20.交わされたやくそく
「――……っ、ぅ……」
鈍く痛む全身に、泥の底に沈み込んでいた意識が浮かび上がる。
目を開けば、そこには――なにか、大きな二つの膨らみがあって。
頭に、背中に感じる柔らかさに、また意識を沈ませそうになってしまうものの――僅かに感じた煙の臭いに、血の匂いに俺は意識を無理やり叩き起こした。
『……む、目を覚ましたか。気分はどうじゃ、エルトリス』
「あー……終わった、のか」
俺が起きたことに気づいたのか、大きな膨らみの上から顔を覗かせたルシエラを見れば、そう言えばそうだった、とボンヤリとしている頭でポツリとつぶやく。
まだろくに動かない、鈍く痛む身体で周囲を見れば、そこにはボロボロに焼け崩れたヘカトンバイオンの姿があって。
……ああ、俺の知らない所で戦いが終わっちまったのか、なんて少し残念な気持ちになってしまった。
「……頭痛い」
『ああ、それは多分酒じゃな。全く、つくづく厄介なヤツじゃった』
「そう、だな――……」
ずきり、と鈍く痛む頭に軽くうめきつつ、久しく感じていなかった――この体になってからは初めてのその痛みに、小さく息を漏らす。
ヘカトンバイオンは、実に難敵だった。
今までのどんな相手よりも強かで、自らの能力を弁えており、その上で最善手を常に狙ってくる――そんな、今の俺自身を投影したかのような相手。
ルシエラの代わりに人間の体を、魔導人形を扱っているというだけで、他はそこまで俺と代わりはないようにさえ思えるヘカトンバイオンは、俺一人では決して打倒し得ない相手だった。
見る影もなくボロボロに崩れているヘカトンバイオンを見れば、もう少し戦っていたかったな、なんて思ってしまって――
「――ぁ」
――ふと、思い出した。
そうだ、この巨体はヘカトンバイオンの本体ではない。
ヘカトンバイオン自身の姿は分からないが、これも――この魔導人形もまた、アイツが使っていた身体の一つに過ぎなかったはずだ。
「……っ、おい、ヘカトンバイオンの――こいつの本体はどうした!?」
『何?どういう事じゃ、それは』
何ということか。
事ここに来て、他の連中と情報をまともに共有できなかったツケが来た。
つまり、姿も知れぬヘカトンバイオンの本体はエスメラルダの魔法で焼ききれていなければ、未だ健在という事で――……
「くそ……っ、リリエル、手を貸せ。アイツにトドメを、刺さなきゃ不味い」
「――っ、判りました」
俺の言葉に、まだ終わっていなかったことに気づいたのか。
リリエルも、それを近くで聞いていたアミラもすっかり緩んでいた気を張れば、立ち上がる。
……少なくとも、ヘカトンバイオンの本体は人間を依代にしなければまともに動けない程に弱い存在の筈、だ。
そうでなければ、わざわざ人間の体を経由して俺の身体を奪おうとした理由が分からない。
それくらいならば、今の消耗しきった俺たちでも何とか出来るだろう。
全身に走る痛みを堪えつつ立ち上がれば、俺は焼け落ちている街並みから奴を探し出そうとして――……不意に、その視界に奇妙なものが映った。
『どうしたエルトリス』
「……なあ、ルシエラ。あっちに花畑なんか、あったか?」
『なんじゃ、夢でも見ておるのかエルちゃんは。こんな焼けた場所に花畑なぞ――』
そこまで口にして、ルシエラが言葉を止める。
ルシエラも――そして、リリエル達もそれを見たのだろう。身体を硬直させて、ただその不可思議な光景を見つめていた。
――焼け落ちた街並みの奥から、花びらが舞っていく。
瓦礫しか無いその先に、色とりどりの花が次々に花開き、咲き乱れていく。
「――あ、やっと見つけた」
その花々の生まれているであろう場所。
焼け落ちた街並みを変えながら歩く、空色のエプロンドレスを着た少女は――静かに、しかし何故か俺たちの耳にもはっきりと届く声で、嬉しそうに囁いて。
『……っ、いかん、構えろエルトリス!!』
「解ってる――っ、ぐ……っ!!」
――その声に、その仕草に、その有様に。
俺は自分の全てから警鐘が鳴り響くのを感じれば、全身から痛みが走るのも無視してルシエラを構えた。
「リリエル、アミラ!!攻撃しろ――ッ!!」
「え、ま、まて!ただの子供じゃ……」
「――判りました。三重奏――……っ」
俺の声にアミラは戸惑っていたものの、その声色からただ事ではないと判断したのだろう。
リリエルは即座に、アミラは一瞬ためらいつつも少女を睨めば、魔法を、武器を構えた。
そんな最中。
信じられないような物を見たかのように、血の気を引かせた顔でエスメラルダは腰を抜かし、へたり込んで。
「……っ、あ、ぁ……あ、あぁぁ……っ」
「何が見えた!?頼む、教えてくれエスメラルダ!」
「こんなの……こんなの、無理――っ、だって、おかしい……全部、全部ノイズが――っ」
エスメラルダのその言葉で、おおよそ全てを理解した。
エスメラルダは、ヘカトンバイオンにさえ躊躇わずに魔法を放つ――挑みかかるくらいには、心が強い女だ。
そのエスメラルダが怯えきっているという事は、その目に映っている指標とやらはヘカトンバイオンよりも遥かに強いか、或いは――
「……っ、あ、え?」
「どうした、何が――」
「おとも、だちに……なり、ましょう……って」
「――何?」
――それが、数値ですら無い何かであるという事。
女神とやらから授けられたであろうその目にさえ、目の前の少女は正確には映らないのか。
ただ、エスメラルダが告げている言葉は決して敵対的なモノではなく。
「――氷結晶の槍!」
その考えを、混乱を遮るようにリリエルの魔法が少女に向かって放たれた。
少女の足元から突き出した槍は、容赦なくその身体を抉り、貫き――ついで、その身体をアミラが放った矢が撃ち抜いていく。
どう見たって、致命傷だ。
障壁さえなく、少女の身体は見る影もなく傷ついて……しかし、倒れなかった。
「ふふっ、大丈夫♥あなた達もエルちゃんのお友達なんでしょう?それなら、あなた達も私のお友達よ?」
「……な」
「バカな、確かに穿ったはずだ……くっ、幻影か何かか!?」
まるで、傷など最初から無かったかのように、少女は歩みを止める事無く周囲を色とりどりの花で満たしていく。
痛々しい焼け落ちた街並みは、少女が一歩一歩歩く度に綺麗な花園へと変わっていく。
それが、ひどく悍ましく恐ろしい物に見えるのは、きっと俺だけではないのだろう。
リリエルは無表情な顔から血の気を引かせつつ――アミラは、更に一射、二射と続けて矢を放っていった。
その全てが、少女の身体を寸分違わず穿っていく。
エプロンドレスに包まれた身体も、楽しげに歩く細い脚も――妖精のような笑顔を浮かべるその頭も、生物であるのなら動けず、或いは死んで当然のダメージを与えていく。
「お姉さんはとってもやんちゃなのね?きっとボクとか口にしちゃう可愛い子なのだわ♥」
「ふざけるな、ボクは――え、あ……な、何で、ボクは」
『いかん、耳を貸すな!耳を塞げ、アミラ!!』
――その全てが、またたく間になかったことになる。
少女が楽しげにそう告げれば、アミラはそれでも気丈にもう一度矢を放とうとする――が、その口から出た言葉に顔を青ざめさせた。
みれば、その格好も先ほどとはまるで違う。
機能性を重視したエルフの森で良く見た胸当てなどを付けた格好ではなく、若草色のフリルドレスを身につけており。
髪も、花の髪飾りで左右で纏められた――いささか幼い髪型に変わっていて。
ルシエラの叱咤にも似た声に、アミラはハッとした様子になれば、耳をふさぎながらその場にへたりこんだ。
――ああ、ああ。
間違いない、コイツは――バンダースナッチの時に声をかけてきた、アリスとかいうヤツだ。
一歩一歩こちらに近づいてくるアリスを見ながら、何とかできないかと思考を振り絞る。
エスメラルダに全力で飛んでもらう――のは、既に魔力がからっけつになりかかってる以上難しいだろう。
戦って勝つのは尚無理だ、そもそもどうすれば攻撃が通用するのかすら分からない。
――そもそも。
コイツには、戦うとかそんな意思すら有りはしない。
戦うつもりさえなく、相手を蹂躙してしまう……そんな相手と、どうやって戦えというのか。
「……あら?」
そんな最中、不意にアリスが俺の姿を見れば小首を傾げて、うーん、と小さく声を上げた。
困ったような、迷うような、そんな表情を見せながらアリスは歩みを止めると口元に指を当てて。
「ひどい怪我をしてるのね、エルちゃん。それに、とっても疲れてるみたい」
「……ああ?」
それは、まるで相手を慮るような言葉だった。
たった今、アミラを弄り回そうとしたその姿からは想像できないくらい、それは普通の――ごくありふれた、少女の姿で。
「……っ、やめろ、エルトリスに手を出すな!ボクが許さないぞ!」
「私だって……エルトリスちゃんには、手出しはさせないんだから――っ!」
立ち止まったのを見て折れかけていた心を奮い立たせたのか。
口調を、服装を歪まされたアミラとエスメラルダは俺の前に立てば、辛うじて戦意らしき物を見せて。
リリエルは、俺を抱えるようにすれば、何時でもこの場から離脱できるようにと、身構えていた。
――それは、正しい。俺にとっても限りなく都合のいい行為だ。
二人に気を取られている間にリリエルが全力で走れば、或いはこの場から逃げられるかもしれない。
それでいいはずだ。
アミラは勝手に着いてきただけだし、エスメラルダへの借りだってヘカトンバイオンの事で十分に返しただろう。
だから、もうこいつらの事は切り捨てて逃げたって――アリスへの対応策を考え、次遭った時に勝つ為に逃げたって、いいはずなのに。
「――降ろせ、リリエル」
「しかし、エルトリス様……」
「良いから、降ろせ」
――ああ、本当に可笑しい。
昔の俺なら絶対にあり得ない。俺より弱いやつの為にこんな事をするなんて、本当に馬鹿げてる。
『……エルトリス。万に一つも勝ち目はないぞ』
「解ってる」
ああでも、それでも。
どうにも、ここでコイツらを見捨てて退くなんてのは、気に食わないんだから仕方ない。
「な――よせエルトリス!ボクたちが時間を稼ぐ、だから」
「うるさい。アリス、俺と遊びたいんだろ」
「ん?うん、そうだけど――」
アミラ達の前に進めば、そのままアリスに近づいて――俺は、自分でもバカなことをしてると思いながら、言葉を口にする。
アリスはまだ少し迷っている様子だったけれど、口ぶりからしてやはり、最初から俺の方に興味があるらしい。
……なら、まあ。
少しくらいはやりようもあるだろう。
「……遊んでやるよ。だから、アミラ達は見逃せ」
「え、でも皆で遊んだほうが楽しいでしょう?二人だけじゃおままごとだって寂しいわ」
さも当然のようにそう口にするアリスを見つつ、俺は手で軽くリリエルたちに合図を送った。
この場から離れて、こいつの射程から逃れるように――そう、言外に告げて。
「――でも、エルちゃん」
「え」
合図を送る間も、視線はアリスから外していない。
一瞬だってアリスから目を離していないというのに――気付けば、アリスは呼吸を感じるほどに近くに、立っていて。
アリスが俺の頬に、そっと左右から手を添えれば。ただそれだけで、俺は身動き一つ取れなくなってしまった。
「いーっぱい、あのお人形さんと遊んだんでしょう?」
「お人形……って」
アリスの言葉に、唯一動く視線で焼け落ちたヘカトンバイオンの身体を見る。
それを見れば、うーん、とアリスは悩むように小さく唸って。
「正直に答えてね、エルちゃん。エルちゃんは疲れてるのかしら?」
「――う、ん。エルちゃんね、からだもいたくて、おねむ、なの」
――アリスに質問された瞬間。
口から辿々しい言葉が、勝手に溢れ出した。
止めようとしても止まらない。口から幼くて、甘ったるい言葉が出てきてしまう。
「ううん、それじゃあ遊ぶのはまた今度にした方がいいかしら。残念ね、残念だわ」
ただ、その答えを聞くとアリスは心底残念そうに肩を落としつつ、小さく息を漏らした。
――あまい、あまいかおり。
いつまでも感じていたくなるような、やさしいにおい。
「……それじゃあエルちゃん、約束しましょ?」
「やく、そく?」
ふわり、ふわりとした頭にアリスのこえがしみこんでくる。
「今度会ったら、私と一杯一杯遊んでね♥その時は、皆と一緒に♥」
「……う、ん。エルちゃん、アリスちゃんといっぱい、あそぶね♪」
「ああ、嬉しいわ、嬉しいわ♥ふふふっ、これからもずっとお友達よ――♪」
当然のように、あたしは、アリスちゃんにそう、こたえて――おててを、ぎゅってにぎれば。
アリスちゃんは、ほんとうに、ほんとうに嬉しそうな顔を、しながら――ふわり、と。
お花がちっちゃうみたいに、めのまえから、きえちゃった。
あたしは、いなくなっちゃったアリスちゃんに、すこしざんねんなきもちに、なって――
『――っ、――……っ!!』
「……ふ、ぇ?なぁに?」
『――しっかりせんかエルトリス!!』
――その、聞き慣れた叫び声に意識が一気に戻ってきた。
「あ……だ、だいじょうぶ、はっきりしてきた」
『……はぁ、全く。魂が歪み始めた時はどうしようかと思ったぞ』
「大丈夫、あたしはもうぜんぜん――俺はもう大丈夫だ」
まだふわふわとした感覚は残っていたけれど。
幸いというべきか、短時間だったお陰なのか、先程までの自分がどれだけ異常だったのかを自覚できた。
周囲を見れば、花畑こそ街中に広がってはいるものの、アリスの姿はどこにもなく。
……兎も角、一旦は危機を乗り切った、という事で良いんだろうか。
「アミラ、大丈夫か?」
「ボク……ボク……う、うぅぅ……っ、わた、私……っ、ぐうぅぅ……っ!」
『案ずるな、ヤツは既に去ったからの。身体に変異が無いなら、時間の問題だろうさ』
未だに一人称を直せていないアミラが少し心配だったが、ルシエラの言葉に軽く安堵する。
……ああでも、全く。俺がおかしくなってるのはそのままか。
アミラが、エスメラルダが、リリエルが無事で済んだ事が、こんなにも嬉しいなんて。
「エスメラルダ、後でアリスがどう見えてたか詳しく教えてくれるか?」
「う、うん……って、エルトリスちゃん?」
「――ん、ぁ?」
安堵してしまったから、だろうか。
強引に動かしていた身体が、気力が、唐突にぷつんと切れる。
立っている事も出来なくなって、瞼も重くなって――ああ、成程アリスの言っていた事は正しかった、訳だ。
「そ、そうだよね、限界だよね――!?ど、どうしようリリエルさん、アミラさんっ、ルシエラさん――!!」
『ええい騒ぐな大馬鹿女!さっさと無事な――そうじゃ、城は無事じゃろう!お前の部屋に――』
遊ぶことさえもできない程に疲労していた事を、思い出しながら。
俺は――ヘカトンバイオンがどうなったかを考える事も忘れて、再び意識を手放した。