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18話 「待ち人はいまだ来ず」






 怪物は幸せだった。

 ただひたすらに歓びに打ち震えていた。

 舌の上に熱い血液みずが滴るたびに眩暈がした。

 この瞬間のために己は生まれてきたのだと確信していた。


 熱い、熱い、熱い。


 何か別の願いが遠い昔の夢幻のように溶けていく。

 頭の片隅で大事に仕舞っておいた誓いが消えていく。

 この味の前には全てが些事だと本能が告げている。


 この瞬間だけでいい。

 一生この快感を貪り続けていたい。


 そんな愚かな願いの代償は、灼熱であった。


『アガッ、ア、ァァァァ』


 苦しい、苦しい、苦しい。


 極上の味に混ざって喉奥へと滑り込んだ異物は、膨れ上がった腹の中で破裂――生じた灼熱が血管を通って怪物の生命を焼き尽くした。


 圧倒的な生命力に満ち溢れていたはずの全身が余すことなく破壊され、目や鼻や口、あらゆる穴から炎が噴き出した。

 先ほどまでの幸福は、瞬く間に苦痛へと塗り替えられた。


『アアアァアアアアアッ!!! アアッ、ァアアアッ、ギィェァァアアアアアッ!! アガァァァアアアアアァァアア゛ッ!!!』


 叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。

 耐えられない。許してほしい。助けてほしい。


『ォオオオオオオッ、オォォオオオオンッ!! オオォォオオオンッ!!!』


 痛みだけなら良かった。

 壁に身体を引っかけながら走ろうが、刃物を突き立てられようが、物珍しさのほうが勝った。

 痛覚が存在しない妖精にとって、与えられる傷は自らが生きていることの証明とも言えた。


 けれど。

 けれど、けれど。

 これはだめだ。本当にだめだ。耐えられない。

 苦痛は、妖精にとって最も恐ろしい罰だ。


『クルシイ、クルシイクルシィクル、クルジッ!?』


 眼球は両方とも灼熱に炙られて蒸発した。

 鼻腔も喉も黒焦げで、呼吸するごとに炭化した皮膚が剥がれ落ちる。

 腹には大穴が開いてごほごぼと中身がこぼれてく。


 どうすればいいか分からない。

 どうすればこの苦しみから逃れられるのか分からない。

 何度炎を吐き出そうと、何度地面を叩こうと、何度心中で許しを乞うても激痛は収まらない。

 中身を徹底的に破壊された苦痛でひたすら絶叫と嗚咽を繰り返す。


『アギャッ、ギギギ、ガァッ、ァ……!』


 死ぬ。

 死んでしまう。

 妖精の頃には希薄だった死への恐怖が肥大化していく。

 それもまた生者の証明だと怪物が気付くことはない。


『イヤダァ……』


 嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ、死にたくない。

 せっかく肉体を得たのに。

 せっかく望みを叶えられるのに。

 せっかく誓いを果たせる力を得たのに。



 ――ァァ、誓イッテナンノコトダッケ。



「げほ、げほ、ゴボッ……」


 ふと、誰かが咳き込む声が耳に届いた。


「これで……しなない、のか」


 聞き覚えがある。

 さっきまでこの手に掴んでいた命だ。

 首を回して探す必要もない。とうに機能を失った眼球に代わり、妖精としての感覚が男の弱々しい命の輝きを感知する。


「まいった……もう……おてあげ……」


 小さな賞賛を残して、どたりと『それ』は崩れ落ちた。

 半ば無意識に手を伸ばすも届かない。

 強靭だった肉体は無様に這い蹲ったまま痙攣を繰り返すのみ。

 役立たずの肉体はただ地獄のような苦しみだけを怪物に与え続ける。


『イヤダァ』


 一人は嫌だ。

 何も残せないまま消えるのは嫌だ。

 お前も。

 お前もお前もお前も苦しめ。


 腕の力だけで重い体を引き摺って、秒刻みで消えていく命が更にこぼれていくのも構わず、残る命の全てを懸けて男へと手を伸ばす。


『オマエモォ、イッショニィ』


 あの弱々しい光を握り潰そう。

 この苦しみを与えた報いをあがなわせよう。

 死ね。

 死ね死ね死ね、浅ましき裏切り者ども。

 残った命の全てを費やしてでも貴様らを殺し尽くしてくれようぞ。


 そうだ、そうだった。

 それこそが我が望み、我が使命、我が天啓――!




「下がれ――哀れな妖精の成れの果て」




 淡い光の前に、不吉な漆黒の輝きが立ち塞がったのはその時だった。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇







 それは現実味の無い光景だった。

 崩れ落ちたまま最期を待つピーターの前に、あの黒尽くめの少女が立つ。

 すぐ目の前まで迫った怪物の指先がその細い肢体に届くまで、瞬きの猶予もありはしない。


 だというのに。


『ッ……ォ、ォォ……!?』


 少女は恐れる様子なく右手を掲げてその動きを制し、怪物もまた少女の存在におののき、少女の頭よりも太く大きい指先を震わせる。


(いったい、なにが……?)


 倒れ伏しながら呆然と見上げるピーターには目もくれず、彼女はその怜悧な声音を一層鋭くさせて怪物を糾弾する。


「そう、分かるはずだ。たとえ存在を混沌に堕とそうと、未だお前は龍の契約に縛られたまま。たとえ目が焼け爛れようと、契約の鎖はお前の無意識をも戒める」


 少女が一歩、歩を進める。

 たったそれだけの動きに怪物は怯えて手を引っ込め、ただそれだけの動きで自らの命を削る。

 少女が細い指先を伸ばすたび、怪物はそれに触れまいと這いながら後ずさる。


 まさしく冗談のような光景だ。

 言葉を失うピーターの前で、歌うような女の断罪が続く。


「『私に指一本触れるな』――それが名を得る代わりに誓わされたお前の代償。ゆえに下がるがいい、魔獣よ。誓いを破れば、龍の天罰がお前を魂ごと打ち砕く」


『ゥゥ、ゥゥグッ……』


 その時、怪物の動向に変化が伴った。

 巨大な掌が振り上げられ、屈辱と畏怖によって強く硬く握られる。


 ピーターもその前兆に気が付いた。

 怪物はいま葛藤しているのだと察せられた。

 自分では分からない何らかの恐怖をあの少女に感じ、それでもなお沸き上がる激情が怪物に拳を握らせている。


 そしてその天秤は。

 理屈よりも感情に傾こうとしていた。


「だめ、だ……!」


 それ以上の不用意な接触や挑発は惨劇に繋がりかねない。

 足に力を込め、一度血を吐き、それでも手を伸ばし、枯れた喉に力を込める。


「にげろ、ルシカちゃ――!」


 声に反応し、少女の横顔がピーターへと向く。

 その時の彼女の相貌を、彼は生涯忘れないだろう。


「勝敗は既に決した。お前は敗れ、ただ死ぬ」


 怜悧でありながら虚空を宿した瞳を。

 凪のように穏やかでありながら、酷薄に歪む口元を。

 その時になって目の前で行われている光景が、美しくもおぞましい微笑みの下に行われる処刑なのだと気が付いた。


「形なく逝くお前の旅路に、死出の道連れは無用と知れ」


 声も所作も表情も。

 その全てが一つの結末へと導くための、断頭台なのだ。

 ゆえに全て、台本通りに事が進む。



『アァァ、ァァァァァァァァァァァァァァッ!!!』



 天秤が感情へと傾いた。

 力任せに振り下ろされた拳は少女の肢体を血だまりに変える、その直前で急停止。


 小高い枝にった果実を取るように伸ばされた彼女の白い指先が、武骨な拳の先に触れている。


「誓いは破られた」


 轟、と風が逆巻いて。

 次に目を瞬かせた時、怪物の全身が赤い炎に包まれていた。


 不可解な炎だった。

 火の粉が派手に舞い散るというのに周囲は熱も感じない。

 狭い洞窟内で炎風が渦巻いているのに息をする苦しさもない。


 あらゆる超常は全て誓いを破った痴れ者だけを嬲り、苦しめ、焼き尽くす――火刑台の上で藻掻く囚人を見つめ、少女の奏でる歌は結ばれる。


「燃えろ、お前が獲得した憎悪と共に。それはお前だけの生き物の証明……余すことなく持ち帰れ。何一つとして現世に残さず、龍の炎にべて逝け」


『――――ァッ!!?』


 たった一鳴きが、怪物に許された断末魔だった。

 何処から火が出たのかも理解できないまま、怪物の体は僅かな時間と共に燃え尽きる。


 まるで風に攫われていく灰だ。

 その存在が初めから無かったかのような速度で焼却され、塵一つ残さず、暴威の塊であった怪物は消滅した。


「――――」


「……ぅ、……ぁ……」


 後に残されたのは、ただ二人。

 傷だらけのピーターと黒尽くめの少女――彼女がこちらに振り返る瞬間がピーターには恐ろしかった。


 信用理屈に関わらず、ただ少女の意識がこちらに向くのが怖かった。

 目の前で行われたのは、それほど合理的で無残な処刑だった。


「……お疲れ様だね、ピーター」


 けれど振り返った少女が浮かべていたのは、見慣れた呆れ顔だった。

 先ほど見たのが幻だと思うほど穏やかで、隙と見ればピーターをからかおうとするような、どこか人を食ったような微笑みが掛け値なしの賞賛を口ずさむ。


「見事な執念だった。銀貨級シルバー以上の冒険家が徒党を組んで討伐する魔獣を銅貨級ブロンズの君がたった一人で撃破するとは私も想像――おい。息をしろ。呼吸が止まってるぞ、君」


「は――はぁっ、はっ、ぁ……ごほっ、ごほっ!」


「顔が真っ青じゃないか……さあ、呼吸を整えて。ただでさえ酸欠になりやすい環境だ。無理に体を起こさなくていい。さあ、息を吸って、吐いて」


 呼吸の仕方を忘れていただけ――なんて馬鹿げたことは言えず、咳き込みながら「大丈夫」とだけ口にする。それから首を振って彼女の言葉を正す。


「ひとりじゃ、ない。たおせたのは……」


「いいや、決着はついていた。あの怪物は致命傷のまま暴れていただけだ。契約を逆手に取ったあの手法も、アレが動き回れる状態ならうまくいってなかったよ」


 直接手を触れる必要はなかった。

 その辺の瓦礫があればルシカを害するのには事足りた。

 体の機能のほとんどを奪い、余裕すら失くした状態に持ち込んだのは間違いなくピーターだ。


「この偉業を持ち帰れば銀貨級シルバーへの昇格は間違いなしだが……多種多様な龍の天罰の中でも、まさか炎とは。死体が跡形もなく燃え尽きてしまうと証明が難しい」


「それはべつに、いいよ……」


 命を落とす覚悟で戦ったのだ。

 死闘の末に命を拾えただけで勝利したという実感も薄く、名誉を気にする余裕があるはずもない。


 何しろたった一体を倒すだけでも死力を尽くしたあの怪物を、バシムは何体でも用意できるのだから。

 何一つ問題は解決していないのだ。


「それより、これから……」


「どうするとは聞くなよ? 君はここでリタイアだ」


 あっさりとした宣告だった。

 驚いて顔をあげるピーターを見下ろし、ルシカは肩をすくめる。


「そりゃそうだろう? 武器も鎧も砕け、足腰立たず中身もぐちゃぐちゃ。君はもう死力を使い果たしている。戦闘はおろか歩くことも無理だ。危ういバランスで繋いでる命の綱も切れてしまう」


「そんなこといってるばあいじゃ……」


「呂律さえ怪しい状態だと気付いているか? これ以上、命を無為に削るな。君は君のできることを十全にこなした。冒険を十分にやり遂げた。私の想像を超える働きだった」


 手放しの賞賛を口にしつつピーターを岩壁に寄り掛からせ、それから残った彼の武装を拝借。

 ナイフは数本あったが、そのうちの一本だけを抜き取って残りを彼の手が届かない所に放った。


「『できないことはしない』、だろ?」


「けれど……」


「ハルに君のことを頼まれた。もし死なせてしまったら合わせる顔がない。こいつは大きな貸しになるか借りになるかの瀬戸際なんだぜ?」


 今度は快活な少年のように歯を見せて笑う。

 彼女の笑顔ひとつ取っても複雑だ。

 どれが本当の顔なのかもうピーターには分からない。

 ただ、彼女の心地良い声音がピーターから反論する気力を奪うのだ。


「後は任せて、君はひと眠りでも――ああ、くそ」


「ぇ……?」


「間の悪い――いや、タイミングを見計らっての登場か。重ねて忠告するけど動くなよピーター。何が起ころうとだ」


 すく、と目線を同じ高さに合わせていた少女が立ち上がり、ピーターに背を向ける。

 呼び止めようとするも喉が干上がって役に立たない。

 追わなければと身体に力を込めても腕一本も持ち上がらない。そうしている間にもルシカの背は遠ざかり。


 しかし、その背中が消える前に歩みが止まる。


「……遅いよ。いつまで私を待たせるんだか」


 その言葉の真意も、程なく知ることになる。

 複数の足音が洞窟内に響き、そして少女の前で一斉に停止。現れた男たちは左右に分かれ、出来上がった列の中央を、悠然と青年が歩み寄る。


「はい、これで詰みです。お疲れ様でした」


「バシム……バシム・ファロウ……」


 絶望を孕んだ呻き声はピーターから。

 ルシカは後ろ手に隠したナイフを持つ手を小さく震わせ、額に汗を滲ませ美しい眉根を苦しげに寄せる。


「ああ、ああ、いいですね。貴女のそういう顔が見たかった」


 両手を広げ朗らかな笑みを浮かべ、バシムは勝ち誇るのだった。






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