24話 「憧憬がこの心にある限り」
「女、ぁ……!?」
ハルの素っ頓狂な声があがり、バシムと名乗っていた女の顔が憎々しげに歪んだ。その眼光には強い殺意が籠っていて、今にも飛び掛かってきそうだ。
「――なるほど。あの丸眼鏡か」
ルシカが億劫そうに立ち上がり、割れた丸眼鏡の残骸に視線を落とす。
「あれが恐らく外見か印象を操作する類の魔導品……ともあれ、ようやく初めましてと言えるね、バシム・ファロウの皮を被った誰か」
「この、クソ女がァ……ッ」
整った女の顔付きが醜悪に歪む。
魔獣もかくやという形相はハルと並べても遜色ないほどで、直接対峙しているわけでもないピーターを怖気させるほどだった。
「お前が本物のバシムでないことは分かっていた」
だがそれを向けられてもなお、ルシカは欠片ほども感情を揺らすことなく嘲るように口元を歪めた。
「どうして、なんて聞かれても気取った答えは返せないよ。事前の下調べで本物のバシム・ファロウとは面識があっただけ。推理も推測もなし、自慢できることもない」
「黙れ……」
「ああ。同情するよ、何某・ファロウ。君ほど才能に溢れ、努力を怠らず、手段を選ばずに手を伸ばせる人であろうと一番の望みには手が届かないんだね」
「黙れよぉおお!!」
返答は足元に転がる手斧の投擲であった。
傷付けずに捕えようという意思を引っ繰り返すような必殺の軌道が、素早く反応したハルの手刀に弾かれて岩壁に突き刺さる。
「軟弱で、優柔不断のロクデナシ。ただただ一番早く産まれただけの男で、望みを叶えるのも他人任せ、資産を喰い散らかすばかりで何も生み出しやしない」
ハルの右手に生々しい切り傷が増えたが、ルシカは口を止めはしなかった。
「それでも長男だからと後継者候補の座を射止めるんだからたまらない。……そうだろう?」
「――」
「お前が選ばれないのは女だから? あるいは隠し子という立場だから? 可哀想にね、同情するよ。それだけの才能を以てしても生まれと環境はお前を助けてくれなかったんだね」
「気持ち……悪りぃんだよテメェ!」
もはやバシムとも呼ばれない女は泥を吐くような嗚咽混じりの憎悪を吐きだす。
わなわな、と形の良い唇を震わせ、髪を振り乱した姿はまるで鬼そのものだ。
「……ハッ、柄にもなく辛そうな顔をするじゃないか何某・ファロウ。まだ私は言い足りないぞ。今まで、お前が、ハルに突き刺してきた言葉の半分にもなりゃあしない」
「何でもかんでも、知ってるような口振りで……!」
「お前たちの繋がりなんていくらでも推察できる。お前が豊穣の牝牛亭の契約書を用意できたのは何故だ? ピーターに『無駄な十年ご苦労様』と口を滑らせたのもそうだ。ピーターが十年燻ってる経歴を何故知っていた?」
背後でピーターが息を呑むのが分かったが、ルシカは一顧だにせず続ける。
「『ピーターの首以外に興味がない』とも言ったな。『ピーターの首そのものは価値がある』とも受け取れる」
上から下へ流れる水のように、次々と言葉が浴びせられていく。舌を回す間に調子を取り戻してきたルシカは女の眼光に目線を合わせ、悪党さながらのギラついた笑みで。
「べらべら、べらべらと情報垂れ流す時点でお前の底はもう見えた。お前はバシム・ファロウには成れなかった。だからお前の野望は、ここでお終いなんだ」
「うるせえんだよ何なんだよテメェらはよおおお!!」
声を荒げて女は足元に転がる岩片を踏み砕くと、打ち身で薄い紫色になった指をハルめがけて突きつける。
激情と憤怒。
ピーターが呑まれかけた潜在的な感情の荒波を宿し、その上に自らの熱情を上乗せして怒りを燃やしていく。
「この鬼が! 龍に呪われた咎人どもが! 魔神に魂を売り飛ばした裏切り者の一族が! 根絶やしにされたはずが、まだ種を残していやがるなんて!」
狂気を孕んだ濁った瞳が罪を暴かんと見開かれる。
ハルは何も言わない。
「どの面下げて今日まで生きてきたんだ半鬼・半魔の畜生が! 人の皮ぁ被って人の振りしようが、どれだけ善行を積んでみようがテメェは一生泥ん中だ!! 誰もお前を愛さない! 誰もお前を受け入れやしない! お前みたいな異物が日常に生きることを世界も、龍も許さねえだろうよ!!」
唾を飛ばして引き裂けそうな口が事実を謳っていく。
ハルは何も言わない。
「だってお前は怪物だ!! 後ろを見てみろよ! そんな姿で救って見せた奴らも、喉元過ぎればお前を排斥するさ! されてきただろう!? 助けた相手に石を投げられてきただろう!? じゃあそろそろ分かれよお前生きてちゃいけねえんだよ!!」
「聞くに堪えない」
ハルは何も言わず、代わりにルシカが果断に言い放つ。
彼女は覚束ない足取りでハルの隣に歩み寄ると、見せ付けるようにその手を取った。
驚いた顔のハルが強張らせた頬を僅かに緩める。
誰にも愛されない――そんな女の言い分を真っ向から否定するような光景も、女の目には醜悪な情景にしか映らない。
「訳知り顔のイカれた女め……!! こんな化け物をっ……人類の裏切り者を引っ提げて、よくも平気な顔で……!! 俺たちなんかより遥かにテメェのほうが悪党じゃねえか!! 化け物……いいや、いいや! 化け物共がッ――」
「なんだお前、善人でも相手にしてるつもりだったのか?」
「――――ッ」
言い放つ少女の瞳に、女は絶句した。
元来の黒曜石のような美しい双眸がどす黒く濁っていた。
まるで鏡を見ているかのようだ。
悪行を為す時の、誰かを傷付ける時の、命を望みのままに踏み散らす時の女そのものの、目。
嗜虐と暴虐に満ちた、悪党の瞳が女を見据えて。
「お前の言う通り、私は悪党だ。その曇った目に映る通りの悪党だよ。そしてお前はただ、悪党同士の凌ぎ合いに負けて破滅する。それだけだ。それだけのことなんだよ」
手を広げてルシカは笑う。
死者を迎えに来た死神のような壮絶な微笑みで。
「お前の野望はここで見果てるんだ」
「終わるか! 終われるものかよ!!」
それは追い詰められた悪党の断末魔だ。
鬼の一撃を見舞われてなお限界を越えて体を動かす――自らに許された才能の全てを以て、背後から聞こえてくる破滅の足音を振り払わんと叫び倒す。
「この俺が! こんなところで終わるはずがねえんだ! 俺のほうが相応しいはずだ! バシムよりも、他の誰よりも俺は上手くやれるはずなんだ!!」
「それを証明するために、こんなことをしたのか」
それまで沈黙を続けていたハルの、静かな問いかけ。
糾弾するような視線を鬼に向けられる覚えはない、と女は威圧的に牙を向き、けれど喉が枯れんばかりに動く口は理解を求めて願いを吐き出す。
「そうだ! そのためのゴブリン工場だ!」
この野望を叶えるために、この命があるのだと主張する。
「魔獣の生産と使役の技術は、機人族に代わる新しい戦力の形になる! 紛争地帯や未開地域へ送り込む尖兵として多大な利益を生む! 補充だっていくらでも利く! まさに労働力の革命だ!」
「――」
「金が要るんですよ。運営にも研究にも、父の関心を買うにも何もかも!! 金、金、ひたすらに金が! 商人の父が振り向いてくれるに足る、莫大な利益を生み出す仕組みが!」
それは多分、女の嘆きだった。
彼女が抱える野望の根幹。些細な願いから始まって、環境と思想によって歪な形に仕上がった夢。
その奥底に垣間見えた言葉にできない何かがあった。
しかし。
どれほど言葉を尽くそうともハルの心には響かない。
醜く肥大し燻った夢の残骸に心を打つ者は、どこにもいない。
「人の一生を台無しにしていい理由には、すり替わらねえ」
「ふざけたこと抜かしてんじゃねえ! 誰だって他人の人生喰い潰して自分の糧にして生きてきてんだろうが!! 百人だろうが千人だろうが踏み潰して、搾り取った汁をすすって成功するんだよ! そうでなきゃ、叶わねえだろうが!!」
女の言葉が真理を突いている――はずもない。
定員が決まった夢を目指して、その過程で同じ目標を持った相手を蹴落とすのとはわけが違う。
女が夢のために捧げたのは、ただ周りにいただけの通りすがりの人々だ。
「夢を叶えるんだ! バシム・ファロウになって、商会を継いで! それでようやく俺は! 私は! 認めてもらえるんだ!! 邪魔をするんじゃねえよ、この化け物がぁ!!」
叫びながら、女は震える腕で首飾りを引き千切る。
首飾りは掌の中で握り潰され、そして瞬きの間に質量を増やしていく。
現れたのは、ランタンだった。
妖しい青白い炎を内側に灯し、途端に洞窟内の空気が変わる。
鼻腔をくすぐる甘い瘴気。
薄暗い洞窟内の至るところに青い花が咲き誇り、まるで篝火のように光を放って薄闇を引き裂いた。
清らかな風が吹きぬけるような世界の変質に思わず心を奪われる。
まるで幻の中で漂う世界に迷い込んだかのようだ。
女がランタンを掲げた。
青白い炎がその動きにより激しく揺らめき、燃え上がる。
「集え、まつろわぬ妖魔ども!!」
世界を塗り潰すような詠唱であった。
本能的にその先を続けさせてはならないと直感し、ハルは剣が生えたままの膝に鞭打って躍りかかる。
しかし不完全な跳躍は女にいなされ、そして。
「蒼炎に導かれ喝采を上げよ。列を成し雄叫びをあげ歓喜せよ! 我『常若なる国』の伝承を紐解く案内人なりッ!!」
変化はすぐに訪れた。
小さな地響きが起きた後、洞窟内の四方八方からぼこぼこと音を立てて『それ』は現れた。
「……ゴ、ブリン……?」
醜悪な顔を歓びに歪ませた小鬼の群れ。
壁や地面や天井に次から次へと生えていく。
入り口にあった水晶の広間と同じ光景が広がるのに時間はかからなかった。
あっという間にゴブリンの群れが至るところに顔を出し、今にも消え入りそうな嗚咽を吐き出し、尚も数を増やしていく。
それが何を意味するのか――思い至り、喉の詰まる驚きに目を見開く。
「お前、まさか――!!」
「集え、集え、集え――ッ! 我、汝らに命と在り方を与える者! 悲願を果たす力を与えん! さあ、目覚めよ、汝ら全てゴブリンなり!! 遍く全て災禍の鬼となりて古き神話より這い出し鬼人を喰らえぇ――!!」」
そうして。
仮初の楽園は地獄と化した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
グロテスクに膨れ上がった肉の雫が垂れてくる。
天井に上半身を生やしたボガードが、ゴブリンの名を与えられて肥大化――それに伴ってずるりと産み落とされて地面へと吸い込まれていく光景に、誰もが息を呑んだ。
地面に怪物が激突する音は一度や二度では済まず、もはや数えるのも馬鹿馬鹿しい。
天井、地面、壁。
所狭しと怪物で埋め尽くされ、地響きと産声に混ざって女の哄笑が響き渡る。
ボガード。
魔獣と化した妖精の成れの果て。
一体倒すのにピーターが死力を尽くしてなお届かなかった怪物が、唯一の出口をどこまでも埋め尽くす。
獲物たちの姿を認めるやいなや妙に歯並びの良い口内を晒し、生臭い息を吐きながら涎を垂らす。
「――――――――、ぁ、ぁ」
圧倒的な威圧感を前に、ピーターの体は震えなかった。
現実感を見失いそうな光景に、にへり、と乾いた笑みが浮かぶだけ。
恐怖を感じていないのではなく、絶対的な死の奔流が迫ってくることに肉体の機能が付いてこないのだ。
生存本能が蝋燭の火のように吹き消され、ただ茫然と死を見つめるだけで。
この地獄を望んで生んだ女の姿ももう見えない。
通路いっぱいに敷き詰められた怪物の波に呑まれるようにその姿は掻き消えた。
四方から押し寄せる質量に潰されて死んだ、というわけではないだろう。
彼女は使役した魔獣どもを盾に窮地を逃れ、全てを怪物の腹の中に収めるつもりなのだ。
だからどうだと言うのか。
今は誕生直後の微睡で動きの鈍い怪物どもも、すぐにでもピーターらへと殺到する。
誰一人の例外もなく死ぬという強い確信が支配する。
それが普通であるはずなのに。
何故、ピーターの前に立つ二人の背中はこんなにも――
「ハル」
声一つあげることさえ致命的にしか思えない状況でも、少女の声は凛として力強く響いた。
先頭にいた何体かの怪物の目が一斉に向けられるが、一向に構わず。
「通路は狭い。囲まれることはないだろう。だが洞窟の規模からして、湧き出る数は百や二百じゃ利かないとみる。耐久戦どころの話ではないだろうね。これは消耗戦だ。君の、人ならざる力を頼るしかない」
「ああ、やるべきことは分かってる」
雄叫びが上がった。
生命力に満ち溢れた巨躯を得た怪物が、人間を生きたまま踊り食いにしようと無遠慮に手を伸ばしてくる。
その腕がルシカへと届く前に、ハルの腕がそれを食い止めた。
ふと、場違いなシーンをピーターは思い返した。
始めて二人の姿を見かけたあの街のこと。
酔っ払いの冒険家が少女に手を伸ばそうとし、そして少年によって阻まれたあの時――そのやり直しのようにミシリと怪物の腕が軋んで。
「ふっ――」
肉が千切れる音がした。
血を無遠慮に撒き散らして怪物が喪った腕の切断面を、ぽかんと眺める。骨も捩じ切られ、肘から先が赤黒い皮膚の少年の手に握られているのを見て、絶叫。
その場に蹲る怪物の姿を見て、ピーターはある確信を得るに至った。
ピーターが対峙した最初の一匹。あの怪物もハルから逃げ出してきたのではないか。
そうして主人であるバシムの意向に反し、暴走したのではないか。
でも。それでも。
この数を相手にするのは無謀すぎる。
ハルも、彼の隣に立つ少女もそれを理解しているはずなのだ。それでどうして平静を保っていられるのか。
「……苦労を掛けるね」
「お前らしくねえ顔はやめろよな。いつも通りに全部計算通りだって顔してればいいんだ。お前が知恵を絞って、俺が体を張る――っ……はぁぁ、そうだろ……?」
言いつつ、ハルは膝に生えた剣を引き抜いた。
傷口は無残の一言に尽きた。噴水の如く血が溢れ、ぽっかりと肉に空洞が出来上がっている。
けれども、その傷口がみちみちと音を立てて癒えていく。
吐き気を催すような治癒に、ルシカの眉が寄る。
「少し鬼に寄りすぎてないか?」
「……悪りぃけど、凌ぎ切るには無茶しなきゃなんねえ。今でも多分、まだ足りねえ。もっとあっち側に寄っていかねえと、だめだと思う」
「そうか」
大丈夫か、などとつまらない言葉は口にしない。
ここに導いたのは他でもないルシカだ。
自分と彼の願いのため、これからも彼女は無茶を通させ死線を越えさせズタズタに体と心を刻ませながらも前へと誘うのだ。
少女が用意した困難を、少年が必ず乗り越えると信じて。
「……もし正気を無くしたら、また私が止めてあげる」
「じゃあ……何も心配することねえな」
その保証が、何よりハルにはありがたかった。
突き刺された剣を一度振り感触を確かめる。
いつもは武器が膂力に負けて圧し折れるのだが、皮肉にもバシムが硬い皮膚の貫き方を教えてくれた。
きっと一匹か二匹程度は働いてくれる。
残りの何十体かに対しては、まあ素手で立ち向かうしかないだろうが。
泥臭せぇな、と苦笑するハルの背中に声が飛ぶ。
「ハルさん!!」
切羽詰まったようなピーターの声。
その悲痛そうにハルを慮る声に、堪らなく嬉しいという感情が込み上げる。
きっと振り返れば怯えられる目を向けられる。
それが少し怖くて、横顔だけを向けて。
ふと、あの景色を思い起こす。
地獄に堕ちようが死の淵に立とうが、一生忘れない情景。
眼前に群れを成す怪物たち。背後には守るべき人たちがいて。
憧憬の少女は、微笑みと共にこう言ったのだ。
――――もう大丈夫。
「――大丈夫だ」
記憶を思い起こしながら笑みを作る。
憧憬の少女より不格好で。
英雄というよりは化け物のような姿で。
元気付けるはずの声音すら震わせ、自信に満ちた顔も取り繕えず、そして――自分に向けられているだろう畏怖と恐怖に心が凍える。
何だか申し訳ないな、という気持ちが胸を満たす。
あの日の少女は綺麗で、格好良かった。
自分だってあの子の真似事ぐらいはできるはずだ。
誰かのために立ち上がって、守って、安心させてあげることができるはずだ。
そのために、コンウォール村のハルは生き延びたのだ。
だから、胸を張って虚勢を張って命を張って。
――――そこで、待ってて。
「そこで、待っててくれ」
これはあの夜に起こった奇跡の再演だ。
救われた少年による、救った少女の再現――――否。あの夜の少女への挑戦状。
無我夢中で走り続けた少年が、どれほどあの日の少女に近付くことができたのかの試金石。
「【童子よ熾きろ】」
言霊と共に異形が更なる変貌を遂げていく。
血が焔の如く熱く滾り、皮膚もまた陽炎を纏って熱される。
膝と掌に痛々しく空いた穴に膨れ上がった肉が殺到し、歪な痕を残して形ばかりの治癒を終える。
途端に、思考がぼやけて意識が薄れていく。
理性が飴細工のように溶けていく。
脳の中に寄り添い囁く呪いの声。
甘美な破壊衝動が全身に満ち溢れ、肉を潰すたびに快感の波に人間としてのハルが呑まれていくだろうことが本能的に分かる。
また無様にも繰り返すのか、と内側で真っ黒な自分がげらげら笑っている。
燃やせ、燃やせ、燃やせ。
甘さも、優しさも、思いやりも、人間らしさも。
親愛も友愛も慈愛も何もかもくべて、童子を熾せ。
「征くぞ、勝負だ。災禍の小鬼」
けれども。
憧憬がこの心にある限り、人のままだと信じて。
ゴブリンを取り巻く最後の、そして最大の大乱戦が始まる。




