09話 「弱者の遠吠え」
喧噪を極めた夕食の幸せな時間も、今は遠い。
虫の鳴き声と焚き火の爆ぜる音が静かな夜を彩る。
「……」
その夜、狗人族は見張りの一番手に配属されていた。
もちろん無力な自分一人ではない。
屈強な冒険家であるザジとキーファが同じ業務につく。狗人族自身は見張りの二人を補佐する役割だが、そもそも野営に慣れた二人が見張りとしてやるべきことを行い、手伝えることが何もないのが現状だ。
このままで、いいのだろうか。
見張り役として焚き火に薪を投げ入れて、心中にそんな思いを抱えながらぼんやりと炎を見つめていた。揺れる煙火の動きは、不安に揺り動く彼の心境そのものだ。
「なんだワンコ。妙に黄昏やがって。はあん? さては腹いっぱいで眠いんだな?」
「……、……」
力なく首を振ると、キーファは八重歯の見える口元を曲げて鼻を鳴らした。
「まさか、まだ鳴子作りでの失敗を気にしてんのか? あれは元々俺が一人でやってんだ。お前が失敗してもその分、俺が数作ればいいんだ。問題ねえよ」
「……」
問題ないはずがない。
悪態をつきながらも丁寧に作り方を教えてくれたのに。
茂みに隠れていない。
結び目が甘くすぐ外れる。
衝撃があっても音を出さないの三重苦。
しかも仕掛け直しをしようとしてキーファが作った鳴子のロープを切ってしまうという足の引っ張り具合。
キーファが陣を敷くように張った鳴子の仕掛けが、ドミノ倒しのように次々と崩れていく光景をおろおろと眺めることしかできなかった。
「問題ねえっつってんだろ。そりゃ腹は立ったけどさぁ」
「怒り心頭で蹴飛ばしたことをまず謝ったらどうダ」
「そりゃ蹴っ飛ばしたけどさぁ! 悪かったってワンコ! もうお互いに水に流そうぜ! こんな辛気臭い空気で何時間も火の番とか勘弁だって!」
キーファは別に悪くない。悪いのは何もできない自分だ。
ただ、気付いてしまったのだ。
自分が居ても居なくてもあまり問題がないのだ、と。
冒険家も雑用仲間も旅路を立派に支えている。それに引き換え、自分がこの旅で何かの役に立てた覚えがない。
重いものは持てない。
細かい作業も得意ではない。
学がないため彼らが話す共通語もろくに話せない。
せめて頑張ろうとしていた薪拾いも今日はオジキが全て用意したため出番なし。
いよいよ手伝えることがないことを悟った狗人族は、いつ一行から決定的な一言を告げられてもおかしくないのだ。
「はい。これで仲直りな! この話これで終わり! こっち来いよワンコ。あんまり焚き火に近いと熱にやられるぜ」
分かっている。
彼らはとても気持ちのいい人たちだ。
青年が今まで出会ってきた中でも、別格の善人たち。
今日までロクな仕事をしない無駄飯喰らいにも嫌な顔一つしない人たちだ。
だから。
だから役に立ってみたかった。
彼らの一員だと胸を張りたかった。そんな風に思ってしまったのだ。
そんな彼の鼻が、不可解な匂いを捉えた。
「?」
花のような甘さはなく、酒と呼ぶには刺激が強い。
自然界では滅多に嗅ぐことのない人工の匂いだ。
依頼人の女も似たような匂いを纏っていたが、甘く絡めとられるようなあの香りに対して、こちらは誘い惹きつける香り、という表現が最も近い。
獣人種の中でも嗅覚に優れる狗人族だからこそ分かる些細な違和感。旅の仲間たちの匂いとは明らかに違う。
「……っ」
自分たちの他に誰かがいるのだ。
この森の中に、それもそう遠くない場所に。
「……あん? ワンコ、どこいくんだ? ションベンか?」
「…………」
「あ? 違う? 分かりづれえ。とにかく遠くには行くなよ! 魔獣が居ないとは限らねえんだからよ」
こく、と頷いて焚き火から離れる。
人族の中でも嗅覚に限れば最優と言われる狗人族の鼻をひくつかせ、薄暗い森の中へとその小さな身体をうずめていく。
匂いを感じ取ったということは、対象がいるのは風上だ。
樹の香り、土の香り、自然に自生している花の香りに混じった、明らかに異質なそれを辿っていく。
「はぁ、はっ……」
風に揺れる草木の微かな音と、早鐘のように脈打つ自身の心臓の音が反響する。
ふと、さっきまで微かに鳴いていた虫の気配が消えているのに気が付いた。
知らず握りしめた掌にじっとりと汗が滲んでくる。
渇いた喉が張り付き、知らずそれを潤そうと唾を飲む。
もし誰かいたならどうする。
昼にちらりと話が出ていたオーガの山賊団ならどうする。
今からでも野営地に戻ってキーファやザジに声をかけたほうがいいのではないか。
頭を振って脳裏によぎる弱気を追い出した。
喋ることすらできない役立たずが、番犬の役目すら満足にできないと思われたら。
「いや、だ」
そうだ。
もし何も見つからなければどうなる。
居もしない脅威に怯え、みっともなく騒ぎ立てる臆病者。
『居ても居なくても問題ない』から『居たほうが迷惑だ』となるかもしれない。自分の目で何かを確認するまで、他人の手を借りてはならない。
そうだ。
むしろこれは自分の価値を周りに証明する絶好の機会ではないか。何かの脅威を先んじて見つけたなら、今夜一番のお手柄だ。
狗人族の鼻は野営で大いに役に立つことが判れば、きっと放り出されずに済む。
彼らの一員として胸を張れるのだ。
内心の臆病を勇気に変えて、匂いを辿っていく。
「…………、?」
やがて森の中でも開けた場所に出た。
匂いはここが一番濃いようだ。
だが見晴らしの良い場所にも関わらず、誰かの姿を見つけることは出来ない。
(やっぱり気のせい?)
あるいは狗人族の接近を察知し、匂いの元はこの場を離れていったのか。
(香水の匂いはもっと奥かもしれない)
さらに奥へと足を進めようとした足が止まる。
遠くに行くなよ、というキーファの声を思い出したのだ。これ以上先に進めば森の中で遭難するかもしれない。嗅覚もしばらくは香水の強烈な匂いで使い物にならない。
「うぐ」
緊張からだろうか。
お腹が痛い。
そういえば今夜はマゴーの料理を二度もお代わりした。
牛肉をとろとろに煮込んだ絶品の赤ワインシチュー。
我慢できずに豚肉や鶏肉を使った料理にも手を出した。
欲張りすぎた代償が胃から喉へとせり上がってくる。
激痛の瞬間は目の奥に火花が散った。
吐き気が止まらなくて頭の中もぐるぐると渦巻いて腹の中身が掻き回されて。
「ぉえ……」
なんて小心者。
自分でも呆れかえるが、身体はどんどん余裕をなくす。
喉奥、食道を押し広げながら口内にそれが広がっていく。
ぱんぱんに膨れた頬の内側で吐瀉物が荒れ狂う。
青年はもう、一秒たりとも我慢できなかった。
姿勢を低くする暇さえない。
立ったまま今日の夕食を盛大に吐き出した。
なんて勿体無い。
なんて……。
ぐちゃり。
「……? ……ぁぇ……」
口から吐き出したのは夕食の肉などではなかった。
どろどろと吐き出した柘榴の粒果は、青年自身の真っ赤な血だ。
「おぇ」
唇を割って飛び出した血の塊が、地面に爆ぜてどろりと広がる。思わず体を九の字に折り曲げようとして、ようやく気付く。
槍だ。
自分が吐き出したものと全く同じ液体にまみれた槍が腹部から生えているのだ。
「……、ぉ」
何か言おうとはしたのだ。
身体に生えた槍が乱雑に引き抜かれる激痛と、べしゃりと自分の身体が冷たい地面に投げ出される衝撃で悲鳴も満足にあげられなかっただけで。
うつ伏せに倒れた狗人族の後頭部を何かが押さえつける。
踏み付けられた、という事実を認識するのに長い空白の時間を要した。
「薄汚い野良犬め」
甲高い少年の声音だった。
姿はまるで見えない。
自分の血が染み込んだ土しか見つめていない。
自分が辿ってきた噎るような香水も、色濃い鉄分を孕んだすっぱい香りに呑まれ埋もれていく。
「さすが犬っころは鼻が利くねぇ。匂いを辿ってくるなんて思ってもみなかった。うんうん、グッドボーイ、グッドボーイ」
頭上から手を叩く音と共に、無邪気な声が囃し立てる。しかし上機嫌に踊っていた言葉が、不意にその形を変える。
「……でもさぁ」
拍手が止む。
彼の頭を踏む誰かの口端がおぞましいほど引き裂かれて。
「不愉快だなぁ! お前みたいな野良犬のせいでさぁ! 僕が立てた完璧な計画が台無しになったらどう責任を取るんだ、あぁ!?」
風を切る音が微かに聞こえた。
同時に、狗人族の頭がより深く地面にめり込む。
「本当に! 汚らしい! 忌々しい! クソイヌッ!!」
衝撃ごとに頭が地面にめり込んでいく。
痛みはすでにない。
衝撃もすでにない。
意識が少しずつ擦り潰されていく恐怖だけがある。
踏まれ続けた後頭部が擦り切れ、噴出した血が少年の靴を汚す。
「この畜生が! 僕に! 迷惑を! 掛けやがってぇ!!」
狗人族の顔が半分ほど埋まったあたりで、ようやく気が済んだのか少年は青年の頭から足をどけた。
ボロ雑巾のように打ち捨てられた矮躯に唾を吐きかけた少年は踵を返し、ねっとりと絡みつくような笑みを浮かべ視線を滑らせる。
「槍、短剣……予定変更だ、今すぐ仕掛ける。連中にもそう伝えろ」
「イエスマスター」
「仰せの通りに」
消えかけた狗人族の意識が、振ってきた無機質な女の声に揺り起こされる。
少年だけじゃない。
他にも何人かの息遣いを感じる。
目も鼻も自分の血に埋め尽くされて機能を失う中で、頭に生えた犬耳だけが役に立たない情報を拾う。
「では命じよう。僕の可愛い可愛い機械仕掛けの猟犬たち」
愉悦を含んだ声が聞こえる。
悪意と呼ぶには無邪気で、無垢と呼ぶには邪悪な声を、狗人族の耳が拾い続ける。
口と腹から命が零れ、冷たい地面が命を吸っていく。
寒い、寒くて寒くて仕方がない。
暗闇が青年の意識を呑みこみ、ゆっくりと咀嚼している。
何が起きているのか分からない。
自分がどうなっているのかも分からない。
だというのに聴覚だけが鮮明に役割を果たし続ける。
このおぞましい声を。
決して聞き零してはならないというように。
「皆殺しだ。哀れにも僕に目を付けられた八匹の獲物、一人残らず殺し尽くせ」
イエスマスター、と言葉が返る。
気配が一つを残して消える。
満足げな少年の声が、血だまりの中で痙攣を繰り返す狗人族の上で「ああ!」と声を漏らした。
「しまった。もう七匹だったね。ギヒ、ハハハッ」
それが最後だった。
少年の気配も消え、狗人族の傍には誰も居なくなった。
うつ伏せで倒れたまま浅い呼吸を繰り返し、呻き声ひとつあげられない死に体に、もはや何の価値もないとばかりに。
「……カッ……ひゅー……」
悔しい。
口惜しい。
泥で潰れた目から、薄緋色に染まった涙が溢れてくる。
涙の一滴すら生きるために必要なものなのに、惜しむことなく零れていく。胸の内から今まで経験したことのない感情がせりあがる。
「ぅ……ひゅー……ウッ……ォ……」
許さない。
赦さない。
あの人たちを殺すなんて。
あの人たちを傷つけるなんて、ユルサナイ。
「ォ、ォ」
震える手が地面を掻く。
潤滑油の切れた機械のようにぎこちなく。
腕を動かし、潰れた顔を引き抜く。
ぼたぼたと零れるのは涙か血か泥か、それとも内臓?
どうでもいい。
口と喉にたまった邪魔物を吐き捨てる。
口内を空け、喉を通し、掠れた息を吸い込む。
空っぽの肺が貪欲に空気を取り込む。
赤く濁った目を開き、暗く翳った空を見る。
真っ赤に染まった三日月が無様に足掻く姿を見下ろし哂う。
ああ、ひとつだけあった。
最後の最後、自分が役に立てる瞬間が今この時だ。
身体にありったけの力をこめる。
刺し貫かれ、空洞が生まれた腹筋を無理やり動かして。
血の流出をわずかに緩め、四肢に力をみなぎらせて。
「ォ、ォオオオオ、ウォオオオオオン!! ワォォォオオオオォォオッ!!!」
届け、小心者の断末魔。
どこまでも遠くへ、遠くへ、空を駆けて響き渡れ。
山すらも覆い尽くす、命を掻き散らす雄叫びよ。
こんな役立たずにも親切にしてくれた、あの優しく善良な人々へ届け。
「ウォォオオオ、ォ、ガフッ、げふ、ォォ、ォン……ォォォ……ゴフッ」
吐いた。
あらゆる吐瀉物を撒き散らした。
吐き出された物の中には内臓の一部すら混ざっていた。
汚物を撒き散らしきった狗人族は、彼らしからぬ獰猛な笑みを作った。
ざまあみろ。
口元をそんな風に動かして、青年は三度月を仰ぐ。
変わらず哂うそれを見据えながら、青年はゆっくりと目を閉じる。地面に膝をつき、天を仰いだその姿のまま、彼の時の針は止まった。
もう二度と、動くことはない。
弱者の遠吠え。
命を燃やし尽くしたささやかな抵抗は。
ほんの少しだけ、残された人々の運命を変える力を持っていた。
ほんの、少しだけ。




