10話 「その毒の名は」
深夜。
ホウロン村は剣呑な雰囲気に包まれていた。
篝火が休みなく焚かれ、広場には百名に近い数の村人たちが身を寄せ合っていた。
彼らは今夜中に村を出る予定の村人たち。
そのほとんどがゴブリンの標的とされる年頃の女性たちだった。
未婚者もいれば、既婚者もいる。
彼女たちは幼い子供たちの手を硬く握り、あるいは赤ん坊を腕に抱いてその時が来るのを待っている。
――本当にこれでいいのだろうか?
――残していく家族は大丈夫だろうか?
――村の外に出るのは危険すぎるんじゃないか?
誰もが不安を口にし、あるいは胸に秘めていた。
普通の人々は一生を村で過ごし、外にはほとんで出ない。
そんな彼らにとっては隣村へ向かうのも立派な冒険だ。ゴブリンの脅威や外への不安がどうしても付きまとう。
家族と離れ離れになる者。
村に残していく家族への心配ばかりが募るのだ。
――足の悪い婆さんを残していくなんて。
――うちの旦那も。心配だわ……無理しなきゃいいけど。
村に残るのは男衆や足の弱った老人たち。
あるいは頑として村を離れたくないと意思表示をした者たち。
数も意外に多く、村を離れることを決めたのは全体の五分の一程度だ。
これでも二十人規模の冒険団が総力を挙げて守れるギリギリの範囲内――そう説明を受けていた彼らの前に、丸眼鏡の青年が立つ。
「御心配には及びませんよ。皆さんには馬車をご用意しておりますので」
張り詰めた空気を解きほぐすような声が飛ぶ。
その言葉通り、広場には何台もの馬車が次々に列を為していた。
広場に小さな歓声が上がる中、青年は更に言葉を続けた。
「どうぞ慌てずお乗りください。子供たちや赤ん坊のお世話が必要な方が優先です。ああ、荷物は最低限に。水や食料の心配はいりませんからね」
何人かの村人は「ありがたい」と安堵した。
子供たちの足では長旅は困難だし、移動も遅れてしまう。
外はゴブリンの他にもまだ見ぬ魔獣が徘徊する危険地帯だ。足の遅れは命に直結する。
冒険団の手際の良さに、感心の声が多く上がった。
「長い留守にはなりません。隣村まではおよそ半日。取って返せば、村を空けるのはほんの一日です。皆さんの速やかな避難が村の安全に貢献するとお考え下さい」
落ち着き払った声音と薄く張り付くような微笑みは、不安を口にする彼らの心を緩やかに慰めた。
青年と言葉を交わた者たちは小さな安堵を得て、馬車の中へと入っていく。
「ええ、ご心配なく。王都より冒険家も増員されたいま、村の防備にも万全を期して――」
力強い蹄の音が響いたのはその時だった。
機械仕掛けの荷馬車が荒々しく馬小屋を飛び出すと、見張りの静止を振り切って、木柵を跳ね飛ばしながら村を飛び出していったのだ。
「……はぁ?」
あまりにも派手な逃亡劇。
青年の顔は色を失い、ずり落ちた丸眼鏡を直す暇もない。
「ありゃあ……今日来たばかりの冒険家でねえか?」
「村を守ってくれるはずのが、なして外に……」
彼らの縋るような視線が丸眼鏡の青年へと向き、口々に抑え込んだはずの不満が噴出していく。
彼らは逃げたのではないか。
村の防衛は代わりに誰が行うのか。
村人たちは口々に投げかけ、丸眼鏡の青年へと詰め寄った。
次の瞬間。
村人たちの顔が、恐怖で歪んだ。
「あの野郎」
下唇を噛む青年の目が、憤怒に染まって蛇の如くぎょろりと動く。
頼りがいと親しみが混同した穏やかな仮面が剥がれ、村人たちは恐れ慄いて腰を抜かしつつ、後ずさるのだった。
「派手な脱走劇をやらかしてしまった……」
アーネとの婚約話を自らの手で消し飛ばしてしまったかもしれない。いやそれどころか、止まり木自体の存続も雲行きが怪しくなってきたのでは。
騒動がせめて誰かの契約破りの呼び水にならないことを祈りながら、内心陰鬱な気分で機械馬の手綱を握る。
「方角はそのまま山岳の方へ」
元凶はそんな彼の肩を気安く叩くと、ねぎらうように二度三度と繰り返した。
「しばらくは道なりに走るだけの貴重な時間だ、有意義に使うとしよう。まずは何から聞きたい?」
「後回しになってるお前さんたちの事情が聴きたいな!」
「いいとも。手始めにピーター、君は自分が毒を喰ったままという自覚はある?」
「は?」
間の抜けた声に、背後の少女が小さく笑った。
比喩表現さ、と悦の混じった声がして、不満の声を荒げるより早く御者席に同乗したままのハルが顰め面を作った。
「ルシカ。真面目に答えろよ」
「からかうつもりはない。これはピーターだけじゃなく、村全て……いや、あるいは国全体にまで蔓延した毒物の話だ。厄介なもので、誰もがそうと知らずに呑み込んでしまう。『噂話』という名の毒を」
「噂話が、毒……?」
口にしてみると、少しだけ得心が行った。
悪意に満ちた噂話は伝染病に例えられることがある。
流言は間違った認識を人々に植え付け、時には人を殺し、街を滅ぼし、国を傾けるのだ。
冒険家を長くやっていれば、一笑に付すような根も葉もない話も耳にする。
間違った常識や知識が命に直結することもある。
だからこそ与太話の類は実際に自分で目にしない限り、信じない性質だと自負していたつもりだが。
「ピーター。君は特に重症だ」
断言され、参ったな、と頭を掻く。
何か誤解されているのだろうと受け取って、ひとまずその続きを促してみることにした。
「それで。俺がどんな噂を鵜呑みにしてるって?」
「ゴブリンが魔獣だと信じている」
「――――」
ピーターは閉口するしかなかった。
何を言い出すかと思えば、それこそ一笑に付すべき虚言妄想の類ではないか。
ゴブリンが魔獣であるなど当たり前の、当たり前。
それを誤りのように指摘されるなど馬鹿げているとしか思えず、とんだ言いがかりだと不満を露わにする。
「そんな反応をするだろうから、強硬手段に訴えざるを得なかったんだ。でも今の状況なら、どんな与太話でもと耳を貸すだろう?」
「……それは、そうだろうけど」
常識を盾に頭ごなしに否定するのは、簡単だ。
けれど彼女たちは『ゴブリンは魔獣ではない』と信じている。そして、その間違いこそがホウロン村を滅ぼす要因になると訴えているのだ。
ならば、どんな妄言だろうが耳を貸さざるを得ない。
「……まずはお前さんたちの主張の根拠から聞かせてもらおうか。ゴブリンが魔獣でないなら、なんだと言うつもりだい?」
「この世には魔力が満ちていることは知っているね。大地に宿す精霊が世界に身を捧げた、その名残。森精族の誕生にも関わる要素だ」
もちろん、と首肯する。
魔力は森精族でなくとも、冒険家には馴染み深い。
止まり木の三箇条を始めとする誓約は一切の例外なく、世界に漂う魔力によって産み出されている。
故に誓約は、龍と精霊それぞれに捧げられるものだ。
「一方で魔力濃度が高い場所で、それらが結合することで生じる生命体がある。それを何と呼称すべきかは分かるね?」
即座に脳内に浮かんだ答えに、ピーターにしては珍しく他人を馬鹿にするような皮肉げな笑みが浮かんだ。
「妖精――はは、ゴブリンが妖精だって?」
「笑うのはまだ早い。一つひとつ、思い返してみたまえ」
生徒を導く教師を思わせる調子で、少女はその白い指を一本立てた。
「一つ。殺したゴブリンは何故消える?」
「何故って……?」
質問の意図が分からず黙り込む。
ルシカはさほど待たず口を開いた。
「通常の魔獣なら死体が残る。大蛇の皮や刃羽虫の体液、魔獣の素材は君たち冒険家の収入源だ。では何故、ゴブリンは他の魔獣のように死体を残さない?」
ドクン、と心臓が脈打った。
何故か、と問われて答えが出せず黙り込んだ。
けれど冷静に振り返ってみれば妙な話ではないか――そう思わせた時点で、既に少女の術中に嵌るようなものだった。
「君は妖精が死ぬ瞬間を見たことがあるか?」
「い、いや、ない……」
「彼らも死体は残さない。妖精は体のほぼ全てを魔力で構成させた、いわゆる自然現象の産物であるがゆえに」
死した妖精の肉体は解け、魔力を撒き散らし消滅する。
ゴブリンの死に様と同じように。
「二つ。君が過去に関わったゴブリン討伐を思い返してみろ。巣穴に踏み込んだ時、犠牲者の人骨を発見したことはあるか?」
「っ……」
咄嗟に『ある』と口走ろうとした唇が止まった。
魔獣は家畜や人を喰らって腹を満たす生き物であり、その巣穴には犠牲者の骨が積まれていることが多い。
冒険家はそれを目撃するたび、魔獣が災害の象徴であるという思いを強くする。
けれど。
ピーターは人骨を目にしたことがない。
魔獣退治を敬遠していたことも挙げられるが、駆け出しの頃に何度かゴブリン討伐に出向いた時もそうだ。
一度としてゴブリンが食事をした痕跡を目にしたことがない。
「妖精なら食事は必要ない。彼らにとっての御馳走の基準は、空気中の魔力がどれほど濃いかに終始する話だからね」
「いや、でもだな……」
「では繁殖のほうはどうだい? ゴブリンは女を攫って仔を産ませている、というが実際に目にしたことがあるか? 乱暴され魔獣の仔を腹に宿した状態で保護された、そんな哀れな女を見たことがあるか?」
「…………」
ない。ただの一度もない。
人伝ならば何度でも耳にした。
山盛りに積まれた人骨を発見した話も。
衣服を剥がれた女が半狂乱で膨らんだ腹を殴る話も。
耳にするのもおぞましいうわさ話の類なら、いくらでも。
けれど。
自分の目で見たかと言えば、ただの一度も。
「けど、それはたまたま……そう。たまたま被害が出ていなかった時だった、かも知れないじゃないか。か、可能性としてはゼロではないはずだ……」
「苦しい反論だね」
返す言葉もないうえ、生産性もない。
屁理屈をこねて彼女の言い分に耳を塞いでしまっても、何の意味もないのだ。
ピーター自身もそれは分かっている。
それでも苦しい言い訳を重ねてまで彼女の言葉を否定しようとしてしまう。それがどうしてか自分でも分からなくて。
「三つ」
彼女は、そんなことなどお構いなしだ。
三本目。
薬指を立て、ピーターのつたない反論を殺しにかかる。
「ゴブリンの赤ん坊を見たことは? 未だ幼さを残す個体は? 今まで一度だって、見たことがないんじゃないか?」
「――、ぅ、ぐ」
「あれだけ群れを成す生物なのに、巣穴に踏み込んで幼体を発見できないのは不自然だ。魔獣がれっきとした生物である以上、成体があれば幼体があるはず。だが――」
ゴブリンの幼体が目撃された例はない。
噂話ですら耳にしたことがないほどだ。恐らくはゴブリンに関する他の噂が衝撃的過ぎて、居て当然のその部分には誰も目を向けなかったがゆえに。
「何故、ゴブリンに幼体がいない? その理由もゴブリンが妖精だと考えれば、説明が付くよね。妖精は自我を持つに至った自然現象の産物なのだから」
生まれた時から妖精は完成されている。
子供の姿をした妖精ならば存在する。しかし成長することは有り得ない。人が行うような営みを以て誕生する生命ではないのだから。
「ばっ……」
だが、それでは。
全ての前提が崩れてしまう。
「馬鹿げてる! お前さんの言う通りならゴブリンは!」
「女を攫ったりしない。他種族の女を誘拐して繁殖する魔獣だって? 奴らは農具を盗んで牧場の柵を壊して喜ぶ程度の、無害な妖精でしかない」
少女は嘲るような笑みを浮かべ、そのタイトルに目を落とす。
「『災禍の小鬼』だって? 笑わせる」
嫌悪を隠さず吐き捨てると、頁を破く。
表紙から物語の終わりまでを一切の遠慮なく引き裂き、口元で作った笑みの中に憤りに似た感情を滲ませて。
「誤った知識が常識に成り代わり、それを鵜呑みにした人々を死なせる。ならば、この本こそが元凶の一つ。嘘で塗り固められた毒そのものだ!」
言い終わると同時にズタズタに引き裂いた本の残骸が、上空めがけて放り投げられた。紙片は空高く舞い上がり、夜風に煽られて散っていく。
せいせいしたとばかりに満足げな表情のルシカだが、隣のハルは呆れ顔だ。
「一応、村の私物なんだから勝手に捨てるなよ……」
「ハッ。文字通りの目の毒だ。一部破り捨てたところで焼け石に水だろう。近隣全てにばら撒かれた誤情報はその内にミトラ全土を汚染する。止めるには元を断つ他ない」
やりたいことをやり終えたのか、ルシカは荷台の方へと戻ろうと踵を返す。
ぐらりと馬車がひと際激しく揺れたのはその時だった。
「ひゃっ」
「……っと、危ない」
態勢を崩したルシカの体を、慌ててハルが抱き留める。
馬車の揺れは未だ収まらず、見ればピーターが握る手綱が痙攣を起こしていた。
不安定な手綱さばきを見かねたハルはルシカを荷台まで送り届けると、運転の交代を申し出ようとピーターに近寄る。
そして、絞り出すような声を間近で聴いた。
「……そんなはずがないんだ」
「ピーター……」
手の震えが止まり、馬車はゆっくりと安定を見せ始めた。
けれど、口から零れるか細い呟きの震えは止まらなかった。
「お前さんたちも目にしたはずじゃないか。村がゴブリンの群れに襲われていたところを! 見たはずだ。村の被害の実態を! 実際に女性が何人も攫われている事実を、見てきたはずだ! 説明が付かないじゃないか!!」
彼女の話が本当なら、大挙して村に攻めてきたゴブリンは何だというのか。
あの光景はまさに村を滅ぼさんと牙を向く魔獣の姿に他ならないではないか。
実際にホウロン村を苛む犠牲は誤魔化しようのない事実ではないか。
――疑問は吐き出したら止まらない。
脳裏に、あの怪物の姿が過ぎる。
見上げんばかりの体躯で臓物と肉片の雨を降らせ、若かりしピーターから冒険心を奪い去った怪物の姿を。
「俺は確かに見た! ゴブリンの親玉を見た!」
この目で見たのだ。
血に塗れながら仲間を潰していく悪魔の姿を。
この耳で聴いたのだ。
とても楽しそうに、無邪気に笑う悪魔の声を。
「あれが……! あれが、妖精!? そんな、そんな馬鹿なことが……」
今でもあの日の惨劇を夢に見る。
噎せ返る鉄の匂いを。
落ちた果実のようにひしゃげた仲間の遺体を、執拗に弄ぶ巨体を。
度重なる暴力に晒され液状にすり潰された死体を。
無我夢中で踵を返す自分を恨みがましく見つめる仲間の眼球を靴裏で踏み潰した感触を。
「ゴブリンは魔獣だ。ゴブリンは、魔獣だッ……!! あれほど魔獣らしい怪物、他にいるものかッ……!!」
その形相にハルが息を呑んだ様子で手を引っ込める。
激情を濁らせた言葉を吐いたのはいつ以来のことだろうか――ピーターは、自分で自分が信じられなかった。吐き出した声に籠る憎悪の濃さに我が事ながら驚くばかりだ。
しばらく誰も声をあげられなかった。
機械馬の規則正しい蹄の音と、ピーターの荒い息遣いだけがあった。
「……それこそが、この事件の肝なんだ」
静寂を破ったのはやはり、黒尽くめの少女。
荷車の奥から顔だけを出している。
「災禍の小鬼は一方向から形作られた概念じゃない。君が見たその光景もまたゴブリンを取り巻く真実の一側面だ。ゴブリンが『新米殺し』などと名付けられる理由がそこにある」
「ルシカちゃんの言葉は……」
力なく、頭を垂れて首を振る。
真っ白になった頭には回りくどい言い回しが入ってこない。
「難しすぎて、分からないや……」
「ふふ、すまない。こればっかりは治らない」
ルシカは芝居がかった言い回しで肩をすくめると、再び荷車の奥へと引っ込んでいく。これ以上の説明は、ピーターを混乱の境地に陥れるだけだろう。
それでも、これだけは言い添える。
「君の疑問も、ゴブリンの巣穴に辿り着けば氷解する」
「……」
「その間、頭を真っ新にして、ただ一つだけを突き詰めて考えてみるといい。ホウロン村を取り巻く事情の全てが、この一点に集約されている」
少女は薄く微笑んで、こう嘯いた。
「何故――災禍の小鬼なんて御伽噺が生まれたのか」




