第7章 ミーミルの泉 (時系列-5)
「おい!眠るんじゃない!」
パシャンとよく冷えた水が椅子に縛られた男に振りかけられた。気を失っていた男、ロバートは怒号と何万本もの針で刺されたかのような痛みにも匹敵する冷感、そして投げ捨てられたバケツが起こす癇癪音に驚くように目を開け、急いで肺に空気を送る。
あの戦場の中、空洞に隠れた後の約十分間だけ、ロバートは見つからなかった。敵の捜索は次第に範囲を広げていき、隠れているロバートから見える敵は二人だけとなった時、一人がついに空洞の存在に気づく。その時点でロバートは影に隠れ、後は足音で敵の距離を測った。
そして敵が覗き込んだ瞬間、ロバートはタクティカルナイフを喉元に突き刺した。だがその瞬間をもう一人の敵兵が見ていたのだ。銃は一つ、旧式のリボルバーのみ。ロバートは反射的にリボルバーをパパンと西部劇のように二発速射した。窮地における奇跡的な感覚の冴えで相手の眉間を一発が捉えた。
だが絶望はそこからだった。一帯に響き渡った銃声は敵を集めることになる。広範囲に散っていた敵が一同に音のした方に向かい始めた。正確な位置はわからないにせよ、辺りの敵全てがロバートを追い始めた。
ロバートはとにかく走った。その時にはもう地点EもFも無い。敵が見えれば愛用のリボルバーで応戦する。だがそれも残りたった四発。とにかく息が切れても走り続け、敵に向けて一発だけ発射する。それでも逃げ切れるわけが無く、どこともわからない場所でついに彼の足は撃ち抜かれて倒れ込んだ。
「セイ、ステラ……」
もう終わりだと考えた彼は静かに目を瞑って仲間と家族の事を想い、落ちた。
そして次に目を覚ましたのが今から五時間前。その時から拷問を受け、気絶と覚醒を繰り返している。
「さて、ロバート大尉、そろそろ教えてもらおうか。グリントパークに配置された狙撃兵はどのポイントにいる?潜伏兵の数は?」
椅子に縛られ今は敵の捕虜になっている。この敵らの幹部を暗殺する作戦は最悪の失敗を迎えんとしていた。それもロバート次第ではあるのだが、状況に救いは見えない。
「言ったな、優しくするのはここまでだと。十秒待つ。答えなければまずは左足をいただく」
敵の拷問官はこれまでも散々ロバートをいたぶってきた。水責めもされたし、手の指の爪も右と左でそれぞれ三枚ずつ剥がされた。
それでも敵はこう言った。「ここまでは痛くて苦しいだけだ」と。時間が経てば元の体に戻れるという意味だ。
だがロバートは歯を食いしばり、敵の拷問に耐えた。それが並の精神力ではないことは言辞に表すことは出来ない。なにせ自分が喋ってしまえば作戦に参加している同胞全員を危険に晒す羽目になってしまう。訓練時代から共に過ごしてきた仲間もいるし、戦死した仲間たちのためにも喋れない。死んだ自分の部下達が犬死になってしまう。何をされようと口を割るものかと、頭の中では仲間たちの事を考えていた。
だが目の前にいるのは非政府組織であり国際法など到底適応されない、所謂テロリストという者たちである。
「そうか。良いだろう。おい! 左足を切ってやれ!」
ロバートはわざわざ座らされ、自分の左足にギロチンの刃が降ろされる瞬間を見せつけられた。過呼吸で酸素を取り込まないような呼吸に恐怖が滲み、無慈悲に落とされるギロチンの刃に絶叫し、吹き出る血飛沫。
幸いだったのは、痛みが変換されて脳に送られた混乱の信号がロバートの意識を断っていたことだろうか。これが夢なら良かったが、悪夢はまだまだ続く。止血と雑な縫合による処置が行われた後、ロバートはまた無理やり覚醒させられる。
敵の拷問官は言う。「これでもまだ自分で歩ける希望は残っているじゃないか。サイバネティクスを導入したらいい。そうだ、簡単な話だ。じゃあ次は右足をいただくが、問題ないよな?」
声は届いていない。ロバートは脳のスイッチを切ったように項垂れている。最早自分が死んだものだと考えるしか無いのだ。ロバートも作戦の立案に一役買っている。仲間たちの事を信じて、仲間たちも自分を信じて乗ってくれた作戦を自ら壊すわけにはいかない。ただ感情を少しでも戻してしまえばすぐに吐いて楽になりたかっただろう。
目を覚ましてからどれくらい時間が経ったのかもわからないまま、人形のようになったロバートは次に右腕を差し出すように言われ、その言葉の意味を理解したのは砕かれた後だった。それから止血され、死なないように処置された。
敵が何かを言って去っていって、次に戻ってきたのは十二時間後のことだ。ロバートにしてみれば一週間にも一ヶ月にも感じられた時間ではあったが、とにかく次の日に拷問は再開された。
「いいか、ロバート大尉。ここまでは謂わば現代技術でなんとか治療出来るだろう。治療といえば語弊があるか? とにかく、日常生活に戻れる可能性は残されている。すごい時代になったよな? でも次に使うのはこれだ」
そう言って見せられたものを、認識の奥で銃の形をしていることはわかった。だが弾丸を詰めるには小さな形状のそれは、ピストル型の注射器である。
「わかるか? これを今から目に突き刺す。するとどうなると思う? この中の液体は目玉を溶かしていくんだ。目玉の水分を蒸発させて、そりゃもう痛ぇらしい。しかもサイバネティクスでの回復も無理だ。なんでも視神経まで焼いてしまうんだそうだと。いいか、ただ視力を失うんじゃない、神経を壊されて脳にまで害が届く。目玉を失えばサイバネティクスで擬似視覚を作ればいいが、これはそういうレベルじゃない。もう一生目は見えなくなる。それが嫌ならほら、ここの地図で展開される部隊の事を書け」
ロバートは意思を戻し始めていた。もう耐えられない、一度口を開けば、きっとダムが決壊するみたいにすべての情報を吐いてしまうだろう。だが……ガチガチと震える奥歯は絶対に喋らないという決意からか、それとも単に恐怖で何も出来ないだけなのか、思ったように動いて言葉を紡いではくれなかった。
「そうか、残念だ」
敵は無慈悲に、その注射を……。
「少佐、ロバート大尉の信号はここで途切れていますね」
それはロバートの拷問に終わりが来る六時間前の事。ロバートの部隊の最後の戦地となった森に、彼らは立っている。
「よし、コンラッド、HUDマップと戦闘の痕跡をARに起こして同期しろ。T・グース、ロバートの装備の中に旧式のハイリボルバーが有っただろう、データベースからロバートのハイリボ用に登録されてる弾薬の硝煙成分を引っ張ってこい。そして周辺と参照しろ。なんとしてでも見つけ出せ」
そこにはたった三人、と言ってもサイバネティクスで体を改造した兵士が二人、アンドロイド兵士コンラッドが一体。捕まったロバートの救援に当てられた少数精鋭の部隊である。敵に気取られないよう、最新の通信装備を持たずに行動していた彼らを探すのは相当に骨が折れることだし、かといって事前情報より大部隊の所有が確認された敵地で大きな捜索も出来ず、「探りのプロ」とされる彼らが送り込まれたのだ。(実際には潜り込まされた、とするのが正しい)ちなみに正式な軍属ではなく、積極的攻性ディテクティブとでも表現しようか。一言では説明できないような存在である。
「しかしなんだって奴ら、ロバート大尉達の潜入部隊に気づいてたんでしょうね。普通こんなところで、こんな見事な展開がありますか? このナンク地域じゃ地方指揮官が幅を利かせてる程度の支配でしょ。ロバート大尉の隊を壊滅出来るほどの部隊なんてそうそう……これじゃまるで……」
先程T・グースと呼ばれた男は周辺をバイザーで通して見渡しながらグチグチと少佐という人物に不満を漏らしながら、その中で同時に頭を整理して答えを導き出そうとしていた。その先の言葉を少佐は読んでいたようだ。
「作戦がバレていたようだ、か? 我々が珍しく救出任務で送られたんだ、きな臭くて当然だろう」
「ロバート大尉の隊は何かの作戦の捨て石?」
人型アンドロイド、コンラッドの音声モジュールが少佐の言葉にそう疑問を呈している。
「わからん。作戦の展開図を見ると負けを見越しているとは思えん。軍のパワーグラフによると八対二で有利とある。そこがまたおかしい。このグループの二番手、三番手にもならない地方幹部一人をやるためにここまでの人員を引っ張ってくるか? まるでロバートの部隊による暗殺が最初から成功しないことをわかっていたかのようだ。おまけに民兵との戦いでも想定しているのか、何かのカモフラージュにある程度派手な戦闘でもしたがってる雰囲気だしな」
「少佐、また士官のデバイスのぞき見したんですか?」
T・グースの口調からは聞きたくないことを聞いてしまったなぁという気持ちが漏れている。
「我々が送り込まれた戦場のことを調べて何が悪い、ばばあは何も教えてくれないしな」
笑いながら聞き流すT・グースとコンラッド。だが湿り気はそこまでだ。痕跡の捜索中、T・グースがやっと硝煙と火薬の残滓を見つけた。
「ありました。レトロ銃をお守りにしてるなんてホントイカしてる、ハイリボの旧弾薬に救われたな」
頼りない旧式銃を少し茶化すように言ったT・グースの言葉に銃への知識が深い少佐が反論する。
「何を言う、実際ハイリボは信頼のおける良い銃だぞ。よし、追跡開始だ。とにかくロバートを救い出すぞ」
「了解」
実に五時間もの追跡になる。
「なんだ?今、なにか音がしなかったか?」
銃を携えた男がコソコソとすぐ近くにいる別の男にそう声を掛ける。
「見てこい」
集落に立ち並ぶ民家の一つから続く薄暗い地下室から、階段を上がって顔を出した男が目にしたのは仲間の横たわった姿だった。ただ眠っているわけではないことはうつ伏せている仲間の首が焦げているように黒ずんでいるのが見えたため直ぐに状況を理解出来たらしい。急いで小銃を構え、下の仲間を呼ぼうと声を上げようとした瞬間だった。
パシュ、と全く響かない電気の爆発したような音がその男の首から弾けた。その背後には先程少佐と呼ばれた人物が立っている。
「グッドキル」
T・グースは小銃を構えながら喉につけられたマイクから音の立たない声を送った。それから少佐はコンラッドに地下室を指差し、ジェスチャーで偵察するように指示を出すと、コンラッドは了承を示して階段を下る。その先に待ち受けていた男を、指先から発射する無音弾丸で音もなく頭蓋骨を砕くと、その男が床に倒れる前にまたも耐衝機構によって音無くスプリントして横たわらせた。全行程で音は全く立てていない。
「クリア、どうぞ」
彼らはロバートの監禁、拷問された部屋に目と鼻の先まで迫っていた。コンラッドが既に熱源を探知しておりそれを壁面にレーザー描写で映し出す。そこには椅子に座らされた人物がいることも見えている。少佐はその状況を確認した瞬間に展開を組み立て、部下に指示を出した。
「T・グースはバックアップ。コンラッドは私と部屋を制圧。お前は右のと真ん中をやれ、私は左だ」
「サー。少佐、突入のタイミングをあなたに合わせます」
扉に向かう少佐と、真後ろにつけるコンラッド、少し離れたところで後方警戒をしているT・グース。少佐はゆっくりとドアの前でコンラッドとタイミングを合わせる、その瞬間だった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ」
部屋の中から掠れた絶叫が響き渡ったのだ。ビク、とT・グースが瞥見したドアを少佐が蹴破り、それに驚いた兵士の一人を的確に処理すると、コンラッドもしっかりと敵を排除する。制圧にかかった時間は実に二秒。
「ぐっ、あああああっ……あぁぁぁぁっ……」
ロバートの悲鳴に少佐らの銃声も、敵兵士のうめき声も掻き消される。だがロバートには今自分の周りで何が起きているかなどわからない。彼の受け取る情報の半分が今まさに溶け消えているのだ。
「おいっ、なんだこりゃッ」
その惨状にT・グースが驚嘆している。少佐は冷静にコンラッドにロバートを運ぶように指示を出す。片目からコポコポと沸騰するように泡立った液体が流れ出しているのだ。
「もう大丈夫です、ロバート大尉。あなたを無事に基地までお連れします。……ひとまず眠っていてください」
コンラッドはロバートに特殊な薬液を注射で流し込むと、気絶したようにカクンと意識を落とした。
「目玉が溶けて……なんて酷いことしやがる……」
T・グースがその痛みを想像出来ないという声音で彼を優しく抱き上げ、コンラッドの背中に展開した担架のようなキャリーアタッチメントに寝かせた。少佐は室内や周辺の安全を確保しつつ、そんなロバートを一瞥したのみで淡々と事を進める。
「心配するのは後だ。コンラッドは彼を運んで通信安全圏に戻り次第HQに連絡を入れろ。ランディングゾーンまで走り抜けるぞ、彼が相手にした部隊を我々で相手するのは無理だ、今はとにかく逃げるしかない」
「了解」
T・グースは近くに置いてあった小さな銃に気づいた。泥に塗れながらもまるで主張するようにシルバーの輝きを放つ完璧な手入れをされた銃。ロバートの元へ導いたリボルバーを自然と回収し、先頭で駆けた。