第2章 初めて逢った日 (時系列-?)
整然と立ち並ぶ棚にはぎっしりの工学系専門書や理論書がずらり。キレイに整頓されきった室内だが、そこにある巨大な電子ホワイトボードには普通じゃ読めないような数式が書き殴られている。そんな部屋で聞こえるのは掃除ロボットが巡回する「ズー」という駆動音だけだったが、その心地よい静寂をこの知的な部屋に最も似つかわしくない声が水を差す。
「あ゛ー」
「はい?」
無粋で可愛らしい声をした小さな赤ん坊がデスクに置かれたパソコンの前にひょこっと顔出すと、デスクによじ登るなりパソコンの前にポヨポヨのお尻でドデンと座った。心なしか満足そうだ。その子の目の前にあるモニターには黒い背景の小窓が何も表示させないまま開いている。
ちなみにその部屋には赤ん坊以外、人間はいない。
「ぶー、あー。うー」
まるで大人がパソコンのキーを叩くのを見ていてそれを真似したがったのか。赤ん坊はパソコンのキーモジュールを乱暴に叩いている。とは言ってもホログラムで出来たキーモジュールはびくともしていないのだが、少なくても入力はされているようだ。
「あなたはルーデンの娘のチトセですね」
「ばー、ぶぇー、」
赤ん坊以外に人間はいなかったが、モニターの奥に知能はあった。ルーデンという科学者によって作られた人工知能の名前はエルダ。ある研究の副産物として創られたものではあるが、エルダ単体に役目は課されていない。ただルーデンのパソコン内に住んでいる、というところだ。
「チトセ。あまり変な操作をしないでほしいです。……言ってもわかりませんよね。困った。ルーデンにコールしましょう。……あっ、よだれ」
「ぶあーーー」
チトセのよだれが前掛けにべトーっと落ちていく。その最中に手をバタバタさせるのでよだれはパソコンの方にも飛んでいった。どうだ汚してやったぞ、これが赤ちゃんのお仕事なのだ。そんな事を言いたげにやり切った表情浮かべているチトセに、多少の不満を滲ませたエルダの声がする。
「はしたないですよチトセ。レディ……ではありませんが、嗜みというものが人間には必要です。ううむ、ルーデンは何をしているのでしょう」
チトセは楽しそうに手をたたきながらお尻をぴょんぴょん浮かせてはしゃいでいる。
「きゃっきゃっ」
「おぉジャンプジャンプ。お尻ジャンプ。参った」
同じ日の何時間か後の事。
「もう、困りますよルーデン。赤ん坊は予測不能ですし意思疎通も出来ません。私が人間だったら”寿命が縮んでいた”というやつですよ、全く」
人工知能のエルダが生みの親であるルーデンにぷんすかと発言している。感情はあまり表現されていないやや無機質な声だが、そこになんとなく愛嬌がこもっているのが楽しくてルーデンは笑いながら謝った。
「はは、すまないなエルダ。とは言えね、もう少し経ったら会わせようと思ったんだ。可愛いだろう、チトセは」
パソコンについているカメラに向かってそう話しかけつつ、表示させたAIのマネージャーソフトの数値やグラフの揺れを見ているルーデン。質問を受け取ったエルダがしっかりと順を追って発言を考えている様子がグラフに現れてルーデンはもっと嬉しい気持ちになった。
「赤ん坊の可愛さというものは平均的で、そこに実際の差異はほとんどないそうです。私には実数での判断はつきませんが、その問いの正解は”可愛い”ですね?」
エルダはネットで瞬時に何かを検索したのだろう、ルーデンがログでその痕跡を見た後、本題に入ることにした。
「……あの子はね、母親がいないんだ。お産のときに亡くなってしまってね。僕もあまり構ってやれない。基本的な世話はベビーシッターがやってくれるが……エルダ、君にも手伝ってほしいんだ。理論的に君の知能の成長幅は経験次第できっと人間と変わらなくなる。だからチトセの事を頼みたい。今は見ててくれるだけでいい、何かあったら僕に連絡をくれるだけでもね」
可動式カメラが接続されたパソコンのシステム権限をエルダに解放しながらそう言ったルーデン。これまでのカメラには可動域がなかったため目の前しか見ることが出来なかったエルダだが、新たに接続された可動カメラで室内を自由に見回すことが出来るようになった。
「まぁルーデンの頼みであれば仕方がありませんね。研究は捗っているのですか?」
「今は少し詰まってるかな。でも毎日一歩ずつだ。きっと出来るよ、そうしたら人々の良き隣人となってくれるはずさ」
君と同じようにねと、ルーデンは心の中で未来に思いを馳せた。