25話 「鬼の海原をかき分けて」
実のところ、鬼化は切り札でも何でもない。
鬼化はハルの理性を焼き切っていく諸刃の剣だ。
自らの体が人間から怪物へと変貌していく恐怖。
もう二度と元の姿には戻れないのではないかという焦燥。
内側から爆発的に膨れ上がる破壊衝動の制御を誤れば、ハルの両手は守りたかった誰かの血で濡れることだろう。
そうなれば、ハルは夢に目を輝かせる資格を永遠に失う。
どれほどの苦境に在ろうと選択肢にも入れたくない手段。
それがハルの鬼化――化け物への変化である。
「オオッ!!」
風を切って振り抜かれた拳が、魔獣の顎に突き刺さる。
彼らにしてみれば矮躯にしか見えない体から放たれる拳の重さは、あらゆる理屈を無視して理不尽な破壊をもたらしていく。
顎から波のように衝撃が伝わる。
皮膚が、筋肉が、骨が砕け、最後には頭部を失った魔獣が崩れ落ちていく。
「一匹目ッ!」
一体が絶命すると、微睡の中にいた災禍の小鬼たちは一斉に咆哮をあげる。
仲間を殺された怒りなどでは断じてない。それは魔獣本来の生存本能に従った結果だ。
殺さなければ殺される、そう感じた彼らの本能は正しい。
ハルはこの場に生まれた魔獣をただの一匹も見逃すつもりはない。
背後には彼が守るべき命がある。
一匹でも後ろに通せば、目を覆う惨劇が繰り広げられるのは間違いないのだから。
たとえ彼らが元々妖精でも。
仕組みを利用されただけの哀れな犠牲者だとしても。
だからといってせめて痛みなく命を終わらせてやろうという余裕もない。
「グッ……ォオアッ!!」
予想通り、剣はあっという間に圧し折れた。
次の武器、次の武器と振るい続けるも、結果は同じ。
時間差があるだけで、鬼の力には耐えられない。
魔獣たちの死体が無造作に転がる。
一体、二体、三体、剣が折れる、投げ捨てる。
繰り返すこと幾度か。
噎せ返るような血の匂いを浴びてハルという鬼の理性が狂わされていく。
思考が飛ぶごとに力は増す。
そのたびに魔獣たちは絶叫と共にその身を引き千切られていく。
ああ、愉しい。
心が躍る。
何にでも手が届くと思えるほどの全能感。
命を引き裂いて得られる優越感。
これほどの生命力に満ちた怪物すら怯える自分という怪物に酔う。
こんな力を持っているのに何を恐れることがある。
これほどの力を抱えておきながら何に怯えることがある。
お前を脅かすもの全てこの手で引き裂いてしまえばいいじゃないか。
全部取り除いてお前にとって都合のいいものだけ残す。
その時の気分で丹念にねぶり、弄ぶのはどれほど気楽で、気持ちが良いことか――
「ァ、」
沼に沈むような恍惚感の隙をついて、ハルへ怪物の拳が突き刺さる。
人間一人を挽肉に変えるには十分の膂力で振るわれる一撃によって体が弾かれ、岩壁に叩き付けられ血しぶきを撒き散らす。
傲慢の代償を支払った少年の体は力なくその場にくず落ちて――すぐに立ち上がる。
「あ、ガッ、ァァアアアアアアアアアッ!!」
報復とばかりに、自らを潰した腕を引き千切る。
おぞましい血雨が降る中、体を潰されたとは思えない速度で疾駆するハル――その手に引き千切った腕を抱え、その鋭い爪を怪物の胸へと突き立てる。
痙攣し絶命する怪物を尻目に、口内に溜まる血塊を吐き捨て、泡立った鉄味の唾を飲み込んで両頬を叩く。
「目ぇ覚めたかよ……馬鹿野郎が……」
慢心に染まりかけた自分の弱い心に唾を吐く。
「自分の物じゃない力に、酔うな……」
何が全能、何が優越、何が怪物か。
少しでも気を抜けばこの有様で、よくもそんな増長が飛び出たものだ。
常識を超えた頑丈さと治癒能力がどうにか体を動かしているものの、決してこの身は不死身ではない。
痛みに脳が耐えられなければ死ぬ。
首を胴から飛ばされれば死ぬ。
頭が潰されれば死ぬし、血を流しすぎてもそのうち死ぬ。
「十!!」
ただ鬼化の影響で体内の細胞は一片に至るまで暴走気味に活性化しているため、血と肉だけは供給が間に合っているだけだ。
血液が急ピッチで生成されては早鐘のように鳴る心臓によって限界を越えて体中に送りまれ、潰れた肉も組織ごと修復されていく。
それは究極的に言えば寿命を削って肉体を蘇生するかのような、過剰治癒の現象に近いだろう。
死なないが、死の淵へと無遠慮に歩くようなものだ。
「このっ……!!」
掛け声とともに拳を振り抜き、また怪物を屠る。
都合二十匹目。
蒼い炎に照らされた怪物の数はまだまだ減る様子がない。
五体満足の個体だけでなく、壁や天井に上半身を生やしたまま怪物になったボガードも見える。
例えその場から動けないタイプでも、見逃してはならない。何かの拍子で下半身を生やして地面から這い出ることがあれば、守るべき人たちを危険に晒す。
「二十一ッ……二十二!」
壁に埋まる怪物の対処は簡単だ。
振り回してくる腕を掻い潜り、あるいは受け止めて捩じ切り、そして確実に首を絶つ。
鬼化した自分だろうと首が取れれば多分死ぬのだ。
これで仕留め損なうことは――
「ってうお……待っ、ぎゃばっ!?」
足を無造作に掴まれ、動きを封じられた。
何かと見てみれば首を消し飛ばされた個体が伸ばした腕の、その指がハルのふくらはぎ部分に爪を食い込ませている。
その隙を見逃さなかった別個体による腹部への殴打。
外側から圧迫された腹筋が胃の中の出血をそのまま押し上げる。大量の血液を地にぶちまけ、なおも喉から迫り上がる血を無理やり嚥下する。
「うっ、がああああっ!!!」
傷口が広がらぬ内に離脱、そして報復。
再び体がハルを生かすために血肉を再生させ、そしてそれほど間も開けずに砕け散る。
破壊と治癒を繰り返しながら、ハルは怪物が織りなす荒波へと挑んでいく。
一撃では、殺せなくなってきた。
数が四十を超えた頃、腕の筋肉が引き攣ってきた。
考えてみれば剣がろくに通らない皮膚を殴っているのだ。
指が妙な方向に曲がったり、爪が無くなったり、拳自体が砕けてしまうことに何の不思議もない。
本来ならそんな自傷も鬼としての種族特性で癒せるはずだ。
それが上手く稼働しないということは、もう細かな部分に治癒のリソースを回せなくなってきたということの証左だった。
「、、ッ……!」
呼吸が苦しい。肺の中に空気が溜まっていない。
息を止めながら何分活動を続けただろうか。
ひゅ、ひゅ、と情けなく喘ぐ喉が何とも頼りない。
次の一匹、次の一匹を倒したら呼吸を整えよう、とそう決意して。
「――――」
ふわり、と酸欠で意識が飛び、棒立ちになった体に容赦なく怪物の巨碗が叩き付けられた。
一度では飽き足らず二度、三度と潰され、歪な押し花みたいに張り付きながらハルはようやく息を吸う機会に恵まれた。
べしゃり。
呼吸がおいしい。
ぐしゃり。
血の味がする空気がおいしい。
一呼吸するたびに衝撃が全身を貫き、せっかく吸った空気が問答無用で吐かされていく。
為すがままになったハルは砂埃の中で大の字に横たわる。
その生死を確かめようとボガードの一体が小首を傾げながら近付いて。
「――ッ、ガァアアッ!!!」
覗き込む隙だらけの頭を脇に抱え、首を圧し折り絶命させる。
ハルは脱力したその死体の腕を取ると旋回。
怪物の死体を棍棒替わりに振り回し、殺到する怪物どもを薙ぎ払った。
転倒するボガードに素早く近寄り、拳を叩き付ける。
一撃、二撃、三撃目で頭が吹き飛び、脳漿と血が口の中に入る。
ぐじゅり、とした感覚に快楽を覚えだしたら危険域だ。極上の脂がのった肉の味を舌が感じ取り、味わう前に慌てて吐き出し口を拭う。
「がっ、は……やっべえな、ちくしょう……」
両掌に視線を向ければ、十本ある指のうち八本が妙な方向に折れ曲がっていた。
治癒が間に合ってないのは一目瞭然だ。
致命傷に耐えられるのはあと一度か、二度。
百や二百じゃ利かないというルシカの言を信じるなら、まだ四分の一にも届いてないというのに。
「足り、ない……!」
もっと薪をくべないと。
もっと鬼本来の姿へ。
このままではいずれ数の暴力に殺される。
ただでさえ一匹一匹が手強い魔獣なのに出し惜しみなどするから余計に消耗するのだ。
一匹殺すのに三度も拳を振るっていては到底間に合わない。もっと、もっと深淵へ――
嗚呼、心が欠けていく。
血。血。血。血。血。
両の眼球に飛び込む返り血を拭う暇もない。
鼻孔は泡立った鉄錆と臓腑の匂いしか拾わない。
口内もすっかり血の海だ。
食い縛りすぎて滲み出た自分の血に混じって、甘美な味わいが舌を痺れさせる。
耐えられず呑み込むと脳髄から痺れて禁忌的な力が湧いてくる。
「――、か」
肉、肉、肉、肉、肉。
両腕が修復する時間も惜しんで魔獣の喉元に喰らいつく。
顔面から血を浴びながらまた一匹殺す。
数はもう数えてなどいなかった。
不毛に過ぎると悟ったのだ。
目標は魔獣どもの殲滅でしかなく、本当に二百体程度で底をつくとも限らない。
「――――ゴァ、ァ……」
人らしい声が口から出ない。
無心で命を奪いながら、代償に心を捧げていく。
幼い頃から必死に鍛え上げた克己心が、無才と無知な己を戒めるための最後の盾が無残な音を立てて崩れていく。
体と心が両方とも砕けていくのに、どこか無頓着な自分がいる。
「オオォ、ォオオオ、ォォオオオオオオオオオオオ」
人としての自我が死ぬ。
自らをただ機械的にモノを殺す機械だと錯覚する。
朱色をばら撒いた床の上に赤を塗るだけの無益な駆動だ。
何故戦っているんだったか。
どうしてこんな思いをしなければならないのか。
そんな余分、全部忘れてしまうがいい。
何も考えなくていい。ただ思うがままに拳を振り続けて、血の快楽に身をゆだねて――
――大丈夫?
「――――――ああ」
だからこそ。
全部投げ出せないからこそ、ハルはまだ人でいられる。
全身を苛む苦痛が決して麻痺しないこの体に感謝する。
命を奪うことの罪深さを感じられるこの心に感謝する。
心が冷えていく寂しさに向き合えることにも感謝する。
心をどれほど狂気に浸そうと、決して憧憬は色褪せずにハルの行く道を指し示してくれるのだ。
(――ありがとう)
――どういたしまして。
美しく微笑む少女の笑顔が、消えやしない。
救われたあの時、どれほどにこの胸が震えたことか。
あの笑顔と感動がこの胸の裡にある限りハルは決して自分を見失いはしない。
あらゆる願いに支えられたこの命は、ただひたすらに夢へと駆ける。
「ガッ、ぁあああああああああっ!!!」
魔獣数匹まとめて引き摺りまわし、前進。
開けた場所へと到達した。奈落がぽっかりと穴を開けた大広間だ。
急ごしらえで作られた木造の橋が、つい今しがた崩れ落ちたのが見て取れた。
そして開けた視界の先で、ハルは確かにその影を見た。
怪物たちの群れの間を縫うような僅かな隙間から、青いランタンを手に背を向ける女の背中が見えたのだ。
文字通りの血眼を赤く濡れた袖で拭う。
怪物の数は残り十体程度まで削っていた。
何匹殺したか定かではないが、女が産み出すより速いペースで倒し続けた証だろう。
「っ……! ッ! ……!!」
女の眼がハルに向く。
声にならない悲鳴をあげ、口汚く喚きながら逃げていく。
そんな馬鹿なとか、化け物が、とかこの期に及んで何の意味もない罵詈雑言を吐きながら、転がるように入口の方へと走り去る。
追わなければ、という本能をなけなしの理性が食い止めた。一匹とてハルの後ろには行かせないと誓ったのだ。
残り十匹の怪物どもは広場でハルを迎え撃つ構えだった。
通路の狭さという優位性が消え、囲まれる形が今までで一番の苦境を予感させて足を止める。
それ幸いと逃げ去る女を目で追って、口から生えた凶暴な牙を剥き出した。
「……バシム」
本当の名前は知らない。
彼女が名乗ったその名を無意識に口にし、広間へと躍り出る。
「アンタはきっと……努力のやり方を、間違えた」
彼女の才能には、真っ当な使い道があったはずだ。
けれど彼女は取り返しがつかないほど間違えた。
間違えたことを顧みもしなかった。
人の道を外れ、外道を嗤いながら突き進んで、自分だけは特別だと驕った。
「逃げられねえぞ……」
ハルを取り囲んだ化け物の群れが、一斉に飛び掛かる。
薙ぎ倒し、薙ぎ倒され、引き潰し、引き潰されながら歯噛みし、腹の奥底に溜まり溜まった強い怒りを咆哮のように炸裂させた。
「夢を言い訳にして積み上げた!! その悪徳と向き合えッ!! バシム・ファロウッ――――ッ!!!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ギッ――!?」
無様な悲鳴が口から漏れた。
女の脳裏には先ほど一瞬だけ振り返った時に見た、あの少年――少年の皮をかぶった魔獣の姿が頭からこびり付いて離れない。
ただでさえ恐ろしい姿の怪物が、女の用意した仕掛けを暴風のように薙ぎ払い、その血と臓物と肉片でさらに着飾って自分の、名を呼ぶのだ。
「ひぃ、ひっ、ひあ……! はぁああッ!!」
違う。
違う違う違う。
自分はバシム・ファロウなんかじゃない。
あれほど固執し、執着した名が恐ろしくて仕方ない。
「理不尽だ! 不条理だ! なんで私がこんな目に遭う!?」
何がいけなかった。
あれほど上手く行っていたのに。
あれほど慎重に石橋を叩いて渡ってきたのに。
たった二人の鬼と悪魔が、常識から逸脱した力を奮って女が築き上げてきたものを徹底的に破壊してしまった。
そんな理不尽で不条理なことを認めてたまるものか、と叫び散らす。
「私には、誰より才能があったのに!」
後継者候補を全てこの目で見た。
どれもこれも目を覆いたくなるような凡人、凡骨、凡才の極み。こんな者しか手元に置けない父を哀れにすら思った。
誰とどのような争いをしようと負ける気がしなかったのに、自分には挑戦する権利も与えられなかった。
――才能の証明が、女の命題となった。
「私はッ、誰よりうまくやれるのにッ――!!」
恨み言に終始する女は、当然の帰結に気付かない。
女は誰もが歩いて当然の、道徳と観念によって作られた人の道から外れることを選んだ。それを踏みはずすということは、化け物の道を歩くに等しい。
ならばこんな日が来るのも当然のこと。
鬼や悪魔と出くわさない道理が、あるはずもない。
そんな当たり前のことが女にはわからない。
「まだだ……」
あの怪物を仕留めるにはまだ数が足りない。
女が救いを求めるのは水晶の間。
まだあの広間には未完成ながら数百体のスペアがある。
その全てに名を与え、全てを注ぎ込んで侵入者どもを今まで以上の数の暴力で圧し潰してしまえばこちらの勝ちだ。
「死ね、死ね死ね死ね、今度こそ死ねよ化け物……ひっ」
女の背後から、勝ち誇るような雄叫びが上がる。
最後の守りが突破されたことを肌で感じ、女は唇を噛みながら短いはずの長い通路を駆ける。
すぐ後ろから今すぐにあの怪物が現れる予感に、大量の脂汗が額を伝う。
「追い付かれて、たまるか……!」
終点が見えてくる。
女を許すように水晶の眩い輝きがそこにある。
安堵し、口元が緩む。背後を見るがまだ怪物が追いつく様子はない。
間に合ったのだ。
形勢は再び逆転した。
今度こそは死にぞこないの鬼も、それに寄り添う悪魔も、本来の標的もみんなまとめて皆殺しにしてみせよう。
魔導品に配下の冒険団、それに商品の娘たち。失ったものは多いが、このゴブリン工場とバシム・ファロウの名さえあればいくらでもやり直せる。
「……はははっ! 間に合った! 助かった! やはり! バシム・ファロウが負けるはずがない! 今までのように! これからも当たり前のように勝ち続ける!」
辿り着いた女は、両手を広げてその光景を慈しんだ。
見慣れた水晶の間が、生還した女を祝福して光り輝く。
目論見通り、壁に地面に天井に生えたゴブリンどもも健在だ。どいつもこいつも救済を求めて、無様に藻掻き苦しみながらその時を待っている。
「あぁ、ああ! だから今回も私の勝ちだ、化け物め!」
自分が走ってきた通路に向き直る。
あの圧倒的な存在感はまだ追い付いてこないようだった。
いつでも来るがいい。
狭い道を利用して物量を誤魔化そうという試みもここで終わりだ。
名を預け、契約を結び、差し向けるだけでいい。
この広い空間で迎え撃ち、今度こそあの汚らしい怪物を無残な挽肉に変えてやろうと意気込み、哄笑を響かせる。
「さあ瞠目しろ!! このゴブリン工場は精根込めて造り上げた私の城ッ! たかが鬼一匹に引っ繰り返されるほど安くは――ッ!!」
その時だった。
背後から小石が転がるような些細な音がした。
取るに足らない違和感だ。
天井に生えたゴブリンの身動ぎが落とした岩の破片に似た、気に留める価値もない音――血走った女の目が、ふとそちらに向く。
白尽くめの少女がそこにいた。




