22話 「亡霊」
――よく凌ぐ。
それが短剣の偽らざる賛辞だ。
鈍重で荒々しい剣の軌道は若さの証か技術力の不足か。しかし四方から繰り出す投擲を弾いて見せる並外れた直感は侮りがたい。
まだ年若い顔立ちに見える少年は背中に足手まといを庇い、折れた剣を手によく粘る。驚嘆する短剣の平坦な胸に鈍く熱を伴った痛みが広がっていた。
――ずるい。
少年が女を守ろうと手を広げた時、動揺した。
身を挺して女を庇う構図に心が震えたのだ。
機械仕掛けの『私』はそんな風に守ってもらえなかったのに。
切なく軋む基幹を搔き毟りたくなる衝動が、やがて一つの感情を結ぶ。
――悔しい。
羨望と劣等感を滲ませた、泥色の殺意だった。
標的である少年の存在が霞むほどに、あの黒尽くめの少女への敵意が強まっていく。
白い首筋を己の手で真っ赤に染め上げ、濁っていく瞳に唾の一つでも吐き掛けたい――そんな倒錯した欲望が胸を掻き毟るのだ。
この殺意に囚われた時、いつも斧の曇った顔が頭をよぎる。
師匠はいつかこの余分が身を滅ぼす要因になるのでは、と危惧していた。けれど人形師一座の誰も彼もが、この余分に執着する。
胸を焦がす憎悪を。
張り裂けんばかりの敵意を。
積み重ねられた理不尽への憤怒を。
我に返って死にたくなるほどの、ヒトに対する羨望を。
それらは使い捨ての機械仕掛けに許された、ヒトの心の証明だ。
――人間、なんか。
死んでしまえばいい。
路傍の石のように。
踏み付けにされた虫のように。
そう扱われてきた私によって、無意味に命を散らすがいい。
――集中。
加熱する思考とは真逆に、少女の動きは涼やかだ。
草葉の微かな揺れすら許さず枝を伝いて樹上を舞い、太ももに生じた亀裂から都合六本の杭剣を抜く。
左に四つ、右に二つ。
感触を数えて指先から精神を研ぎ澄ましつつ、標的の周囲を飛び交いながら、右手の杭剣を風切り音を奏でて飛ばす。曲芸じみた動きでやはりことごとくを少年の折れた剣が弾き飛ばす。
何度目かの攻勢を終え、短剣は微かな呼吸を自身に許す。
――そろそろ、いいだろう。
布石は十全に打っておいた。
鎖で周囲を取り囲んだ派手な舞台装置。
標的をその場に縫い留めるため放ち続けた牽制の投擲。
迎撃に対して段々とコツを掴み始め、いよいよ反撃の手段を講じようか、と標的が思考を巡らせる頃合いこそ、短剣が待っていた絶好の機会だ。
武装を確認。
未だ四百を超える杭剣が身体に格納済み。物量に問題なし。
技術と速度、自分を暗殺者たらしめる両輪の存在を強く意識し、標的二人の迅速にして確実な処理の手順を脳に刻んでいく。
戦術を確認。
足手まといの女は後回しだ。
武装もなく脅威ではない。自分一人で逃げられない獲物はいつでも殺せる。
少年の絶殺を最優先。少女の愚かしさを嗤うのは、その後で構わない。
手順を確認。行動も同時だ。
両足の爪先を指で撫でる。仄かに赤く熱して震えだす両足を抑えつつ、張り巡らせた鎖を踵に乗せ、ふわりとステップ。軽やかな少女の足がもう一度鎖に触れた時、小規模の爆発と共に足場の鎖がはじけ飛んだ。
――ッ
両足に激痛。無視。
少女の体は爆発と同時に、遥か上空へと飛翔した。
脚部の加速装置を過剰加熱させることによって実現にこぎつける大跳躍。
一直線に放った杭剣の軌道とはまるで逆。
軽やかな肢体を空中に射出し、太陽を背にして上空から弧を描いた少女の着地先は、標的の真上だ。
標的の警戒は繁みの向こう側に釘付けにした。
武装は投擲してくる杭剣のみと印象を植え付けた。
その間隙を縫って彼女自らが直接、標的へと襲い掛かり、他ならぬこの手で標的の喉を掻き切る――!
「え――?」
意表を突いたはずの奇襲を、黒曜の瞳が射貫いた。
「未熟さが顔を出したな。暗器使い」
黒尽くめの少女は射出され降ってくる短剣の位置を正確に指差し、獰猛な笑みを剥き出しにして勝ち誇った。
(短剣は身軽ではあるが、体力は無尽蔵とは程遠い)
難しいことは何もない。
短剣の詳細が全てこの頭脳にあるならば、必ず同じ結果を引き寄せられるという確信があった。
(暗殺者風情に経戦能力があるはずもなし。必ず、早い段階で勝負を決めに来る)
武装を把握し、戦術を理解した。
相手が抱える矜持さえも識っていた。
ならば相手がどんな手段を選択してくるかを想像することは、袋の中から珠を取り出すほどに容易い。
(先の投擲もそう。あんな稚拙な連携で、私たちが傷一つも負わずに対処できる理由なんて一つだけ。何しろ短剣、自分の手で喉を掻き切らなければ気が済まない性質なのだし)
奥の手の加速装置起動時の小さな爆音は、敵が仕掛けてくるタイミングを知る合図。傾く太陽の位置は、日光を背に飛び出すだろう敵の居場所。
目は飛来する杭剣を防ぐため樹々に固定。
耳だけを澄ませ、予兆を待ち、その時が訪れれば最初から目を付けていた太陽の位置を指差す。
これはただそれだけの話。
「釣り上げたぞ、ハル! 後は――」
「――任された!!」
折れた剣を構えてハルは落ちてくる短剣を見上げる。
(見えづれえ……!)
黒い影に阻まれ表情が見えない。
太陽を背にした影響は健在だ。零れる陽光が網膜に突き刺さり、ハルは密かに歯噛みする。
(たった一度きりの機会を――逃すな!)
条件はこれでようやく五分。
いや僅かにまだハルの方に不利があるだろう。
背中にルシカを庇った状態は変わらず、いつ杭剣が飛来してくるかも分からない。迎撃に向けたハルの積極性に僅かな逡巡があった。
――釣られた! 誘き出された!
一方、少年の力強い瞳と交錯させた短剣は、指摘された未熟さを省みてやはり、同じように唇を噛み締めた。
降下する体は真っすぐに標的へと落ちていくだけ。
無防備に姿を見せてしまった暗殺者はしかし、ハルの判断より僅かに早く再び足首に指を這わせる。
――けれど!
小規模の爆音がもう一度起きた。
加速装置が火を上げて破裂し、生じた推進力が短剣の墜落の軌道に変化をもたらす。
無防備なのは空中にいる間だけ。一度でも地面に足をつけてしまえば、まだ主導権を取り戻せる。
しかし、未だハルから遠い位置にありながら短剣向けて飛来する物体があった。
「ッ――剣!?」
正体は折れた大剣。
ハルが半ば無意識に投擲した鉄の塊は車輪のように旋回しながら短剣が修正した軌道上に向け唸りを上げて迫る様子に、背筋が凍り付いた。
「くっ……!」
気炎を上げる剣に対し、短剣は杭剣による相殺を選択。
撃ち落とさんと放った都合六発の投擲はしかし、剣の凄まじい勢いに圧されて無為に弾け飛んだ。
――なんて、怪力。
自分とはモノが違う膂力。
怪力だけで言えば師に迫る剛腕で放たれた剣を撃ち落とすには至らず、その軌道を変えることもできない。
ただ僅かに勢いを失くした剣に、祈るような思いで利き足を差し出し、目を瞑って接触の瞬間、強く蹴る。
刀身部分に触れていれば、利き足は胴から離れていたに違いない。だが幸いにして彼女が触れたのは柄部分であった。
絶殺の一撃をどうにか凌ぎ、力なく少女の体は地面に向けて真っ逆さま。大剣は彼女がいた空間を通り過ぎ、枝も葉も引き裂いて森を貫いていった。
「避けられた……!?」
今度はハルの口から賛辞が飛ぶ番だった。
ただの幸運だ、と背に冷や汗をかきつつ呟く短剣に向け、ハルは無手のまま距離を詰めていく。
――接近戦……
短剣が地面に激突する直前、その身体がぬるりと滑らかな動きで地面を這う。接近戦を選んだ少年の思惑に自ら乗る形だ。
――なら、与しやすいとでも!
だとすれば大きな間違いだ。
今日まで短剣を支えてきた高い敏捷性は、決して自分を裏切らない。
少年の目が驚愕に染まる。
地面に激突するとでも思ったのか。ならばそれは致命的な判断ミスだ。
短剣が先に距離を詰める。
手刀の形を取った右手首を銀色に輝く短刀へ変え、刃物と化した右手を心臓めがけて突き立てた。
「……が、っ痛ぅ……!!?」
鮮血が舞った。
勝負が決まった合図だった。
ハルは咄嗟に右へと重心をずらして致命傷を免れたものの短剣の細い右腕は少年の左肩へと食いこんでいた。激痛に口から苦痛が漏れて。
「なん、で……」
茫然と呟く短剣の視線が、己の右肩に向かう。
関節が外れて奇妙な形に折れ曲がっていた。鈍い激痛と理解不能の出来事に呼吸が止まる。
違う。この少年の身体はおかしい。
肉を裂く感触をこの手が知っている。
何人もの命を奪った経験が、少年の異常性を察知して力限りの警鐘を鳴らしていた。
これは人の肉を貫く手応えではない。それどころか生き物を刺す感触ですらない。
弾力性のある岩の塊か。
あるいは何重にも塗り固められた粘土の魔物か。
人形の思考が埋め尽くされる疑問で停止する。その度し難い隙は、少年の鈍重な拳に対処する時間を彼女から奪った。
「ぶっ――」
振り上げられた右腕が唸りを上げて短剣の顔面へと突き刺さる。
接触面にあった鉄製帽が粉々に砕け散った。流れ星が直撃したと錯覚する衝撃に短剣の矮躯が宙を舞い、何度も地面を弾んだ後、樹木に叩きつけられた。
「ぐあっ!! ぁ、……ぁ、がァ……!」
脳が揺れて視界が明滅する。
ただ殴られただけでは有り得ない損害に全身が致命傷を訴える。
痛い。
苦しい。
立ち上がれない。
その弱音を否定して、少女の姿にあるまじき雄たけびをあげて身を起こす。
「うぐっ……、ぁ、ぁああああぐっ!!」
まだだ。まだ負けていない。
立て。立たねば殺される。
勝て。勝たなければ処分される。
負ければ死ぬ。
頼りにしていた仲間が肉の華を咲かせた光景を思い返す。
(勝たなければ屑鉄……ッ、勝てなければ廃棄……!!)
死にたくない。
誰にも誇れない人生であっても生きていたい。
誰にも優しくしてもらえない世界であっても、報われるかもしれない『いつか』に必死にしがみつきたい。
鉄製帽越しではない短剣の美しい色違いの瞳が戦意で吊り上がる。
そして少年を見た。
「はぁ、は、は、……ぁ?」
少年を、直接見てしまった。
「――――ひっ」
足手まといの女を庇いながら戦う勇気ある少年の姿も、その戦いざまにささやかな好感を抱かせた男も居なかった。
「……ぁ、ぁああ」
怪物だ。
少年の皮をべろりとかぶって人に擬態した怪物がそこにいた。びろびろめくれる皮の隙間から目玉がぎょろりとせり上がって世界を呪っている。
口元から生えた長い牙は誰かの血で濡れていて、肌を染めていく黒い液体は徐々に濃さを増して怪物を黒一色に塗り潰していく。
恐ろしい姿に身体の震えが止まらない。
先程まで戦っていた少年はどこに――困惑する短剣の目が、僅かに出血した怪物の左肩に向く。
いま『ナニ』に刃を突き立てたのか。
人間を狩るつもりで何を相手にしていたのか。
体の芯から怖気がせり上がり、燃やそうとしていた反骨心がへし折れた。
少年の皮を被っていた怪物は時間を追うごとに黒く黒く塗りつぶされ、もはや異形の化け物と化してへたり込む短剣の元へと歩いてくる。
「イヤァアァアアアア!!?」
頭から爪先まで恐怖に支配された人形は半狂乱になって頭を抱えた。数秒後に迫る暴虐から心を守るため、短剣は意識を断線させる。
糸が切れた人形のように地面に突っ伏した機人族を見下ろし、怪物と呼ばれた少年は、困惑したように頬を掻いた。
「……気絶してる。脳震盪……なのか?」
決着の合図は、短剣が見たものとはまるでそぐわない呑気な呟きだった。
「肩の傷は大丈夫?」
「まだ痺れてるけど……大丈夫だ。少し時間が経てばすぐに剣は振れるようになるよ」
「剣の方は見事なまでにバラバラだけどね。さぞ金欠だったろう。あんな戦い方じゃ戦闘の度に武器を壊して、買いなおすの繰り返しだろうし」
「そ、そんなことより、その子は……」
どうするんだ、と続くはずのハルの声が震えた。
糸が切れたように動かなくなった襲撃者は浅い呼吸を繰り返し、瞳に涙を溜めたまま体を投げ出している。よく見ればあどけない少女の姿で、ハルは今更ながらに息を呑む。
ハルにも分かっている。
彼女は仲間を手にかけた仇の一味だ。あるいは彼女自身の手でそれを為している可能性もある。
だというのに命を奪いたくないと訴える心があって、異端とも断じられる甘さが、その先を続けられなかった。
「彼女たちは人殺しだ。君の仲間も手にかけた。もし手を下すとすればそれは正義であり、君が罪悪感を背負い込む必要はない」
「そう、なんだろうな」
声が沈むのを抑えきれない様子のハルの肩を、ルシカは強くはたいた。
甘さを捨てられない自分にいら立ちをぶつけているのか、と恐る恐るルシカの顔を窺い、ハルの想像とは違う獰猛な笑みを見た。
「安心していい。断罪の時が今ならば、その命をもって贖わせるべきだが」
ルシカは少女の長く尖った耳のような機器に指を滑り込ませた。程なくしてルシカの口元が緩み、何かを摘まみ上げると微笑んで。
「運命はまだ、この少女に罪の在り処を求めないらしい」
「……どういう?」
「うん、悪いようにはしないさ。君は周囲を警戒しながら小休止。静かにね。私は少し忙しくするから」
ルシカは手の中にある何か――小さな機械仕掛けの装置を自らの耳に押し当て、それから摘まむ指を僅かに動かす。
『……報告なら斧にしろ、短剣』
ザザッ、とひび割れた電子音の後に訪れる帰ってくる短い応答に、ハルは身を固くした。その様子に気付いたルシカは悪戯げな笑みをハルに向け、口元に人差し指を当てる。
小さな機械から声が漏れ出る度、ルシカは機械の突起部分を慎重な手つきでひねる。
『ああ? なんだお前? 僕に直接繋げてくるなんてどういう……』
その声が聞こえた途端、ルシカの口端が一層吊り上がった。
すぐに通信を打ち切って息を一息おくと、今度は迷いない手つきでつまみを大胆にひねる。「報告を」という短い問いかけに対し、ようやくルシカは口を開いた。
「やぁ、斧。人形師の猟犬よ。ご機嫌はいかがかな」
『実は前々から助言したかったんだ。君、仕える主を間違えてるよってね』
「な……」
斧は口から漏れる困惑をどうにか呑み込んだ。
通信機越しの応答は聞き慣れた部下の報告ではなく、知らない女の悪意に満ちた挑発――それも、自らの正体を言い当てるという事態。
人形師の猟犬。それは紛れもなく燕尾服を指す裏社会の異名だ。殺し屋界隈では名が知れているとはいえ、斧という役職すら言い当てて見せたのはどういう理屈あってのものか。
『通信機は“機導師”デルタの作品か。良いセンスだ。彼の鍛冶族は機人族の魔力波を数値化し、誰でも使える通信機の基礎を創り上げた稀代な天才。最新式はつまみを捻って範囲内の通信相手を探すのだね。感覚をつかむのに少し手こずったよ」
若い女の声だ。
場違いなほどに陽気で朗らかな呼び方の中に、胸を悪くするような毒を仕込む老獪さがうかがえるような声。
「あなたが、九人目か……なぜ」
「指揮官への直通場所はすぐ分かったんだよ? 構成員なら頻繁に連絡が取るだろうし、それなら初期配置から少し捻るだけで繋がるようにする。後は利き腕とか癖とか機材の摩耗具合とか、そのあたりで推理さ。きちんと君に繋がって一安心だ」
「そうじゃない……あなたは一体」
応じながら隣で怪訝そうな顔の青年に符丁を送る。
内容は『非常事態の可能性』と『任務の継続』――対応はこちらに任せ、ひとまず別動隊から目を離させないようにと指示を出して女の声に耳を傾ける。
『私はルシカ。通りの良い名はそうだな……『亡霊』かな』
「――亡霊だと?」
裏社会でまことしやかに囁かれる噂がある。
凄惨な事件、不吉な出来事、国の不幸事、あらゆる災難の影で暗躍したとされる謎の女。
それは恐ろしい出来事の全てを背負うとされる都市伝説だ。存在するかも分からない裏社会の魔王を、人々は畏怖を込めて『亡霊』と呼んで畏怖した。
真実、通信機の向こう側にいる女が『亡霊』だとしたら、裏社会に生きる自分たち人形師一座の情報を握っていたとしても不思議では――いや、とよぎった不吉な伝説を振り払う。
「お戯れを……その名は軽々しく口にしていいものではない」
『まぁ私のことはいいじゃないか。納得いかないなら、偶然居合わせた商人だとでも思ってくれよ』
それよりも、と女は続けた。
『私はもっと有意義な交渉がしたい。どうだろう、君から言い出してくれるなら安くしておくのだけれど?』
「……、」
理解が及ばず言葉を続けられない。
通信機の向こうから嘆息が届き、商人を名乗った女が笑う。
『仕方がない。初めての顧客を尊重して私から売り込むとしよう。……さて、お客様。本日ご紹介するのは見目麗しい機人族の少女です』
「……!」
『とはいえご注意いただきたい。この愛らしい外見とは裏腹に、多くの命を手にかけた暗殺者でもあるのです。本来ならこうして我々の手に落ちた時点でその報いを支払わせるところですが……』
燕尾服の糸目が見開かれた。
様々な感情を飛び越えた苛烈な憤怒が、体内の機関を駆け巡り、知らず歯を噛み鳴らすなか女の愉快げな売り文句が続く。
『お客様には特別に! この命、売って差し上げましょう! ああ、ご安心を! 今回の取引にお金は結構! あなたが図ってくれる便宜! 融通してくれる特典に私どもは大いに期待を寄せている!』
劇場に立つ演者を思わせる台詞の後に、そっと一言が添えられる。
『理解したかな? 私はこの命を天秤にかけ、君を脅迫する者だ』
「……ええ。お話は分かりました」
暗澹たる気持ちで応じながら、燕尾服は思考を巡らせた。
どこまでがこの女が描いた絵なのか。陽動を見抜き、短剣一人だけで行かせたことが裏目に出たのは事実。最初から斧の仲間を人質にとるための作戦だったのだろうか。
(いや、賭けの要素が強すぎる。事前に予定した作戦ではない)
となれば、彼女の言い分に易々と従ってはならない。
これは彼らにとって望外の展開、想定した作戦ではなくアドリブ――ならば、できるだけ付き合わず、主導権を引き戻すべきなのだ。
「愚かな。我らが命を惜しむと本気でお考えですか?』
『やめようお客様。そういう駆け引きは時間の無駄だ』
重く、低い声質が強い拒絶の意思に燕尾服が次に用意していた言葉が泡と消えた。
先ほどまでの機嫌の良さはどこに行ったのか、こちらの思惑などすべて読み切っていると言わんばかりの強い口調で、迂闊な反論を破り捨てる。
『詭弁を弄すな、誤魔化すな、はぐらかすな。私は『我々』なんて複数形の誰かに交渉を持ちかけたつもりはない。君個人、がこの子の命を惜しむかどうか、その是非だけを問うている』
建前を囀るな。立場を盾にするな。
商人を名乗る女が苛烈に斧の言い訳をつぶす。
基幹に直接、刃を突き立てられるような怜悧な宣告に斧は強く唇を噛み締めた。
『この子のことを何とも思ってないのなら今すぐそう言え』
女はもう笑わない。
『最期に伝えてあげるさ。斧が短剣のことなんて何とも思ってなかったってね』
「ッ……」
それは致命的な問いかけだった。
下唇を噛み、苦悶の形相を浮かべた斧はやがて、だらりと握り拳を作っていた手の平から力を抜いて。
「言葉が、過ぎました」
『そう? つまり?』
「……その申し出、お受けいたします」
女の情報網は斧という人物像を完璧に絡めとり、こちらは女の素性すら暴けない。
初めからこの交渉に勝利の目がないことを斧は理解した。しかし思考を止めるわけには行かなかった。
(亡霊を名乗る彼らはまだ森の中。短剣も一緒にいるはず)
向こうの土俵で唯々諾々と従うのは危険だ。
黙って様子をうかがっていた青年に新たな符丁を送る。
(主の護衛に付けていた余剰戦力の拳を前線に出し、私と共に標的を挟撃させる。短剣の身柄を奪還さえすれば……)
暴力もまた交渉術だ。
彼らは寡兵の中、苦肉とも言える策を弄して窮地を脱そうとしている。
向こうが優位性を持つ今回の交渉は、唯一攻撃に使える手札。彼女がどんな要求を通すにせよ、その成就にきっと執心するに違いない。
「ただ、その前にひとつだけ……お願いが」
『何かな?』
「……彼女の声を。無事を確かめる権利は、あっていいはずです」
配置につくまで十数分。
無事の確認や要求の受け入れで幾ばくか時間を稼ぐアテはある。
表面上は弱々しく言葉を紡ぎ哀れみを誘い、その間に盤面を整えるのだ。癇癪持ちの主におもねるような声音も手慣れたもので、相手に不信は感じさせない自信はあった。
『却下だ。彼女を起こす時間はないし、時間稼ぎに付き合う気はない』
「しかし……」
『通信も、ここで切らせてもらう』
女の素気無い返答に息を呑む。
小さな通信機を耳に強く押し込みながら、斧は動揺を隠せず声を荒げた。
「お、お待ちを! 声を聞かせるだけでも! あるいは符丁を問うだけでもいい! 生存の証明が出来なければ交渉は……!」
『交渉を打ち切るつもりはない。ちゃんとまた連絡するよ。聡明な君なら、私が何が言いたいか分かるよね、斧?』
耳元で囁かれる底冷えのする声が、指先のひとつに至るまで燕尾服の動きを縫い留めた。
『おかしな真似を、するなよ?』
ブツッ、と通信が一方的に打ち切られる。
身じろぎひとつせず通信終了を示す電子音を聞き続ける指揮官の背中に、静観していた青年の無機質な声が飛ぶ。
「斧、指示が途中で止まっている。拳をどう動かす?」
「…………」
返事はない。
通信が途切れたことを悟った青年は先ほどの指示をいったん脇に置き、任務を継続するため薬草樹の根を採取していた二人に再び視線を送る。
「別動隊に動きあり。山の方角に戻ろうとしているぞ。僕の索敵範囲から離れるまで残り二十秒……尾行するか、殺すか。指示は?」
「――」
「斧……指示を、」
燕尾服の右腕が目にも止まらぬ速さでぶれ、近くの樹木に突き刺さった。その衝撃で樹木が根元から圧し折れて宙に浮き、周囲を巻き込んで大地に横たわる。
その姿に圧倒されて口を噤む青年へと、指揮官はぐつぐつと燃え盛る炎を吐き出すような声音で。
「待機……せよ」
青年は無意識に恐れを抱き、了解の意を示す。
横暴な主人の癇癪を前にしても見せたことのない指揮官の姿だった。
斧の瞳は大きく見開かれ、紅色の瞳孔がまだ見ぬ謎の脅迫者の潜む森へと向く。それほど時を置かず二度目の夜が到来するだろう緑の海原を見つめ、そして。
――主人に、知られてはならない。
致命的な秘密を抱え、苦悩に満ちた息を吐くのだった、
かくして薬草樹を巡るドゥロン山林攻防戦は終わる。
冒険家側の死傷者はゼロ。
目標である回復薬の原料となる葉や根の採取に成功し、撤退。
――敵の主要戦力のうち、一名を捕獲。




