第8章 コーヒーで一生は変えられるだろうか? (時系列-30)
ミカド。喫茶M1-Ka.D-0。前時代から残る寂れた商店街の路地に入って、そのまま真っすぐ真っすぐ進んだ先、人の意識を阻害する結界でも貼られているかのような小さな喫茶店がこの喫茶ミカド。
内装も場所に相応しいみすぼらしさというか、ソファー席は皮の部分が破れて中のクッションが見えていまうのをタオル一枚で隠しているし、机だって何度コーヒーをこぼされたのかわからないほどくすんでいる。
マスターは一人。髭を蓄えメガネを掛けて、つけっぱなしの旧式ホログラフィックテレビを見ながら電子タバコを燻らせている初老の男性。
最近バイト店員を一人雇った。そこにはとても複雑な理由があったのだが、いろいろな部分に「まぁいいか」と妥協して、この客入りの少ない喫茶店にバイトを雇ったのだ。店員はマスターと、その新しいバイトだけ。
「それでは、今日からお世話になります、マスター」
「おうバイト。しっかりやれよ。もうじき常連のじじさんとばばさんが来るから」
マスターはぶっきらぼうだったが、こんな店を畳まないでいるのは毎週か毎日か、ここのブレンドコーヒーとそれを隠し味に使ったカレーを楽しみに来てくれる常連たちのためである。そんな人間愛を持つマスターだが、バイトはその物言いに少し尻込みする。なんせはじめてのバイト経験なのだ。しっかりやらねばと意気込み、多少の不安も抱えつつテーブルを掃除して待った。
やがてカランカランと入口のベルが鳴って、マスターは「よっ、らっしゃい」とフランクに二人の客に挨拶をする。じじさん、ばばさん。どうやら常連のようでその客らはバイトを見て目を丸くしている。
「あんりゃマスター、なんよこの可愛らしい子は」
「バイト。雇ったの」
「ほぉっ、たまげたね、あんたバイトなんてここ始めてから一回だって雇ったかね?」
「いんや。でもま、たまにはいいかなってさ」
「よ、よろしくおねがいします……」
仲よさげに話す常連とマスターに、恐縮しながらバイトは頭を下げると客の老人夫婦は嬉しそうに笑って自然と席についた。恐らく彼らの指定席のような場所なのだろう事をバイトはひと目で察した。
マスターがいつのまにかコーヒーを入れており「これ持ってって」とバイトに渡す。所謂「いつもの」というやつなのだろう。バイトはどうぞと置くと、客は感動したようにバイトを見た。
「いやぁまさか……この店のコーヒーをマスター以外に出してもらう日が来るとは……」
「ありがとねぇバイトさん」
じじさんとばばさんは幾らか改まった気分でコーヒーを口にしながらホロテレビに目をやった。アンドロイドの新型発表のニュースが取り上げられている。今は一家に一台、何かしらのアンドロイドがいるという時代。
人型は最高級。ペット型は小さくて一番安いモデルなら子供のお年玉で買える。ピンキリではあるが、それほど普及しているものだ。そのニュースを見ていたばばさんの方がマスターに尋ねた。
「そういえば。知ってるマスター? コトブキさんのお宅のアンドロイドが失踪したって話。まだ見つかってないんですって」
マスターはほぉ、と興味があるのか無いのか。のんびりと所感を話す。
「失踪ねぇ。コトブキさんちと言えばでっかいお屋敷の資産家さんだったっけね?」
ばばさんの方はこういった噂話が好きなのか、マスターの質問に答えるばばさんの声のトーンが上がったことにバイトは気づいた。
「そうそう。奥さんに聞いたんだけど、充電中に突然、うんともすんとも言わなくなったんだって。それで次の日に業者に直してもらおうとしたのに朝起きたらいなくなってたんだとか」
「なぁバイトさん、あんたはどう思う? アンドロイドが自分から失踪するなんてあると思うかい?」
じじさんの方が何をしてたら良いのかと持て余していたバイトに気でも使ったのか、そう声を掛けた。
「ええと、どうでしょう……もしかして行きたい場所があったとか……よくわかりませんけど……」
バイトはどの程度の塩梅で答えて良いのかわからず、当たり障りなくそう言った。それに対してばばさんがうんうんと頷く。
「やっぱり? 私もなんだかそういう事考えちゃってね。ほら、こんな時代でしょ? 私なんて昔の人間なもんだからねぇ、アンドロイドがこれだけ人間と接していたら自意識の一つ芽生えさせたっておかしくないんじゃないかなって思っちゃってねぇ」
ねぇ、そうじゃない?なんて同意を求める表情でバイトを見るばばさんに、バイトはあはは……と困ったように微笑んだ。
「つってもさ、アンドロイドにはあるじゃないの、追跡システムみたいなの。それで探せば一発でしょ?」
マスターはそれなりにアンドロイドの性能を熟知しているようだ。ここの常連にはエンジニアもいて、その人からそんな知識を聞いて知っていた。
「それがね、奥さんに聞いたんだけど、追跡システムで追うはずのコードっていうの? それが削除されてたんだって。だから追跡出来なかったらしいのよ。アンドロイド自体がそんな事を出来るはずはないし、奥さんは気味悪がってたけど、実際どうなのかしらねぇ。でも保険でアンドロイドは戻ってきたし、記憶も前日のバックアップデータで復元出来たそうなんだけどねぇ。でもいなくなったアンドロイドは今頃何をしているやら」
そんな話をして満足した常連の二人は一時間もコーヒー一杯で過ごした後、のんびりした足取りで帰っていく。先程の話も結局話題の種にしたかっただけでほとんど気にしていないようだ。
次に来た客は一人の男性だった。外聞を気にしないようなヨレた服装で疲れた顔をしている。
「いらっしゃいませ」
バイトはペコリと客を出迎えるとその客は一瞬びくついたのだが、バイトを見てホッとしたようにテーブル席に一人で座った。
「ご注文は何にしますか?」
「……く、カレー、と、む、メロンソッダ」
バイトはかしこまりましたと下がる。マスターは目と口をぽかんと開けていたので、それに対してどうしましたか?とバイト。
「いやな、あの人たまに来るんだけど、いつも一言も喋らないんだよ。メニューを指差すだけ。……しかしそうか、メロンソーダだったか……ずっとダージリンだと思ってた……」
ドリンクメニューの並び方がメロンソーダの下にダージリンティーが書かれている。マスターはこれまでずっとカレーとダージリンティーを出してきていたらしい。まさかカレーにメロンソーダは併せないだろう、と昔考えた事を思い出していた。とは言えこの客も毎回黙って完食している。
バイトが給仕をする間、その男はずっとバイトの事を見ていた。マスターもバイトも視線に気づいており、食べ物を運ぶ時に「ちょっと話してみろよ」とマスターがバイトに耳打ちする。
「おまたせしました、カレーとメロンソーダです。それであの……私がどうかしましたか?」
その男性はじっとバイトを見つめながら言った。
「……いや……」
マスターは普段喋らない男がバイトに対しては喋っているのが珍しい。声を聞いたのも初めてだ。
「どうぞごゆっくり」
会話が終わりと思ったバイトはそう言って下がろうとするのだが、それを男性はバイトの腕をもって引き止めた。
「ま、まって。少し話さないか?僕はテイラー。げ、芸術家で……」
「あ、私は……」
「今は少し、描いてる作品で行き詰まってて……三十時間ほど寝ていない。あと人と話すのは、実は苦手だ。基本的にママとしか話せない、でも好きなものはある、ここのカレーと、あとアニメも含めてロボットは好きだ。良いモデルは見ていて飽きないし、宇宙戦記のロボットアニメはもれなく見ている。君は宇宙戦記好き?ぼ、僕はZと00が好きで……」
声がボソボソとしていて聞き取り難い。マスターも耳を大きくするかの如く聞いているが、現状では彼がママとしか話せないことしか聞き取れていない。
「えっと……」
「実は外で口を開いたのが、もう数年ぶりになると思うんだ、うまく舌が回っているか不安だけど大丈夫みたいだ。ここはいい店だ、人通りもなく、他の客もいない。そういう場にしか行きたくないのが僕だだからここの行きつけの店に君のように僕と話してくれる美人さんがいるなら僕は喜んで通いたい話したこと無いけどとにかく僕と話をしてくれてありがとうとりあえず腹が減ったからこのカレーを食べてしまうことにするよマスターにはいつも美味しいのをありがとうと伝えておいてほしいここのカレーはどこよりも美味いきっと調味料なんかが考え抜かれているんだろうな僕はカレーが大好物だでも人通りの無い店のカレーを食べに行くとあまり美味しくない店が多いしカレー屋だと主人がよく喋ったり周りがうるさかったりでいられない場所が多くて困るその点この店は静かでうまい」
それだけ言い放ってやっとカレーを食べ始めた。バイトはペコ、と挨拶して下がるとマスターと一緒にカウンターの中で待機する。マスターは圧倒されたような表情を一度バイトに向けた後は黙って彼が食べ終わるのを待った。その男性は十分ほどでカレーとメロンソーダを完食する。
「バイトさんごちそうさままた来ますどうも」
と帰っていった彼の顔は大変に満足そうだ。来た時とほとんど表情は変わっていないが、少なくてもマスターにはそう見えた。
「面白いお客さんでしたね」
「んー……まぁな」
名状しがたい客だった、という表情で見送るマスターだった。