7.少女、不穏な影に
「――それじゃあエルトリスちゃん、ちょっとお利口さんにしててね?」
「だ……から、子供扱いするなってば、もう」
明くる日の朝。
クロスロウド魔導国の王に呼び出されたらしいエスメラルダに連れられて、俺は王が居るのだろう大きな扉の前に来ていた。
流石に俺を――小さな子供を連れたまま謁見するのは失礼だ、なんて事はエスメラルダも理解しているのだろう。
幼い子供に言い含めるようにすれば、エスメラルダは王との謁見に向かい……一人残された俺は、大人しくその大きな扉の前でぺたん、と座り込んだ。
ここに来てから、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
余り時間を意識するような事はなかったから、余り正確には覚えていないが随分長いこと滞在しているような、そんな気分になってしまう。
飽くまでもエスメラルダに連れられて歩いた範囲では有るけれど、城の間取りも大体覚えてしまったし――城に居る衛兵や使用人といった面々の顔も、なんとなくだが覚えてしまった。
衛兵や使用人達は、俺がエスメラルダに保護されているのを知ってか知らずか、反応が大体二分されていた。
片方は、三英傑のエスメラルダを尊敬していて――まあその関係で、それに保護されている俺にも妙なくらいに優しい連中。
そして、もう片方は――……
「――……から、……ねぇ」
「……ええ、――……だわ」
「……またか」
周囲など気にしていないのか、或いはわざと聞こえるように話しているのか。
俺の方に視線を向けながら、ひそひそ、ひそひそと話す使用人たちを見れば、俺は軽く溜息を漏らしてしまう。
……そう。もう片方は、言うまでもなくエスメラルダに反感を抱いている反英傑派であり、その連中は俺のことを奇異の視線でしか見ていなかった。
まあ別に、だからといって直接的な手で嫌がらせをしてくるという訳でもなく、多分エスメラルダが怖いのだろう、遠くからヒソヒソと陰口を叩く程度でしか無かったのだが。
元の体だったなら――いや、或いはルシエラの力が戻っていたのなら、そいつらを八つ裂きにしていた筈のその連中にも、今の俺は敵わないのだと思うと少し、ほんの少しだけ暗澹とした気持ちになる。
……いや、暗澹とした、というのも少し違うのかも知れない。
何だろう、こう……弱い、と言うんだろうか。体の奥底から弱い感情が這い出して、俺の心の内を染めようとしてくるような、そんな感覚を覚えてしまう。
「……くそっ」
思えば、ルシエラが力を使い切ってからはずっとそうだった気がする。
以前よりも感情の抑えが効かない。
以前よりも、妙に弱い考えばかりが頭をよぎる。
以前よりも――そう、以前のようにこの体の行動を、この体のしようとするあれこれを、抑えきれなくなってきてる。
まるで主導権が少しずつ、少しずつ俺からこの身体にズレてきているかのような。
そんな薄ら寒い感覚に、俺は軽く肩を抱くようにして小さく息を漏らす。
「大丈夫……大丈夫、だ」
自分に言い聞かせるようにそう呟きつつ、腕を軽く振るだけでも触れてしまう胸ごと肩を抱き、伝わってくる鼓動が少しずつ緩やかに、落ち着いてくるのを感じれば――……
「――……れで、……じょうぶ――の」
「だい――……ぶ、あの……に――……を見せ……」
……不意に。
何か、今まで聞いていた陰口とは違う、妙に不穏な響きが混じった会話が耳に入った、気がした。
視線を声の方に向ければ、窓際で話している使用人が二人。
会話に夢中なのか、既に俺の方には視線を向けておらず……俺はそっと立ち上がれば、聞き耳を立てながら物陰に隠れつつ、使用人たちに近づいた。
何のことはない、エスメラルダが謁見を終えるまでの暇つぶしである。
「――じゃあ、あの忌々しい情婦もいよいよ終わりって事ね?」
「ええ、今日も王に身体を売りに行ったんでしょう?全く、はしたないったら無いわ」
「まあそれももうお終いなのだし、今日くらいは好きにさせてやりなさいよ。ふふっ、英傑だなんて言われていい気になってるあの女の顔が絶望に歪むのが楽しみだわ」
「……ん」
エスメラルダを陥れる――いや、これは寧ろもっと直接的に害するつもりなのだろうか。
手段は聞き取れなかったが、使用人たちそんな算段を間抜けにも廊下で、少し離れた所からでも聞こえるくらいの声で話していた。
……正直、馬鹿じゃないかとしか思えない。
エスメラルダの性格とかはさておいて、その実力は紛れもなく一級品だ。
そんなエスメラルダを、ただの使用人でしかないこいつらが害するとか、絶望させるとか、頭に何か湧いてるんじゃないかとしか思えない。
まあエスメラルダなら心配することも無いだろう。
勝手にこいつらがちょっかい掛けて……まあ、エスメラルダの事だから殺したりはしないんだろうが、痛い目を見るだけだ。
「で、あの情婦を呼び出す算段は――」
「ええ、問題ないわ。あそこにいる――を――……」
そう考えて、踵を返し。
使用人たちが何かを口にしたのを聞いた瞬間、ぞわっと、背筋に得体のしれない寒気を覚えた。
……ああ、成程。
そりゃあ成程確かに、あのお優しいエスメラルダには滅茶苦茶有効かもしれない。
「――……っ」
気付かれないように、使用人たちから離れる。
どくん、どくん、と心臓が勝手に高鳴っていくのを感じてしまえば、俺はそれを抑え込むようにしながら元いた扉の前まで歩いて――背後から聞こえて来る足音に、それを通り越して走り出した。
ああ、くそっ、くそ――そうだな、そりゃあいくら馬鹿だからってエスメラルダに真っ向から何かをするわけがない!
やるんだったら、何かを弱みなり人質なりを使うってのが常套手段だろうが……馬鹿か、俺はっ!!
走り出したは良いが、恐らくは反英傑派が手を回しているのだろう、近くに衛兵らしい人影はなく――それならエスメラルダの部屋までいけば、と俺はどんどん荒れる呼吸を忌々しく思いながら、廊下を走る。
遅い。おれが走ってるとは思えないくらいに、遅い。
一生懸命手足を動かして、スカートを翻してるのに、どた、どた、どた、と運動神経のかけらもないような音を、鳴らしてしまい。
そうしている間に、背後からくる足音は悠々と、おれに近づいて――……
「――はい、捕まえた。くすっ、何処に行くのかしら?」
「……っ、は、ぁ……っ、けほっ、けほ……っ!」
「みっともなくおっぱいをぶるんぶるん揺らしながら走って、全く――あの毒婦には似合いの子供ね」
……そして、走り始めて数秒程度。
そんな逃避行にもなっていない逃避行はあっさりと終われば、おれは――先程陰口を口にしていた使用人たちに、あっさりと背後から捕まってしまった。
「っ、ぁ……っ!」
「本当、生意気。子供のくせに無駄に発育しちゃって……将来はあの毒婦と同じ淫売コースだわ」
「や、め……ん、く……っ」
「こら、廊下で変な声を出さないの……全く。ほら、行くわよ」
ぐに、むに、と無遠慮に触れられれば、勝手に口から声が溢れ出す。
好き放題言われて、扱われて――だと言うのに、おれは荒れた呼吸を抑える事もできないまま、荷物のように小脇に抱えられれば。
「は、なせ……っ、くそ……っ」
「もしかして暴れてるつもり?ぷっ、赤ちゃんだってもっとマトモに抵抗するわよ……そらっ!」
「――きゃ、ぁっ!?」
疲労でろくに動かない手足で抵抗を試みるも、ぱしぃんっ、と頬を叩かれれば、それだけで――その衝撃で、身体を動かせなくなって、しまった。
まるで、子供が叩かれて呆然とするようなその仕草に、使用人たちは鼻で笑いながら、廊下を歩いていく。
……おれは、じぃんと痺れたままの頬に、溢れ出しそうになるものを抑えるので精一杯に、なってしまって。
それ以上、なにも……なにも、抵抗することが、できなかった。




