6 見上げるように
私が透を振り切ったあの日から、もう、朝、透と出会う事はなかった。
拍子抜けしながら駅へと向かう。
いつもの様に、改札で悠真先輩が私を待っている。
いつからそこにいるのだろうか。
朝はいつも、先輩が先に来て私を待っていた。
改札を抜け、外に出るとパラパラと雨が降っている。
しまった。傘、持ってきてない…!
手ぶらでショックを受けていると、黒い傘が私の頭上にやってきた。
「あ、悠真先輩、ありがとうございます」
見上げると、私に丁度いい位置で傘がさされている。悠真先輩は、傘の範囲外で立っていた。
「うわ! 先輩濡れてますよっ」
「あ、おれは平気だから」
「先輩の傘なんだから、先輩が使えばいいんですよ」
「いいよ。くるみちゃん使って」
私と悠真先輩の身長差は大きい。
相合傘なんてものをすれば、私が濡れると思ったらしい。
一本しかない傘を差しだされ、困惑する。
『うわ、雨降って来た』
透と一緒に登校していた頃、こうして雨に降られる事、何度もあったっけ。
二人とも、傘なんて全然、用意してなくて。
『走るぞ、くるみ!』
そう言っていつも透に手を引かれ、2人、ダッシュで駆けていったっけ…。
そこまで思い出し、今、隣にいるのは別の人だという事にはたと気づく。
「走ります、私!」
先輩の傘から抜け、1人走りだした。
駅から学校までは近い。走ればすぐだ。
先輩の隣にいるのに、透を思い出しちゃうなんて。
こんな私に、傘を差しだす必要なんてないんだ。
12月の雨は、頬に当たるととても冷たかったけれど、涙を上手に隠してくれた。
昼休み、お弁当を食べた後、りーちゃんにトイレに行こうと腕を引かれた。
おかしい。
りーちゃんは、トイレは一人で行くような子だ。
不安そうな私を連れ、トイレに入ると、やっぱり私に話がある様だった。
「ちょっとくるみ」
「なあに?」
「背の高い人。あの人誰?」
どきんと心臓が跳ねる。
悠真先輩の事だ。
やっぱり、りーちゃんは何でもお見通しだ。
「最近、くるみいつも一緒に登下校してるでしょ。見慣れない人だよね。上級生かな? 付き合ってるの?」
「…うん」
「くるみはそれでいいの? 透君が好きなんじゃないの?」
りーちゃんが心配そうに私を見る。誤魔化そうとしたけれど、上手くいきそうになくて、私は本当の事しか言えなかった。
「うん、りーちゃんの言う通り。私、透が好き…」
「じゃあどうして、あの人と付き合ってんのよ」
「告白されて。栞さんがいるから、諦めようと思って…付き合いだしたの」
「でも透君、もう別れたよね」
「うん…入れ違いになっちゃった…」
言いながらぽろぽろ涙が零れてきた。
りーちゃんが私の頭を優しく撫でる。
「その人の事は、どう思ってるの?」
「悪い人じゃない。優しい人だとは思う…」
「好きなの?」
無言で首を横に振る。
りーちゃんが軽く溜め息をついた。
「くるみ。それはもう、ちゃんと謝って別れたら? それで改めて、透君に向き合いなよ」
「告白、受けといてすぐ、別れましょうっていうの、酷いかな」
「そんな気持ちのままずるずる付き合い続ける方が、あの人に悪いでしょ」
「りーちゃん……」
『ちゃんと謝って別れたら?』
私は本当はずっと、そうしたくて。でも、してはいけないような気がして。
きっと誰かに肯定して貰いたかったのだ。
先輩に、別れを告げてもいいんだよと。
雨はすっかり止んでいた。
帰り道、先輩に別れを告げる決心をした私は、ドキドキしながら隣を見上げる。
悠真先輩は背が高くて、首が痛くなりそうだけど。
相変わらず、先輩は私を優しげな瞳で見つめていた。
あの優しそうな顔を、私が一言、これから言葉を発するだけで曇らせる事になるのか。
『先輩、ごめんなさい。私やっぱりもう、先輩とは付き合えません…』
言いかけて止まり、また言いかけて止まりながらずっと、先輩の顔を見上げ続けている。
そうして暫く目が合っていたけれど、ふと先輩の方から、照れたように逸らしだした。
「どうしたの、くるみちゃん…」
「いえ、その…先輩、背、高いなって」
本題に入る勇気が出ず、適当な話題で誤魔化す。
先輩は肩をすくめ、困ったような表情をしてみせた。
「はは、図体ばかりでかいってよく言われるよ。190超えてるからね、昔からよくスポーツの勧誘を受けるんだけど…運動神経の方はからっきしなんだ。情けない事に」
期待に答えられず、周囲を落胆させてしまうというのは辛い事だ。先輩は、この大きな体を気に入ってないように見えた。
そういえば透は…昔は背がうんと低くて、それを気にしていたんだっけ。
『くるみ、俺、くるみ抜いたぞ!』
あれは、中学入学してまもなくの頃の身体測定。
私は146センチ。透は148センチ。
今思えば、どちらもチビっ子だったのに、それでも透は嬉しそうに笑っていた。
2年になり、2センチしか伸びずにいた私の横で、透は10センチ近く背を伸ばしていた。
『くるみ、背、縮んだだろ?』
そう言って私をからかう3年の頃にはもう、すっかり私は透に引き離されていて。
今年の春、170越えたよと得意げに言う透が、チビのまま成長を終えた私にはなんだか眩しく見えて。
いつの間にか。私は透を見上げるようになっていた。
「背、高い方がカッコいいじゃないですか。私、残念な事に149センチで成長止まっちゃったんですよねえ…。せめて後1センチは欲しかったなあ」
「くるみちゃんはそのままでも可愛いよ…」
「あ、ありがとうございます…」
聞き慣れない言葉に戸惑い、ぴょこんと首をすくめる。
別れ話をするはずが、結局、どうでもいい話をするだけで駅に着いた。
そうだ。
土曜日、私は先輩と約束をした。
それを果たしてからにしよう。
デートをして、終わる頃にでも、告げることにしよう。
それまでに、心の準備をしておこう。
先輩に悲しい顔をさせる、心の準備をしておこう。
土曜日の朝がやってきた。
家を出ると、透がいた。
…って、なんでいるのっ!!
「おはよ、透」
「おはよ、くるみ。なんか珍しい格好してるね」
「そうかな?」
普段はミニスカを履く事が多い私だけど、今日はジーンズを履いてきた。
なんだか、スカートという気分になれなくて。
可愛いと言われたのがなぜか居心地が悪くて、言われないような服を選んでしまった。
まあ、何をするか分からないし、スポーティな格好の方が向いてるかもしれない、よね?
笑って誤魔化しながら駅へと向かう。透もなぜか、駅へと向かう。
だから何でこっち来るのよ!
「んー、明日みんなで行くとこ、下見しようかと思って」
それ、私がこれから向かうとこ…。
先輩とのデートの現場、見られたくないんだけどなあ。
「下見なんていらないんじゃない?」
「フロア案内図くらい手に入れとこうかな、って。そういうくるみはどこ向かってるの?」
「え、どこって、ちょっとお出掛け…」
「ふうん」
疑うような眼差しで私を見る。
口元が、もう少し何か言いたげに、動いているように見えた。
「つ、ついて来ないでよ」
「駅向かってるだけだよ」
「同じ車両には乗らないんだからね」
「方向は同じなんだね」
どきりとした私に、少し寂しげに透は笑う。
駅に着くと、透は、ずっと向こうのホームに駆けていった。