17話 「欲と悪意は炎に似る」
湿った土の匂い。
ひんやり肌を撫でる空気の気配。
目を開けたハルが見上げた空は不愛想な凹凸に塗れた岩肌で、視線をずらせば柩の雷霆が穿った大穴から朝日がスポットライトのように差し込んでいる。
(朝? 俺、そんなに眠ったのか)
申し訳程度に敷かれた布から身を起こす。
馴染み深い関節痛に顔を顰め、寝起きの頭を振る。
掌を開き、握って力を込めると想像以上の気力が全身を駆け巡った。回復した体が伝える戦意に、確かな手応えを感じ取ってハルは口を引き結ぶ。
(――行ける。昨夜の傷もほとんど残ってない)
棺桶との戦いで負った傷も大体が完治済み。
デタラメな身体に日頃は気味が悪いと冷や汗を掻くハルも、この時だけは頑丈さに感謝する。
感謝といえば、もちろん休息を勧めてくれた彼女にも。
「……ルシカ? あいつ、どこ行ったんだ?」
黒尽くめの姿を求めて洞窟の奥へ進むも姿はない。
行き止まりまで辿り着いて首をかしげ、もう一度見落とした道がないかを散策するも成果なし。
「まさか、外に? いくらなんでも不用心じゃ」
外はまだ機人族たちが徘徊しているかもしれない。
ドゥロン山林道を取り巻く山々は広いが、敵の規模も想像以上だ。山狩りから逃れるためには居場所を決して知られてはならないとハルの経験則が告げている。
特徴的な黒尽くめの背を見付けたのはすぐだ。
洞窟の入り口で朝日を浴びる姿に安心した。
彼女の無事と、彼女に置いて行かれなかったことの二つに対する安堵だった。随分と彼女に寄りかかってしまってるな、と内心苦笑し、その背に声をかけようとして。
しかし。
表に出たハルは、そこで見てはいけないものを見た。
「やあ、おはよう。よく眠れたようだね」
気軽な声がハルの耳をすり抜けていく。
異変は彼女の背後にあった。
彼女の細い体では到底隠し切れない『それ』は、顎が外れんばかりに口を開けたハルを嘲るように煙々と空へと昇っていく。
「――何、してんですかね……?」
「うん? 狼煙をあげてるのだけど、見て分からない?」
不思議そうに首を傾げ、彼女はそっと横に退いた。
枯れ葉や落ち葉が一所に集められ、朱火を内に秘めて煙を吐き出している。白煙は徐々に黒を帯びて勢いを増し、もはや火事の前兆を思わせる勢いだった。
「火を熾すのがこれほど重労働だとは思わなかった。火を焚く効率的な手順は頭の中にあっても、実行はまた別の話だな。次は君に声を掛けることに――」
「馬っ鹿じゃねえのお前!?」
ルシカに飛び掛かるように駆け寄り、両肩を引っ掴む。
知れず力が籠もったのか苦痛の声が上がった。
「あ、ごめ……じゃなくて! 俺たちは追われてるんだぞ!? なんで自分の居場所を知らせるような真似するんだ!? 襲いに来てくださいって言ってるもんだろ!」
怒鳴り散らすが、ルシカは微笑みを保ったままだ。
苛立ちが募るが飲み込み、火を鎮めようと泡を食うものの満足な水の量は確保できそうになく顔を歪めた。
「こうなったら急いでここから離れるしか……!」
「必要ないよハル。狼煙はいま私たちが取れる最善手だ」
「どこが!?」
ルシカの言い分がハルにはまるで理解できない。
今にも樹々の陰から男たちが顔を出して一斉に襲い掛かってくる想像が頭から離れないハルだが、少女は腰まで伸びた長い黒髪の一房をのんびりと指先で弄る余裕を見せて。
「ハル。君、自分の命が長くない自覚があるか?」
ハルの心臓を一突きにするような問いかけだった。
息を呑む少年を黒曜の瞳が捉えて離さない。
先の言葉が決して与太話ではないと訴え、咄嗟に飛び出そうになった感情的な反論を封じてくる。
「やがて君を殺す裁きの日が訪れる。どうも君は軽く考えているようだが、龍の天罰は必ず君の命で贖わせるぞ。体が頑丈? 一度で死ななければ二度、三度と殺すまでだ」
冷たい声がハルの胸内へと溶けていく。
天罰によって絶命した存在を見てきたような確信が宿った言葉に、背を這いあがった怖気に身を震わせる。
「い、いや、おかしいだろ。天罰を受けても生き残った人はいる。何度も天罰が降るなんて聞いたことがない」
思い返すのは奴隷商人と奴隷の逸話だ。
誓いを破った奴隷に死者は出たものの、半数は生き残って約束の履行を商人に求めた。つまり龍の天罰は死に類する罰を与えるものの、中には命を繋ぐ者が出てくるはずで。
「君の誤解を一つ正そう。龍は決して公正ではない」
語る少女の目は冷たい。
「君の体に魔が棲み付いていることは魔道品の拒絶反応からも明らかだ。そして龍は人を庇護するが、魔は討つべしと騒ぎ立てる生き物だ。魔への差別は誰より根が深い」
「――」
「龍が魔を殺す機会を、むざむざ見逃すと思うか?」
龍を謗る言動にハルは言葉を失い黙り込む。
その暴論を本気で受け止めていいか判断がつかず、けれど彼女が感じる事態の深刻さだけは共有した。
「残された日数を逆算してみろ。馬車を失ったいま、馬鹿げた重量の黒繭を抱えてファルメール街道まで歩くしかない。どれほど時間がかかると思う?」
時間。そう、時間だ。
今やハルを縛る鎖は時間制限を取り付けた爆弾も同然。
山に立て籠もって連中が諦めるのを待つ策は取れない。
強引に包囲網を突破しての下山が第一手、しかし――ハルには護衛品『A』という枷もある。
「足手まといの女と棺桶ひとつを抱えて、連中から逃げられるか? その悪条件を力押しで突破できるなら、そもそもこんな形で追い詰められてはいないはずだよね?」
「……それは、納得した。でも、それと狼煙が何の」
「分からないか? 狼煙は君の仲間へ向けた合図だよ」
――それは、危険すぎないだろうか。
こんな山の中で狼煙など味方は怪しむのでは。
むしろ敵を誘き寄せる不安の方に天秤が傾くハルだが、ルシカは焚き火に枯れ枝をくべると「それぞれの立場で考えてみよう」と笑いかけた。
「まず味方。自分一人か、誰かと一緒か。いずれにしても私たちと境遇は変わらないはずだ」
必死で包囲から逃れ、山上に逃げ延びることだろう。
既に一夜を超えた。
眠れないはずだ。いつ追っ手が迫るか分からない。
不安なはずだ。食べ物も水も尽きていく。
打つ手もない緩慢な時間が経過するごと心が乾いていく。
「そんな時、まだ敵の手に落ちていないはずの山の上から狼煙が上がっているのを見付けたらどうする?」
「まぁ……見に行く、か? 逸れた仲間でも、関係ない第三者でも、助けは求めに……行くな、確かに」
「正解。生きているなら味方は絶対、食いつくよ」
罠だの危険だの、と理性が訴えようが関係ない。
それが誘蛾灯だと知りつつも、他の仲間たちの姿を求めてしまう。それは自然な心の動きによるものだろう。
ハルだって独りならどれほど心細い思いをしていたか。
「大体、君たちな。万が一離散したときの集合手段を事前に決めてなかったんだろう? だったら、多少露骨でも合図を送るしかないじゃないか。闇雲に仲間の名を呼びながら走り回るつもりか?」
ぐうの音も出ない。
狼煙をあげるより百倍危険で不毛な手段だ。
当てのない捜索を行うよりは、向こうから見つけてもらうほうが効率がいい。
「次に敵の目的を紐解いてみよう。荷を奪うことではない。護衛品を確保するより、君の排除を優先したことからも明らかだ」
ハルは無意識に唇を引き結ぶ。
荷を狙った襲撃ではない。これはハルも薄々感じていた。
誰かの命を狙った襲撃だった、と自分の中で結論も出ている。否、もはや誰かなどと誤魔化すべきではない。
「分かってる。連中の狙いは、俺の命なんだ」
「――」
「全部、俺を殺すために仕組まれたことだ。そうなんだろ? 大丈夫、覚悟はできてる。ばっさり言ってくれ」
「違うけど」
ばっさり否定されてハルは崩れ落ちた。
絞首刑の最中、縄が突然千切れた死刑囚のように腰砕けで目を白黒させるハルに、呆れ声が降ってくる。
「君を殺すだけなら、狸亭を買収して毒を盛るのが一番手っ取り早いし。狸亭に君の正体をリークしない理由もないし。狸亭ごと殺せる人員を雇う必要もないし」
「……」
「敵の規模を思えば、襲撃は前から綿密に計画されたものだ。君が王都に入ったのはその日のうち。もし君が狙いなら王都に入る前でよかったよ? 狸亭やら雑用組の囚人やらは狙う側にとって邪魔なだけだろう?」
「…………」
「まぁ、うん。要するにその答えは的外れなんだ。妙な自己嫌悪で死にそうな顔をするのは止めよう?」
はい、と固まった顔のまま首肯。
胸中の疼きが薄まり、代わりに猛烈な恥が押し寄せる。
自意識過剰だと言外に言われた気がして、顔が熱くなるのを止められず俯いたハルに――
「連中の狙いは皆殺しだ。君たちを人里離れた僻地でまとめて事故として葬るつもりなのさ」
物騒な結論が突き刺さった。
水袋に残っていた水を一気に煽る。
温い液体が喉を通って体に染み渡るも、ハルの気持ちは晴れる様子はない。
乱暴に袖で口元を拭い、先の言葉を思い出す。
『特定の一人を殺すなら大がかりな封鎖は必要ない。逆に言えば、この包囲網の手間には意味がある』
たかが数人を殺すには過剰すぎる人員の投入。
費やされる資金の規模は桁外れのものだろう。
誰一人逃がさない、という絶対の意思。万が一の失敗も許さないという強い殺意がなければ実現しないのだ。
『黒ヴェールの女が無作為に選んだ、というのもどうかな。狸亭の選定も含めて意図的に選んだと思うよ』
あり得ない、とハルは拙く反論した。
会ったばかりの誰かに優しさを向けられる善良な彼らが、誰かに恨まれるとは到底思えないと。
『平凡であることや善人であることは、殺意を抱かれない理由にはならない』
無邪気な子供の戯言を窘めるようだった。
黒曜の瞳がどんよりと闇を孕んで善人へと向く。
『悪党たちはね、ハル。邪魔だったら殺すし、都合が悪かったら殺すんだ。殺される者の人間性より、自分たちの利益になるかで判断するのさ』
秘密を知られたから殺す。
儲け話の障害になるから殺す。
敵対者の弱みだから殺す。
親が権力者だから殺す。
土地の権利書がほしいから殺す。
殺す、殺す、殺す。
遊戯盤の駒を取り払うような気軽さで、あっさりと他人の命を吹き散らす。
『金と欲は、常に平凡な人々を謂われなき悪意で焼く。私はそんな景色をたくさん見てきたよ』
そう微笑んだルシカの顔が頭から離れない。
獲物を丸呑みにする寸前の蛇を思わせる嗜虐的な顔。
景色を見てきた、というよりは自ら『作り上げてきた』と言わんばかりの、悪意、悪意、悪意。
『少し休憩にしよう。水を飲んでくるといい』
そして今に至る。
戻る足取りがやけに重い。
胸の裡の黒い感情を淡く掻き混ぜられる感覚を持て余し、堪えきれず重い重い溜息を吐き出す。
不条理を吠え立てんとする怒りに因るものか。
不合理に噛み付かんとする嘆きが溢れたものか。
――ああ、腹が立つ。
鬼が、毀れ出しそうだ。
「おかえり、ハル――顔色が悪いね」
「何でも、ないんだ。少し胸が苦しくなっただけ。気分のいい話じゃ、なかったから……」
深呼吸を一つ挟む。
大丈夫。ちゃんと自分は制御できる。
曖昧な笑みをどうにか浮かべてルシカの視線から逃れ、その隣に腰を下ろして話の続きを促した。
「ええと、敵の立場の話だっけか」
「……。そうだね、敵側からの接触が未だないのは私たちにとって朗報と言える」
「敵が来ないのは確かに良いことだろうけど……?」
「相手の立場になって考えるのは、この部分だね」
小枝で地面に絵を描く。
再現されたのは昨夜の襲撃の様子だ。
散り散りになった標的を追う、敵側の動きを記しながら滔々とルシカの口が滑らかに動く。
「夜襲で全滅を狙ったにも関わらず逃亡を許し、慌てた彼らは人員の大部分を投入して夜通しで山狩りを行う羽目になった。しかし……朝になって現状を把握してみれば、標的と死体の数がやはり合わない」
少なくともハルは生きてここにいる。
死体の数が足りないのは間違いない事実だ。
「彼らは一夜のうちに決着をつけたかったはず。人里離れた僻地とはいえ、人通りがないわけじゃない」
樹木を伐採に来る木こり。
山菜や動物を目的とする狩人。
魔獣を定期的に討伐するため巡回をする騎士団。
全てを秘密裏に処理したい襲撃者にとって、時間の経過は彼らとの接触に繋がる。その頻度が多くなれば事の露見に繋がる。それは彼らにとって致命的だ。
「夜を徹した山狩りの成果も芳しくないと知れば、襲撃者側は焦れてくる。山中を駆けて疲労困憊のなか、包囲網を突破されているのではないか、という不安が常に付きまとう。敵の指揮官は忸怩たる思いだろうね」
「その状況で狼煙なんか上げたら、喰い付いてきそうなもんじゃないか?」
「朗報がそれだ。足りない死体の数がひとつだけなら、もうとっくに襲いに来ているはずなんだよ」
ああっ、と得心を得てハルが膝を叩く。
未だ狼煙に対して沈黙を続けている意味は一つだけ。
「俺以外にも、生き残りがいるから――」
「よく出来ました」
ルシカがぱちぱちと手を叩く。
自分以外の誰かが難を逃れ、まだ生きている。
渡り鳥の止まり木の誰かが、あるいは弟が、まだ無事で居てくれるというならこれ以上の朗報はない。
「そ、そうか、みんな生きてる可能性が……!」
拳を握って歓びを露わにしていたハルだったが、しかしその表情がやがて引き攣った。
ルシカの説明には二つの事実が付随される。
敵はいまもこちらを監視し、動向を窺っていること。
彼らの狙いが、今なら手に取るように分かる。
「……つまり、連中は俺たちが集まったところを一網打尽にするつもりで、狼煙を放置してて……逃げようにも、居場所は向こうに補足されてて……結局、状況はヤバいんじゃ」
「はっはっは。いやだなぁハル、何をいまさら」
ルシカは両手を広げて肩をすくめた。
逆境を愉しむ余裕すら感じさせる仕草だった。
「時間の猶予も物資の余裕もない。人員の確保すらままならない。その条件で私たちは、山を囲う連中の牙を全て圧し折って勝利する。生き延びる道はそれだけさ」
逃げ道はない。
全ての脅威を薙ぎ倒すしか、道は残されていない。
逃げる以上に無謀な試みを推されたハルは頭痛を抑えるように頭を抱え、絶望的戦線の幕開けを暗澹たる思いで受け入れた。
「……ちくしょう。どうにかするしか、ないんだよな」
「うん。決断が早いのは助かる。冒険家はこれだから話が早い。あるいは君個人の資質かな?」
「そんな大層なもんじゃ……待った」
ルシカを手で制し、森の広がる下り道へと耳を澄ませる。
木々がわずかにさざめいている。
風の悪戯にしては不自然な揺れ方だ。
(音がしたのは木の上――あの辺りか)
鳥だろうか。
いや、揺れ続ける樹木の範囲は鳥の大きさではない。
「……そこに誰かいるのか! 俺の声が分かるか!?」
揺れ動く葉の波が止まる。
息を潜め、こちらの様子を窺う誰か――それが仲間であってほしいと祈る思いで呼びかけ続ける。
「俺だ! ハルだ! 狸亭の誰かか!? 無事なら姿を、」
「お兄さん……!」
直後、ハル目掛けて流れ星が飛来した。
隼のような速度で一直線に、ハルの胸の中へと着弾――勢いを殺せず後ろに引っ繰り返りながら受け止める。
縋り付く少女が身を震わせて声を絞り出した。
「ぶ、無事で……無事でよがっだ……!」
コレットだ。
涙を堪えきれず、泣き顔を胸に埋めている。
ほんの数日行動を共にしただけの、ハルの無事を喜んでくれているのが伝わって、不安を噛み殺していた心に安らぎの陽が差す思いだった。
擦り切れた衣服に返り血と泥。
苦闘を潜り抜けてきてなお目立った傷が見当たらないことに、ハルは心から安堵した。
「……ああ。ああ、ほんとによく無事で……一人か?」
「も、もう一人……」
それ以上は言葉が続かない。
助けを求めて周囲を見回すと、茂みの奥から新しい人影が姿を現した。
苦々しげにハルを睨み付けている。
「キーファ……! あれから無事に合流できていたんだな! 本当に良かっ――」
「――なんでだよ」
キーファの表情は硬いままだ。
その視線がハルを、そして黒尽くめの少女へと向く。
取り巻く状況を冷静に把握しようと努める動きが、壊れかけた人形の駆動を連想させた。
「なんで、アンタが山中にいる?」
「そ、れは――」
「親父と一緒に下山した、はずだろ。親父は? 一緒にいるのか? なぁ?」
「――それは」
言い淀む。
掛けるべき言葉がまるで思い付けない。
俯いて唇を噛み、どうにか言葉を絞り出す。
「ごめん……親父さんは――」
最後まで続かなかった。
手負いの獣さながらの形相で飛び掛かってきたキーファが、ハルの胸倉に掴み上げた。
苦悶の声。小さな悲鳴。
灼熱を宿した赤い瞳孔が、今にもハルの喉笛を食い千切らんと燃え盛っていた。




