8.外道かく語り、少女は――
「そこで大人しくしてなさい。大人しくしてればまあ、殺しはしないわ」
「……」
――椅子に手足を括られて、胴まで背もたれに結われてしまえば、身動き一つ取れなくなる。
そんな俺を見下しながら、使用人たちは吐き捨てるようにそう口にすると何かを待つように、部屋の片隅にあった椅子に腰掛けた。
乱れきっていた呼吸はようやく収まって、そのお陰か少しずつだが気持ちも落ち着いてきた。
まだ頬は痺れたままだったが、先程のようにこみ上げてくるようなものは無く。
……くそ、情けない。
頬を叩かれただけだっていうのに、それで衝撃を受けてたせいか、俺はこの部屋が城の何処かも判っていなかった。
取り敢えず判っているのはここがまだ城の中だという事と、階段を降りて地下に行った、という事くらいで。
どうしたものか、と思考を巡らせている内に、部屋の外からコツン、コツン、と足音が響いてくる。
少しして、無遠慮に扉が開かれれば――そこには、見覚えのある恰幅のいい姿があった。
「――ご苦労、ちゃんと捕えたようですなぁ?」
「はい、ドルボー様。これであの情婦は何も出来ないでしょう」
「そうですなぁ、この子豚はあの女のお気に入りのようでしたからな。そら、覚えていますかな、子豚」
大臣――ドルボーと呼ばれた男は、そう言いながらニンマリと笑い、俺の顔を覗き込む。
ああ、忘れはしないとも。
俺のことを初日に蹴り飛ばして、屈辱を与えてくれた――醜く肥え太ったこの男が、どうやら使用人たちを動かしている張本人らしい。
成程、そりゃあエスメラルダに対して間抜けな――もとい、無礼な態度を取るわけだ。
要するに、こいつこそエスメラルダが来たせいで仕事を取られた人間、そのものなんだろう。
「……ああ、覚えてるぜ大臣様《お漏らし豚》」
「ふん、相変わらず口の減らない子豚ですなぁ……っ!!」
「ん、ぶ――っ」
俺の言葉に眉をピクピクとさせて、肉が襟のようになっている顔を赤くさせながら、ドルボーは俺の顔を鷲掴みにして、くる。
ぎり、ぎり、と怒りに任せて顔を握り付けるその肉にまみれた太い指は、決して力強い訳ではない――筈、なのに……
「ん、ぅ……ぶ、ふうぅぅ……っ!」
「はっはっは!豚のように鼻を鳴らして、実に無様、滑稽この上ない!!何の力もない子豚が、貴様なんぞあの情婦さえ居なければただのクチの悪い――いや、鳴き声の汚い豚なのですよぉ……ッ!!!」
「ぶ、ふ……っ、んぶっ、ううぅぅ……っ!!」
……口を覆うように抑えられて、頬を左右から握り込むようにされてしまえば、呼吸がそれだけでマトモに出来なくなって、しまって。
酸欠で少しずつ朦朧としてくるのに抗おうと必死に鼻で呼吸をすれば、それをドルボーは心底可笑しそうに笑いながら――おれの、意識が飛ぶ寸前で、乱暴に手を、離した。
「ふんっ。鼻水を垂らした子豚が……分を弁える事ですなぁ。貴様なんぞ、あの情婦をおびき寄せるエサに過ぎないのですから」
「……っ、はぁ、は、ぁ……っ、は、ぁ……っ」
見下すようなドルボーの声に、何も返せないまま、必死に息を吸って、吐いて。
それでも――こんなクズみたいな奴に見下されるのは、どうにも我慢できなくて、おれは視線だけで抵抗の意思を示す。
たったそれだけで、ドルボーは少し驚いたように肩をビクッとさせつつも、視線をおれからそらした。
「……ふ、ふん。まあ知性が全て胸にいってるような子豚ですからなぁ。小難しい事は判りませんかな」
「ドルボー様、もしかしたらですが――あの情婦が来たら何とかなると、思っているんじゃないでしょうか?」
そんな最中。
おれを攫った使用人が、ドルボーにそんな的はずれなことを口添えすれば、ドルボーは成程、と言った様子でその分厚い唇を歪めて。
椅子を俺の前に引っ張ってくれば、ドスン、と音を立てて腰掛けながら――腰掛けたままでも俺を見下しつつ、わざとらしく大きく息を吐き出した。
「――成程、そうでしたなぁ。君はあの情婦がどんな人間か、知るはずもなかった。知らずに保護されていたのなら、君もまた被害者ですからなぁ――あのおぞましい情婦がどんな女なのか、聞かせてやるとしましょうかなぁ」
「……魔族がどうとか、そういう話なら街中で聞いてるから、無駄だぞ」
「ふむ、まあそれもあの情婦の醜さの一旦ではありますがなぁ――どうせ、これは知らないのでしょう?」
おれの言葉に、ドルボーはそう言いながら肉で細まった目をますます細めつつ、ぐふっ、とその性根が現れたかのように醜く笑い。
「――あの女は、ベッドに男を招き入れて殺したのですよぉ」
――噂の最後。
もしかしたらありえるかも知れない、と……おれも思ったそれを、ドルボーは自慢げに、楽しそうに、口にし始めた。
――エスメラルダは、元々はこの国の人間ではなかった。
何処からともなく現れ、王を襲った魔族を討ち倒し助けたエスメラルダは王に重用され、なにか目的が決まるまでの間、クロスロウドで暮らす事になっただけのただの旅人だったのだ。
ただ滞在するのも悪いからという人のいい理由で、エスメラルダはクロスロウド魔導国で様々な問題を解決してきた。
近隣で人を襲っていた獣や魔獣、拠点を作った賞金首――そして時折現れた魔族。
そのことごとくを単独で討ち果たし、賞金首ももれなく城に突き出しつつも、金銭の一つも受け取らないその姿は、すぐさま城下で語られるようになった。
クロスロウド魔導国の守護者、エスメラルダ。
彼女が居る限り、この国は安泰で――いずれは魔王をも倒してくれるかも知れない、と。
彼女もいつの間にか、クロスロウド魔導国に居ることが当然と思うようになっていた。
城の人間とは顔なじみになり、王との信頼関係も築き、城下の人々からは愛されて――彼女はいつからか、この魔導国を守りたいと思うようになっていたのだ。
そんなある日の事、エスメラルダは王から英傑の名を授かり、名実ともに世界を代表する守護者――英傑達と、肩を並べることとなった。
ランパードやテラスケイルの英傑と比べればまだ戦いの経験などは薄かったものの、彼女を英傑とする事に反対する者は誰も居らず、彼女もまたそれを素直に喜んでいて。
そして、事が起きたのは彼女を祝福するパーティーが開かれた、その夜の事だった。
英傑となった彼女を自らの陣営に取り入れようと先走った貴族が、彼女に一服盛って自らの部屋へと連れ込んだのである。
運が悪かったのは、エスメラルダに対する貴族たちの持っていた印象が気の弱い、優しい――扱いやすい女、というものだった事だろう。
手篭めにさえしてしまえば英傑を自らの手元に置いて圧倒的な権力を振るえるという、実に短慮で浅はかな考えを抱いた貴族は、薬で眠っているエスメラルダをベッドへと連れ込んで。
……そして、事が起こる寸前で目を覚ましたエスメラルダはパニックを起こし、その魔力を暴走させた。
貴族たちは知らなかったのだ。
確かにエスメラルダは扱いやすく、気も弱く、心優しい女性であり、その実力も折り紙つきだったが――そうされる恐怖への耐性など、何一つ無かったと言うことを。
守ろうとしていた人間からの暴挙に魔力の暴走を抑え込むことすら出来ず、それを至近で受けた貴族は文字通り粉微塵に弾け飛び……エスメラルダの魔力の暴走は、その貴族の家さえも半壊させた。
――エスメラルダの呼び名が増えたのは、その日からだ。
人間兵器。
扱いを間違えればこちらさえ危うくなる、非人間。
英傑と呼ぶ人間からの視線は変わることはなかったものの、特に――エスメラルダを手元に置こうとした人間は、口々に彼女を人間兵器と呼び、影で罵るようになった。
エスメラルダが殺してしまった貴族が、有力な貴族だったことも一因なのだろう。
それから、エスメラルダはそれまでのように優しく振る舞いつつも、気の弱さはより一層強くなって――……
「――つまりぃ。あの情婦は、誘われておきながらベッドの上で見るも惨たらしくその貴族を殺したのですよぉ!実に、実に恐ろしいっ!」
――一通り、仰々しく語ったドルボーの言葉を意訳しつつ。
ああ、成程な、と……おれは今のエスメラルダに至った事に、納得してしまった。
何かを失うことに、酷く臆病になっているのも。
いつでも殺せるはずの相手に、手を出すことが出来なかったのも。
……まあ、過保護なのとかは生来かもしれないが、大体はそれが原因だ。
初めて相手を殺したのが自分の意志じゃあなく、混乱した最中の出来事だった。
覚悟もしない内に相手を殺してしまった、その感覚が――いうなれば罪悪感が、ずっとあいつの心を苛んでいるのだ。
……実に、バカバカしい。
経緯を考えるなら、そのバカは殺されて然るべき間抜けだというのに、エスメラルダはそんな人間にすら罪悪感を抱いてしまっている。
「どうですかなぁ?そんな女だと、知った感想は?」
「……ああ、バカ、だな」
「はははっ、そうでしょうそうでしょう!良いですなぁ、では我々に協力してくれませんかなぁ?自分が守っていた子供から裏切られたと知れば、あの情婦はさぞ――……」
「――ちげぇよ。そんな事を嬉々として語ってる、テメェらがバカだっつったんだ」
おれが、それを口にした瞬間。
いやらしく笑っていた使用人たちも、下婢た考えを口にしていたドルボーも、おれを睨みつけてきた。
まあ、どうせ何もしないでも、何をしても変わらないのなら、言わない方が馬鹿らしい。
「テメェらは結局、あの女が怖いだけだろう?毒婦だの、情婦だのくだらねぇ――後ろ暗い事をしてたから、次は自分がああなるかもしれないから、そうなる前に排除したいってだけだろう、間抜け共が」
「な……なっ」
「ふざけた事を言うわね、この豚!」
「は、ははっ。所詮子豚には難しすぎる話でしたかなぁ……っ!」
「――ん、ぐ……っ!!」
再び、ドルボーの太い指がおれの顔を鷲掴みにして――そのまま、がたんっ!と椅子ごと、おれを押し倒した。
押し倒された衝撃で軽く意識を明滅させている内に、布地が破られるような音が、部屋に響いていく。
――お、い。何を、するつもりだ?
「丁度いい。あの女に使うつもりだったアレを持ってきなさいぃっ!!」
「え――で、ですが」
「構いません、どうせこの子豚も売り払うつもりだったんですからなぁ……っ」
「ん、ぐ……ん……っ!?」
椅子に括られたまま、頭まで押さえつけられてしまえば身動き一つ取れず。
ドルボーの声に初めて動揺らしき声色を見せた使用人たちも、何やら扉らしきものを開けて――途端に何か、そう、金属が熱されたような臭いが、部屋に充満して、きた。
「ひひっ、ぐひっ。子豚にぴったりな物をプレゼントしてやりますからなぁ……っ」
「――……っ!?」
――そうして、使用人が持ってきたそれを見れば、おれは目を見開いて、しまった。
それは、熱く熱された鉄板が先端についた、金属の棒、で――そう、まるで、何かを焼印するかの、ような――……
「知っていますかなぁ?奴隷にも実は等級がありましてなぁ、余りにも低い等級の場合は分かりやすいように焼印をするんですよぉ……私は何の役にも立たないゴミです、とねぇ!!」
「……っ!んっ、んうぅぅっ、ふ、ぶぅぅ……っ!!!」
「ぐひっ、ひひひ……っ!!あの女の予行演習ですなぁ、そのでかい乳にしっかりと焼印を押してやるとしましょうかなぁ――!!!」
どくん、どくん、どくん、どくん。
心臓が、早鐘のように打って――こわい、いやだ、こわい、こわい、こわい――っ!!
身体を焼かれたことは、あるけれど――それとは、ちがう!
これは、これはおれの、おれの尊厳そのものを、砕く、もので――こんな、こんなこと、されたら……!?
こわい、こわい――たすけて、だれかたすけて――……!!
「……っ、ん、ぅ……あぐ、うぅぅ……っ!!!」
「ふん、そんな甘噛み痛くも痒くも有りませんなぁ……くく、そら、そらぁ……っ」
――ち、がう。
ちがう、だろ……どんなに、どんなによわくなったって……それは、ちがう……っ!
たすけをもとめるなんて、ちがう……それは、わたしじゃ――おれじゃない……っ!!
どんどん、熱いのが近づいてきて、こわい。
身体が勝手にガクガク震えて、こわいのがおさまらない。
たすけて、って――今すぐにでも、目の前の豚に媚びれば、もしかしたらたすけてくれるのかも、しれない。
心のそこから、おんなのこに……ただの子供になってしまえば、あわれんでくれるかも、しれない。
でも……それでも、助けは求めない。
おれが、俺がエルトリスだという最後の一線だけは、絶対に譲らない――ッ!!!
『――それでこそじゃ。よく耐えたの、エルトリス』
――そうして、鉄板が押し付けられる刹那。
聞き慣れた優しい声と共に、無力だったはずの身体に破裂しそうなくらいの力が漲った。