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16話 「ピーター」








「生誕祭おめでとう、アーネちゃん」


 これは思い出。あるいは走馬灯。

 今も目に浮かぶのは、手を後ろに回して擦り合わせ、恥じらいに顔を俯かせる少女の姿だ。


 あれは確か、彼女の十五回目の生誕祭たんじょうび

 両親が亡くなってからは初めてとなる、祝う家族のいない夜。新しい止まり木の主人となった叔母が何の催しも用意しないことに業を煮やして、彼女を連れ出した。


「今日から大人の仲間入りだ。こんなもので悪いけど、受け取ってくれるかな?」


 御祝い事に欠かせない少し高価なお酒を贈る。

 彼女は大真面目な顔で「何年か寝かせると価値があがるかも」なんて言いながら両手で抱え、跳び上がるようなステップで夜の街並みを機嫌よく舞っている。


 本当に可憐な少女になった。

 この間まで足元にくっ付いて回るばかりの子供だったはずなのに、なんて言うと自分が年を取ったことを自覚してしまうので口には出さないが。

 この喜びを彼女の両親と分かち合えないのが少し寂しかった。


 少し肌寒いその夜の終わりの頃。

 彼女は振り向いて、言った。


「大人になったから。言うんですけど」


「うん?」


「あなたを。愛してます」


 挑むような眼差しだった。

 一切の不純物のない、愛の告白に目を白黒させた。

 一回り以上年の離れた中年の男相手には、もったいないほどのストレートな想いの吐露に絶句したのを憶えている。


 結局、その夜に返事は出せなかった。

 思えばその場で断らなかった時点でどうかしてたのかもしれない。






 次の日。

 仕事は何も手に付かなかった。


 てきぱきといつもと変わらず働く少女の顔をちらちらと窺いながら、やはり夢か何かではなかろうか、と訝しむ。

 しかし繁忙期の昼時が終わると、アーネは昼食も喉に通らないピーターの手を引いて、応接室へと招き入れた。


 二人きりの密室だ。

 後ろ手でカチリと鍵を閉める音が妙に耳に残った。


「返事を。聞かせて」


 逃げないで、と強く釘を刺された。

 唇をぐっと噛み締めながら、自分の口からどんな言葉が飛び出るかを待っている。

 その姿を直視できず、木目板の床へと視線を落として笑みを作る。


 ――気持ちには応えられない。


 そう言うだけの簡単な話だ。

 自分に言い聞かせて口を開く。


「なんで、俺なんか」


 口に出たのは、昨夜の間ずっと自分を悩ませてきた疑問だった。


「うだつは上がらない、顔も良くない、稼ぎも悪い三流止まりの冒険家だ。自分で良いとこ探そうとしてもろくに出てこないおじさんだ」


「……」


「アーネちゃんみたいな若い子に気持ちを向けてもらえる要素があるとは思えない」


 自分には男の魅力というものが全くない。

 いつ死ぬかも分からないならず者あがり。

 女っ気もなくお洒落にも縁遠く、髪はバサバサ。

 馬の世話から帰る頃には飼い葉や馬糞の匂いをくっ付けていることもある。

 酷い物件だ。

 笑い草にもならない。


「アーネちゃんに相応しい男は、もっと他にいるよ」


 心からそう思う。

 いつかもっと相応しい若者が彼女の手を引いていく。

 その時まで世話を焼く親戚、ピーターおじさん。自分はそういう立ち位置でいるべきだ。


 勘違いするなよ、ピーター。


 彼女が求めているのは、いなくなった両親の代わりだ。

 唯一の肉親となった叔母は家族の温もりを彼女には与えなかった。その代わりを自分に求めているだけだ。


 そこに付け込んで、恩人の娘を傷物にしてはならない――そう自分に言い聞かせる。


 けれど。


「ピーターおじさん。ううん、ピーター」


 真っ直ぐな瞳と声が、卑屈な心を強く打つ。

 呼び捨てにされ、図らずも胸が高鳴った。

 思わず喉を鳴らして続きを待つと、彼女の思い詰めるような表情が少しだけ綻んだ。


「冒険家ってね。みんな帰ってこないの。強い人は他所に移籍して。弱い人はすぐに死んじゃう。いつも、何でもない顔で帰ってくるのはピーターだけ」


「……冒険してないからさ。勇気がないだけだ」


「嘘。冒険をする日が来るのを待ってるだけ。ほんとはお店の誰より凄いのに」


 ひどい買い被りだ。笑えない。

 満ち溢れた自信と才能を引っ提げて、実績も階級も追い抜いていく後輩たちを内心で歯噛みしながら見送っているだけの万年銅貨級ブロンズが、店の誰より凄いなんて過大評価にしてもできが悪い。


 苦笑いをどうにか作ろうと顔を歪ませるピーターに、ぐぐいと細い指を突き付けたアーネが眉を吊り上げた。


「十六人」


「え?」


「ピーターが指導して銀貨級シルバーに上がった人の数。ピーターの言うこと聞いた人だけ。聞かなかった人は帰らなかった。十六人、誰も今日まで死んでない」


 言葉に詰まった。

 自分を追い抜いた十六人を思い返す。

 二人の金貨級ゴールドを含めた十六人の成功者はピーターにとって誇らしいというより嫉妬の対象だ。

 彼らの功績は彼らだけのもので、自分のおかげだなんて口が裂けても言えやしない。


 彼らとの違いを考え抜き悩み抜いた日もある。

 出した答えは単純明快だ。


「彼らには才能と勇気があった」


「あなたは、その才能に胡坐あぐらをかかせなかった」


 才能ある若者でも準備と知識と経験の不足で命を落とす。

 視界を広く保つ戦い方の指南。

 初期装備の助言および必要物資の目安。

 空腹時に食べられる樹の皮や根っこの見分け方。

 およそ死なないことに特化した心構え、生きた経験ノウハウをピーターは今日まで惜しみなく後輩たちに提供してきた。


 当たり前の教えだ。

 長く仕事を務めてきた者なら誰でも学べる当たり前の知識――決して新米や駆け出しが手に入れられない教え。


 その価値を、誰より少女は高く評価して。


「ピーターには、止まり木の主人としての才能がある」


「……」


「自分を卑下しないで。私、ずっと見てきた。ずっと尊敬してる。好きな人を馬鹿にされるのは。たとえピーター自身でも。嫌だ」


 たどたどしくて、力強い肯定だった。

 若さゆえの真っすぐな感情が心を強く揺さぶり、思わず唇を噛んだ。

 気を強く持たなければ自分でも理解できない感情が、目を通して頬に伝っていきそうだった。それぐらい、その言葉は心に沁みこんだ。


「アーネ、ちゃん。俺は」


「アーネ」


 呼び捨てにして、と彼女は言う。

 子供扱いしないで。ちゃんと私を見てほしいと。

 直視できなかった視線がゆっくりと少女に定まり、やっと気付いた。


 彼女は自分以上に心細そうな顔をしてて。

 胸の前で組んだ手が震えてて。


 今この時が、彼女にとっての冒険なのだと知った。


「……アーネ」


「うん。……うん、どきどきしてる。ピーターは?」


「かなり。眩暈がしそう」


「じゃあ。ピーターもいま冒険してるね」


 そう言って紅潮した頬を緩ませる彼女の顔を、きっといつまでも忘れないだろう。

 この顔を曇らせてはいけないと心から思った。

 どんな障害でも乗り越えようという勇気をもらった。


 だから、いつか冒険の時が来たとしても。

 何でもない顔をしながら、彼女の元に帰ってこようと心に誓ったのだ。




















 これは思い出。あるいは走馬灯。




















 痛い。

 痛い、痛い。


 目が霞む。

 聴覚が同じ音ばかり拾っている。

 投棄されたゴミ同然の姿で地べたに倒れて。

 呼吸も満足にできなくて。

 折れた骨が肉に刺さる。

 痛みで満足に身動ぎもできない。無事な肋骨が一本でもあるかどうかも疑わしい。


 有体に言って満身創痍。放っておくだけでも多分死ぬ。


 それが、今のピーターの全てだ。



「ゴヒュ……」


 痛い。

 痛い。

 泣くほど痛い。

 動かずにいるのが苦痛で。

 動こうとすれば更なる激痛が波のように押し寄せてくる。

 いま自分が生きているのか死んでいるのかも夢うつつで。


「ァァ……まいった……」


 耳鳴りが止まない。いや、本当は気付いてる。

 耳はちゃんと機能を果たし続けている。

 同じ音しか聞こえないのは、至近距離にその原因があるからだ。


「ギヒ、ギヒャヒャヒャヒャハァァァアアアァアアアアッ!!」


 ああ、咆哮みみなりがうるさい。

 せめて安らかに微睡みながら、その時を迎えたいのに。


 影が死に体に覆いかぶさる。

 ズシンという地鳴りと共に距離が詰まる。

 小さな呟きを掻き消す絶叫を奏でながら、太い腕を伸ばして死に体のピーターを無造作に握ると、そのまま持ち上げていく。


「ごめん、アーネ……かえれない、や」


 全身の力が抜けていく。

 視界が真っ暗に染まっていく。





◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 少し前。


 長い岩肌の通路の奥から時折ひゅう、と風が吹く。

 久しぶりの新鮮な空気が汗ばむ肌を涼やかに癒し、ルシカの長い黒髪を掻き上げる。苦役にも似た逃亡劇を労っているようで少しだけ気持ちが持ち直した。


 気分の高揚は風によるものだけではないだろう。

 今のピーターを精神的に支えるものは二つ。

 一つは恋人アーネの元へと必ず帰るという使命感。

 一つは黒尽くめの少女が事前に用意しておいたという切り札への強い期待感だ。

 尤も、切り札の詳細を聞かされたピーターの反応は喜びよりも困惑のほうが勝る内容ではあったのだが。


「……やっぱり信じられないなぁ」


「まだ言ってる」


「だって聖龍国ミトラの騎士団だよ? そりゃ援軍としてこれ以上心強いものはないけど……王族直下のエリート軍団がこちらに向かってるなんて、ちょっと想像できないよ」


 彼女が『保険』として位置付けた取っておきの鬼札――それは聖龍国最大の戦力、騎士団の派兵だ。

 騎士団は王族直下の精鋭部隊として世界に名を轟かせる、魔獣退治の専門家。ゴブリンの討伐と一連の真相究明を掲げ、ホウロン村に進軍中――。


 この窮地で、そんな都合の良い展開をどこまで信じていいのかを測りかねる、というのがピーターの正直な思いだった。


「ルシカちゃん、やっぱりどこかのお姫様だったりするだろ? 嘘でも『そうだ』と言ってくれたら、頭から信じるんだけど」


「実は嘘をつけない体質でね。期待には沿えない」


「またまたぁ……」


 むしろ呼吸をするような自然さで嘘を吐く側の人間だろ、と思う。気持ちが折れかけたピーターを気遣ったハッタリの可能性が高い。一介の冒険家や市民に、騎士団を動かす力などあるはずがないのだ。


「……っと!」


 突如、前を歩いていたルシカの身体が横に流れる。

 咄嗟に飛びだしてその肩を支えると、ぐっしょりと濡れた汗の感触が手に広がった。ハッとしてその横顔を覗き見、青白い顔色に気付く。


 かなり疲弊しきっている。

 声のトーンや様子からは感じ取れなかったが、深刻な体調不良の一歩手前だ。


「少し休もう」


「まだ距離が心もとない。本来なら走りたいぐらいなんだ、まだ……」


「駄目だよ。もう倒れる直前まで来てる。自分でも分かってるはずだろ? ほら、水を飲んで。それから足を出して。肉刺まめができてるなら処置しておかないと」


 言いながらゆっくりと身体を倒させると、細い肢体はろくな抵抗もなく腰を下ろした。

 疲労が溜まった息が口から漏れ、岩肌に背を預けて天を仰いでいる。

 腰に下げた木製の水筒を手渡すと、ルシカはぐい、とそれを傾けて喉を鳴らす。

 白い首筋に珠のような汗が絶えず流れていく姿が妙に色っぽい。彼女が投げ出した足を引っ掴んで包帯で処置を始めると、くすりと笑みが降ってくる。


「アーネに言いつけてやる」


「ほんと勘弁してね。……本当に勘弁してね?」


 重ねて念を押すと、ルシカは肩を震わせて笑いを堪えた。

 決してこの治療行為に妙な意図はないのだと訴えながら手を動かしていると、水筒一本を空っぽにしたルシカが何かを思い出したかのように笑う。


「ハルは不器用でね。力加減を間違えてよく包帯を破ってしまうんだ。でたらめだろう?」


「……」


 本当に可笑しそうに笑う彼女とは対照的に、ピーターの顔色は曇った。

 包帯を巻く手が一度止まり、再び稼働する。

 そんな些細な動きを見咎め、ルシカは俯くピーターの顔を覗き込んだ。


「何か、言いたいことがありそうだ」


「ハルさんのこと、心配じゃないのかい」


 口にしてから、あ、と声を漏らす。

 違う。言いたいことはそうじゃない。

 今の言い方ではまるで彼女の態度をなじるかのようだ。

 慌てて別の言葉を探そうと頭を回しているうちに、彼女から返事が来た。


「取り乱したり、泣き喚いたりしないのが不思議なんだね」


「いや、その」


 あんな怪我をした状態で、あれだけの数を相手に殿を務める。

 今生の別れを覚悟するべきだ。

 ほんの少し一緒に過ごしただけのピーターでさえ心構えができなかった。いま生きているのは、終始冷静な彼女に手を引いてもらったからだ。


 彼女は、あれで良かったのだろうか。


「……ハルさんを信じてる、って言われる気はしてるんだ」


 けれど、信じるという行為にも限度はある。

 少年の生存を手放しで信じられる根拠は何一つないのだ。

 ハルには何かピーターの知らない隠し事があった。

 それが生存の根拠になっているかもしれない。そうであるなら良いし、そうであってほしい。


 けれど、それだって絶対じゃないはずだ。


 一度だって、考えないだろうか。

 死んでしまうかもと少しでも思えば、平気ではいられるはずがないのに。

 たとえ表面上でも、こうも完璧に取り繕えるものだろうか。


 ――お前のせいでハルが。


 そうピーターに詰め寄ってもおかしくはないのに。


「そうだね」


 彼女は何でもないように笑った。

 笑うことで自分を律しているようにさえ映った。


「ハルを信じてる。あれぐらいで死んだりしないって信じてるさ。けれど、君はそれで納得できないようだから、もう一言を言い添えておく」


「?」


「私はハルに、賭けているんだ」


 その時、ぶるりと鳥肌が立った。

 洞窟内の気温が急激に冷え込んだように感じたのだ。ひときわ冷たい夜風が通り抜けていったのだろうか。

 足に包帯を巻く手が止まっていることに気付き、慌てて処置を再開しながら相槌を打つ。


「か、賭ける? 何を?」


「この身の全てを――夢も、野望も、人生何もかもを」


 細い指が彼女自身の黒服、その胸部分をなぞる。

 形よく膨らんだ双丘の左側、脈打つ心臓を指し示し、歌うように少女は言葉を紡ぐ。


「私は、私という存在の全てをハルという少年の可能性に賭けている。私の野望を叶えるための、唯一無二の共犯者だと定めている。ただそれだけの話で、たったそれだけの決意だ」


「――――」


「彼が死んでいたら? ああ、なら私の夢はお終いだ。その後に及んで今更ジタバタするものか。『我ら、比翼にして連理』――片翼を亡くした比翼わたしは速やかにこの喉を引き裂き、自ら幕を引くだろう」


 ――勘違いしていたのかもしれない。

 信頼、という言葉で一括りにするのが間違いだった。


 彼女のそれは狂信に近い。

 ともすれば他人には理解できない強い感情、それを薪にして燃え上がる業火の一端をピーターは垣間見た。

 これほど熱の籠もる声音でありながら、背筋が凍り付く思いをするのは初めてだ。

 まだ年若い少女が話す決意の苛烈さに、ピーターは言葉を失うしかない。


「必ずハルは生きて戻り、駆けつける」


 根拠のない情熱に。

 理屈のない信頼に。

 少女と少年とを繋ぐ、絆とも呼べない炎に――ルシカは、己の全てを捧げている。

 捧げているからこそ、開き直れるのだと。


「その時になって私が囚われていれば彼の動きが鈍るんだ。だから私は取り乱さない。泣き叫ぶのは死体を見つけて、その脈を確認した後でも遅くはないのだから」


 もしも、その時が来たとして彼女はちゃんと涙を流せるのだろうか。何故かそんな益体もないことがピーターの頭を過ぎって、思わず余計な口を開いた。


「……それは愛情から?」


「『そういうのじゃない』と、ハルがそう答えたはずだ」


 素気ない返事に頭を掻く。

 単直な物言いが彼女の機嫌を損ねたのか、よく喋る彼女が少しの間押し黙る。

 空気を察したピーターはそれ以上何も口にできず、包帯の擦れる音だけがしばらく続いた。


「ごめん。余計な事を言った」


「構わないさ。貸しにしとく」


「わぁ、高く付きそうー」


 明るい声でおどけて話を打ち切った。

 足の処置を完了させ、努めて明るい声と共に立ち上がる。


「これでよし。行こうか?」


「そうだね―――、っ……?」


 差し出された手を引こうとしたルシカの膝が折れる。

 続けて未だ体力に余裕があるピーターの体が崩れ、慌てて中腰になって壁に手を突いた。


「地震……?」


 カタ、カタ、と足元が揺れ始めるのは序の口だ。

 それは時間を追うごとに凄まじい揺れが洞窟内に響き、収まるどころか激しさを増した。


 まるで洞窟自体が人格を持って怒りに震えているかのようだ。健脚なピーターでさえ目を瞑って頭を押さえ、天井から剥がれ落ちた岩石を凌ぎながら泡を食ったように叫ぶ。


「くそっ、崩落したりしないだろうな……!? ルシカちゃん、姿勢を低く! 頭だけは守って!」


「――ピーター。少しまずいぞ、これは」


 岩床に横倒しになったルシカが顔を顰めながら首を振った。



「下から、何かが来る」



 地鳴りが最高潮に達し、地面が破砕音と共に破裂した。

 巻き起こる土煙と岩石の破片が風に乗って鋭く降り注ぎ、ルシカを庇うピーターの肌を引き裂いた痛みに歯を食い縛りながら目を凝らす。

 茶色と黒に彩られた薄膜の向こう側に巨大な腕のシルエットが見えた。


 その時、ようやく気が付いた。

 洞窟は怒りに震えていたのではない。

 体の中を掻き乱す痛みに喘ぎ、絶叫する――あの地震は、そういう類のものだったのだ。


「まさか……こいつはっ……!?」


 腕が引っ込み、そしてもう片方の腕が地面から生える。

 引っ掛かる腕から加えられる重量に岩肌がミシミシと悲鳴を上げ、そして怪物の頭が顔を出す。

 大きく見開かれ血走った目がピーターを見やって、涎を垂らした口元に残忍な笑みが浮かんだ。


「ゴブリンッ……!!」


 紛れもなくバシムが放った、あの怪物だ。


 よく見れば左肩部分が陥没して骨らしきものが肉を突き破って露出し、顔には真一文字に斬撃の跡が刻まれて凶悪な顔付きを更に醜く仕上げられていた。

 重傷を負っているにも関わらず、その動きはピーターの想像以上に機敏で、そして荒々しい。


「ルシカちゃん、逃げ――」


 地鳴りに翻弄され未だ立ち上がれないルシカに手を――伸ばそうとして思い留まる。

 彼女を連れて逃げるのは不可能だと気付いたのだ。

 怪物は奥へと進むピーターたちを阻むように現れ、唯一の活路を塞いでしまっている。


 元来た道を戻ればバシムと鉢合わせるだろうし、暴風のように荒れ狂う怪物の脇を突破する荒業にルシカが付いてこれるとは思えない。


「―――」


 覚悟を決める時間すら許されなかった。

 ほんの瞬きほどの時間を浪費することが死に繋がると悟った。

 内に湧き上がる恐怖を振り払り、眦を吊り上げる。

 地面を力強く蹴り飛ばし、思いのほか軽い自分の身体に内心舌を巻き、歯を食い縛って強張った笑みを作る。


(そうだ、これはあの日の……)


 あの日のやり直しだ。

 同じ怪物を前にして、似通った洞窟内で仲間を背にしている。

 やり損ねた冒険の時が来た。

 あの後悔を清算する絶好の好機が来たのだ。


「オォォオ……ォォオオオオ、ウッ!?」


 雄叫びが上がる直前、その大きな眼に投げナイフが突き刺さる。

 分厚い皮に覆われた腕で顔を抑える怪物めがけ、ピーターは何度も腕を振る。反響する風切り音が耳に心地良い。


 一振りの間に投擲された複数のナイフが、指の隙間から零れる怪物の右目を執拗に切り裂いた。


「ふっ……ぉおりゃっ!!」


 咆哮が絶叫に切り替わったことに手応えを感じ、腰の剣を抜き払って突きの構えを取る。

 狙いは太い血管が浮き出た喉元――まるで脈打つ心臓にように蠢く急所めがけて全体重をかけて突っ込む、が。


「ぐっ、ちいっ……!」


 長剣は苦し紛れに虫を払うような怪物の手の甲を刺し貫くに留まった。

 引き抜こうとする長剣は肉厚の筋肉に阻まれて抜けず、そしてみるみると罅が入っていく。


「まだまだっ……!」


 剣を諦め手を放し、無造作に払われるタイミングに合わせて怪物の腕を蹴り飛ばす。

 岩盤に何度も体をぶつけながら距離を取ったピーターは、敢えて口角を吊り上げた。


「ふうっ、ぅ……! よし! これで……!」


 長剣は惜しかったが、うまく怪物の脇を抜けた。

 これでピーターには洞窟の奥側へと退避する選択肢が生まれた。前門の虎、後門の狼という状況からの脱却に成功したピーターは投げナイフを飛ばしながら声を張り上げた。


「こっちだ……ッ! 化け物め!!」


「オオオグルァアアアアアアッ!!!」


 挑発にあっさりと乗った怪物が力任せに下半身を地面から引き抜き、大量の血液を撒き散らしながらピーターを追う。

 天井や側面の岩壁に巨体をぶつけ、そして破壊しながら追いかけてくる様はピーターの恐怖を掻きたてた。


(怖い――いや、大丈夫。身体は動く)


 気負いはない。

 無茶ではあるが無謀ではない。

 そう、これが最善手だ。二人ともが生き残るためにピーターは自分を囮にする。


「そうだ、こっちだ! こっちに来い……!」


 遠くで、ルシカの咎めるような声があった。

 聞こえない。聞こえなくていい。

 今考えるのは怪物と少女を引き離すことだけ。

 身を案じるような罵声も、自分勝手を咎める視線も今は振り切って。



「お前の相手は俺だ! さあ来い、ゴブリンッ!」





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― 新着の感想 ―
[良い点] 前半の甘い?思い出はさておいてw、後半のルシカの告白とピーターの覚醒はかなりワクワクさせてくれます! ああっ、また次回が気になってしまう(^-^; [気になる点] 誤字じゃないですけど、「…
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