30話 「リザルト」
「すっげえ……」
ハルの目を眩ませる何百枚もの金貨の光。
机に積まれたその光景の前に眩暈を覚え、指先から震えが来た。
銀貨以下の硬貨は一つたりともこの場にはない。
山積みになった金貨の威容は、その輝きでのみ作られた模型の砦そのものだ。
夕暮れの朱が窓から差し込み、それがまた現実味のない美しい色彩を形作る。
いつまでも目に焼き付けておきたいような、見ていると魂が奪われてしまうかのような、そんな美しくもおぞましい輝きを放っていた。
「ふふ」
少女から笑みが零れるのも無理なきこと。
たった一枚の金貨で十万エーテル。
成人男性一人が稼ぐ一ヵ月分の俸給のおよそ七割程度。今回のゴブリン退治として提示された報酬、銀貨十枚と同価値に当たる。ならばざっと数百枚はある金貨の山はどれほどの価値か。
「ああ、とても楽しい商売だった。ふふふ」
龍と精霊に誓いを捧げ、履行された取引の結果だ。
ルシカは決してファロウ商会と本物のバシム・ファロウの咎を表沙汰にしない。
代わりにバシムはファロウ商会後継者の看板を盾に、自分の裁量で引っ張って来れる限度額をエリュシード中から工面する。
要するに借金して金を作れ、という要求を通したのだ。
バシムは故郷の紅龍国にまだ財産を残しており、エリュシード側への返済にはそれを充てさせる。
金を手渡し早々に故郷へと逃げ帰れば、命と名誉と僅かな財産ぐらいは手元に残るだろうと言いくるめてみせた。
金の流れが父親に露見すればその限りではないだろうが、それこそバシムは死ぬ気で隠し通そうとするだろう。
「鬼だ……」
自分という存在を棚上げして、ハルは呻く。
「何を言うのやら。骨をしゃぶられる程度の勉強代、彼は甘んじて受けるべきだとも。この上で秘密の公表に踏み切らないだけ、私は甘いのさ」
「え、それ契約で縛ったはずだろ?」
「『私は決して表沙汰にしない』が、別に私以外、例えばハルの口から漏れる分は対象ではないんだよ。バシムは一向に気が付く様子もなかったけどね」
大仰に両手を広げ「呆れ果てた」と笑う姿からは役者の違いが垣間見えた。
結局あの青年は大枚をはたいて買ったはずの安堵さえ手に入れてはいなかったのだ。
彼が命と名誉を繋いでいられるのは、ただ少女の気紛れによるものでしかないのだという結果に憐憫を覚えてしまう。
「まぁ悪戯に彼の平穏を乱す理由もないからね。彼は国外に逃げ、恐らくは二度と聖龍国に足を踏み入れない。きっと二度と会うこともないだろう」
ならば彼の結末はこれで十分。
肉片一つ残らない骨に執着するのは痩せた犬の所業だ。
ルシカは哀れなるバシム・ファロウの全てを記憶の奥底へとしまい込み、それから掌いっぱいに金貨を乗せて、愛すべき相棒へと微笑みかける。
「私たちの成果だ、ハル。四千万エーテルはある」
「本当にいいのかなこれ……」
「君が命を削り、私が命を懸けて得た当然の報酬だ。善人の命を誰も彼も救い倒し、悪党は身から出た錆で破滅し、あるいは二度と悪事が働けないほどの傷を負った。これ以上の精算があるものか。喜んで受け取っていいんだ」
それに、と一度言葉を区切って。
「君の目的に、金の力は必要不可欠だ」
「そう、だな……」
喜んでいいのか、善人のハルには分からない。
夢の為に。目標の為に。そう言い聞かせることができる金なのかどうか。自身の良心と折り合いをつけるには、少し時間が掛かりそうだ。
「ざっくりと右から半分が君の取り分でいいか?」
「……、マジで?」
推定二千万エーテル。
何十年という年月をかけて得るべき大金で、ハルのような小童が手にしていい額ではない。実感が湧かず、声を震わせながら首を振る。
「いや、ない。ないない……」
「私が立案し、君が実行し、両方ともが命を懸けた正当な取り分だぞ。私の場合は貞操だけど」
反応に困る言い分はやめてほしい、と内心ぼやきつつ気おくれするハルの狼狽を楽しみながら金貨を革袋に詰めて。
「私と君の間に上下はない。対等の関係なら、得た成果も対等に分けなければならない。是が非でも半分、受け取ってもらうから」
「……どこに保管しろってんだよこんなの」
「大金は抱いて眠るに限る。脳髄が痺れて気持ちいいよ?」
「嘘だろ?」
一睡もできない未来しか見えない。
しばらくは鼻歌混じりに左半分の金貨を革袋に詰めていくのを惰性で眺めていたが、やがてハルも諦めたように金貨の山を革袋に詰めていく。
僅かばかりの銅貨や銭貨が入った革袋があっという間に金色で埋め尽くされる。古びた背負い袋の中に残りを放り込みながら、とりあえず革袋の補充を心に決めた。
「新品の剣と鎧を買い直して衣食住と診療所にこれだけ回して……ルシカ、何か買っておいたほうがいいものあるか?」
「市民権は最優先項目かな。税金納付の義務が生じるが、国に権利を保障されるのは大きい。流れ者扱いの浮民より公共機関も使いやすくなるし」
「買えるのかよ市民権って」
「あまり大声では言えない方法でね。手数料込みで二百万エーテルで済めばお買い得かな。君がその気なら値段交渉しようじゃないか」
知りたくない世間の裏側を垣間見そうだった。
ぶるぶると首を振って遠慮の意を伝えるハルの顔がツボに入ったのか、ルシカは心底可笑しそうに笑う。
商人だとか悪党だとか、そういった余分に飾られない少女の素顔は、ハルの目には他のどんな瞬間よりもいっそう魅力的に映った。
「さて」
目尻を拭い、ルシカは微笑みを崩さないまま。
「次の商談があるから、そろそろ気を引き締めようか」
仕事はまだ終わってないことを告げた。
「ふあ?」
間抜けな声が口から漏れるのとほぼ同時に、扉を乱暴にノックする音が部屋内に響き渡った。
「な、なんだ?」
「ふふふ。来たみたいだ」
扉を叩く勢いがあまりに強いため部屋主の牛人族が怒鳴り込んできたのかと顔を引き攣らせるハルだったが、ルシカは予定調和と言わんばかりに肩をすくめた。
「ハル。まずはお客様に入ってもらって、それから今朝みたいに私の後ろに控えててくれ。威圧する感じに腕を組んでくれると尚よし」
金貨ではち切れそうな革袋の一つを、机の上に放り投げる。
口紐が緩んでじゃらりと金貨がこぼれ落ち、それを直すことなくルシカは椅子の背に深々と腰かけて指を組んだ。その表情は既に商人としての顔付きに戻っている。
「……な、なんかこの流れ、嫌な予感が」
呟きつつ、扉の向こう側にいる被害者に思いを馳せる。
一体誰が来たのだろうか。
今なお扉を激しく打ち鳴らす様子からは、滲み出るほどの怒りや苛立ちが見て取れた――果たして、恐る恐る扉を開いてみれば、その疑問はあっと言うのに氷解する。
「アンタは……」
唇を噛み締め、眼を血走らせた中年の女。
全身を震わせハルを睨み付ける彼女の名は知らない。だが、どう呼称すべき相手かどうかはハルも知っている。
「ようこそ。豊穣の牝牛亭の現主人」
相棒の少女は殊更に明るい声音で彼女を呼ぶ。
アーネの叔母に当たるその人物は、今にも飛び掛かりそうな目付きでルシカを見やる。
慌ててハルはルシカの後ろに回り、止まり木の店主がどんな行動を起こしても対応できるように備えた。
彼女もまた、ピーター事件の首謀者の一人。
ルシカにとっては彼女もまた、金を搾り取っても心が痛まない悪党の類かもしれないが……どんな話し合いになるのだろうか、とハルもまた固唾を飲んで見守った。
「いや、もう元主人? 看板娘の美味い食事で持ちこたえていたお店だし、彼女がいなくなれば一日で閑古鳥が鳴くのは仕方ない。アーネの結納金や謝礼を充てにした第二の人生もご破算だし」
「…………」
女は何も語らない。
破裂直前の風船のような挙動のまま、二人を睨むばかり。
「虚勢を張らなくていい。怒りに震える演技も無用だ。私は君に良い話を持ってきただけ。今の君が喉から手が出るほど欲しい物を、小難しい手続きも一切なく提供してあげられる」
女の目線は優雅に座るルシカへと固定されたまま――否。ハルは彼女の目が更に下へと固定されていることに気が付いた。
机の上に無造作にばら撒かれた金貨だ。
彼女はその輝きに目を奪われ続けている。
「金が欲しいだろ」
「っ……」
「手っ取り早く、即金で。新しい人生を支える金が」
机上の金貨袋を指で弾く。
些細な、しかし人生一つを変えるほどの重みのある音が鳴る。
ごくりと女が唾を呑み、張り続けた虚勢がみるみるうちに萎んで雰囲気が柔らかくなっていく。
卑屈そうな笑みと共に手をすり合わせる女に、ルシカは屈託のない笑みを作った。
「さあ、席について。お金の話をしようじゃないか」
愉しげに、愉しげに。
飴と鞭を使い分け、金を実弾にして悪党は嗤うのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ある日の朝。
元凡人冒険家の元に一通の手紙が届く。
白い封筒に黒い鴉を象った印が刻まれた便り。妙な既視感を憶えて手早く封を切ると、中には三枚の便箋が入っていた。その内容に目を通し、思わず破顔する。
『ホウロン村の新たなる止まり木に祝福あれ』
一枚目はそんな枕詞で始まる、黒尽くめの少女の捻くれた激励。
二枚目は新米店主とベテラン看板娘へ向けた、素朴な少年の暖かな祝辞。
「これは、一人で読むのはもったいない」
料理の仕込みに掛かりきりの幼な妻の元へと歩き出す。
文字に目を躍らせ、今もまだエリュシードにいるのだろうかと差出先を確認し、思わず立ち止まる。
見慣れたその地番は、かつての『豊穣の牝牛亭』のものであったのだ。
(風の噂では牝牛亭は廃業に追い込まれ、別の誰かが止まり木の権利書ごと買い取ったと聞いてはいたけど――?)
一つの予感が脳裏に過ぎった。
急く気持ちのままに三枚目の便箋を手に取る。
三枚目は中が見えないよう二つ折りになっていた。
いよいよきな臭さを感じて物陰に隠れ、こっそりと中身を確認する。
達筆な文字で記された短い一文が目に飛び込んできた。
『実はアーネ嬢が一番の障害だったと気付いたかい?』
悪戯が成功したような少女の笑い声が記憶の中で木霊した。
小さく息を吐く。
悪意でも落胆でもない、ただ心の底から感心しきったような溜息。
別れ際、「私たちの目的は、近いうちに分かる」と彼女は言った。この便りは、彼女からの答え合わせだ。
「そうか。お前さんの、目的は……」
一番の障害はアーネだったのだ、とあの少女は言う。
ルシカの目的を遂行するにあたって、あの小さな肝っ玉娘の反対を受ける事柄とは何か。
案外、頑固な看板娘は色々なことにはっきりとノーを言える素敵な女の子だが、ルシカがこうして勝利宣言を寄越してくることには意味があるのだろう。
いや、答えはもう出ている。
ルシカが欲っしてアーネが持っていたもの。
そしていまあの二人組の手元にあるものだ。
「牝牛亭の、権利書」
より正しくは王都エリュシードに腰を据えるための拠点。
多くの人通りで賑わう大通りの面したあの一等地は、彼らがこれから何をするにせよ絶好の立地として機能するに違いない。
売却の話をただ進めるだけでは、アーネの強い反対に遭うはずであった。彼女はそれらを封殺するため、自らその権利を放棄するように仕向けた。
彼女との駆け落ちを選ぶよう言葉巧みにピーターを操り、尤もらしい言葉を囁いて誘導し――そしてアーネは、恋人との逃避行を選んだ。
その全てが、あの黒尽くめの少女の思惑通りだったという事実が横たわっていて。
「ぶっ……ははは、」
けれど、恨み言一つ思い浮かばなかった。
「はは、はははははっ! やられた! あーあやられた!」
目に涙が滲むほど笑った。
腹の筋肉が引き攣って痛みを訴えるほど笑った。
新妻が突然の奇行に心配して飛び出してくるほどに、笑い続けた。
あの激動の一日。
誰も彼もが少女の想定通りに動かされたのだ。
後日談に至るまですべて操られていたと聞かされても、脱帽する以外の感想も思い付かない。
「『あの悪党め』――なんて、言えるわけないだろうに」
そうだ。一生忘れないだろう。
あの善人の背中を。
死ぬはずの命を想い人の元まで送り届けた、あの献身を。
彼女との約束を果たすことができたのは間違いなく少年のおかげなのだ。
「ただいま」と言えたあの時の感動は、何があろうとも色褪せない。
あの悪党の笑顔を。
自分が一番欲しかった人生へと導くための、あの甘言を。
おかげで彼女と新しい人生を歩むことができた。
それ以外の意図が明かされようが、胸に宿る感謝は色褪せない。
「道ならぬ道を行く恩人たちに、龍と精霊の格別たる加護があらんことを」
だから、ピーターはただ胸に灯る感謝のままに。
「俺たちはいま、幸せです。だから、どうかこの感謝が――」
――柔らかな緑の風に乗って、栄華の都へと届きますように。
祝福の音は小さな暖かみを帯びた微風に包まれ、天高く舞い上がっていった。




