19話 「苦痛に浸された生還」
キーファの人生は思い返すも無残な失敗の連続だ。
あの時こうしていれば、と続く後悔の数と文句の吐き方だけは一人前。そんな彼の意識は微睡みの中にあった。虚ろな意識が夢という形で一つの映像を結んでいく。
夢であって欲しかった光景だった。
焚き火が弾ける昨夜の一幕。
子分扱いの狗人族と火を囲み、度重なる失敗を気に病む彼にキーファは鼻を鳴らした。
『気にすんじゃねえよ』
何一つ上手にこなせない姿を自分を重ね、そう励ました。
キーファにもこんな時代があったのだ。マゴーに拾われ、ザジに鍛えられなければ銅貨級の立場さえ怪しかった。
はたしてキーファの真意がどこまで伝わっただろうか。
首をかくんと倒して悲しそうな顔をする狗人族の姿に、きっとまた伝え方を間違えたのだと悟った。
(この仕事が終わった後、親父に話をしねえとな)
マゴーは慢性的な腰の痛みに悩まされていた。
彼の代わりに、狗人族に雑事を補佐させてみたらどうだろうか、と。
何も人並みにこなせないと落ちこむ彼も、経験を積めば自信を持つのではないか。焚き火を見つめ、そんな未来を思い描いてニヤついた。
率直に言って浮かれていたのだ。
新しい家族が、自分に弟分ができるかもしれないなんて。
そんな楽観的な夢想に浮かれていた。
だからなのだろうか。
森へと入っていく狗人族をへらへらと見送った。
思い詰めた横顔には露ほども気付かず呑気にも「早く帰って来いよ」だなんて小さな背中に投げかけて。
絶叫を耳にした。
居ても立っても居られなくなり、兄貴分の静止を振り切って枝が肌を裂くのも構わず走る。
全ては遅すぎる焦燥だった。
キーファの耳に届いた絶叫は、断末魔であったのだから。
『あ、あああぁあ……!!』
冷たい月明かりの下に、狗人族はいた。
いや、もはや在ったというべきだろうか。
彼はもう生者ではなかった。
強かに踏み潰された頭の一部がべこりと陥没していて。
片目は飛び出し、血の匂いを嗅ぎつけた野鳥が我先にとついばんで屍を辱めていて。
腹部の穴から砕けた骨と内臓が余さず零れ、度重なる暴力を受けてなお地に伏すことを自身に許さず。
憎悪を孕んだ眼光を月へと固定したまま、事切れていた。
どうして行かせてしまったのか。
どうして付いていかなかったのか。
その後悔が尽きないうちに、次の後悔が押し寄せる。
突如として巻き起こる複数の爆発音。
飛び出したキャンプ地の方角から煙が上がっていた。
どこからともなく湧き出る武器を携えた男たち。
罵声を振り払い、寄る追っ手たちを薙ぎ倒しながら家族たちがいるはずのキャンプへと疾駆した。
お前らに殺されるものか。猛る自身に言い聞かせる。
お前らに殺せるものか。置いてきた仲間への信頼を叫ぶ。
膨れ上がる不吉な予感を振り払いながら、飛び出してきたキャンプ地へと舞い戻って。
やはり、間に合わなかったことを知った。
頼れる兄貴分の変わり果てた姿がそこにあった。
『うわあああああ!? あぁぁ、ぁああああ……!?』
筋骨隆々の体が血に浸り、四肢は不気味に捩じれていた。
裂傷に斬傷、急所部分には不自然なほどきれいに整列した穴がいくつも開けられ、無造作に、丸めたちり紙のように投げ捨てられていた。
濁った瞳がキーファのほうを向く。
大事な時に間に合わなかったことを責める目に見えた。
そして。
『くふ、くふふっ……』
真っ赤な悪魔がそこに居た。
扇情的な黒タイツの、女の形の機械人形。
地面にぶちまけられたザジの血の海を泳いでいる。
地面に寝そべり童女のような無邪気さで血を浴びる汚行。
何度も身体を転がせて血を自分に染み渡らせていく奇行。
恍惚に歪んだ口元をぱっくりと割ってけたけた嗤う凶行。
混迷の極致に至る絶叫に気付き、その首がぐるりと回ってキーファに固定される。
『くひっ』
顔も衣服も兄の血で真っ赤に染め上げられた怪物。
整った顔立ちが、新しい獲物を認めて歓喜に歪む。
後悔と混乱に塗れたキーファの元へひたひた歩いてくる。
距離にしてほんの十歩。
その距離がゼロになった時、殺されるのだと理解した。
――上等だ、仇を討ってやる。
ザジたちを殺した怨敵が目の前にいる。
疑いようもない蛮行の証左を滴らせながら迫ってくる。
それだけで。
それだけでキーファは。
逃げ出した。
『ひぃ、ひぃぃ、ひぎぃぃい、ぃいいい!!!』
逃げた。
無様に逃げた。
敵に背を向けて、何度も躓きながら一目散に逃げた。
聞くに堪えない悲鳴を上げ、涙と涎を尿を撒き散らして逃げたのだ。
我が身可愛さで逃げて。
無我夢中で逃げて。
半狂乱になりながら逃げて。
命が惜しくて惜しくて仕方がなくて、逃げた。
誰にも追いつけないほどの速度で、暗い森の中を逃げた。
けれど。
誰かの影が自分の腰に縋りついた。
『ひぃ、ひぎぃああぁぁあ!?』
影は決して離さないとばかりに腕を回してしがみ付く。
不気味な女の哄笑が幻聴として脳を揺らす。
壮絶な最期を遂げたザジのぐしゃぐしゃな死体を思い出し、全身が粟立ち、我武者羅に手足をばたつかせた。
『いやだぁ! いやだいやだいやだぁぁあああ! たすけ、たすけてくれえ!!』
みっともない懇願だった。
とっくの昔に自尊心は粉々に砕けていた。
救いを求めていながら硬く拳を握りしめて、腰に縋りつく影を殴りつけた。
手の付けられない狂乱に、影の口から呻き声が漏れた。
『……っ! ……さん……!』
けれど影は決して手を離さずに。
涙に濡れた声でずっと何かを叫んでいて。
その声がようやく壊れていたキーファの耳に届いて、戦慄が走った。
『キーファさん……!!』
殴る手が止まる。
呆然と視線を降ろして、その影を見る。
影はコレットだった。
彼女は口の端を切りながら精一杯の力でキーファにしがみつき、暴力が止むと涙目で見上げて、くしゃりと顔を歪ませた。
『どこ行ってたんですかぁ……!』
自分の胸に顔をうずめ、何か恨み事を口にしていた。
何も耳に入らなかった。
ただ我に返った時、自分がさっきまで何をやっていたのかを信じられない思いで反芻していた。
呆然と、妹分を殴り続けた掌に視線を落として。
『俺は……』
仇を前にして無様にも逃げ出す臆病さ。
無事でよかったと心から涙されることへの情けなさ。
一度もコレットの身を案じることのなかった身勝手さ。
あまつさえ恐怖に駆られて暴力を振るう浅ましさ。全て、すべて己の愚かしさが招いた所業だと自覚してしまった。
「…………ぁぁ……」
自分は、何をしているのか。
全身を経験したことのない羞恥が覆い尽くす。
救いようがない命が、むざむざと生き残ってしまったことを自覚した。
景色がゆっくりと暗くなっていく。
夢から覚めようとしているのだと理解した。
キーファは暗い世界で頭を抱えながら、まもなく訪れる覚醒の時を待った。
けれど。
『死ね』
覚める直前、暗闇に溶けるような黒一色の女が現れた。
笑うでなく、嗤うでなく。
どこまでも冷たい表情のまま、女の手が伸びてくる。
慄くキーファの顔を捉え、唇が触れそうな距離まで顔を近づけ、無価値な自身を弾劾するような、おぞましい声で。
『ここで死ね。これ以上別の誰かを殺す前に死ね』
『ぎゃあぁあああああ!!!』
暗転。
意識の断線か、夢の中で死を迎えたのか。
心臓を握り潰されるような痛みだけが残り、恐怖に包まれて絶叫した。
「ぁぁあっ! ……はぁ……はぁっ……!」
薄暗い黒樹肌の天井が目覚めたキーファを出迎えた。
荒い呼吸を繰り返し、寝汗を拭うと顔を覆う。
新たな拠点となった山小屋の中、今は安全のはずだから少し眠っておけ、と黒尽くめの少女に言われて横になっていたことを思い出す。
全てが、夢でなく現実であったことを思い出す。
「くそっ……くそ、くそ、くそっ、ちくしょぉ……」
死んでおけ、だと?
あんな女に言われるまでもない。
死んでおけばこんなに苦しまずに済んだのだ。
敵を討つために無謀な突撃をかまし、犬死したほうがマシだった。それを拒んで無様に逃げた結果がこれだ。
身を案じてくれた家族に怯え。
しぶとく生き残っていた旅の道ずれに怯え。
荷の中身だと自称する女に心をずたずたに切開された。
心臓がばくばくと痛ましく脈打って、最悪な地獄の中で自分がまだ生きてしまっていることを声高に主張している。その事実だけで堪らなくなる。
「ん、ぅ……きーふぁ、さん……?」
隣で体を丸めていたコレットが寝ぼけ眼を擦りながら身を起こした。頬を伝った一筋の涙の跡が痛ましい。その視線から逃れたくて目を逸らした。
「すまねえ、何でもねえんだ」
「そう、ですか……」
少女の指がキーファの裾に絡まる。
小刻みに震えていたそれに手を重ねて安堵させてやる行為さえ、今のキーファには罪深いものに思えた。
「みんな、無事ですよね」
「……」
「お、親父さんだって、無事ですよね。きっと」
何と口にしていいか分からない。
気持ちが折れていた。気休め一つ口にできないほどに。
死後の魂さえ凌辱されるような兄貴分の死に様が忘れられないのだ。
奴らの手に堕ちればあんな最期を遂げるのだと思うと、恐ろしくて恐ろしくて堪らなくなる。
「大丈夫。絶対、大丈夫。だから――」
何を根拠に、そんな強がりを口にできるのか。
親父が無事なはずがない。
きっと死んだのだ。
キーファの身勝手を呪いながら、酷い最期を遂げたのだ。
無責任な呟きに苛立ち、歯を食い縛って目を瞑る。
「――震えない、で」
「ぁ……?」
「私は、頼りないですけど。ちゃんとここ、います」
震えた手が重ねられていた。
分け与えられる温もりに虚を突かれて顔を上げれば、口を引き結んで見つめ返す家族の顔。強がりだと一目で分かる妹分を間抜け顔で見つめ、ようやく気付く。
――馬鹿だ。全部、俺のための強がりかよ。
年上の家族二人が死んで、後は自分と妹分だけ。
守れるのは自分だけ。
キーファの力が及ばず少女が敵の手に落ちてしまえば――冷や水を浴びる思いで、その手を振り払い、か細い、切なそうな声を置き去りにした。
「……あの花畑頭の様子を見てくる」
「わ、私も行きますから!」
慌てて追ってくる気配に振り向く余裕もないまま、キーファは昇った太陽を見上げて思いを馳せた。
生き残ってしまった自分に、何ができるだろう。
家族のために、なにが。
治療行為に求められるのはとにかく迅速さだ。
一刻の猶予もない状況で、治療者のパニックは生死を分ける。知識が頭にあっても、いざ実践の場が訪れると動けなくなる者も多い。
ハルもまたその一人だった。
傷口を確かめようと懐の小刀を取り出したまま硬直する。
むせ返るほどの鉄の匂い。
とめどなく溢れる大量の血。
弟の体から命が流れていく光景を前に、ハルの手と脳が恐怖で凍り付く。
「邪魔だ!!」
ルシカが突き飛ばし、その手から小刀を引っ手繰った。
「ご、ごめ――」
「いいから水を持ってこい!」
シオンの腹部を覆う衣服をナイフで引き裂き、足に巻いていた白絹を素早く脱いでシオンの傷口へとあてがう。凄惨な治療行為が始まった。
周囲に散らばる赤い絹切れ。
大量の血を吸ってまるで赤い花を咲かせたようだ。
荒い息と怒号が緊迫した雰囲気をより張り詰めさせる。
力の限り包帯を引っ張り上げ、隙間なく傷口を締め上げた。鬱血を恐れない乱暴に巻き付け方が痛ましく映り、苦痛を孕んだ叫び声にハルの心臓が跳ねる。
「グッ、ゥ、ぁあッ!」
「シオン! シオン、しっかり…… っ!」
苦しげに呻く弟の手を握る事しかできなかった。
時間を追うごとに弱くなり、冷や汗でびっしょりになった背中が家族を失う恐怖で更に冷えていく。
「……ひとまずは、これで……」
何重にも巻いた白絹の端を結んで、ようやくルシカは額の汗を拭う。指先から手首まで朱に染まった細い手は、治療行為の激しさを物語っていた。
横たわるシオンが浅い呼吸を繰り返す。
治療の手が止まるのを見て、ハルは恐る恐る問いかけた。
「……これで、いいのか……?」
「……普通の包帯なら血が染み出すのを抑えられないが、聖絹は別だ。内と外を完璧に遮断する機能は、大げさに言えば絹の姿をした結界に近い」
ルシカはシオンの肌着を破って包帯とし、それを聖絹の上に巻いて固定すると、水袋の中身を両手に注いで血を洗う。
「どうにか失血死は防げた。だが……」
「……だが?」
「命の灯が消えかけている。血を流しすぎて、脈も弱い。苦痛を和らげる手段がなければ、いずれ体力を使い果たす」
青白い顔色に大量の冷や汗。
徐々に温かみを失い、吐く息も弱々しい。
シオンの意識は朦朧としており手を握る力も微弱、一呼吸するごとに砂時計のようにさらさらと命が零れ落ちていくのが分かる。
「まだ命を繋いでいるのが奇跡だ。傷口の化膿から見て、深手を負ったのは何時間も前。本来ならもうずっと前に血を流し切っていた」
「で、でもあんなに血が出てたんだぞ、そんなはずが」
「自分を騙しきったんだ。馬鹿げた結論だが、それ以外考えられない。激情と敵意で心を塗り潰し、執念と根気で壊れていく体を騙し続けて……」
言葉の端々から困惑の色が伝わってくる。
それは強靭な精神力の成せる奇跡だ。
苦痛を押し殺し、ただ一つの終着点を目指して包囲を突破し、空に昇る狼煙を目指した。
驚嘆に値する執念。
しかし、それでもまるで足りない。
「けど君の顔を見て安心してしまった。暗示は解け、緊張感が途絶えた。全身の弛緩は自分を騙し切った代償だ。想像を絶する苦痛に、疲弊した精神は抗いきれない。私もこれ以上、できることがない」
残念だが、とルシカが首を振る。
目の前が真っ暗になった。
弟の小さな手を自分の額に押し付け、肩を震わせる。
目頭が熱くなり、口は渇いてろくな言葉も紡げない。
「質の高い癒薬の持ち合わせがあれば……いやそれより、苦痛を和らげる手段の確保か。無理が祟った代償の支払先をどうにか――」
「た、助から、ないのか……?」
「……このままでは、そうなる」
「……」
脳裏にシオンの、別れ際の姿がよぎった。
面倒くさそうに手を振り、自分を追い払う仕草。
挫けそうになる情けない兄の背中を叩く姿。
気難しくて口が悪くて、けれど健気なたった一人の家族。
あれが元気な弟が見せた最期の姿だと思い返して――
「い、いやだ……」
思い返したらもう、だめだった。
「どうにかならないのか!? 助ける手段が! なにか!?」
死なせたくない、と心が猛る。
何か。何か。何か。
記憶を、経験を、閃きを求めた。
何でもいい。誰でもいい。家族を連れていこうとする死神を払いのける、起死回生の妙手を示してほしい。
シオンを看取る覚悟なんてできない。
背中で冷たくなっていた猿顔のオジキのような、あの時の思いはもう二度と――
『――葉っぱは』
不意に、そのオジキの声が蘇った。
陽気で快活で、聞くものを思わず元気にさせるような声が、唐突にハルの脳を大きく揺さぶった。
『葉っぱは鎮痛剤、根っこは滋養強壮に良い。どちらも薬師が煎じれば―――』
「薬草樹……!」
雷に撃たれたような閃きが脳天から背中へ突き抜けた。
顔を上げ、何度も躓きそうになれながら崖の方へと走る。崖下一帯に広がる、たくさんの樹木を見下ろして。
「薬草樹の葉や根が回復薬の原料になる! 鎮痛剤なら痛みが消せる! 滋養強壮に効くなら体力も補える! オジキさん……!!」
土壇場で思い出したオジキの言葉への感謝が、ハルの胸を震わせる。喪失感でどうにかなってしまいそうなハルの背中を、猿顔の大きな掌が勢いよく叩いてくれた気がした。
諦めるな。まだできることがあるぞ、と。
「ルシカ! これだけ樹木がある森なら変異種の薬草樹もきっとある! オジキはそう言ってた! 見つけられるか!?」
興奮気味に掴みかかるハルの剣幕を受けながら、ルシカは目を伏せて考えを巡らせ、数秒と掛からず答えを出す。
「樹の見分け方は簡単だ。特徴さえ知っていれば誰でも見つけられる、が……」
熱に浮かれるハルを、ルシカは冷たい視線で制した。
今にも駆け出そうとする手首を引っ掴み、平常心を失いかけたその目をじっと見つめて静かに呟いた。
「私には薬を煎じる技術がない。知識はともかく実践となれば全く別の話だ。……君はどうだ、ハル。薬草術は冒険家なら必修するべき技能だが」
言われ、顔を青ざめながら首を振る。
薬草術は冒険家が学ぶべき技術のひとつだ。
だが無学なハルの頭に入っているのは食べていい野草の選別程度。専門的な知識を学ぶ機会には恵まれなかった。
「私たちで無理……となれば、別の誰かの協力が必要だ」
「別の誰かって、こんな山の中で都合がつく奴なんて……」
「彼しかいない」
視線が僅かに右に逸れ、追ってハルもそれを追う。
ルシカの言う『彼』が誰のことなのかはすぐに分かった。その人物は未だ敵意に似た昏い色を瞳に宿し、眉間に皺を寄せながらハルたちのやり取りを見ていたのだ。
二人分の熱を込めた視線に『彼』――キーファは、平時の景気が悪そうな面構えを、苦々しく歪めていた。




