14話 「よみがえる怪物」
きらきら、と硝子片が散らばった。
宝玉が曇っていく様子はまるで空気に光を盗まれたかのようだ。
命を吹きこまれ脈動を繰り返していた洞窟は在るべき姿へと回帰し、耳が痛くなるほどの静寂を取り戻す。
「かっ……ぁ……!?」
絶句するバシムの顔からは一切の表情が抜け落ちた。
手に残る砕けた宝玉の破片を信じられない面持ちで凝視したまま固まり、放心状態のまま条件反射でハルから距離を取る。
ハルもまた勢い余って体勢を崩すも、咄嗟に動いたバシムの配下の足元を大剣で薙ぎ払い、迂闊な接近を食い止めてから立ち上がった。
「げほっ、げほ……っ」
血の塊を乱雑に吐き出すハル。
目に見えるだけで十本以上の矢が突き刺さったまま仁王立ちし、大剣を構えて深く腰を落とした。
男たちは迷った。
ハルの負った傷は致命に至るに十分のはず。
彼らの持つ強弓で放たれた矢は岩をも貫き、人体に刺されば内臓を削るはず。ハリネズミのような姿で助かる道理はない。
立ち向かわずとも、やがて死ぬ。
長年の外道仕事で積み重ねてきた人殺しの経験はそう主張するのだ。ゆえに男たちは動かない。死に際の悪あがきで傷を負うリスクを嫌うがゆえに。
その逡巡をルシカは見逃さなかった。
「退却だピーター。この隙に、洞窟の奥まで逃げるぞ」
「ッ、ぁ、ああ!」
慌ててピーターがルシカに絡む鞭を解きにかかる。
器用に巻き付いた拘束を速やかに取り外し、鞭はそのまま奈落へ投棄。
未だ浮足立つバシムらには脇目もふらず、ルシカの体を抱えると最後の足場へと跳躍した。
「ぐぅうっ!」
ハルが簡単にこなす作業も、中年の冒険家には一苦労だ。
宙を浮いている間は生きた心地がしなかった。
横やりと奈落。二つの要因を前に心臓が裏返ってしまいそうな怖気を食い縛り、どうにかピーターの爪先が地面を踏む。
「よ、よし……! ハルさん、早くこっちに……ッ!?」
此処まで来ればこの広場からは脱出したも同然。
後はハルがこちらに来るまで、ナイフの投擲で援護を――それ以上の思考が、広場全体を覆う強烈な殺意によって掻き消された。
「――――」
バシムだった。
彼の目は今なお砕けた宝玉を凝視し、こちらに注意さえも払っていない。だと言うのに肝が冷えた。
バシムが放つ声にまるで呪いが込められているかのような重圧感に、一歩、気圧されて足が後退する。
「――、――――、――」
バシムの口が、早回しの速度で回りだす。
わなわなと体を震わせ、周囲の配下たちも距離を取る中、重い体を引き摺りつつ大剣を構え直すハルへと、ゆっくり、ゆっくり視線を上げて。
丸眼鏡の奥で、今にも血管が浮き出そうなほど眼球を剥き出しにしたバシムが、ブツブツブツブツと。
「七百万Eの……魔導品が」
届いたのは、そんな俗っぽい悲嘆の声。
しかし。
「ああ、損害だ。大損害だ。工場の運営にも穴が空く。代わりの品が届くまで何日かかる? 今回の儲けと相殺してどこまで利益が出る? ああ、あああ、ぁぁぁあ、利益が減る、金が減る、クソ、クソ、クソ、クソ、クソが」
「――――」
「このガキは、ダメ、ダメ、ダメ! 汚らしい恰好、秀でてもない顔、可愛げのない目、傷だらけの身体ぁ!! 売り飛ばしても一銭の価値にもならない凡愚! どうあってもお前じゃ七百万の補填ができない! ああ! あああ!! どう清算を付けてくれようか! この! 死にぞこないが!!」
欲望という油を差して怒りの炎が燃え盛る。
剥き出しの歯茎。
撒き散らされる唾。
伸びる長い舌に血涙でも流しそうな眼。
形ばかり整っていた好青年の仮面は剥がれ落ち、地を出した悪党の地団太に、彼の配下たちでさえ巻き添えを喰らうことを恐れ、息を潜めて怒りが過ぎ去るのを待つばかりだ。
圧倒されているのはピーターも同じだ。
何の憂いもなく出口まで跳べたのは、そんな威圧感を至近距離で受けながらも牽制をし続けてくれるハルがいたからだと遅まきながら気付いた。
「オォイ! アレ持ってこい、アレ! 調整が終わってる奴を今すぐ!!」
慌てて一人が入り口の方面へと走る。
その姿を追ったピーターの目が妙なものを見つけた。入口付近に転がされているのは干乾びた生き物の死体――否。
(ゴブリン……? しかも、だいぶ弱ってる……)
緑色の肌、いや僅かに灰交じりだろうか。
何日も食い詰めて干乾びた餓死者の遺体にしか見えないが、死んでいるならば塵になって消滅しているはずだから生きてはいるのだろう。
男は素早くバシムの足元に、死にかけたゴブリンを置く。
ヒュ、ヒュ、とか細い息を吐く妖精を足で転がして仰向けにし、バシムは残忍な笑みを浮かべた。
「あのガキと男を殺せ。女のほうには指一本触れるんじゃないぞ」
無謀な注文だ。馬鹿げてる。
宝玉を壊された衝撃で正気を失っているとしか思えない。
あんな死にかけのゴブリン、ピーターでもひと手間で殺せる。ナイフだっていらない。転がされた衝撃だけで、今にも塵に還りそうな衰弱ぶりなのに。
けれど次の一言で事態は劇的に変わる。
「『オーグル』――お前に、名をくれてやる」
どくん、と。
死に体だった小鬼の体が跳ねた。
這い蹲り今にも息を引き取る直前だった小鬼が、糸に吊られた操り人形のような覚束ない動作で立ち上がった。
ゴブリン特有の醜悪な顔をくしゃりと悦びに歪ませ、そして。
「オォ、グルゥ?」
人語を口にした。
否、それは音の響きを繰り返すだけの動作でしかない。
それだけでしかない行為で、痩せぎすだった体が膨張した。
「ッ……!!」
「ォォォォオ、グルゥゥウウ、ォォォォォオグルァァァ」
ハルが息を呑むのが遠く離れた背中越しでも分かる。
べこり、べこりと内側から風船のように矮躯が膨れ上がっていき、やがてその全長はハルやバシムの身長さえ優に超えて肥大化した。
甲高い鳴き声が野太い低音の息遣いへと変化し、痩せぎすだった体は打って変わって肥満体へと成長を遂げ、膨れ上がった両腕両足で大地を踏み鳴らす。
「オオオオオオオグルゥゥゥウ!!! ギヒ、ギヒャヒャ、オオォオオオグルウウウウウウウァアアアアアア、ハァアアアアアアッ!!!!」
産声は歓喜に満ちていた。
ゴブリンの体躯は、元の姿の十倍を優に超えた。
緑色の皮膚は薄茶色に変貌し、急成長に付いていけなかった片方の眼球が零れ落ちてぷらぷらと頬に引っ付きながら、ぎょろりと傷だらけのハルを睥睨する。
「、なんで」
困惑の声は、ピーターの口から漏れた。
知っている。
この怪物を見たことがある。
幾つかの相違点はあっても本質を見間違えるはずがない。
対峙するハルの三倍以上もの巨体へと膨れ上がった怪物の出現に足の震えが止まらない。
「ゴブリン……?」
音は同じでも、込められた意味はまるで正反対。
妖精としてのゴブリンではない。
魔獣として信じてきた『災禍の小鬼』――いま、ピーターの夢を殺した怪物が下品な笑い声をあげている。
涎を垂らし、小さき者どもを睥睨し。
獲物の数を、かぞえている。
「ええ、ええそうですとも!!」
唾を飛ばす勢いでバシムが吼える。
興奮しながら両手を広げ、怪物の誕生を祝福している。
「これが本当のゴブリン! 次世代を席捲する我々の商会の新しい目玉商品! 機人族に代わる新しい生命兵器だ!」
「生命、兵器……?」
「さぁオーグル、龍への誓いはとうに捧げた! お前の性能調査も兼ねているんだ、しっかりと役目を果たしてくださいよぉ!」
ゴブリン。生命兵器。目玉商品。性能調査。龍への誓い。
幾つも飛び交う単語がまるで頭に入らない。
(あの日出逢った化け物が……彼らが作った、生物兵器……?)
だってあれは十何年も前の話だ。
目の前の青年はまだ子供ぐらいの年頃で。
災禍の小鬼なんて御伽噺が流行りだしたのも、ここ二年程度。
(なんで……そんなはずが……)
でも。
だって。
おかしいだろ。
辻褄が。合わない、
歯の根も。噛み合わない。
「――カ……ピーター……む」
少年が一度だけこちらを見た。
何か言っている。
自分の名前を呼んでいる。
なんだ。
聞こえない。
耳鳴りが酷い。
少年はあの死地で、何を口にした。
もう一度。
もう一度言ってく――
「呆けるな!!」
少女の痛烈な叱咤でピーターは我に返った。
現れた怪物は既にハルを見据え、その太い腕を振り上げようとしている頃だった。
「ッ……くそ!! ハルさん、いまッ……!」
袖のナイフを強く握りしめた。
前を見据え、目を凝らせ。
いますべきことは明白だ。
たとえ昔のトラウマの生き写しが相手だろうと、今度こそは少年の手助けをしなければ――
「ぇ……?」
けれど。
勇気を振り絞るよりも早く腕を引かれた。
満身創痍の少年を残した戦場が遠ざかっていく。信じられないという面持ちで腕を引く少女の横顔を見やり、疑問を苛立ちと共にこぼす。
「っ、ルシカちゃ、な、なんで……!?」
「今の君に何ができる!」
心臓が跳ねた。
実力不足の烙印を叩き付けられた気がして。
何の助けにもならないと突き付けられた気がして。
言い返しようがなく言葉に詰まると、黒尽くめの少女は更に言い募った。
「たとえ宝玉を壊そうと私たちの数的不利は変わらない! あんな広場でまともな勝負になるものか! 私たちがあそこに留まるだけでどれほどハルに負担を強いるか考えてみろ!!」
「……ッ、それは、でも」
「どうして今の君を戦場に送り出せる!? 自分がどんな状態かも分からないのか! いま君本来のポテンシャルの何割出せるんだ!? 一割か、それとも二割か!? まったく話にならない!」
指摘され、空いた手で自分の顔に触れる。
引き攣ったままの皮膚。
歯の根が合わないままの口。
ヒリヒリと目が痛むし呼吸のやり方も不明瞭。
第三者の目から見れば疑いようもなく、錯乱状態の一歩手前。
「俺は、こんな」
こんな状態で助けに入ろうとしたのか。
これでは舞い上がった新米冒険家と何も変わらない。
冷静さを欠いたまま無謀な行為に身を投じ、場を引っ掻き回して迷惑を振りまく――今のピーターは、そういう人間の精神状態だ。
こんな状態の人間が何の役に立つのか。
彼女の言う通り、話にならない。
「今の君に必要なのは時間だ! その時間をハルが稼ぐと言ってるんだ! 一秒たりとも無駄にしたら承知しない! 分かったら自分の足で走れ!!」
「……わ、かった」
言われた通りにするしかなく頭を垂れて走る。
少女に叱られ、少年を取り残してあの時と同じく無様に逃げる。
自己嫌悪をよそに背後からは今も絶えず轟音が響き。
それも時間と共にゆっくりと消えていく。
剣戟も怒号も。
地響きも遠ざかっていく中で。
「ォォオオオオオオオオオオ、グルァアアアアア、ハァアアアアアアアーーーーーーーッ!!!」
怪物の笑い声だけがいつまでも、いつまでも耳から離れなかった。
「追え。逃がすんじゃねえ」
冷徹なバシムの指示。
反応した何人かが即座に地を蹴り、ハルへと殺到した。
左右同時。加えて、獣人族の一人が跳躍でハルの頭上を飛び越えようと企むなか――ハルは前に出ず、むしろ下がった。
左右の男に対し大剣を横薙ぎに振るって牽制。
飛び上がった獣人族に対しては転がった瓦礫の破片を引っ掴むと、素早く投擲。男がぐぎゃっ、と悲鳴を上げて撃ち落とされる。
「こいつ――」
まだ動けるのか、という呆れを含んだ怪訝な溜息。
ハルが一歩動くごとに血の匂いも濃くなっていく。どんな悪あがきを企んでいるのか知らないが、失血死なんて詰まらない死に様を許すわけには行かない。
「殺せオーグルっ!! お前の餌だ!!」
迷宮珠玉が創り上げた岩造りの橋を、雄たけびをあげて怪物が疾駆する。
図体に似合わぬ速度にはハルも驚かされた。一歩踏みしめるごとに瓦礫が舞う程の力強さは見た目通り。
「グッ……!」
振り下ろされた拳を後退して凌ぐハルは、歯を食い縛りながら周囲を見回す。
動き出しているのは怪物だけではない。
十数人ものバシムの配下たちが、ハルの防衛を突破しようと次から次へと殺到。物理的に手数が足りない。ハル一人では到底守り切れる数でないのは明白だった。
ハルは姿勢を低くしたまま、軽く足場を小突く。
ゴッ、ゴッ、と鈍い手応え。
ハルが想像していたよりも頑丈な造りであることが手の甲を通して分かる、だが。
「――悪りぃけど」
行けるはずだ、と判断した。
勝ち誇るバシムに向けて、ハルは歯を剥き出しに笑って見せる。
相棒の完璧な笑みには程遠い、引き攣った笑み――しかし決してハッタリではない、あの余裕面を今一度歪ませてやろうという、獰猛な顔付きで拳を握り締めて。
「アンタらはここで、釘付け、だッ――!」
――石造りの大橋に、全力で拳骨を喰らわせた。
炸裂する衝撃。そして肌を焙るような熱気。
バシムの目にはハルの輪郭を「赫」色の靄が纏ったように見えた。
拳で打ち抜くに相応しくない轟音と共に、みるみると大橋に無数の皹が生じていく。
「ハァッ!?」
事態を認識し、驚愕の声をあげる頃には橋を支えていた支柱まで破壊が進み、瓦礫が奈落へと吸い込まれていく。
バシムやその配下たちは面喰いながらも崩れる足場を蹴って、入り口まで戻るしかなかった。
ハルもまた人間離れした跳躍で、彼らとは反対側へ。
奈落全体の三分の一程度をひとっ飛びする常識外れの逃亡劇は、脚力自慢の獣人族であろうと追い縋れない。
足場が崩れた奈落広場の、どこを頼りに跳躍していいのか分からず足を止める。
それでも、ただ一体。
雄叫びをあげて飛び掛かる怪物だけが、ハルの逃亡を阻んだ。
「ッ……ぐあッ?」
無防備な空中で、長い腕に体が包まれる。
恐ろしいことに怪物の跳躍は、足場までの飛距離に届いていない――足場など気にする知能もないまま、羽虫に飛び掛かる蛙のような動きで手を伸ばしただけ。
怪物には、ハルという餌しか見えていなかったのだ。
(ふっ、ざけんな、こいつッ!?)
悪態をつく間さえなかった。
ハルは怪物と共に奈落の下へと再び呑み込まれていく。
後に残ったのは広間の入り口で茫然と、足場が無くなった広場を見つめるバシムたちの一行。
洞窟は静けさを取り戻し、そして。
聴くに堪えない罵声の声。
宝玉の破片を忌々しげに蹴飛ばすバシムの癇癪が、しばらく続いた。




