暴き立てた。

 死にたくなるように。死んで償いたくなるように。


 詰めは少年によって阻止されたが、目論見通りに魔獣と化したキーファは暗闇に包まれた森へと駆けだしていった。彼は彼なりの救いを見つけたようだ。


 音響弾ノイズの真意などルシカにとってはどうでもいい。

 例えコレットが生きて、下で必死に戦っていようと、もう見捨てると決めたのだ。


「ハル。山を降りる準備を」


 キーファは魔獣の姿を取って無謀な突撃を行うだろう。

 敵は唐突な魔獣の出現に面食らうに違いない。

 キーファは彼らを憎んでいる。何人もの敵を喰らい、その肉を咀嚼し、真に怪物へと変貌する。そうなれば魔獣退治だ。主戦力である機人族マキナはキーファの対処に向かわざるを得ない。


 その間隙を突いて、山を降りる。

 包囲網さえ抜けてしまえば、後はどうとでも都合が付く。


「君は弟を連れて来い。私は念のためキーファが最期に作った薬をかき集めて、使えるようにしておくよ」


「どういう、つもりだ、お前」


「君が馬鹿な真似をしないよう手を打ったまでさ」


 ハルへの対処も忘れない。

 魔獣と化したキーファが崖の向こう側へと消えた直後、ハルは後を追う構えだった。

 それを阻んだのはルシカの白い手だ。

 ハルの服を強く握り、反射的に行動しようとした少年の行動を縫いとめた。


 無理やり振り払うことはできたかもしれない。

 だがあと一歩足を進めていれば、二人揃って崖下まで真っ逆さまに落ちていたことは想像に難くない。


「やることは多いぞ。追っ手の目はキーファが引き付けてくれるが、君には黒棺コフィンを回収するという余分な仕事がある。彼らが稼ぐ一分一秒という時間を無駄にするな。分かったら早く――」


「ふざけんなッ!!」


 それは銃声よりも悲鳴よりも強く響く拒絶おとだった。

 激情のまま引きずってでも駆け出そうとするハルの腕にしがみ付き、ルシカは鋭い声を張り上げた。


「君が行ってどうなる! 命の優先順位を見誤るな!」


「ッ――優先順位ってなんだよ!!」


 弟の存在を示唆され、足が止まる。

 けれど感情の行き先は、癇癪となってルシカへと向けられた。


「仲間を囮にしてまで、助かりたくなんか……!!」


「彼らは、数日過ごしただけの他人で仲間じゃない。それに助かりたくないなんて、嘘だ。君の目はキーファのように死で濁っていない」


 唇を引き結んだルシカは呆れた仕草で首を振る。

 彼らにハルが命を懸ける値打ちがあるとは思えないし、何より彼らの窮地は自業自得なのだ。

 事態は時間を追うごとに致命的な遅れとなるだろうし、そもそも『助ける』という行為は命を捨てることに等しい。


「今の君は冷静さを欠いている。馬鹿なことを言ってると自分でもわかっているはずだ。君が行けば君は死ぬ。死んだら誰も助けられない」


 その選択はすなわち。


「君が騎士として救えるはずの、多くの人々も救えない」


 その一言で、少年の顔から様々な感情が抜け落ちた。

 夢という存在が少年にとっての急所だとルシカには分かっていた。

 彼にとって何を置いても優先するはずの言葉を切り札に、言葉を更に続けた。


「騎士になると言ったな? 迫害される日々を選んででも今日までずっと大切に抱えてきた大望を、こんな所で手放すのか? 君の、夢への渇望はその程度だったのか?」


 少年の根幹に楔を打ち込む手応えがあった。

 いつだって人が保身を考えるのは未来の話だ。

 絶対に譲れないものを引き合いに出すという悪辣さに目を瞑れば、これ以上最善の殺し文句はない。


「違うよな。君は誰より夢に魅せられ、呪われている。だから……」


「――――ああ、そうだよ」


 目論見通りの答えが届く。

 短慮や激情が消え失せた肯定に、内心でルシカは小さく安堵した。

 少年の迂闊な行動を思い留まらせ、最小の犠牲でより安全な手段を選択できる。


 ――できる、はずだった。


「夢があるんだ。どうしても捨てられない、どうしようもない、憧れユメ。それを叶えるためなら、まず生き残るべきなんだって分かってる」


 迷いで揺れていた瞳が真っすぐにルシカを射抜いた。

 吐き出される声には今まで以上の力がこもり、緊張と苦悩に苛まれ強く握られた拳から力が抜ける。

 強張った表情すら穏やかに、笑みのようなものすら作れるようになっていて。


 その時になってルシカはようやく、己の失策を悟った。


「けれど、夢の先に居る『あの子』ならきっと」


 この場にそぐわない静かな声。

 腕にしがみ付くルシカの手を、ハルは優しく振りほどいた。

 自分だけの宝物を見つめるような、冗談みたいに穏やかな微笑みを浮かべて。



「こんな状況でも、助けに行ったと思うんだよ」



 まるで死に際を看取られる間際のような微笑に、ルシカの表情が信じられないものを見るかのようにおののき、崩れていく。

 憎々しげに呟くその顔にハルは息を呑む。


「馬鹿、げてる……」


 嘘偽りのない、ハルへ向けた戦慄。

 鬼人族オーガも恐れぬ彼女が見せた、未知ハルへの恐怖おそれ

 ハルにとっては見慣れに見慣れた、新しい友人との別れの儀式だ。

 けれど。


「どうして、君は……」


 彼女の両手が、ゆらゆらと幽鬼のように揺れながらハルの服を掴んだ。

 俯いたルシカの顔は長い黒髪に覆われて表情が伺えない。

 ただ、服を掴む手を通して、彼女の熱量が伝わってくるのが分かった。

 激情と呼ぶのも温いほどの、煮えたぎった感情が渦巻いているのが理解できた。

 憤怒とも悲嘆とも憎悪とも呼べない、あらゆる色がごちゃ混ぜになってそれ以上の言葉を続けられそうにない。


「――生きられないんだ、こうじゃないと俺は」


 だから、口を開くのはハルのほうだ。


「六年。必死に頑張ってきたけど、何一つ誇れる才能ものがない。ずっと昔にそう気が付いて、それでも諦められずに生きてきた」


「……」


「何も誇れない代わりに、何にも恥じない生き方をしてきた。誰にも恥じない生き方だけが、俺が憧れユメを目指していい理由だった」


 夢を恥じたことはある。

 大望を口にするのを恥じたこともある。

 分不相応な願いを惨めに引きずり、あの日の一振りに未だ届かない才能の無さに絶望した。


 多くの人々に願望を嗤われ夢を貶され、いつしか向き合うことさえ恥じいるようになった。


 けれど。


「生き方だけは恥じたくない。誰かを犠牲にして生き残ったなんて『あの子』に言いたくない」


「――ッ」


「それまで曲げてしまったら、もう俺には夢見る資格もなくなっちまう。そんな気がして、仕方がねえんだ」


 ルシカは何か言葉を返そうと口を開く。

 けれど何も言い出せなかった。得意の口八丁が何も思い浮かばない。

 夢などを引き合いに出したのが失敗だったのだ。

 それを否定するということは、夢追い人である自分自身を否定するに等しい。


 時に、命を二の次にしてでも通すべき無駄があるのだ。

 貸し借りの精算をしようとする、いまのルシカのように。


「兄さん」


 呼びかけられた声に目を向けると、青白い顔をしたシオンが小屋から出てくるところだった。

 長剣を挿し荷物を担ぎ、その目が今すぐにでも出発できると訴える。半死人のはずの弟は額に汗をにじませながら、それでも頼もしい仏頂面のまま。


「シオン――」


「足手まといにはなりません」


 ただ一言で、全ての反論を切り裂いて参戦を表明した。

 それだけで兄弟には十分だった。


 頼む、と一言。

 こく、と頷く仕草が一つ。

 二人の姿を目に焼き付け、ルシカは大きく天を仰いだ。

 この流れはもう止められない。


「ここまで協力してくれてありがとう、ルシカ」


「――」


「そっちは予定通りでいい。俺たちは俺たちで、何とかするよ。俺も一緒に暴れれば逃げられる時間も増えるだろ? ルシカ一人なら――」


 それ以上続けるより早く、ハルの右脛に素足の踵が直撃した。素人同然の無造作な足技だったが、遠慮のない衝撃に息が止まる。


「君の、自己犠牲に浸る時の、その顔は大嫌いだ」


 強制的にその先を封じたルシカは、侮蔑を孕んだ顔付きでハルの胸倉を掴み、顔を近づけ、そして。


「だけど夢を語る時の顔は悪くない。……生意気にもね」


 憮然とした顔を離し、間髪入れずに続ける。


「行く前に、私に時間を寄越せ」


 その意味を問いかけるよりも早く、ルシカは耳に取り付けた通信機に指を伸ばした。

 波長を合わせる動きに迷いはない。

 ハルの返事を待つこともない。

 無機質な呼び出し音を待つ時間が惜しい。一刻の猶予もない状況では咎めるべき行為に映った。だが。


「――亡霊より、アクスへ」


 通信の間、ルシカは一度もハルから目を逸らさなかった。

 信じろ、と。一切の無駄を嫌った彼女の瞳が、この時間が支払うに足るものだと訴えていた。


「事情が変わったので手短に。捕らえた機人族マキナの少女をそちらに返す用意ができた。交換条件はただ一つ――私の身の安全を保障すること」


 ハルの口があんぐりと開く。

 隣のシオンが明確な敵意に目の奥を燃やし、咄嗟に長剣の柄に手をかける。その動きをハルが止めなければ、刃の閃きと共に血しぶきが散ったことだろう。

 ルシカは困惑する二人を一顧だにせず、ただ機械的に事を進めた。



「そう。この戦いを、今夜中に終わらせると約束しよう」



 長い夜の幕開けであった。






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