03話 「凱旋パレード」
聖都四方の正門と王城の間には広大な公道がある。
城へと最短で走り抜けることができるように設計された石造りの大道は、互いの行き来を優先したものだ。
日頃は頻繁に商人らの馬車が行き交い、時折衛兵らの掛け声で停車し、その間に人々が渡っていく。
だがいま、その公道には警備兵のみが点在し、熱を帯びた表情の民衆たちは公道の両端にある街道へと移ってその時を今か今かと待っていた。
「正門から王城までびっしりと人が。ああ最悪」
前後左右を人混みに挟まれ、心底うんざりしたシオンの嘆きが雑踏の中に消えていく。
「こんな馬鹿げた催しに付き合わされるなんて」
騎士団の凱旋を耳にした兄の足取りは、まるで背中に翼が生えたかのよう。見失わないよう慌てて後を追った結果がこれだ。真後ろに立つ狸親父の存在もわずらわしい。
「狭い、暑い、あと毛深い。オジサンもっと尻尾退けてください。大体何で一緒に付いてきてるんですか? まさか善からぬ下心が?」
「これこれ。ワシだって騎士団を一目見ようと走ってる最中で……」
「ここか! ここに居れば騎士団見えるか!?」
「見える見える! それ以上前のめりになるでない!」
今にも人波を泳いでいきそうなハルの背に声を飛ばしつつ、濁流に小柄なシオンが呑まれていかないよう腕をシオンの左右に広げて人混みを阻む狸人族。
彼が作る防波堤に守られながら、膨らんだ腹や丸まった縞々尻尾の感触に不快感を覚えつつシオンは不機嫌そうに呟いた。
「これ全部が騎士団目当てなんて馬鹿げてる……」
「王家や騎士団の信奉者が多いのは当然じゃろうに。凱旋をお出迎えするのは市民の義務じゃ。ここで安心して商売ができるのも、王家と騎士団が魔獣を討ってくださるからこそ」
魔獣が世に蔓延る世の中で『安全』がどれほど有り難いことか。その感謝をエリュシードの民は決して忘れてはならん、等々。
説教が始まってしまって余計にシオンの眉が苛立たしげに吊り上がっていく。
これも全ては愚昧なる兄が悪いのだ、と恨みがましい目を向けるのだが。
「うおおおミトラ王家万歳ー!」
弟の視線などどこ吹く風で、この始末。
熱狂する市民に混ざって目を輝かせ、時折拳を突き上げては王家への尊敬を叫ぶ集団に混ざる兄のはしゃぎようには閉口するしかない。
「――であるからして。近頃は物騒な噂が飛び交っておるんじゃよ。やれ魔獣が活発化したのは魔族の仕業だの、魔神をこの世に蘇らせようと目論むオーガの山賊団が暗躍しているだの、と」
夢中に語っていた狸人族の口がひくりと強張った。
聞き流す姿勢だったシオンの緑葉色の瞳の感情が変わったことに気が付いたのだ。
「まるで、泣き止まない子供に語る怪談ですね?」
探るような、冷たい声。
何故だか心胆が冷えた心地がした狸人族であったが、ごほんと咳払いをして気を取り直す。
「そうとも言えん。このエリュシード界隈で行商人の荷を襲う罰当たりな山賊団が暴れまわっとるのは事実じゃ。その首領はオーガと見紛う恐ろしい姿の男じゃと」
「鬼人族と吹聴する、間抜けか」
嘲笑を浮かべ、渇いた唇を舌で舐める。
馬鹿げた話、と呟いて何かを堪えるように体を震わせるその姿に、狸人族は振る話題に失敗したことを悟った。
理由は分からないがどうも機嫌を損ねてしまったらしい、と尻尾に汗をかいていると。
「よほど鬼人族が恐ろしいのでしょうね、ヒトは」
誰に聞かせるでもないような呟きであった。
喧騒と歓喜の声の中にあって、諦観に満ちたその声は風の妖精の導きを得たようにハッキリと狸人族の耳に届いた。
「魔族だの魔神だの関係ないはずの、たかが山賊がオーガだと吹聴するだけで震え上がる。滑稽だと思います」
「……それだけ龍喰らいの逸話は凄まじい。ただ裏切るだけでは、ただ尊き龍を手にかけるだけであればここまでではなかった。龍と王家への尊敬の念が、ワシらに寛容さを失わせた」
狸人族が痛ましげに眉を下げる。
龍に代わり世界の運営を執り行ってから今日に至るまで、ヒトという種の航海史は様々な過ちに満ちたものだった。人という種の傲慢さが蔓延った暗黒の時代も。
けれど未だにオーガという種が許される日は訪れない。
誰もが過ちを犯した時代があり。その時代を乗り越えてなおも赦しの日は訪れない。
やがてオーガという種は絶滅の憂き目に遭った。
迫害され、人前に出てきたという噂さえ不確かなものとなり、その内誰もが心の奥底で一つの人類を殺し尽くしてしまったという想像に行きついた。
「今やオーガは伝説上の生き物じゃ」
神話時代に暴れ。
人の時代においては弾圧され。
現代に滅び尽くされし裏切りのヒト――故にこそ。
「もし生き残りがいれば、きっと復讐心を煮え滾らせて牙を向く。その日が恐ろしくて、ワシらは病的なほどにオーガを怖がるのよ」
「そうですね」
適当に話を合わせるような、投げやりな相槌だった。
もはや狸人族のほうを振り向きもせず、ただその視線を興奮の只中にあるハルの背に注いで、何の感情も籠もらない伽藍洞の声が。
「鬼は、――」
幸いなことにそれが誰かの耳に入ることはなかった。
全ての音を置き去りにするような大歓声。
びりびり、と鼓膜を揺るがす歓喜に満ちた怒号の前に、小さな呟きが掻き消える。誰も拾うことのないその唇の動きだけが、昏く渦巻き濁る感情を表した。
「鬼は、決してお前たちを赦さないかと」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ハルの心臓は早鐘のように騒いでいた。
胸に手を当てて心を落ち着けようとするが、視界は緊張でぐにゃぐにゃで、火のように熱くなった顔からは汗が止まらない。握り締めた拳も震えが止まらない。
昂揚する感情の渦に巻き込まれて、いま自分が何を口走っているかも定かではない。
だって六年だ。
命を救われてから今日まで、都に辿り着くだけで六年も費やしてしまった。
月日は短かった手足を人並みに伸ばし、少年を大人に変えた。
あの子はどんな大人になっただろう、と心を弾ませる。
もしかしたら見惚れて魂を奪われてしまうぐらい綺麗な女性になっているのかも、と思うと口端のむず痒い痙攣を止められない。
そして、その時は来た。
南正門の鉄扉がゆっくりと上がり、怒号のような歓声が轟く。騎士団の凱旋を目にするより前に、誰も彼もが笑顔で声を張り上げる光景にまず心臓が高鳴った。
「すげえ……!」
突き上げられる拳。
張り上げられる声援。
渦巻く熱狂的な歓迎。
感動に体が震え、ハルも隣に倣って拳を掲げる。
子供の頃に思い描いていた夢の一つ。凱旋を果たし賞賛を浴びる憧憬の少女を、きっとこの目に焼き付けること。それがまさか――
(王都初日で、その幸運に巡り合えるなんて!)
最前列付近までどうにか体を滑り込ませる。
先頭を尊き聖龍の旗を勇壮に抱えた騎兵が歩き、その背後を重装兵らが続く。彼らは騎士団の所属でなく、選抜された一般の兵士達だ。
皆その顔を冷たい光沢を放つ鉄兜などで覆い、それぞれ思い思いの旗や槍を誇らしく掲げて、一糸乱れぬ動きをもって前進する。
「遠征隊を先頭に立たせた凱旋は珍しいのう。大体彼らは人がまばらになる最後尾にくっ付いて帰ってくるんじゃが」
凱旋の順番は騎士団の長、王族が方向性を定めるという。
今回の凱旋は日頃裏方とされる後方支援の面々に花を持たせる形のようだ。
屈強な兵士たちの後には、物資を運ぶ力自慢たちや身の回りの世話を行う従士らが並び、照れ笑いをしつつ控えめに手を振っている。
彼らへと雨嵐の如く人々の拍手が降り注いだ。
騎士ならぬ身で魔獣討伐に随従せし勇敢な者として、その栄誉ある任を全うしたことを賞賛するのだ。何と暖かな光景だろう、とハルの心が熱くなる。
「騎士様だ!」
頑強な体躯の着飾られた騎馬団の登場に、周囲の黄色い声がさらに熱を帯びる。
華やかな鎧に身を包み、手を挙げて声援に応えるのは四人の騎士。
国より卿の称号を与えられ、王国とその民に剣を捧げた守護者は威風堂々と公道を進んでいく。通りがかると民衆はさらに興奮の色を濃くし、惜しみない賞賛の声を贈った。
「尊き血を引きながらも厳しい試験と修練に挑まれ、地位を勝ち取り、命を削って魔獣らを斬る王国の守護者。おお、何度目にしようと心が震えるのう!」
「聖龍国が誇る一騎当千の強者とは聞いていましたが」
懐疑的に眉を顰めてシオンは訝しむ。
装飾過多とも思える絢爛な鎧には傷も見えず、腰に挿さる儀礼用の剣は抜き難そうな鞘に収められている。
とてもではないが、狸人族の話のような武人の出で立ちとは思えない。冒険家として生計を立ててきた身としては、実力に疑問符をつけたくなるのだが――
「騎士を冒険家や山賊と同じ目線で見てはならん」
窘める声を受け、シオンの肩が僅かに震えた。
言葉の裏側に込めた皮肉を正確に見抜いてみせた狸人族の太く丸い指が、ちょうど真横を通り過ぎる騎士の腰を指差した。
よく目を凝らせば、ゆらりと膨大なマナが陽炎のように揺らめいているのが見えた。
「……なるほど。魔剣使い」
「いかにも。剣の腕前も疑いようもないが、やはり騎士様を語るに契約者であることは外せんわい。彼らが他者と比べてどれほど優れているか、冒険家ならば分かるはずじゃ」
契約者。
人ならざる存在と盟約を結んだ者たちを指す言葉だ。
古くは神話時代、聖女と神龍が盟約を結んで魔神を封印した逸話に端を発す。
鍛冶族謹製の魔剣に見初められた魔剣使い。
名付きの精霊と心を通わせた精霊術師。
超常の生き物を使役する幻獣使い。
彼らとそうでない者の間には、明確な力の差が存在する。
「道理で。言われて見れば騎士たち、みんな人間族でしたね。契約における親和性の高さ、羨ましい限りです」
その資質において最優であるのが人間族だ。
契約者でない彼らは何の特徴もない無力な人々だが、こと契約という点についてはどの種族も敵わない適正を発揮する。
ただしそれは純血種の人間族に限る話。
彼らは他種族との間に子を儲けることのできる種族であり、それゆえの弊害もある。
「ん? 嬢ちゃんも人間族じゃろ?」
「……ああー僕、混血種なんで片親だけが人間族ってやつだから種族特性は人間じゃなくて――あん? 嬢ちゃん?」
予め用意された紙の内容をそのまま音読するような声がぴたりと止み、そして振り返る。
可憐な顔立ちの額に青筋を立て、花も恥じらう微笑みを浮かべて。
「オイこの節穴タヌキ親父。ちゃんと男の格好してるでしょうが。女扱いとか良い度胸ですね、火を付けた薪を背中に括り付けてやりましょう、踊れ」
「ぬおぉこんな狭い場所で暴れるでない!? いやっ、すまんかった、綺麗な顔しとるからてっきり――痛い痛い尻尾はその方向には曲がらんタスケテー!」
背後で繰り広げられる茶番には気づきもせず、ハルの視線は公道に釘付けだった。
騎士が通り過ぎ、続いて物資を積んだ馬車が走る。
(……まだか、まだか?)
目を凝らし探す。
生まれてこの方開いたことがないくらい目を見開き、視野を限界まで広げ、風の与える刺激に痛みを感じながら、あの日出会った小さな英雄の面影を探す。
見落としてはいないはずだ。
通り過ぎていく人々の中には女性は数えるほどしかいなかった。目立たないよう端のほうを静々と歩くのは世話係の女官達だろうか。
集団の先頭を歩く栄誉に預かった従士たちとは纏う雰囲気が異なった。華やかな騎士の凱旋から視線をそらした先、奇妙な人物が目についた。
清廉な白衣に身を包んだ女官に囲まれて、その人物はパレードを歩いていた。
(……なんだ、あいつ)
最初に抱いた印象は、黒、だった。
不吉なほどに、まるでそれ以外の色を許さないとばかりに、漆黒に染め上げられた姿。
頭から爪先まで覆ったフード付きのローブも、そこから零れる髪も全てが黒。存在全てが純黒に染まった、まさに影。
闇夜に乗じて暗躍する暗殺者。
あるいは森に住まう黒衣の魔女か。
いずれにせよ白衣の女官の中に放り込まれては悪目立ちも致し方ない。明らかに怪しい黒ローブに、祭りの花形たちに熱狂していた住民たちもざわつく。
男とも女ともつかないその人物は、両手を腹部の前で交差するように差し出している。手を戒められているのだと気が付くのに、少し時間を要した。
(罪人?)
それにしては、黒ローブの足取りは堂々としたもの。
四方八方からの無遠慮な視線に晒されながらも、誰に恥じるでなく顔を上げ、パレードを楽しむ余裕さえ感じられた。
その瞳が、やがてハルの視線とぶつかる。
(――女の子だ)
黒一色に染められたフードの裾から覗いた、白い柔らかな肌が、その人物を女だと連想させた。
同い年か、やや年上。
背丈は女性として見たならば高いほう。
その目を見た瞬間から、黒曜石の瞳に吸い込まれていく錯覚を覚える。
名前を付けられないほど様々な感情、想いが複雑に絡み合った、冷たくも熱を帯びた宝石を垣間見たような、それほどに印象深い瞳だった。
「――――」
「え、なんだって?」
彼女は表情を消し、神妙な顔つきで唇を微かに動かす。
辺りに木霊する歓声が当然のようにその声を打ち消す。
直後、ハルと彼女の間に騎乗した従騎士隊が通りがかり、視界をふさいでしまった。
ほんの十秒にも満たない空白の時間に黒づくめの少女は通り過ぎ、もはや女官の白い後ろ姿に黒尽くめの姿は埋もれ、見えなくなっていた。
「……行っちまった。何だったんだ、あれ」
狐か狸にでも化かされた面持ちで目を擦る。
ふと狸人族は簡単な幻術の異能を持つことを思い出し、隣でシオンの報復に身を縮ませる狸親父を見やったが、もちろん彼が化かした様子はない。
彼は何時の間にやらシオンに太い尻尾を捻られて泡を吹いていたが、ハルの視線に気が付くと、これ幸いと唾を飛ばし縋りついてくる。
「ぜ、ぜぇ、はぁ。そ、それにしてもお兄ちゃんのほうは熱心に見てるのう! 目当てがおるんじゃろう? 誰を探しておるんじゃ?」
「ふん……王女様だそうですよ」
答えたのは兄の視線に気付いて尻尾を解放するシオンだった。不機嫌そうに唇を尖らせて。
「兄さんは王女様の大ファンなんです。ほら、いるじゃないですか、とびきりの天才剣士が。確か異名が……けん、剣……なんでしたっけ?」
「は? 王女……?」
狸人族が硬直する、その時だった。
これまでとは明らかに一線を画す、広場の空気そのものを揺るがすような大歓声。
子供の高い無邪気な声、女性たちの熱のこもった悲鳴に近い嬌声、男性たちの怒号にも近い声援が、その場の空気を一瞬で塗り変える。
パレードの主役、尊き王族の登場だ。
頭から先ほどの黒づくめへの疑問が吹き飛び、今まで以上に前のめりしパレードの最前列へと身を乗り出した。後ろからの狸人族の注意喚起の声も遠い。
「来た……ッ!」
豪奢な装飾を施された馬にまたがり、民衆たちの視線を一身に浴びる人物を捉えた。
王威を示す白銀の意匠、刻まれし聖龍の刻印。
想像より少し、いやかなりがっしりとした体格。それでも女性の割には大きい、というだけで違和感があるほどではない。敢えて例えるなら貴公子か。
その人物が手を振るたび、歓声が高まっていく。
ハルの心臓の鼓動も比例して高ぶるのだ。
六年ぶり――
一方的に見知る関係とはいえ、ついに再会を果たせたのだ、と笑みが深まり。
「今日凱旋したのは、第一王子……ロイ・アムレート・ミトラ様のほうなんじゃが」
直後、前のめりになっていたハルの視界が盛大に回った。
「え、ちょっと……兄さん?」
「い、いかん!」
人間、心の底から驚くとまず足から力が抜けるらしい。
絶妙なバランス感覚と力配分で成り立っていた姿勢が傾いた途端、周辺にいた何人かの観客を巻き込んでハルの体が崩れ落ち、射出する勢いで公道に飛び出した。
よりにもよって王子の通りがかったタイミングであり。
突如飛び出してきた痴れ者の存在に王子を乗せた馬が身を竦ませ、手を振っていた王子は突然の揺れに対応できずに落馬した。
「うわっ!?」
広場は騒然となった。
王族の凱旋という一大イベントに悲鳴が木霊する。
王子の身を心配する声、乱入した小汚い冒険家への罵声は驚くべき速度で加速し、蜂の巣を突いたような大騒ぎが巻き起こった。
幾つもの怒号と非難の声が浴びせられたハルは、ぺたりと座り込んだまま茫然と瞬きを繰り返し、空気に呑まれて何も考えられない。
やがて、第一王子が頭を抑えながら身を起こした。
「……えぇと、怪我は?」
「ぁ、はい、大丈夫、です」
さすがは民衆の敬愛を一身に浴びる第一王子。
その流麗な声音は、まるで天使が吹くラッパのようだ。
眉を顰めつつも決して怒鳴り散らさず、むしろ慮る態度。
不作法に過ぎる一平民を気遣う慈悲深さ。
その穏やかな人柄を知れただけで恐悦至極というもの。
などと的外れな感想を抱いている間に、強面を一層険しくさせた兵士たちに殺到され、ハルは敢えなく御用となった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「パレードの妨害に、民衆への危険行為。王族暗殺未遂なんて噂もありましたよ。冒険家ってほんと野蛮ですよね、ダメ兄。ねえいまどんな気持ち?」
ハルが詰め所の薄暗い牢屋にぶち込まれて数時間後。
鉄格子の柵越しでの面会を許された弟からの、開口一番の熱い激励を受け、ハルは冷たい石床に頭を擦りつけて絶叫した。
「ご迷惑をッ! おかけしましたァアッ!!」
「これからですけど? ご迷惑が掛かるのはいままさにこれからなんですけど」
遥か北の海にあるという氷の大地を思わせるシオンの声音に、ハルは下げた頭を上げられないままぐっと唇を噛み締める。
分かっている。
過失とはいえ、これは謝って済むような軽い問題ではない。
パレードの妨害および尊き王族への傷害の現行犯だ。今もハルの首と胴が繋がっているのは『大事にしなくていい』と言い添えてくれたロイ王子による慈悲の賜物だ。
現在、衛兵の詰め所の中ではハルの処遇についての討論が行われている。王都からの退去、あるいは長い懲役刑は覚悟しなければならない。
「結局、正門の衛兵さんのとこに戻ってきましたね」
「さっき牢屋に来てたぞ、その人たち」
「何が一番効きました?」
「俺は『お前に罰金を払わせるために金を恵んだわけじゃねえんだよ死ね』が一番ダメージでかい」
「僕は『あの子の兄貴じゃなかったら牢屋じゃなくて独房にぶち込んでた』って凄んだおじさんがポイント高いです」
近くで聞いてたんじゃねえか! と喚き散らす気力もない。
シオンは牢屋の鉄格子に背を預け、兄から顔をそらす姿勢で、ため息を更に一つ。その小さな後姿から、ハルに対する落胆が見て取れた。
「少し前に兄さんの処遇が決まりました。王都からの追放刑か、あるいは金貨五枚相当の罰金刑」
「…………ご、じゅ」
絶句する。
そんな大金、払えるわけがなかった。
だが追放刑はもっと悪い。二度と王都に足を踏み入れないことを龍と精霊に誓わなければならない。
それは夢を諦めることと同義だ。
手足に力が入らず、崩れるように座り込む。
「全く。五十万エーテルって馬鹿げた金額ですよね。肉串何本分か! て思わず地団駄踏みましたもん」
「……」
「…………むう」
何の反応も返せず考え込む。
罰金刑の金が支払えない場合はその身柄を国が預かり、労役を課される。その賃金から罰金を支払い、払い切れば解放されるが、何十万という大金を稼ぐには数年から十数年の時間を要するだろう。
重苦しい無言の時間が続き、そして。
「では兄さん。そういうことなんで、お元気で」
あっさりとした別れの言葉。
のろのろと頭を上げたハルは、弟の小さな背中を見上げて力ない笑みをどうにか作る。
「シオンは……これからどうする?」
「ひとまず宿でも。幸いにも兄さんには家賃タダ食事付きの良物件が見つかったようですし? 今夜は旨汁溢れる肉料理に舌鼓を打ちつつ、羽毛布団付きのベッドを朝までじっくりと堪能します」
ぐふふふ、と不気味な笑みを残してシオンは去った。
大丈夫だろうか。自由になったお金を今夜中に使い切って路頭に迷わなければいいが、と自分を棚上げするハルだったが、独りの時間が長く続くうちにそんな心配も消えていく。
「は、……何やってんだろうな、俺」
石造りの床をぼんやりと見詰めた。
格子付きの小窓から零れる陽が夕暮れに赤く染まっても。
光の恵み手が太陽から月に変わっても、ハルは身じろぎひとつできなかった。
後悔が胸を占める。
誰のせいにもできない軽率な行動。何度自分を責め立てても足りはしない。
懲役刑ともなれば記録にも残るだろう。ただでさえ希薄だった夢への可能性を完全に摘み取ってしまったかもしれない。そう思うと知らず涙が溢れていく。
「ぐそっ……」
泣いてはだめだ。
腕に顔を押し当て、零れそうな涙を無理やり押し戻す。
暗い場所でたった一人、孤独と無力感を押し殺すことには慣れているはずだ。
でも何も考え付かない。
これからの展望も、未来への期待も、何も思い描けない。
絶望がゆっくりと全身に染み渡って。
ふと、何かの気配を感じて顔を上げる。
鉄格子の向こう側で黒い女がハルを見下ろしていた。
「うわあっ!?」
湧きあがる怖気に従って転がるように距離を取り、眼を血走らせんばかりに見開いて女を凝視した。
クスリ、と醜態を晒すハルの姿を哀れむような微笑みに、目の前のそれが亡霊の類でないことをどうにか受け入れる。
「だ、誰だ、アンタ……?」
紫紺のドレスに目元を覆う漆黒のヴェール。
暗闇のなかで毒々しい澱んだ光を放つ赤く熟れた唇が、夜闇に浮かぶ三日月のように不気味な存在感を醸し出していた。
女は黒手袋で包まれた細指をハルに向かって伸ばすと、睦言のように甘く熱に浮かされた声音で囁いた。
「一目惚れしちゃったぁ。あなたに、決めたわぁ…」
途端に牢の扉が解錠され、衛兵らが入ってくる。
ハルは何事かも分からないまま両脇を抱えられ、薄暗い牢屋から引きずり出された。




