3.奴隷 リリエル=アルトリカ
私は、自分で言うのも何だが割と裕福な家の生まれだったと思う。
深い深い森の中、優しい父と母、それに可愛らしい妹と仲睦まじく暮らしていた暖かな日々は、今でも思い出せる程だ。
何不自由なく、いつまでもこんな穏やかな日々が続くのだと、私は――ううん、きっと妹も、両親でさえも信じて疑っていなかったに違いない。
全てが手遅れになった今なら、そんな幸福なんて薄氷の上の物なのだと、はっきりと分かる。
優しかった父は、母は私の目の前で引き千切られた。
愛らしかった妹は、表情を苦痛に歪めながら――それを私に見せつけるようにしながら、殺された。
いっそそのまま私も殺されたなら、良かったのに。
――お前は生かしてやろうと、その化け物は愉しげに言っていた。
私はなぜ両親が殺されたのか、妹が殺されたのか――それも判らないまま、ただ全てを失い、生かされた。
廃墟と化した我が家に1人残された私は、茫然自失としていたのだろう。
気付けばむさ苦しい男に捕らえられ、檻に閉じ込められて。両親から誕生日プレゼントに贈ってもらった装飾品も、洋服も、全て奪われていた。
でも、そんな事はもう私にはどうでも良かった。
身なりなんてどうでもいい。
ただ、ただ身体を満たす冷たいモノに、私は全てを放棄した。
それが少しだけ変わったのは、私を檻に閉じ込めていた男達が皆殺しにされたある日の事だったと思う。
取り巻きに男たちを殺させた男は、生傷だった私を見ると顔をしかめて色々と世話を焼いてくれた。
傷を癒やし、身なりを整え、狭苦しい檻から広い檻に。そして、商品としての教育を。
以前とは比較にはならないけれど、幾分か人らしい生活に戻れた私はようやく考える事を思い出した。
男は、私を商品だから綺麗にした、と言っていた。
つまり、私の事を誰かに売るつもりなのだろう。いわゆる奴隷、という扱いだ。
それは、別にどうでもよかった。
男は全てを放棄していた私を拾い上げて、利己的な理由とは言えど助けてくれたのだから、男に少しでも恩を返せるならそれくらいは何てことはない。
ただ、考えることを取り戻した私はその後――奴隷として売られた後の事を、ずっと考えていた。
奴隷の身に、ずっと甘んじているつもりはない。
やるべき事をやる為には、奴隷のままでは都合が悪い。
――あの化け物を殺す為には、自由にならなければならない。
その為なら、私はどんな事も厭わないつもりだった。
この男にだけは恩を返すけれど、その後はどんな手段を使ってでもアレを殺す。
私の幸福を理不尽に壊して踏み躙ったあの化け物を殺す為なら、私だってどんなモノでも踏み躙ってやろう。
「――リリエル。これから俺はお前を殺す」
だから。
この子供が、私にこんな事を言ってきたのは。
「死にたくなけりゃ抵抗しろ。全力で、死物狂いでな」
「もし、私が貴女を殺したら、私は自由ですか?」
「良いぜ、その時は俺の持ってる金で自分を買え。残った分はお前が持っていけば良い」
こんなバカな事を言ってきたのは、とてもとても都合が良かった。
ああ、これでこの男に恩も返せるし私も自由の身。
大方、私が人も殺せない顔をしているから挑発でもしているのだろうけれど――殺せない訳がない。
だって、こんな機会はきっと二度とは無いんだから。
「――死んで下さい」
私は翳した指先から、魔力を解き放った。
男を巻き込むわけにはいかないから、少女というにも幼い子供の足元に魔力を集中させる。
いささか仰々しい剣……のような物を手にしてはいるけれど、そんな重たげな物を手にして防げるものか。
「氷結晶の槍」
少女の足元が急速に冷え、白く変色する。
それもほんの一瞬の事で、次の瞬間には鋭い氷の槍が少女に向けて突き出した。
槍は、寸分違わず少女の身体を穿ち――
「よ……っと」
「っ!?」
――否、放たれたはずの氷の槍は少女を穿つこと無く空を切った。
少女はあれだけの大きな獲物を手にしながら、まるで風のようにその槍を躱してみせたのだ。
有り得ない。
少なくとも子供が、身の丈以上の獲物を手にして出来る動きなんかじゃない!
「悪くねぇ。ちゃんと殺すつもりでやったな」
「ま、だ……!」
少女はニンマリと笑みを浮かべつつ、獲物を軽く構えながら槍の上に降り立った。
不味い。不味い、不味い――まだ死ねない、死ぬ訳にはいかない!
折角の千載一遇の好機を逃して死ぬなんて、そんな事になったら父さんに、母さんに、妹に合わせる顔が無い――ッ!!
幸いというべきか、少女が次にどうするかだけは私にも理解できた。
少女が手にしているのは、どれだけ異様であっても近づいて殺す武器。
それなら、絶対にこの子は私の懐に飛び込んでくる筈。
両手の間にありったけの魔力を集中させる――少女が槍を蹴り、檻へと飛んでくる。
自分の吐息が白く染まる程に、空気が冷えていく――少女の一振りが私の檻を紙切れのように切り裂き、男が悲鳴を上げる。
「極低温の大気――ッ!!」
そして、少女の一振りが私を捉えようとした瞬間――私は、自分の前方に向けて魔力を炸裂させた。
魔力で氷結晶の槍を生成する時間なんて無い。だから、ただ少女の周囲の空気を限界まで冷やすだけ。
でもそれだけで良い、だってそんな空気の中じゃ生き物は生きられないんだから。
無論、氷の槍とかを作り出すよりもずっとずっと燃費は悪いけれど、この子を殺せさえすれば、それで――……
「――はは、はははっ。悪くない、ああ悪くない」
「え」
……それで、自由の身だったのに。
どうしてこの子は、この小さな小さな女の子は、生き物が生きられないような空気の中で平然としているのだろう?
ふと視線を向けてみれば、私が作り出した筈の極低温は檻とその外の地面を真っ白く染めていたけれど、少女が立っているその場所だけはまるで色づいておらず。
「そ……ん、な」
理屈はわからないが、少女が私の極低温を文字通り斬った、という事なのだろうか。
何がともあれ、つまるところ。
それは、これから私はこの少女に殺されるのだ、という事に他ならなかった。
もう抵抗する術はない。
私は、せっかく手に入れた千載一遇の好機を掴むことも出来ず、復讐も出来ずに、ここで死ぬのだ。
思考が止まる。手に入れた物を再び取り上げられて、何も考えられなくなる。
私はバカだ。
幸福なんて、良いことなんて薄氷の上のモノだなんて、身にしみて分かっていた筈なのに――……
「おい、リリエル」
「……?」
……でも、なぜか。
私を殺す筈の刃は、いつまで経っても私に突き立てられる事はなく。
「気に入った。お前は今日から俺の下僕だ」
気付けば、へたり込んでいた私を少しだけ、本当に少しだけ見下ろすようにしながら。
小さく幼い、そして恐ろしく強い少女は、私にそう告げた。
「おい、爺。良いヤツを紹介してくれた礼だ、全部取っとけ」
「ぬおっ!?あ、ありがとうございます、また何か有れば是非に!」
『な……バカモノ、今後の旅費とかはどうするつもりじゃ!?』
まだ状況を理解できていない私を尻目に、いつの間にかあの仰々しい武器は妙齢の綺麗な女性に変わっていて。
男に少女が気前よく、恐らくは金貨の詰まった革袋を手渡すのを見れば、女性は少し慌てていたようだったけれど――
『……ええい、渡してしまったものは仕方ないか。ほれ、何をしておる。さっさと立たぬか小娘』
「下僕がボサッとしてんなよ。お前を買った分の金はこれから穴埋めするんだからな、リリエル」
――どうやら、私は殺されず。
まだ、復讐を果たす機会は残っているようだった。
「は、はい」
私は魔力を使い果たした疲労感と、余りにも理解が追いつかない状況に戸惑いつつも、少女たちの後をついて歩き出す。
ただ、一つだけ分かったのは。
「ふふふ、これだけあれば檻の修理費用を考えても十二分……いやあ、いいお客様ですな!」
ちゃんとこの男にも恩を返せたのだ、という事だけ。
「――ありがとうございました」
私は軽く、革袋に頬ずりをしている男に頭を下げれば、そのまま少女たちと共に外へ出た。
久方ぶりの檻の外。
制限される事のない空間と青空は、思いの外眩しかった。