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01話 「始まりの情景」







「素敵な夢を見付けなさい、ハル」


 決まって思い出すのは、ほわほわと微笑む母の顔だ。

 あとは頭を撫でる優しい手つきと、牛の乳と芋を煮込んだ特製シチューの甘い香り。

 声の端々に宿る、無償の愛情が心地よかったのを覚えている。


「夢?」


「そう、夢。皆が羨ましがるぐらいの、とびっきり立派な夢。ちゃんと今の内に探しておいてね」


 母はハルの頬っぺたを摘まんで上下に揺らす。

 形ばかり抵抗しながら幼いハルはもう一度『夢』という言葉を繰り返した。何とも不思議な感覚が胸の内に広がった。掴みようがなくて、それでいて落ち着かない。


「どうして?」


「その夢をハルが叶えたらお母さんが喜ぶでしょう? ほらっ」


 弾んだ声で力こぶを作る母が好きだった。

 痩せぎすだが、いつも朗らかな笑みを絶やさない人。染め物の仕事に従事し、女手一つでハルを育ててくれた母は自慢だった。


 幸せそうに笑う母が喜ぶのなら、夢は素敵なものに違いない。


「夢は宝物だよ、ハル。夢のことを想うと、とっても幸せな気持ちになるんだから」


「お母さんも夢を叶えたの?」


「んー。ぼちぼちかな。今の仕事は楽しいし、ハルが一緒にいてくれるし」


 物心ついた時には父はいなかった。

 魔獣の脅威と隣り合わせの村では珍しい境遇でもない。

 それでも母親や村の隣人から愛情を注がれ、他の子供たちと分け隔てなく育てられた。恵まれているなど考えたこともないほど幸福だった。


「男の子なら夢を探さなきゃね。お母さん待ってるから、頑張って見つけておいで」


「ん!」


 けれど。ハルの夢探しは思い通りには進まなかった。

 村の子供たちにも話を聞く。


 稼業を継ぐ、と迷わず答える狩人の息子。

 騎士になる、と豪語するガキ大将。

 冒険家で一攫千金だ! と叫ぶやんちゃな子供たち。


(夢ってなんだろう?)


 ハルには、どれもピンと来なかった。


「ハルは?」


「俺は……まだ考えてるとこ」


 でも焦ることなんてないはずだ。

 大人として扱われるにはまだ五年ある。

 ハルと同じように進路を決めかねている子もたくさんいた。

 母と相談しながら、自分の生き方を決めていけばいい。時間は十分にあるのだから。



 その日までは……そう信じて疑わなかった。












 よくある悲劇が村を襲った。


 魔獣騒ぎ。

 それも亜竜デミドラゴンと呼ばれる災害級の怪物によるものだった。

 村は一刻も経たずに竜の吐く炎に呑み込まれた。

 炎に巻かれ住み家と逃げ場を失った哀れな村人えものに、亜竜デミドラゴンに付き従った人食の魔獣が次々と襲い掛かった。


 立ち向かった大人たちは抵抗の甲斐なく命を散らした。

 狩人の息子も。

 騎士を目指したガキ大将も。

 ハルに夢を尋ねたそばかすの幼馴染も。

 次々と物言わぬ屍に変わり、その小さな体を貪られた。


「げほっ、げほっ……」


 ハルは崩落した民家の瓦礫の影に身を隠していた。

 爆ぜて散った石畳の熱気が目を焦がす。

 不吉なぐらい真っ赤に染まった夕焼けは、民家を焼き尽くす炎の色に溶けていた。


 轟轟と黒い煙が吹き荒れ、苦い味が吸い込んだ空気を通して思考を鈍く奪っていく。

 幼い耳に次々と悲鳴が木霊し、断末魔と共に消えていく。



 ――地獄だ。



 生まれ故郷は地獄と化したのだと、十歳に満たないハルは否応なく理解した。


 独りではなかった。

 ハルの腕には気を失った少女が一人、黒煙に燻られて浅い呼吸を繰り返している。

 偶然村を訪れていた行商人の娘だ。

 薬草類の仕入れを行うために何日か村に滞在し、その間に一緒に遊んだ仲だった。


「そうだ……逃げ、ないと……」


 諦めて消えそうになる意識を、背中の少女が繋ぎ止めた。

 ここで倒れれば死ぬ。

 炎熱と黒煙に巻かれて窒息するか、魔獣たちに見付かって喰い殺されるかだ。


 走らなければ。

 逃げなければ。

 守らなければ。

 少女を背負い、地獄を進む。


 遠方から耳朶を打つのは獣性を孕んだ笑い声だ。

 逃げる獲物を追い回し、命を奪う喜びを噛み締めながら血肉を貪る生々しい水音が聞こえる。

 生きながら咀嚼される隣人の声がハルの心を蝕む。


「――え、ぐっ」


 耳を塞ぐことも許されなかった。

 聴覚は生き残るための大事な情報源だ。

 雄叫びや遠吠えが起こるたびに進路を変えた。

 止まることなく涙が溢れ、拭う間もなく熱風が奪っていく。


 行く当てのない逃亡劇。

 幾たびも幾たびも心が砕けて千切れていく。


「うぐっ、ぅぇ、えええ……」


 実家は燃えていた。

 染物道具の傍に黒焦げた遺体があった。

 それが誰かを確認する前にその場を離れ先を急ぐ。


「ぐ、ぇ……おうえっ……ッ」


 学び舎は燃えていた。

 頼れる先生が四つに分かれて転がっていた。

 胃の中身を全部吐き出して先を急ぐ。


 村長の家。近所のおじさんの家。友達の家。

 どれも炎に巻かれ、あるいは瓦礫と化していた。

 避難場所は一つ残らず死体が転がる廃墟になっていた。


「はっ……は、はっ、はっ……」


 感情はとっくに擦り切れた。

 足を前に出すのも義務感だけだ。

 自分だけがこの場にいたらとっくの昔に諦めていた。

 母の亡骸に縋りつき、煙に巻かれるまで泣き喚いていた。


 ハルはそうしたかった。

 何もかも投げ出して終わりを待っていたかった。

 けれど。


「ん、ぅぅ……」


 背中に、友達の命の重みが乗っている。

 少女の存在がハルを無心で動かし続ける最後の命綱だった。

 どんなに苦痛を伴っても、放り捨てようなんて考えは起きなかった。


「だいじょうぶ……きっと、たすかる……」


 煙を吸い込み意識を朦朧とさせる少女に声を掛け、背負い直して決意を重ねる。


「きっと、たすける、から……」


 この時、もう自分は勘定に入ってなかったように思う。

 一刻も早くこの場から少女を連れ出すこと。

 それ以外はもう何も考えたくない。

 考えればきっと泣いてしまう。


「泣くな……」


 助けを求める声を拠り所に魔獣が獲物を喰いに行く。

 だから泣いてはならない。


 誰も頼れない。

 見つかってはならない。

 大丈夫だ。自分の体は小さいのだから。

 物音を立てなければ見つかりっこない。





 ああでも。

 どこまで歩けば助かったことになるんだろう。






 嘲笑うように、獰猛な唸り声に囲まれた。



「っ! く、ひいッ……!」


 魔獣を間近で見るのは初めてだった。

 瞳孔の見えない赤い眼球を剥き出しにした黒い体毛の四足歩行の獣。

 姿は犬に近いが、その体長は二メートルを超え、何より胴体に生えた首がふたつある。


 ヘルハウンド、という種をハルが知る由もないが、二つ首の口元が命を食べ散らかした血化粧に彩られている。

 何人もの隣人を喰らってきたのが分かった。


「く、くるな……」


 拾った燃えカスじみた木の杭の、なんと心細いことか。

 その小さな武器は、丸腰ではないと自分の心細さを慰めるためでしかない。

 武器を持った村の大人ですら敵わない怪物相手に何ができるというのか。


「ぁ、……ぁぁ、ちくしょう……」


 何か手はないのか。


 逃げる道は。

 戦う術は。

 助けてくれる人は。


 誰でもいい。

 何でもいい。

 視線を目まぐるしく周囲に向けて絶望を確認しながらハルは思う。


(死んじ、まう……)


 何をしてきたんだろう。

 やりたいことも見つけきれず、夢さえ未だ決められずに。

 誰にも恩返しできず、今だって庇っている少女を助ける手段すら思いつかない。


(死にたく、ない……死なせたく、ない……)


 ――グガッ!!


 ハルを囲む怪物のうち、正面に立ち塞がるヘルハウンドが地を蹴った。巨大な体躯に似合わぬ敏捷性で、涎を撒き散らしながら中空より迫ってくる。


 ハルは動けなかった。

 時間がゆっくりと過ぎていく感覚だけがあった。


(まだ、なにも、できてないのに……!)


 諦められない気持ちだけが先行して、目は瞑らなかった。

 だからハルは、その全ての景色を初めから目に焼き付けることとなった。



 銀閃を。

 魔獣の牙を阻むように走った、その太刀筋の美しさを。



 阻む、という表現は正確ではなかった。

 振るわれた剣は牙を防ぐに留まらず、砕き、そのまま持ち主の二頭の首を横薙ぎに切り裂いた。

 巨体ごと両断したその光景は、一刀のもとに斬り捨てたと表現するべきものだった。


 血飛沫をあげ絶命する魔獣。

 けれどハルの目は、信じがたい光景を作り出した一人の少女だけを映していた。


「綺麗だ……」


 その華麗な剣閃を、少年はずっと忘れない。

 それを放った長く美しい銀髪の少女を、ずっと忘れない。


 自分と、同じ年頃の女の子だった。


 幼い細腕で振るわれた流麗な太刀筋。

 後ろ目でハルたちを伺う瞳。

 無事を確認し、僅かに緩んだ口の端。

 絹製の上質な白い衣服や月光の絹で織られたような銀髪が返り血で真っ赤に彩られた。


 けれど、美しい立ち姿はハルの心に強く息づいた。


 ――もう大丈夫。


 彼女の口がそう動いて、ハルは全身の力が抜け落ちた。

 もうだめだと思っていた。

 ただ死ぬのだと。

 腕の中の少女も逃がせず、ただ終わるのだと。

 そんな絶望を、彼女はいとも簡単に斬り捨てていった。


 ――そこで、待ってて。


 言うが早いか、幼い少女は魔物たちへと躍りかかる。

 彼女の振るう銀色の煌めきが、次々と魔物を葬っていく。


 二つ首の猟犬を首の合間から刃を入れて両断。

 棍棒を振り回す醜怪な巨人を数匹まとめて薙ぎ払った。

 村を火に包んだ亜竜デミドラゴンもまた、跳躍した少女の全体重を乗せた刺突を眉間に受け、絶叫の末にその巨体を地に横たえた。


 その全てをハルはただ見届けた。

 目を奪われ続けていた。

 気が付けば、ハルを囲んでいた魔物たちは一体残らず倒れ伏していた。


「……大丈夫?」


「あ、ぁぁ、あ……」


 周囲には異形の怪物の死体の山。

 自分たちの顔を覗き込む少女は魔物たちの血で真っ赤に染まっていた。

 けれど少女のことを恐ろしいなんて思わなかった。

 ハルの胸にはただひたすら、彼女が与えてくれた心強さと感謝があった。


「あり、がとう……」


「え?」


「ひぐっ、ありがとう、ありがとう、ありがとう……!」


 泣きじゃくった。

 涙と鼻水をめちゃくちゃに垂れ流して、何度も何度も頭を下げた。


 助かったのだ。

 渇きひび割れていた心に水が染み渡っていくようだった。

 命だけでなく、心ごと少女は救ってくれた。

 救われる、ということがこれほど嬉しいことなのだと、ハルはこの時、初めて知った。


「えっと……」


「たすけてくれて……ありがとうっ……!」


 息切れするほど礼を言って、ふと我に返ってハルは顔を上げた。

 前に立つ少女は困惑したようにハルたちを交互に見て、一瞬視線をそらし、ややあって微笑んだ。

 人形のように起伏の薄い逡巡が、美しい少女をより人間らしく彩っているように見えた。


「……どういたしまして」


 穏やかな笑顔が、ハルの胸の中に深く深く刻まれた。

 地獄に堕ちようと色褪せない、始まりの情景だった。




 それから、およそ六年の月日が流れる。





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