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 佐郷 晴秋(さごう はるあき)の人生は決して悲観すべきものではなかった。

 三人兄弟の次男として生まれ、不自由ない学生時代を送り、そこそこやりがいのある会社に入った。

 業績も悪くなく、今までの人生通りに中の上をキープし続けて入社5年が経った。


 そんなある日。

 いつものように定時で帰る途中、佐郷はどういうわけか寄り道をしたくなった。

 今までそんな事は一度もなかったのだが、どうしてもいつもの道を外れたくなった。

 目的なく道を歩いていると、古い高架下の誰も通らないような、ほとんど行き止まりみたいな場所にたどり着いた。そこには当たり前のようにホームレスが三人暮らしていた。


『お前さんはいいよなァ……。どうせ生まれた時から、人生イージーモードだったんだろ? 俺ァな。親も、その親も、そのまた親も、みーんなホームレスなんだ。だから、ホームレスをやるしかねェ。お前、一度こっちに落ちたらな、人間終わりなんだよ。わかったらさっさと失せな。おうちに帰って、誰かがつくった出来合いの飯でも食って、誰かがつくった温いふとんの中で寝んねしな』


 衝撃だった。ホームレスを間近で見たのも、口をきいたのも初めてだった。

 ホームレスは本気でこの戯言を述べているわけではない。誰かに会うたびに言っているであろう、乞食の常套句(じょうとうく)なのだというのもすぐに理解した。


 しかし、この日を境に佐郷は自分の人生に疑問を感じるようになった。


 人の運命は最初から決まっているのか。

 持たざる者は最後まで持たざる者なのか。

 今の自分は、あらゆる甘えの上に成り立っているのではないか。


 更に三年が過ぎると、この疑問は限界まで膨れ上がり、佐郷の頭の中のほとんどを占領した。


『えっ、佐郷君辞めちゃうの? 何で?』

『全てを、ゼロから始めたいのです』


 佐郷は真面目な青年だった為、真面目に答えた。

 多くの社員が疑問符を量産する中で、佐郷は颯爽(さっそう)と退社した。


 それから三日間のうちに家財を売り、アパートを出て、飛行機に乗り、車を借り、ラクダを駆り、カヌーを漕いだ。

 最初に見えた島にしようと大海に漕ぎ出して更に三日が経った頃に、ようやく緑の生い茂る島が見えた。


 食料はとうに尽きているし、水も無い。それでも佐郷は歓喜した。

 やっと、スタートできる。


 佐郷は荷物と着ている服をまとめてカヌーに乗せ、それから海へと流した。

 出来得る限りの『持たざる者』となり、森の奥へと入っていく。


 サバイバルの知識など無かった佐郷は極限の状態で無人島を三ヶ月間生き抜いた。

 しかし、積み重なる身体の負担は日々増していった。運に大きく左右されるサバイバル生活は、無情にも佐郷を痛めつけた。そして、飢えと乾きの果ての100日目の夜。佐郷は何も感じなくなった。

 まぶたが開かなくなり、自分を散々苦しめた空腹感が身体から無くなっていく。

 その感覚に強い敗北感を覚え、佐郷は涙した。


「俺はここまでなのか……持たざるまま、何も成せないまま、終わってしまうのか……」


 どこにそんな力が残っていたのか、腹から喉にせり上がる嗚咽(おえつ)が抑えきれない。

 ──そもそも、涙を流すほどの水分が身体に残っていたのか?


 ふと疑問になって目を開けてみると、いつのまにか真っ白な部屋に立っている事に気付いた。


 虫刺されでぶよぶよになった足も、食中毒で惨めに膨らんだ腹も、きれいに元通りになっている。それどころか、身に覚えのない清楚な絹の上下を着ていた。

 ここは夢か、天国か。そう思っていると、背後から声をかけられた。


「異世界へようこそ、ハルアキ。私は女神のチアシード・ドリンクです。あなたは選ばれました。新しい世界で、特別な力をもってやり直したくはありませんか?」

「いえ。結構です」

「ええ、そうでしょう。ではまず始めにステータス──あれ? 今、なんて?」

 白い羽衣のようなドレスを纏う女神チアシードは、それまで完璧な微笑みをみせていたが、佐郷の返事に眉をひそませた。


「女神様。恐縮ですが、私に特別な力は必要ありません。出口はどちらでしょうか」

 佐郷はごく真面目にへりくだり、女神の申し出を拒否した。


「ちょ、ちょっと待ちなさい……あなたが礼儀正しいのは分かったけど、なんで要らないの? 力持ちになったりお金持ちになったりモテモテになったり、色々用意があるんだけど……。あなたには欲がないの? ──あ、わかった。ハルアキは日本人よね? 日本って確か、そういうのを全部要らないって言えば逆に全部もらえるみたいなウラワザがあったわ! そういうことね?」

「……いえ。決して欲が無いわけではないのです。私はそれらを与えられるのではなく、自らの手で勝ち取りたい。ゼロから始めたいのです」

 佐郷は『ウラワザ』のくだりをどうするか逡巡したあと、触れないでおくことにした。


「へえ……なんだかひどく真面目なのがきちゃったわね……」

「申し訳ありません」

「ま、謝ることはないわ。なかなか殊勝な心がけだと思うもの。私、あなたのことが気に入ったわ。何か特典をつけてあげる。さあ、ステータスオープンと唱えて──」


 チアシードは熱弁をふるう時に目を閉じる癖があるようだった。

 その隙を見て、佐郷は女神の背面にあった扉に移動し、ノブに手をかけた。

 白い扉を少し開けると、外の空気が流れ込んでくる。


「えっ……あれ? どこ行くの!?」

「すみません。挑戦できる時間があるのであれば、私は行かなければなりません。チアシード様、チャンスをありがとうございます」


 佐郷はチアシードへ振り返り、至って真面目にお辞儀をすると、絹の服をその場で脱ぎ始めた。


「なんでー!? なんで脱ぐのー!」


 綺麗に畳んだ服を扉の前に置き、再び一礼する佐郷。前は隠しているのだが、女神は両目を手で覆って裸を見ないようにしていた。


「お見苦しい姿を申し訳ありません。それでは、行って参ります!」


 背後から聞こえるチアシードの悲鳴に申し訳なさを覚えながら、佐郷は後ろ手にそっと扉を閉めた。

 目の前には森が広がっている。

 先の無人島ほど鬱蒼としてはいない新緑の森だ。見たことのない形をした植物や、聞き慣れない小動物たちの歌うような声が聞こえてくる、幻想的な森だった。


 白い家の幹先から前に出ると、足裏に砂利が食い込む感触があった。わずかな痛みは、確かにこの世界が現実であることを訴えてくる。


 まずは靴を編もう。

 佐郷はそんなことを考えながら、森の奥に入って行った。


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