9.英傑、真の意味で少女を知る
――足の拘束を引きちぎり、目の前の肥え太った豚を蹴り上げる。
そのまま腕を椅子に括っていた拘束を強引に外せば、静まり返った部屋の中で、ゆらりと立ち上がった。
蹴り上げられた豚はどむん、どすん、と軽くバウンドしながら床に叩きつけられて、コヒュっ、と無様に喉を鳴らしており。
そんな豚を今度こそ見下しながら、がらん、と転がった熱された鉄板を見れば――まだ少し恐怖を覚えるそれを、部屋の端に蹴り飛ばした。
「良かったな、大層なクッションがついてて」
「かひゅっ、あ――ぎ、ざま……ば、バカな、いっだい、何が――……っ!!」
「ひ……っ、ま、まさか、この小娘、魔族なんじゃ――」
「あー……」
……馬鹿げた事しか口にしない連中に、ガリガリと髪の毛を掻きながら、小さく息を漏らす。
椅子に括られたままでいたせいか、体の節々は痛み、拘束された部分は赤く布ずれが出来ていた、が。
そんな事なんて、何一つ――そう、何一つ気にならないくらいに、気分が良かった。
「――来い、ルシエラ」
『ああ、呼ばれずともさ――エルトリス』
今ルシエラが何処に居るのかは知らないが、俺とルシエラは常に魂で繋がっている。
何処に居ても互いの居場所は何となく分かるし……ルシエラの所有者である俺は、何時いかなる時であれ、ルシエラをこの場に呼ぶことが出来た。
俺の着ていたドレスの胸元を乱雑に破りながら現れた魔剣を軽く握れば、久しく握ることすら出来なかったそれに、目を細めて。
「……っ、え、衛兵をっ!!衛兵を呼ぶのであるぅっ!!はや、はやくうぅぅぅっ!!」
「は、はひっ、いぃぃっ!!」
『おやおや、さっきまでエルちゃんを好き放題していた連中が何か囀っておるぞ?』
「まあ、元より……何も出来ないガキを人質にとって何かしようとするクソ共だから、な」
「ひ――きゃ、あああぁぁぁぁっ!?!?」
悲鳴をあげながら入口の扉へと走る使用人を見れば、俺は軽くルシエラを振るい、伸ばし――その扉を切り裂くように破壊した。
たったそれだけのことで、使用人はその場にへたりこめば、ガクガクと体を震わせつつ、恐怖に引きつった表情で俺とルシエラに視線を向けて。
「わ……わ、わ、私はそこのドルボー大臣にやれと言われてやっただけなんですっ!!どうか、どうか命だけは助けて下さい、魔族サマ――!!」
「な――き、貴様、使用人の分際でふざけるのも――」
「わ、私も、私もですっ!!仕方なく、言われて仕方なく――……っ!!!」
「……は、ぁ」
『全く以て、何というか――実に、実にくだらんのう』
つくづく、救えない。
ついさっきまで利用するだけして捨てようと攫った相手に、今度は命乞いときたもんだ。
しかも、やれとも言ってないのに勝手に自分の命欲しさに仲間割れまで始めやがった。
何やら俺のことを魔族とまで言い出しているみたいだし、それに媚びへつらってるってのは最早何がしたいのか――……ああ、いや。
こいつらは最初から最後まで、ずっと保身の事しか考えてないのか。
エスメラルダが居ると自分の地位が危ういから、エスメラルダを排除したい。
エスメラルダが王に重用されているのが目障りだから、エスメラルダを排除したい。
「つくづく、救えねぇ」
「ひ――っ!!」
「ま……待て、待つのであるぅっ!!きさっ、きさま……い、いや、貴方様であれば、あの情婦に成り代わって英傑に――」
「……っ、一片の興味もねぇよ。この失禁豚が」
「ひぶうぅっ!?」
……ドルボーが俺に縋り付こうとするのを見れば、体の芯から湧いてきた嫌悪感に思わずその顔を思い切り蹴りつけてしまった。
さっき触られたのも気持ち悪かったし、近くに寄られるともう悍ましさしか無い――正直、産まれて初めて抱いたかもしれないな、この感覚は。
ぶるっ、と勝手に震える身体を少しだけ新鮮に感じつつも、壁際で怯え竦んでいる使用人や、顔を抑えて悶絶しているドルボーを尻目に歩き出す。
『……む、待てエルトリス。何処へ行く』
「あー?こんな奴ら興味すらねぇよ、相手にするのも面倒だ」
『んなっ!?ば、バカな、こやつらを生かしておくつもりか!?』
妙に驚いたような声を上げるルシエラに、首を捻った。
まあ、殺すのは酷く簡単だろう。それこそ、ルシエラを一薙ぎすればこいつらはただの肉塊に成り果てる。
だが、そうしたところで何が起きるかと言えば、面倒事だけだ。
こいつらを皆殺しにしたともなれば、反英傑派はそれをエスメラルダのせいにして更に増長するだけだろうし――……
……いや、何故俺はこんな時に、他人のことなんて考えているんだ?
前の俺だったら、何も考えずに殺してそれで終わりだったはずだ。ルシエラが戸惑うのだって、当たり前だろう。
「……エスメラルダには世話になってるからな。困らせるのも、悪いだろ」
『む……ぅ、それは……そう、じゃが……』
ただ、その奇妙な思考は妙に心地が良いような、そんな気がして。
俺の言葉にルシエラも何も返せなかったのか、暫くの間小さく唸っていた、が。
『――ならば、この男だけは私の好きにして良かろう?殺しさえしなければ良いのじゃからな』
小さく息を漏らせば、魔剣から人型に変わったルシエラはそう言って、顔を抑え蹲っているドルボーを指差した。
一体何をするつもりなのか――ルシエラはドルボーに酷薄な視線を向ければ、壁際に転がっていた悪趣味な鉄板を手にとって。
「……殺すなよ」
『判っておる、私とてこんなクズ肉など口にしたくもないわ』
「ひ……ひ、いぃっ、ひぃぃ……っ!わ、私、私に何をするつもりで、あるかぁ……っ!!」
ルシエラの様子に、これはもう好きにさせないと収まるまいと、俺は壊れた入り口の扉の傍によりかかりながら、事の次第を見守る事にした。
『――さて、豚。貴様、先程は面白い事を言うておったな?』
「な……な、何、何を」
『私は何の役にも立たないゴミです――じゃったか?それを、よりにもよってエルトリスに焼き付けようとしたな』
「……っ、ち、ちが、あれは、あれ、は――っ」
冗談です、とでも言うつもりだったのだろうか。
言い訳にしたって稚拙すぎるそれを、ルシエラは意にも止めること無く手にしていた鉄板を軽く撫でる。
熱された、まだ赤熱しているその部分を指先でなぞれば、火花が散り――折角戻った力を早速使いつつ、ルシエラは軽くその鉄板を加工して。
『――私は肥溜めの男色豚です。好きに扱って下さい――貴様に似合いなのはこれじゃな』
「な――あ、ああぁぁぁっ!?や、やめ、やめろっ、貴様ぁっ!?」
『聞き苦しく泣きわめくな、豚が。私の最も大切な物を二度も傷つけた罪を、これで許してやると言っておるのじゃ――あの子の寛大さに咽び泣く事だけは許してやろう』
ルシエラがそんな、良く判らない事を口にすれば――部屋に、豚のような泣き声と共に、肉の焼ける臭いが充満していった。
ドルボーが逃れようとのたうちまわろうとも、その肥え太った身体をルシエラが踏みにじれば、背中に、腹に、尻に、容赦なく烙印は押されていって――……
「――っ、エルトリスちゃんっ!!!」
「……ん、よう」
――血相を変えて、凄まじい魔力を纏いながらエスメラルダが部屋に突入してきたのは、それから僅か数分後の事だった。
良かったな、反英傑派ども。
もし俺があのまま捕まってたら多分コイツ、この地下室ごと城を崩壊させてたぞ、うん。
兎も角、そんなエスメラルダを横目に見ながら軽く手を上げれば、エスメラルダは呼吸を荒くしつつも、部屋の様子と俺の顔を見合わせて。
「は……え、あ、あれ?」
……何が起きたのか理解できないのか。
部屋の隅で体中に烙印を押され、身体を痙攣させつつ悶えているドルボーに、先程のルシエラの所業を目の当たりにして震えている使用人、それに俺の傍で得意げに笑みを見せているルシエラを見れば、ちょっと間の抜けた声を上げながら、その纏っていた魔力を霧散させた。
『遅かったのう、大女?』
「……え、えっと、これは……ルシエラさん、が?」
『まあ三分の一くらいはそうじゃな』
「あー、まあ……ん、エスメラルダ」
逐一説明しても、まあ良いんだが……それよりももっと分かりやすい証明の仕方があるのを思い出す。
俺が軽く手招きをすれば、エスメラルダは、顔を覗き込むようにして屈み込み――そして、目を見開いた。
「え……え、えっ?あ、あれ、何で――!?」
「……まあ、そういう訳だ。お前が前に探してたのは、俺だよ」
「う、嘘、だって、え……えっ、えっ?私、ずっとあっちこっち飛び回って探して、それがエルトリスちゃんで――??」
『おーおー、混乱しよる』
エスメラルダの目に俺がどう映ったのかは判らないが、まあ多分前みたいにオール3だとか、子供の半分程度って感じには映らなかったんだろう。
……というかコイツの発言を聞く限り、部屋に戻ってきた時に妙に疲れてたりしたのは、居もしない奴を探し回ってたからだったのか。
ほんのちょっと、ほんの少しだけ悪い事しちゃったな、と罪悪感を覚えつつ、頬を掻いてしまう。
「――っ、え、エスメラルダ、様っ!!そいつ、その子供は魔族ですっ!騙されないでください――ッ!!」
――そんな最中。
不意に、壁際で震えていた使用人が、声をあげた。
おいおい、今度はさっきまで排除しようとしてた相手に縋り付こうってのか。
「そ、そうです!その子供は、その女はバケモノですっ!!ですから、早く殺して――」
「――やかましい」
流石に、これ以上聞いているのは余りにも耳障りで仕方ない。
俺はルシエラを魔剣に変えると同時に、その使用人――が凭れ掛かっていた壁を、思い切り削り取った。
頭上すれすれを狙ったつもりだったが、ルシエラが悪さをしたんだろう。
使用人の長く、それなりに綺麗だった黒髪は、頭頂部の部分だけ綺麗に喰い取られており……女性としてはあまりにも無惨な髪型に、なってしまっていて。
「ひ……ひ、いぃ……っ」
「や……やめて、エルトリスちゃんっ!!」
「心配すんな、殺すつもりはねぇよ」
今度こそ、失禁しながら失神した使用人をみれば、エスメラルダは慌てたように声を出すが、元より殺すつもりもない。
こんなクズ肉食わせてルシエラが腹を下してもコトだし、これ以上城の中で面倒を起こすつもりも無かった。
そうして、大人しくなった……というよりは、心神喪失になった三人を衛兵に引き渡せば、地下室に残ったのは俺とルシエラ、それにエスメラルダだけ。
どうやら地下牢の更に奥にあったらしいこの場所は、昔この魔導国で拷問が行われていた時の名残らしく。
ここでなら何をしても――そう、何を話してもバレる事はないんだな、と。なんとなく思ってしまって。
「――なあ、エスメラルダ」
「え……な、何?」
だから、丁度いい機会だ、と。
俺はエスメラルダに思っていたことを口にする事にした。
ドルボー達が、エスメラルダを陥れる為に俺を攫って利用しようとしていた事。
ドルボーからエスメラルダの過去をかいつまんで聞いた事。
そして、どうやってエスメラルダを貶めようとしていたのか、等。
それを聞いたエスメラルダは顔を青くしながら震えていて――その姿からは、とても英傑らしさなどは見えなかった。
……こうしていると普通に街中に居るような一般人にしか見えない。
いやまあ、実際凄い力はあるし普通の村娘っていうには容姿も色々飛び抜けすぎてはいるんだが。
「……エルトリス、ちゃん」
「ん、どうし――ん、むっ」
『な――き、き、貴様っ!!私の前で何を――!!』
相変わらず妙にチグハグな印象を受けながら、首をひねっていると――不意に、エスメラルダが俺に身体を寄せつつ、ぎゅうっと、その大きな体で抱きついてきた。
むぎゅ、むにゅん、と全身をエスメラルダに包まれるような感覚に、目を白黒させつつ……エスメラルダから香る、甘い香りに頭が、またふわふわとしてきて、しまって。
……でも、今の俺には力が戻ってるんだから引き剥がせばいい、とその肩に手を当てて、押しのけようとした刹那。
その肩が、大きな体が、ふるふると震えている事に気がついた。
「……エスメラルダ?」
「……っ、く……えぐ……っ、良かった、よぅ……」
『え……な、まさか、泣いておる、のか?』
顔に押し付けられた、俺からしてみたら巨大とさえ言える胸を押しのけつつ顔を上げれば――エスメラルダは、ボロボロと、まるで子供のように涙を零して、いて。
そのエスメラルダが持っている力とは余りにもかけ離れた姿に、俺もルシエラも戸惑うことしか出来ず。
『な、泣くでない!何なんじゃ貴様は、ああもう――!』
「ごめ……なさ、い……っ、少し、だけ……だから……っ」
「……少しだけだぞ」
ぎゅう、っと。
まるで不安になった子供がぬいぐるみを抱きしめるかのように、俺をぎゅっと抱きしめるエスメラルダに、小さくそう呟けば。
エスメラルダは誰も来ないであろう地下室で、静かに、静かに泣き続けた。