16 観覧車の2人
呆けた私を置き去りにして、ゆっくりと観覧車は回り始めた。
透の体越しに見える外の風景が、ガタガタと音を立てて変わっていく。
あれ、おかしいな。
私と先輩は、ぼんやり突っ立っているままで。でも状況は、打ち合わせていたそのままで。
軽く小首を傾げる。
「びっくりした?」
透が静かに口を開いた。
あれれ。このセリフ、私が言うはずだったよね?
まるで透が、私のフリをしてるみたい。
「栞さん、私にお話があるって言ってたよね?」
「話があるのは俺だよ。俺が、くるみに話があるんだよ」
「話って透なの? 透に近寄るなって、私、栞さんに警告されるんじゃなかったの?」
「どうしてそうなるんだよ…」
「だって怖かったし…」
邪魔しに来たの? なんて言われたし…。
「栞さん綺麗だから、笑顔でも不思議と威圧感があって、勘違いされやすいけど」
透が軽くため息をつき、視線を斜め下に向けた。
「今日はずっと、怒ってないよ?」
そうなの……?
まあ、確かに。ずっとにっこり笑ってはいるんだけどさ。
こっちが勝手に、あの人の笑顔に慄いているだけで。
「もう少し言うと、あの日の中庭でも、別に怒ってはいなかったようだよ」
「え―――――」
怒ってない人がじろりと睨むの?
睨まないよ。怒ってないなら普通、睨まないよ…。
あっちの方は、どこからどう見ても怒っていたよ!
「私が先輩に聞いた話だと、ものすごく機嫌が悪かったようだけど?」
「機嫌は悪くても怒っていた訳じゃあないんだよ」
「そうなんだ……なんか全然、意味わかんないけど。それで、透の話って栞さんの事だったの?」
栞さんが怒ってないとかそれ、私だけじゃなくて先輩にも言ってあげて…。
先輩、私と同じくわりと本気で怖がっていたからさ。
「いや――」
「違うの…?」
「うん。話って言うのは……」
透が、急に言い淀み始めた。
いつでも歯に衣着せず、言いたい放題なんでもポンポン口にする透なのに、珍しいな。
よっぽど酷い事でも言われるんだろうか…。
「……くるみ、ごめん。彼氏とデート中なのに、邪魔して悪かった」
身構えた私に透が投げかけたのは、謝罪の言葉だった。
「え? ――えっ?」
「俺、くるみに言いたい事があって……」
「ちょっ、ちょっと待って! 彼氏とデート中って何それ。悠真先輩とはもう別れたよ?」
「―――は?」
「今日は、お友達として遊びに来ただけなの!」
というか、透へのプレゼントを選びに来たつもり…。
まだ手ぶらだけど。
そして邪魔って…邪魔って…私達の方こそ、しようとしていたんだよね。こっちは未遂なだけで。
それを謝られるなんて、なんだかとってもいたたまれない……。
――ああ、そうだ。思い出した。
私、透に告白してやろうと思っていたんだった。
目の前にある、驚いた顔の透をじっと見つめる。
決意した途端、心臓の音がドクドクと耳に強く響いてきた。
「はあっ? いつの間に?」
「えっと…こないだ?」
「別れたんなら別れたって言えよ…。てかくるみ、なんで別れてんだよ」
「なんでって……」
そんなの、決まってる。透が好きだからに決まってる。
軽く口を開け呆けている透は、こんな私の胸の内に、まるで気づいていないようだ。私が透を好きだと言えば、なんて顔をするのだろうか。怪訝な顔でもされるかな、と、透の曇らせた様子を想像し私の心に不安が宿る。
観覧車はまだ頂上までも辿り着いてはいない。気まずくても暫くこの空間からは逃げられない。でも、今だ。言うならきっと、今しかない。
口から心臓が飛び出しそうになる。
気持ちを落ち着ける為、軽く息を吸い込み、それから一気に吐き出すように、告げた。
「そんなの。透が好きだからだよ!」
言葉も動きも、透の何もかもが瞬間、ピタリと止まった。
目を見開いて、私の顔をただただじっと見入っている。
先輩、私頑張ったよ。
先輩のお蔭で私、頑張れたよ。
唇をぐっと引き結び、透の呆然とした様子をひたすら祈る様に見つめ続けた。
「くるみ…」
ようやく、時が回り始めたようで、透がポツリと片言を発する。
焦りとも取れるようなその声色は、私の言葉を全く想定していなかったようだ。
透が困惑している。そりゃそうか、栞さんがいるもんね。綺麗なあの人と、一緒に海の見える場所に来たのに、私にこんな事言われても困るよね――。
なんか、涙でそう。
「透には好きな人がいるって、知ってる。それでも、透が好きだからだよ…」
私の語気が弱くなる。言いながらじんわりと目の端に涙が滲み始めた。うわ、これ、余計困らせちゃう…。
透が、しなやかな指をそっと私の目に送り、零れかけた涙を掬い取った。
「…くるみの、ばか……」
表情は苦いのに、何故だか私の頬に触れる透の指先は酷く甘くて優しい。
そういえば。透はいつだって、悲しんでいる私には優しかった。そんな事をふと思い出す。
ばかなんて、言われなくても分かってるんだ。
叶わないと分かってて、それでも私は、透に想いを告げたかったんだ……。
泣き出しそうな私の声を抑え込むかのように、ふわりと。
透の腕が私の背中に回ってきた。
――あ、あれ?
なんで私、透に抱きしめられてんの…?
泣いてる私を慰めようと透なりに考えた末の行動なのだろうか、優しく受け止めるように回された腕の感触に、思考が追いつかない。
透の胸元から発せられる匂いが私の鼻先を襲い、何重にも透に包まれたような錯覚に陥ってしまう。観覧車の中は冷え冷えとしているのに、今の私は、すっかりのぼせ上った顔をしているに違いない。
ぼうっとする私の肩に顎を置き、悔しそうに透が言い放つ。
「ああもう!! 俺が言おうと思ってたのに……」
その言葉が終わると同時に、透が私の肩から顔を浮かせ、少し身を離した。
見上げると、憮然とした表情で透が私を見つめている。
口はへの字に曲がっているけれど、頬は少し赤い。
「それって! それってどういう意味…」
「好きってことだよ」
拗ねたような透の声が、辺りに響いた。
ぽかんとした私を気まずそうに眺める透の顔は、益々赤味を帯びていく。
ふう、と、私の額に、透の吐き出した息がかかった。
くすぐったい熱気にやられ、私の頬に赤が色づいていく。
「俺から、もっとカッコ良く言うつもりだったのに…。せっかく栞さんにも協力して貰ったのになあ」
…あれ? 好き?
栞さんに協力……?
ちょっと、透の話が良く見えない……
「あれ……透の好きな人って、栞さんじゃないの?」
「そんな事俺、言ったっけ?」
「言ってないけど…それに、栞さんだって透が好きなんじゃないの?」
「なんでそうなるんだよ!」
だって……いつも中庭で2人、一緒にいたじゃないか~!!
「……まあ、栞さんと付き合いだした頃は、嬉しくて俺、浮かれていたけどさ。でも段々……くるみと会えなくなるのが、なんか寂しくなってきて。俺の気持ちが揺らいでいるのが栞さんには見抜かれてて、それで別れる事になったんだ」
「透………」
透が切なげに私を見つめる。透と一緒に居られなくなって、苦しかった日々を思い返す。
透も同じこと、想ってくれていたの……?
胸を高鳴らせた私を他所に、途端にむくれた顔をして、透が半目で私を見た。
「――なのに! 栞さんと別れてこれでくるみと元に戻れると思ったら、彼氏作ってるし!」
そんなの! 私だって透と栞さんが別れていたの知ってたら、断ってたよ!
「それも! てっきり、前々から好きだった奴と付き合いだしたのかと思いきや、全然知らない人だとか言うし! 嫌な人ではないから彼女になってみたとか、なんだよ、それ」
そんなの! 透だって人の事言えないじゃん!
とっても理不尽に腹を立てられているわ私……。
「そんなに彼氏が欲しかったのかよ。知らないやつと付き合うとか、そんなの、誰でもいいみたいじゃないか」
透を諦める為に必死だったんだよ! 誰でも手当たり次第に付き合う軽い女みたいに言うんじゃない!
思わずジロリと透を睨んだ私はきっと、悪くない。
「…そんなの、俺だっていいじゃないか」
どきりとする。
いつの間にか、透の眼差しが真剣なものに変わっていた。
色素の薄い瞳が真っ直ぐに私を捉える。
透の首が僅かに下へと傾けられ、弾みで透の前髪がサラリと揺れた。
「あの時すごく後悔したんだ。もっと早く手を伸ばしていれば、くるみの彼氏は俺だったのかな、ってさ。遅いよね。そこで初めて自分の気持ちに気付くなんて遅すぎるだろ俺……」
当然のように側に居たから。
何も不思議に思わなくて。自分の気持ちにまるで気づこうともしていなくて。
失って初めて分かったの。
透が隣から消えてやっと、側にいて欲しい人だと気付いたの。
「私も、私も同じだよ透。透が栞さんと付き合いだしてやっと気付いたんだよ。もっと早く気付けば良かった、当たり前のように一緒にいたあの頃に気付いていれば良かった、って、何度も思った……」
あの頃どうして気づけなかったのか。
それはきっと、無条件に。シンプルにナチュラルに。側に居るのは当たり前だと信じて疑っていなかったから。意識して空気を吸わないように、透がいなくなる事について考えもしなかったんだ。
手のひらを広げ、包み込むようにそっと、透の頬に触れた。温かい頬は私の冷たい手に温もりを与えてくれる。冷ややかな私の手に、透は払いのける事も文句を言う事も無く、当てられたまま目を細めている。
私の手を当てられ、透の頬は、逆に熱気を帯びているのか、温かみが増していく。
「くるみ。俺、くるみが好きだよ。彼氏が欲しいなら、俺にしなよ。ずっと、俺の側にいなよ。これからもずっと、一緒にいようよ」
一緒にいようよ。
私が一番欲しかった言葉が、透の口から心地良いメロディのように零れだす。
都合のいい夢のようで、心に僅かの疑心がともるのだけれど、手のひらの温もりが現実なのだと私に教えてくれた。
「私も、透が好きだよ。彼氏にするなら、透じゃないと嫌だよ。ずっと、透と一緒にいたいよ…」
もう私は知ってしまった。透と一緒に居る事が、当たり前なんかじゃないってことを。
だから私は掴みかかる。
頬から手を離し、今度は私の方からキュッと透の体にしがみついた。
一緒にいてやるんだから!
今のこの、透と共にいられることが、幸せなんだと噛みしめながら。
「海が見える……」
伏せた目の端に映る一面の青に、海の真ん中にいるような錯覚を覚え、顔を上げた。見渡せばそこにあるのは広い青い海。
気付けば観覧車は、いつしか頂上を過ぎていた。
「綺麗だね、ここ」
言って、顔を見合わせ2人して笑った。
なんだかんだ、似た者同士だよね、私達。
おかしくて涙目になった私の顎に、透の指がふわりと止まる。
二人の頬は、青い海に対抗できるくらい、きっと真っ赤に染まってる。
観覧車は、ゆっくりと回り続けた。
地上までは、まだあと少し。