3.魔王、少女になる
一体、何が起きた?
深い――少なくとも今の俺には余りにも深い森を彷徨いながら、何度自問自答したかも判らない問いを繰り返す。
まるで綿でも詰められた人形のように軽い手足は、木々の間を抜けて少し歩くだけでも直ぐに力が入らなくなる。
常に満ちていた筈の魔力は、今の俺の体からは少しも、文字通り微塵も感じられない。
「……っ、ひゅーっ、ひゅー……っ」
無理をおして歩けば、たったそれだけで息が切れる。
呼吸を整えながら歩くことさえもままならず、俺はもう何度目かも判らないが、また地べたにうつ伏せに倒れ込んだ。
全身は既に泥まみれ。倒れ込めば、否応なしに以前の俺には無かったはずの膨らみが柔らかく歪み、呼吸を邪魔してくる。
「く……そ、ぉ」
力の入らない手足を無理くり動かして、何とか寝返りを打つ。
ずしり、と肋骨に重みを感じはするものの、さっきまで程の圧迫感は感じなくなり、俺はようやく深く息を吸い込んだ。
あまりにも、脆弱。
あまりにも、無力。
結局の所分かったのは、ただそれだけだった。
以前の俺と比べたなら、きっと10,000分の1にすら満たない程の脆弱さ。
下手をすれば、子供にすら負けるであろう程の虚弱さ。
そして、恐らくは一生涯魔法を使う事など出来ないであろう程の、魔力のなさ。
完全なる無力。それが、今の俺に相応しい言葉だった。
「……あの……おん、な……っ」
原因は、分かり切っている。
あの心躍る戦いの後、満ち足りた気分の中で死ねる筈だった俺に、嗤いながら手を差し伸べたクソ女。
あいつこそが、全ての元凶に違いない。
「……ぜ……ったい、こ……ろ、して……やる……」
口から出そうになる甘ったるい言葉を抑え込みながら、俺は精一杯の呪詛をつぶやいた。
……それ以外に、今の俺に出来る事はなかった。
兎に角、この森を抜けなければ。
そして、何とか命を繋いで力を蓄えなければ、その望みが決してかなわない事くらいは、俺でも理解できた。
どれほど休んだだろう。呼吸が整ったのを感じれば、俺は体を起こし――だぷん、と重たげに揺れる無駄なソレに辟易しながら、何とか立ち上がった。
手足は相変わらずフワフワとして頼りない。
自分の体重を支えるので精一杯であろう足を動かしながら、俺は再び森の中を歩き出して――……
「グルルゥ……」
……ぞくり、と背筋が冷えた。
森の中から聞こえてくる唸り声は、とても近く。
「……う、そぉっ」
がさり、という音と共に現れたそれを見れば、俺は思わず甘い言葉を漏らしてしまった。
草むらをかき分けるようにして現れたソレは、何処にでも居るような野生動物。
灰色狼、だったか。弱い連中が狩りで偶に怪我をする程度の、本当にその程度の相手。
――たったそれだけの相手なのに。
今の俺から見れば、それは余りにも強大で、巨大で、遥かに格上の存在に見えてしまっていた。
「あ……う、ぁ……っ、きゃ、ああぁぁぁっ!!」
「グル……グアアアァァァッ!!!」
叫んで、恥も外聞もなく走り出してしまう。
怖い?これが、怖いなのか?
今まで感じたことも無い感情に俺は叫びながら、一生懸命に手足を動かして灰色狼から逃げ出していた。
ありえない。有り得ない、有り得ない、有り得ない――俺が、俺がこんな雑魚から逃げるなんて有り得ない!!
「ひいっ、ひ……ぃ……っ!」
「ガゥッ、ガアァァァッ!!!」
「ひ、ああぁぁぁぁっ!!!」
だが、俺の意思とは裏腹に体が勝手に動いてしまう。
怖い、恐ろしい、嫌だ――そんな弱い感情が、勝手に体から溢れ出してしまう。
みっともなくバタバタと手足を動かし、駄肉を揺らしながら走って、走って――
「――グアアァァァゥッ!!!!」
「きゃ、あああぁぁぁぁっ!?」
――俺は、あっと言う間に灰色狼に組み伏せられてしまった。
死ぬ。死ぬ。殺される。
口からは勝手に、恐ろしさのあまりに発狂してしまったかのような泣き声が溢れ出してしまう。
体を押さえつける灰色狼の足は余りにも力強く、今の俺の体では到底押し返す事など出来ない。
何より、急に走ったせいで呼吸が乱れて、手足にもまるで力が入らなくなってしまっている。
死ぬ。
俺は、こんな事で死ぬのか?
死ぬ事が怖い訳じゃない。寧ろ、あの戦いの瞬間は死ぬ事が安らぎでさえあった。
俺を超える相手と戦いの末に死ぬ。
そんな、俺が夢見たような死に方だったから……俺は寧ろあの少年に感謝さえしていたのだ。
――それを、それを奪われた挙げ句、こんな誰も知らないような場所で、ただの弱い獣に食われて、泣き叫びながら死ぬ?
「……っ、ざ……え、ぐっ、ふざ、け……る、な……っ」
嗚咽混じりで、しかし先程までのように体に支配されるでもなく、俺は声を絞り出す。
「ふざ、けるな、ぁ……っ!!!」
湧き上がるのは、体を支配する恐怖以上の怒り。
この脆弱な体を焼き尽くす程の憤怒。
許せない。許さない。絶対に、許せる筈がない。
こんな事で死ねるものか、俺は――俺は、絶対にこんな結末は認めない――!!!
『――ふん、ようやく火が入ったか。このまま幼子のように死なれたら笑い種として永劫語り継いでやろうと思っていたが』
全身を焦がす怒りの中、不意に聞こえた聞き慣れた女の声に、自然と口元が歪む。
ああ、そうだ。
あの女は俺をこの脆弱な体に閉じ込めた。
この体には膂力もなければ魔力もない、本当に力らしきものは何一つ有りはしない。
『ああ、だが幼子のように泣き叫ぶお前は中々に唆ったぞ?』
「……うる、せぇ」
そう、この体には、いかなる力も宿っては居ないのだろう。
――あの女に誤算があったとするならば、俺の魂にまで気を配らなかった事だ。
『そら、さっさと私を呼べ。いい加減退屈していた所だ』
「あ、あ……こい」
以前の俺に耐えられる力をもった、唯一無二の武具。
それと俺が魂の契約を交わしていた事など、あのクソ女はまるで知らなかったのだろう。
そう、どちらかが死ねば、諸共に死ぬ。死ぬまでの間、絶対に切れることのない頭のおかしい契約を結んだ、イカれた魔剣が居る事をあの女は知らなかった――
「――とっとときやがれ、ルシエラァ――ッ!!!」
「グ、ギャォオオォォォォ――ッ!?」
――俺の声とともに、胸元から大きな歯車のようなものが飛び出して、灰色狼の胴体をまるで食い破るかのように切り刻んでいく。
歯車は一つだけではなく、一つ、二つと連なっており。回転する方向もバラバラなソレは、俺の目の前で灰色狼をけたたましい音と共に刻み、千切り、血肉へと変えてばら撒いて。
苦痛と形容する事さえ生温い、ほんの僅かな時間だが永劫とも思えるような痛みを感じている灰色狼は、狼らしからぬ断末魔をあげていく。
「ギャ、ギ――グギイィィィィィ――……」
……そうして俺に襲いかかっていた灰色狼は、ものの数秒でただの肉の塊となって周囲に飛び散った。
骨も細かく砕かれ、最早元が何だったのか想像することさえ出来ない程に、バラバラに。
『ふん、不味い。全く、こんな不味いモノを口にしたのは久方ぶりだのう。もっと上等なモノに襲われれば良いものを』
「は……ぁ……っ、はは、は……」
灰色狼を顕現するだけで屠ったルシエラは不快そうに吐き捨てれば、ゴトン、と音を鳴らしながら地面に突き刺さった。
大小幾つもの歯車――とはいっても、その歯は全て牙の如き刃だが――が連なり、剣のような形を成した魔剣、ルシエラ。
俺は、たった一つだけれど以前と変わらない……変わらなかったモノを見れば、思わず笑ってしまった。
――ああ、俺は、俺だ。
俺は無力で哀れなガキじゃない、俺はエルトリスなのだ、と。
『……しかし、見れば見るほどちんまくなってしまったのう、エルトリス』
「う……る、せぇ……俺だって、すきで、なったわけじゃ……」
『うむ、まあそれは見えておったからな。そら、いつまで寝転んでおる。さっさと立たぬか』
「……」
『ん?どうしたのだ?』
呆れたようなルシエラの声に、俺は目を背ける。
……言えない。言えるわけがない。こんな事を口にしたら、ルシエラになんて反応されるか分かったものじゃない。
だが、そんな俺の抵抗もほとんど意味はなく。
『……エルトリス、まさかとは思うが』
「う、るせぇ……言うな」
『ぷ……っ、は、はははははは!!まさか、まさかお前、腰が抜けたのか!?あのエルトリスが!?たかが灰色狼に!?あっははははははははは!!!!』
「い、いうなっていったでしょ、ばかあぁぁぁぁ――ッ!!!」
『な、なんじゃその喋り方は!?ひーっ、ひーっ、私を笑わせ殺す気かお前は!!!』
――恥ずかしさのあまりに口を開けば、溢れたのは外見相応の甘い言葉。
ああ、くそ。ちくしょう。
当面はこれを……口癖みたいなのを直さないと……このままだと、ずっとルシエラに笑われ続ける事になっちまう……!
今度は怒りではなく羞恥で頭を焦がしつつ、俺はルシエラに笑われながら、体に自由が戻るのを待つ事しか出来なかった。