9 隣に居るには
虚ろな気持ちでボールを選んでいる頃に、ようやく透が戻ってきた。
普段と比べ特に変わった様子はない。
透はなんて返事したんだろう…。
「遅かったね、ボール決めた?」
「これから。先、シューズ置いて来る」
何も知らないふりをして声を掛けた。
透も、何もなかったような顔で返事する。
周囲を見回すと、最奥のレーンに宮田さんのグループが陣取り、はしゃいでいるのが見えた。
宮田さんの様子を見ても、何も分からない。
透は、彼女はいないと言った。
栞さんとは終わったままなんだ。
という事は。栞さんに振られ、傷心の状態で宮田さんに声を掛けられたんだとしたら……。
透が、宮田さんと付き合いだしても、おかしくないよね。
何度思いを巡らせてもこの回答に辿り着く。
栞さんに告白され、浮かれた様子で付き合いだした透なら。宮田さんに告白され、栞さんの時のように浮かれて付き合いだしても、不思議じゃない。
透にまた、彼女が出来ちゃう。
私はまた、透の隣に戻れない。
たとえ先輩と別れたとしても、透と一緒には居られない…。
「どうしたの、くるみ。具合悪いの?」
宮田さんの事を考えている内に、ボウリングは終わっていた。
りーちゃんが心配そうに私を見る。
「ううん、大丈夫。ちょっと疲れちゃっただけ…」
「ちょっと休憩しよっか」
慌てて首を振り笑顔を作る。
りーちゃんがエスカレーターに乗り込んだ。
「おれ腹減ったな。ラーメンでも食おうぜ」
「1人で行ってらっしゃい、蒼汰。私達は喫茶店に行くわ」
「ちぇ、甘くない食い物あるかな……」
折角みんなといるのに、沈んでばかりいちゃ駄目だ。
楽しくしているのに、水差しちゃ駄目…。
顔だけでもにこやかにして、飲食店のフロアへ向かうみんなの後を、のろのろついていく。
透がすっと隣にやって来た。
「くるみ、ほんとに大丈夫?」
振り向くと、色素の薄い綺麗な瞳が、気遣うように私を見つめている。
どきりとする。
「無理して笑ってるだろ」
「だから大丈夫ってば…」
胸の内を見透かされていそうで、怖くて、思わず反対側に目を逸らす。
視界の端に宮田さんが映った。
私を見ている。
ふふ、と、余裕の笑みを浮かべている。
―――そういう事?
ガクンと足の力が抜けた。
透は宮田さんと付き合う事にしたんだ…。
崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
私の中でほとんど答えは出ていた筈なのに、改めて突きつけられると体の力が抜けそうになる。
涙がじわりと滲みだす。もう駄目だ、もうみんなの前で笑顔は作れない。
泣き顔を見せる前に、帰らないと――
「……くるみ?」
「やっぱり大丈夫じゃない、ごめんもう帰る。りーちゃんと蒼汰によろしく」
「くるみ!」
透の声を塞ぐように、耳を押さえた。
夢中で走り駅を目指す。
私、遅かった。
昨日二人を見かけて。てっきり、栞さんとやり直したんだと思っていたのに。
そうじゃなかった。
私が昨日、予定通り先輩と別れて、そのまま透に想いを告げていたら。
宮田さんより先に、好きだよと言えていたら。
私が、透の彼女になれたのかな……。
栞さんが現れるまで、幾らでも時間はあったのに。
何もしないまま栞さんに透をさらわれ。
栞さんと別れた後も、時間はあったのに。
ぐずぐず先輩と付き合い、今度は宮田さんに奪われて。
ほんとうに私はバカみたいだ。
先輩と別れたら元に戻れると信じていた。
栞さんのように、透に声をかける子がほかにも現れるなんて、考えもしなかった。
栞さんさえいなくなれば私が透の側にいられると思っていたの。
なんて甘い考え。
ほんとうに私はバカだ。
透の側に居られるのは、当たり前の事なんかじゃなくて。
私は、今まで、ずっと幸運にまみれていたんだ。
「うっ……」
視界が滲む。目の前を通り過ぎる沢山の人々はもう人の形にならず、黒や茶色の水玉のようにぼやぼやと目の前を揺らいで動く。粒はどんどん大きくなり、次第にもうなにも、見えなくなってゆく。
「うええ……」
口にコートの端を当て、漏れる声を必死で防いだ。
くぐもった声はうめき声にも聞こえる。
「くるみ!」
耳から手を離したせいか、透の声がはっきりと聞こえだした。
って、もう、駅に居るのに――
振り向くと、走って来たのか、荒い息をした透が立っている。
「どうしたんだよ……」
「透……どうしてここに……」
「心配したからに決まってるだろ! 蒼汰と莉々依には2人で先帰るって言っといたよ」
透の優しい言葉にじんわりと胸が熱くなる。透はいつも、私が本当に辛い時は来てくれる。
でも今は、透じゃ涙は止まらない……。
今、一番見ていたくない、人。
「…あいつになんかされたの?」
「へっ?」
思いがけない言葉を耳にし、素っ頓狂な声をあげてしまった。
驚いて涙が止まる。
「彼氏だよ。昨日デートだったんだろ。なにかあったの?」
「なにかって……悠真先輩は関係ないよ?」
「関係なくないだろ。朝からボーっとしてさ、元気ないし泣いてるし……昨日あいつと何かあったんじゃないの?」
透だよ!
私がぼーっとしてたのも、元気ないのも泣いてるのも全部、透だよ!
どうして先輩の名前が出てくるのよ……。
ぽかんとして透を眺めていると、透も戸惑うように私を眺め出した。
先輩とは……別れようとして挫けただけだ。
「…先輩は悪い人じゃないから、私の嫌がる事は何もしないよ」
「ふうん。いい彼氏で良かったね」
なんとなく棘のある言い方にむかりとし、思わず口を滑らせる。
「透だって、彼女出来たんでしょ? 栞さんの事忘れられそうで良かったね」
あれ、私?
こんな事言うつもり、なかったのに…!
「なに言ってんの、くるみ」
「私見ちゃったんだ。今日、宮田さんに告白されてたでしょ」
今にも泣き出しそうな想いをこらえ、ニヤリと笑って見せた。
透が真っ直ぐな目をし、私を見据える。
心臓が、どくりと鳴った。
「あんなやつと付き合うわけないだろ。俺、中学の時、あいつにチビだって散々馬鹿にされてたんだぞ」
そう言えば、透は中学の頃は背が低かったっけ。
1年の頃なんて、私よりたったの2センチしか変わらなくて…。
「そう…なの?」
射抜くような瞳で透に見つめられ、咄嗟に言葉が出てこない。
リズムを刻みだした心音に、私の掠れる声が絡む。
「それにさ」
色素の薄い瞳は逸らさず私を見続けている。
囚われてしまったように、私は目が離せない。
「好きな子がいるのに、他の奴となんて付き合えないしね」
………えっ?
鮮やかに。
昨日喫茶店にいた、2人の姿が脳内に浮かぶ。
続けて、透の言葉がつんと響く。
『――俺、振られちゃった』
2人は別れてしまったけれど、透はまだ、栞さんが………
栞さんが好きなんだ―――
目を開いて透を見つめる。頷く姿を見たくなくて、想いは言葉に表せない。
透の眼差しは真剣だ。本気の言葉だ。
さあっ、と感情が冷める音がした。
なんだ。私。
予定通り先輩と別れていても。宮田さんより先に透に想いを告げていたとしても。
やっぱり、私は。
透の彼女にはなれなかったんだ。
自分を俯瞰する感覚に襲われ、私は妙に落ち着いてきた。
切符を、改札に通しそのまま私も通り抜ける。
「ふうん、そうなんだ」
「くるみ、俺っ……」
「じゃあね、透。また明日」
私は穏やかに手を振った。
透は、何か言いたそうな顔をして、私を見ていたけれど。
私はもう、それ以上何も、聞きたくはなかった。