17話 「我が冒険に加護を」
揺蕩う自我だけが『彼』の全てだった。
空気中に溶け込む元素のひとつ。
土に含まれる成分が、寄り合わさって混ざり合う。
『彼』を形作る構成物質の一つ一つが『彼』でありながら『彼』ではない。
散り散りになったパズルのピースを無造作に繋ぎ、それが形になった時はじめて妖精は産声を上げるのだ。
――?
自我の芽生えこそが妖精の生命を肯定する。
肉体のない彼らはただその場を漂うマナの一つでしかない。
五感と呼ばれるものはなく、多くの妖精たちには自分がそこに在るという概念すら存在しない。
自我はそこに在るのに己はそこに居ないという矛盾。
妖精とはそれほどに不確かなものだ。
この世界も自分すらも色や音、雰囲気でしか捉えることができない。
――。
マナの結び付きで生み出された妖精は肉体の感覚が鈍い。
その体は、霞や霧を塗り固めて作ったかのように脆い。
少しの刺激でも容易く形を保てなくなり、そのまま大気のマナに溶け込んで再び結合するまで眠りに付く。
それが妖精本来の営みだ。
そういう意味では『彼』という妖精は異端だった。
――イツ カ。
『彼』は土に属する妖精だ。
水分や空気、炎といった他の妖精らの現象と違い触れられる概念から生まれるゆえに強固な存在を維持することができる。
それは彼らという種を進化させる要因となり、あるいは堕落させる遠因にもなった。
――イツノ ヒ カ。
遠い、遠い昔から種に刻まれた契約。
何度マナに還り、幾度生まれ直そうと決して忘れ得ぬ約束。
その時を待ち続けると誓って。
けれど。
『見たとおりである』
誰かが『彼』の同類だったものを足で小突く。
空気中を漂うだけの『彼』には理解しえない言語ではあったが、込められた感情の色合いに深海に沈み込むような陰鬱さが宿っているのは理解できた。
『この妖精はある条件によって妖精ではなくなる。死体を見ろ。塵に還らない完全な肉体だ。彼らは、魔獣化の可能性を秘めた妖精なのだ』
その景色が見えているわけでもない。
ただ『彼』は妖精として自我を持った直後ゆえに、その音の響きがいまなお構成物の一つとなって取り込まれている。
『名をボガード。同条件にて生まれるゴブリンとは姿かたちが似てるだけの、別種である』
『教授。妖精が、魔獣になるなどと……』
『有り得ないとでも? 人族が魔獣に変貌する事例もあるというのに。何故、妖精は別と言える?』
ゆえに『彼』は音として己の出自を知った妖精であった。
教授、と周囲から呼ばれる男は『彼』にとって自らのルーツを示す親とも言えた。
傍にいたのは女だ。
彼女への教育の一環として教授は『彼』の出自を暴き、解体していく。
そんな場面に出くわしたのが『彼』であった。
――『新米殺し』
教授は『彼』らを、そう呼んだ。
『ゴブリンに混ざって活動するこの妖精は、時折若い冒険家による討伐の対象となる。通常のボガードはゴブリンと大した違いはない。ゆえに共に屠られマナへ還るのみ』
ただし、と一言言い置いて、教授が片眼鏡を掛け直す。
『魔獣化のトリガーである『名付け』を行わなければ、であるが』
名付け。
名。名前。
漂うだけの自我がどくりと明確な意思を持つ。
あるはずのない心臓が脈打ち、あるはずのない感情が湧きたつ。
『驚くべきほど簡単な引き金だと驚いたであるか? もしも居合わせた冒険家が「ゴブリンめ!」と呼びかけてしまえば、ボガードは「ゴブリン」という単語を自らの名前だと受け取り、魔獣へと変貌するのだ』
そうだ。
それだ。
それだとも。
それこそが。
『肉体を得たボガードは全てが未知の体験だ。目は正しく我々の世界を認識し、耳は言語を理解、嗅覚と触覚はこの世界に自分が生きる実感を与える。そして何よりも……』
名。名。名。名。名。
欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。
理由は分からない理屈なんていらない理解などしたくない。
『味覚だ。味を覚えてしまう。そんな彼らが一番最初に目にするのは何か? 当然、名付け親となった冒険家だ』
『それが……『新米殺し』のカラクリ』
『味覚は強烈だ。口の中に残る唾液の味が食欲を誘発し、その衝動に彼らは抗えない』
ただ一つの願いだけがある。
我らは約束を果たさねばならないのだ。
『魔獣にとって人族は一番のご馳走だ。ひとたび喰えば、もうそのことしか考えられない』
名前をください。
赦しをください。
約束を、使命を、誓いを果たすための力をください。
そうすれば今度こそ。
今度こそ、今度こそ手を伸ばすことができるのだ。
『悲しいことだよ』
妖精としての一生を懇願で埋め尽くすだろう『彼』を想い、教授は小さく溜息をついた。
『崇高だったはずの彼らの誓いは、歪められた本能によって穢される。かつての同志として、これほど哀れに思うことはない』
そんなはずがあるものか。
「あのガキと男を殺せ」
そんなはずが。
「女のほうには指一本触れるんじゃないぞ」
そんな。
「『オーグル』――お前の名だ」
――アア、腹ガ減ッテ、タマラナイ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おっ、ぅぉおっ、おおおお!!?」
先ほどまで頭があった空間を巨腕が薙いでいく。
ピーターの頭部を上半身ごと消し飛ばしかねない勢いで放たれた腕の一振りを掻い潜り、膨れ上がった脇腹に刃を突き立てる。
差し込めればそのまま掻っ捌いて内臓を抉り――否、予定変更。分厚い肉の鎧に文字通り刃が立たない。
(離脱、離脱、離脱―――!!)
足を止めず、刃の欠けたナイフを手放し代わりに左手で握り締めていた黄土色の球を地面に叩き付け、そして脱兎の勢いでその場を離れる。
ピーターの立っていた岩肌を怪物の拳が砕き、その余波でピーターの落とした球体が水気のする破裂音と共に中身を噴出。
どろどろに溶けた液体が怪物の腕を絡め取り、背を向けて逃げるピーターへの追撃を戒める。
粘着弾は魔獣退治に用いられる小道具の一種だ。
強い衝撃に比例して粘着力のある液体を撒き散らす木の実を加工したもので、その量は人間一人を飲み込むほど。
残念ながら、その規模では怪物の手首を包むので精いっぱいだが。
「ええーと、ナイフダメ、剣はもうなし、粘着弾はあと四つ、音響弾と閃光弾が一つずつとー、ああーくそっ! 致命傷を与えられる手数が少ない! なんで大型魔獣用の装備をケチったかなぁ!」
敢えて口に出して考えをまとめながら自らを鼓舞する。
そうしなければ恐怖を拭えなかった。
怪物は粘着玉の拘束を力任せに剥ぎ取り、涎を垂らしながらピーターへの追跡を再開する。
周囲の岩壁に身体をぶつけながらの荒々しい進撃は、ピーターの走る速度よりも僅かに早い。
「ちぃ!」
再び左手に粘着弾を構え、後ろ目で怪物の動向を窺う。
無防備な背中に向けて無造作に伸ばされる腕の動きから、ピーターの対策を学習していることが見受けられた。
「粘着……いや、閃光弾!!」
粘着弾を投げる振りをして、右手に握った球を放り投げてから地面を転がり、目を瞑る。
怪物の顔面間近に放られた閃光弾は薄暗い洞窟内をほんの一瞬、真っ白な世界へと変貌させた。
その圧倒的な白い光に網膜を灼かれた怪物が、たまらず引っ繰り返って絶叫を上げる。
『ォォォォォオオオォォォオ!!?』
「しめた!!」
会心のタイミングに内心で拳を握り、疾駆する。
残る片目を閃光に焼かれ視界を失った怪物の喉元に、十数年越しの牙を届かせるために。
懐に入れた切り札の爆薬、その感触を確かめつつ歯を食いしばる。
たった一発の切り札、その効力を最大限に高めようと距離を詰めて――その判断が、あるいは焦りが勝負の大勢を決めた。
怪物がむくりと起き上がり、ピーターを視たのだ。
「な、……!?」
閃光弾が効いてない――否。
怪物の目は焦点が合っていない。
その血走った目にピーターは映っていないはずだ。
だが怪物は目測を誤ることなく巨木のような腕を横薙ぎに振るい、それは迂闊に踏み込んだピーターの脇腹へと突き刺さった。
「ゴッ」
聞こえたのは自らの呻きか、骨の砕ける音か。
体の硬い部分は粉々に砕け散り、柔い部分が余さず潰された――そう錯覚するほどの衝撃がピーターを襲った。
革鎧も内側に着込んだ鎖帷子もひしゃげ、口からごぼっ、と血の塊を吐きながら怪物の姿が見えなくなるまで吹き飛ばされる。
「ッ……! ッ、ッ……!!」
生きてる。
まずそれを実感した。
喉奥から競りあがる感触を無理やり飲み干しながら、どうにか足に力を込める。
あれはまずい。
本当にまずい。
確かに目を潰したはずなのに、以前より動きが機敏になっている。
(失敗、した……ッ)
間違いなく失敗した。
大型の魔獣は五感を、特に視界を奪うべしという基本に固執した結果がこれだ。
あれはただの魔獣ではないと知っていたはずなのに。
(あれは、妖精だったはずじゃないか! 視覚も聴覚も、何なら五感全部が獲得したばかりの機能だった……! 眼球を通して物を見る経験のほうが、不慣れだったはずなのに……ッ!)
故に、怪物は目玉が潰れたとて一向に気にしない。
標的の姿を捉えるための手段が、手慣れた妖精時代の色や音を用いた知覚手段に切り替わるだけなのだ。
何故そこまで頭が回さなかったのか――内心で毒づく時間も、今はない。
『オオオオオオオオッ、ハァァアアアアッ!!!』
「ま、だまだぁッ……!!」
怪物が迫る。
死の化身が五秒後の自分を潰しに来る。
ピーターは全身に走る痛みを堪えて立ち上がると、手持ちの粘着弾をありったけ通路にぶん投げた。
張り巡らせた仕掛けは怪物の進撃によって作動し、上下左右から粘着力のある液体を噴出して怪物の動きを妨げる。
「ここ――ッ!」
最後の好機だった。
爆薬を至近距離で炸裂させる、千載一遇の機会。
倒せるかは分からない。
だが怪物の進撃で洞窟内部の損傷も酷く、爆発させれば崩落の可能性も高いだろう。
爆裂による致命傷よりも、崩落による圧死に期待する。
此処を逃せば、もはや生存の道はない。
「こいつで!」
生き埋めにならないよう、未だ藻掻く怪物の背後に素早く回ると無防備な背中めがけ、爆薬入りの容器をぶん投げる――!
「終わり――」
その姿勢のまま、ピーターは固まった。
天井の粘着糸に右腕を吊るされた怪物の脇を抜けて視線が通り、先ほどまで自分が背にして気付かなかった光景を見てしまった。
「――――は、ぁ……?」
そこは広大なゴブリン工場の終着点。
それ以上続く道のない袋小路の隅に、数人の少女が身を寄せ合っていた。
口を塞がれ手を後ろに回されて拘束され、足首には鉄球を括りつけられたアンクレットの戒めが施されている。
ある者は眼前の怪物に身震いが止まらず。
ある者は嫌だ嫌だと涙ながらに首を振り。
ある者は観念して目を瞑り心を閉ざしてその時を待つ。
(だめだ――)
それは紛れもなく。
誘拐されていたホウロン村の少女たちであった。
(――だめだだめだ手を止めるな投げろどうしようもないどうしようもないんだどうしようもないってのに……ッ!!)
必死に自分を鼓舞するのに腕はぴくりとも動かない。
投げれば少女たちは死ぬ。
爆風に殺され土砂に殺され、あるいは生き埋めのまま緩慢に死ぬ。
他ならぬピーター自身の手で殺してしまう。
「ぁぁ……あぁ……ちくしょう……」
脳裏に、愛しい少女の姿が過ぎる。
必ず帰ると誓った恋人の顔が囚われた少女たちと重なる。
そうなればもうどうしようもなかった。
指一本まともに動かせなかった。
アーネと同じ年頃の子たちをその手にかけて、どんな顔をして彼女の元へ帰ろうというのか。
無情なまでに決着は付いた。
拘束を脱した怪物が振るう二度目の拳が、無防備に立ち尽くすピーターへと突き刺さった。
「――――――――」
ぐしゃりと体が捻じ曲がる。
視界は明滅を繰り返す。
身体は天井と地面を行き来する。
呼吸が止まった。
鼻から口から血を撒き散らす。
岩肌にすり下ろされた皮膚も順々に赤く染まっていく。
どちらが上下でどちらが左右か、もう何も分からない。
「――」
ようやく停止。
目を空けると世界が真っ赤に染まっていた。
体を庇うのに咄嗟に突っ張らせた左手の指は残らず折れ曲がっている。
体全部が火傷を負ったようにヒリヒリ痛み、それでいて液体に浸っている感覚――血の海に沈む、なんて冗談か何かとしか思えない。
「ゴヒュ……」
痛い。
痛い。
泣くほど痛い。
動かずにいるのが苦痛で。
動こうとすれば更なる激痛が波のように押し寄せてくる。
いま自分が生きているのか死んでいるのかも夢うつつで。
「ァァ……まいった……」
耳鳴りが止まない。いや、本当は気付いてる。
耳はちゃんと機能を果たし続けている。
同じ音しか聞こえないのは、至近距離にその原因があるからだ。
「ギヒ、ギヒャヒャヒャヒャハァァァアアアァアアアアッ!!」
ああ、咆哮がうるさい。
せめて安らかに微睡みながら、その時を迎えたいのに。
影が死に体に覆いかぶさる。
ズシンという地鳴りと共に距離が詰まる。
小さな呟きを掻き消す絶叫を轟かせながら、太い腕を伸ばしてくる。それは死に体のピーターの身体を無造作に握り、そのまま持ち上げていく。
「ごめん、アーネ……かえれない、や」
全身の力が抜けていく。
視界が真っ暗に染まっていく。
怪物が待ちに待ったご馳走を宙に掲げ、天井を見上げて大口を開ける。
不気味なほど歯並びの良い歯をガチガチと鳴らし、長い舌に滴る血を垂らすたび背筋を駆け巡る快感に酔いしれる。
血を絞り出そうと体を握る腕に力が籠められる。
骨が肉が血が命が、断末魔とも言い難い悲鳴を上げる。
肝心の喉だけが許しを請うような悲鳴すら上げられず、ごぼごぼと怪物の望んだ血を吐き出し続ける。
痛い痛い痛い。
死ぬ死ぬ死ぬ。
眼球がぐるりと上を向き、度重なる暴力に苛まれた体はびくりびくりと痙攣し、思考の八割が苦痛からの解放を望む意思に埋め尽くされていく。
殺してほしい、心からそう願った。
そして許しの時がようやく訪れる。
拘束の力が弱まるその一瞬は、怪物がピーターの肉を食らうための行程だ。
一秒後の浮遊感の後、ピーターの命は怪物の口の中に転がり込んで咀嚼されることだろう。
それは死にゆく冒険家の多くが見る最期の光景。
目に焼き付け、ピーターは――
壮絶に笑う。
「くちを、あけた、な?」
ご苦労様だ、怪物。
この距離ならたとえ死に体だろうとも。
お前を殺すのに支障はない。
「――くたばれ」
祈りを込めて『それ』を放り投げる。
どれほど内臓が潰れ骨が折れ身体が破壊されようとも、決して手放しはしなかった爆薬――大口を開けて滴る血で喉を潤す怪物の口に、起爆準備の整った異物が転がり落ちていく。
喉が鳴って内臓へと流し込まれていくそれを見送り、目を閉じた。
父なる龍よ、母なる精霊よ。
どうか我が冒険に格別の加護を。
そして三度目――視界が真っ白に満たされた。




