8 見ていたい夢の中から
日曜は、どんよりとした曇り空だった。
髪をとかし、半ば投げやりに着て行く服を決め、家を出る。
約束が決まったあの時は、あんなにもフワフワした気分でいたのに。今はなんだか胃が重い。
透に、なんでもない顔出来るかな…。
道中、2人になるのが気まずくて、ぎりぎりに家を出た。時間をずらしてみたはずなのに、玄関のドアを開け、道路に出ると同時に隣の家の扉が開く。
――透だ。
避けたつもりで、鉢合わせた事に苦笑した。これなら昨日と同じ時間に家を出れば良かった、なんて思いつつ透を見ると、なぜか浮かない顔をしている。
「おはよう、くるみ」
「おはよ。どうしたの、元気ないね」
透の表情が意外で、いつもの調子で声をかけた。
「気のせいじゃない?」
口元を歪め顔を逸らす。なんだか拗ねているようにも見える。
……あれ?
『くるみ。俺、彼女出来た!』
初めて栞さんの事を聞いた、あの時の透は心から嬉しそうで、今の不機嫌な透はまるで様子が違う。
どうして?
昨日、あれから栞さんと、何かあったのかな。
私が見た時は、楽しそうにお喋りしていたけれど、上手くいかなかったのだろうか。
よりを戻そうとして、断られちゃった?
あの後、喧嘩でもしちゃった…?
栞さんと、どうなっているんだろう―――
「くるみ、危ないっ!」
ぐるぐる、思考の渦に飲み込まれながら歩いていると、突然、背後から透の声がした。
はっとして前を見た瞬間、後ろから透の腕に抱き寄せられる。
ふわり、と広がる透の匂い。
―――息が、止まりそう。
「なにやってんだよ。信号、赤だぞ」
耳元で囁かれ、声が出ない。
背中に透の体温を感じ、頬に点る火照りが顔中に広がった。心臓がバクバクと音を立てる。
私今、きっと真っ赤だ。良かった、正面を向いていなくて。こんな顔見られずに済んで…。
離れない腕に、緊張のあまり、肩がキュッと硬く縮んだ。身を竦めていると、緩やかに透の腕は離れていった。
「ごめん」
前を向いたまま小さく呟く。
目の前の信号機は赤いランプが点いている。沢山の車が横断歩道を通り過ぎていて、透のお陰で無事でいられたようだ。
冷や汗をかき、赤い顔が今度は一気に青くなる。
「俺がいたから良かったものの…一人だと今頃ミンチだぞ。ぼんやりして、彼氏の事でも考えてたの――――?」
………へっ?
思わず振り返り透を見た。苦い顔をして私を見つめている。
透だよっ!
透の事考えててぼーっとしちゃったんだよっ!
むう、と頬を膨らませかけ、慌てて空気を抜きぺしゃんこにした。
考え事をして周りを見ていなかった事も、危険な所を透に助けられた事も、事実ではある。
私が悪かった…。
「助けてくれてありがとう、透。これから気をつけます……」
チラリと上目遣いで透を見た。
てっきり怒っていると思っていたのに、私を見つめる透の瞳はなぜか、切なげだった。
昨日も人が多かったけれど、今日も人が多い。
ホームに着くと、同じ中学の女子グループがいた。向こうも私達の存在に気がついたようだ。
「あれ、逢坂さんと…間宮君?」
名前を呼ばれ驚いた。
同じクラスになった事はあるけれど、声をかけられる程仲が良かった訳ではない。
グループの中の1人、宮田さんが私達の方へ足を運ぶ。
「ふうん…。間宮君、中学の時よりカッコ良くなったね。背、伸びたせいかな?」
「どうも……」
宮田さんが不躾に透を見回している。
栞さんほどではないけれど、長めのショートに涼しげな瞳をした綺麗な子だ。
視線に居心地が悪いのか、透が宮田さんから目を逸らす。
「間宮君たち、もしかしてこれからデート?」
「ううん、2人じゃないの。友達と一緒にグループで遊ぶ予定で――」
値踏みするような宮田さんの視線に押され、口ごもりながら返事をした。
逢坂さんには聞いてない、と言わんばかりに私をスルーし、宮田さんは透に顔を向ける。
「間宮君ってさ、逢坂さんと付き合ってるの?」
「……いや、付き合ってないよ」
透がさらりと否定した。
事実なのに、改めて透の口から言葉にされると、胸がちくりと痛む。
「そっかー。ねえ……」
言いかけた宮田さんの言葉を待たず、透が私の手を取り、走り出す。
「ごめん、友達待たせてるんだ。じゃあね!」
久し振りに繋がれた手にドキドキしながら走り抜ける。
透のしなやかな手は、まるでパズルのピースが噛み合うように、心地良かった。
改札口を出た所で、りーちゃんと蒼汰が私達を待っていた。
慌てて2人の元へ向かう。透の手が私から離れた。
「おっそいぞー。くるみ、透君!」
「ごめんねりーちゃん、5分遅刻したっ」
「もう、いいから行くよー」
透が蒼汰の隣へ行き、私はりーちゃんの隣に並ぶ。
りーちゃんが私に囁いた。
「嬉しそうだね、くるみ。透君と上手くいったの?」
「え………」
透と手を繋ぎ浮かれていたのか、自分の顔がにやけている事に気が付いた。
なんだか恥ずかしい。
透と上手く行くも何も、私はまだ、悠真先輩と別れていない。
折角、りーちゃんに背中を押して貰ったのに、栞さんと楽しげに笑う透を見ただけで萎んでしまった。
駄目だなあ……。
「どこ行く?」
逸らすように話題を変えた。
3人が一斉に、声を揃える。
「映画以外!!!」
苦笑した。
みんなが私を理解してくれている事が嬉しくて、その後すぐ、心から笑顔になる事が出来た。
4人で遊ぶのはとても楽しい。
時折、透の笑顔にどきりとしながら、私は浮かれた時間を過ごしていた。
今朝家を出た時の重い気分はどこかに吹き飛んでいた。今、透と一緒にいるのは私なんだ。その事実が、憂鬱な栞さんの存在を消してくれる。
透は私達に、栞さんと別れたと確かに言った。
もし、2人が再び付き合い出したのなら、元気出せよとからかう蒼汰に彼女とやり直したと返すはずだ。それがないという事は、やっぱり2人は、別れたままなんだ。少なくとも今朝の透は、振られた彼女とよりを戻せた幸せな彼氏には見えなかった。
私の、勘違いかも知れない。
一緒にいる所を見たものの、悩み事の相談でもしてたのかもしれない。
栞さんとの関係は、友達になったのかも知れない。
もう、透と栞さんの間には、本当に何もないかも、しれない………。
隣に透が居るだけなのに、私は都合のいい事ばかりを思いつく。
「食べ終わったら、次、どうしようか?」
VR体験ゾーンでひとしきり盛り上がった後、昼食を食べた。
りーちゃんの問いかけに、即座に声を上げる。
「ボウリングしたいな、私」
透がからかうように、私に笑いかける。
「くるみ下手なのに好きだよな、ボウリング」
「うん…!」
ボウリングは大好きだ。
はっきり言って私は下手くそなのだけど、それでも私はボウリングが好きだった。
ボウリングをする時の透が素敵で。
構える時の真剣な眼差しも、投げ終えて綺麗にピンを倒したときの無邪気な笑顔も、その後得意げに笑う様子も、どの透も眩しくて私の目を奪う。
こんな透の姿をずっと眺めていられる、ボウリングが私は好きだった。
今思えば、私はもうずっと、透が好きだったのだ。
ボウリングが好きになった時、私はもう既に透が好きだったのだ。
みんなもボウリングで良いと言うので、私はにんまりしながらフロアへ向かう。
「あ、俺トイレ行くから、先行ってて」
透がそう言い、お手洗いの方へと走っていった。
りーちゃんを先頭に、蒼汰の後に続きエスカレーターに乗り込もうとして、足を止めた。
ボウリング中に飲み物、欲しいよね。
トイレの横に自販機があったし、先に買っとこう…。
「私、飲み物買ってくる」
「はいはい、先に受け付けして待ってるわ」
「りーちゃん、よろしくね!」
そう言って私も、透の走っていった方に向かい、駆けていった。
駆けて行く先に透の後姿が見えた。
近寄ろうとして、先に透に寄っていく人の姿を目にし、思わず立ち止まる。
「間宮君」
どきりとした。宮田さんの声だ。
咄嗟に身を隠した。
「……何?」
「間宮君達もこれからボウリング? 偶然だね」
絡め取るような宮田さんの声に、ざわりと胸が騒ぐ。
「宮田達もか」
「うん。あのさあ、間宮君て今彼女いるの?」
「…いないよ」
あっさりと透は否定した。やっぱり、栞さんと元に戻っていなかったんだ。
でもどうして、宮田さんはそんな事を透に聞くの…?
安堵する気持ちと、宮田さんの思惑に不安になる気持ちが混ざり、悪戯に心臓が音を立てる。
「そーなんだ、良かったあ。私さ、今朝駅で見かけた時、間宮君いいなぁって思っちゃって」
「………」
惑わすような色気のある宮田さんの声に、私の心がどんどん不安に塗り替えられる。
これ以上、聞いてはいけない気がする…。
「彼女いないなら、私と付き合ってよ」
ドク…ン
囁くような彼女の台詞に、私の足は地面を蹴った。
透の返事を耳に入れたくなくて。
私は結局、何も買わずに2人の元へ向かう。
いい物がなかったの、なんて言い訳をしながら、私の心は沈んでいた。