26.神罰
――それは、一方的な拷問に近い暴力だった。
女神が如何に逃れようとしても、エルトリスはそれに先んじて女神を切り刻み、喰らう。
再生するまで待てば、女神はどうにかしてこの状況から逃れようと試みるもその全てはエルトリスによって封殺された。
命乞いをする。その首を撥ね飛ばされた。
形振り構わず逃げる。四肢を喰らわれ、胴体を踏みにじられた。
人質を取ろうとする。その五体を切り裂かれた挙げ句、頭部を踏み潰された。
『ひ、ぃ……っ!!』
悲鳴を上げながら、女神はその表情を絶望に染める。
死ぬことはない。
それは、女神も理解していた。
このまま何千時間、何百年と繰り返された所で自身に死はやはり訪れない。
神に、死という概念が存在しない以上それは有り得ないのだ。
なら、何を恐れているのか。
それは唯一つ、自己の矮小化に他ならない。
――ここまで力をつけるのに、どれだけの時間を要したと思っているの?
幾度となく世界を作り、喰らい、作り、喰らい――そう、本来の神の在り方に背いてまで、私は更に上の神になるために永く、永く力を付けてきたというのに。
それが、その全てが、今、失われていく――!!
『やめ――』
「うるさい」
『お、おねが』
「黙って」
『ゆるし』
「嫌」
女神の言葉のすべてを、エルトリスは聞き終えるよりも早く斬り捨てた。
エルトリスの表情に、喜びはない。
有るのはただ、大切な者を失ってしまった悲しみと、やり場のない怒りだけ。
その感情を只管に、只管に女神にぶつけていくエルトリスの姿に、周囲の人間は、魔族はかける言葉も無かった。
怖い。それもあるだろう。
恐ろしい。それも勿論あるだろう。
勝利への歓喜。或いはそれも有るのかも知れない。
――だが。
「……エルちゃん」
「止めたほうが良い。止めるのは、無粋だよ」
「うん、わかってる、わかってるけど……」
――居た堪れない。
まるで、今のエルトリスは宝物を失って泣いている子供のようだった。
アリスもエスメラルダも、少年も、それを理解しているからこそ、どうにかしたいと思いつつ、しかし何もすることが出来ずにいた。
それを慰める方法は、ただ一つ。
そしてその方法は、決して敵わない絵空事だからだ。
「……大分小さくなったね」
『あ……あ、ぁ……っ』
……女神は、幾度となく喰らわれ続け、その姿を大きく変えていた。
長くすらりとした手足は短く。
豊満とさえ言えた身体は平坦に。
妖艶な美貌を携えていた容姿は、可愛らしい幼さへ。
エルトリスの腰辺りまでしかない背丈で、女神は怯えすくみながら、その場にへたり込む。
最早、女神に全盛の力はない。
無論それでも、エルトリスが温情をかけたのならばこの世界から逃げ出す事は出来ただろう。
涙ぐみ、震え、救いを乞うその姿はあまりにも哀れで。
その場に居た者達も、もう良いだろうと思い始めていた。
「まだ」
――だが、エルトリスは再びミカエラを振るう。
その哀れみを乞う姿は両断され、喰らわれ、再び悲鳴が響き渡った。
「――まだやるのですか、エルトリス」
「勿論。死ぬまで続けるよ」
「貴女ももう気付いているのでしょう?この女は――」
「だとしても」
ミカエラの言葉に、エルトリスは唇を噛みながら女神の悲鳴を断ち切る。
その表情には、言いようのない感情が満ち溢れていた。
怒り。
憎悪。
悲しみ。
――そして、迷い。
これが無意味な事だと知りつつも止められない、そんな自分への戸惑いが、エルトリスの内に渦巻いていた。
「……だとしても。私は、まだこいつを許せない。私の身体なんて、もうどうでも良い」
『ひ……っ、も、もう、やめ――』
「返して――返してよ。返して、私の大事なものを返して――ッ!!」
子供が癇癪を起こすかのようなその叫びと同時に、またミカエラは女神に振り下ろされる。
意味はない。
女神がどんなに矮小になろうと、哀れな姿になろうと、意味は無いのだ。
少年は、エルトリスの気持ちが痛い程に理解できた。
少年の大切だったものは、最早忘却の彼方。
誰も知らず、少年の内にしか存在しないそれは、もう誰とも分かち合う事が出来ない。
それは、決して戻ってくることもない。
だから、復讐を終える時に思うのだ。
――こんな事をして、何になるのだと。
そうして、エルトリスの刃が泣き叫ぶ女神を再び喰らい――
『……その辺りにしてくれると、助かるかな』
――喰らおうとした、その刹那。
エルトリスも知らない誰かが、女神との間に立っていた。
世界に静寂が訪れる。
見れば、周囲は真っ白く染まった無地の世界へと変貌していた。
そこにいるのは、エルトリスとミカエラ、女神、そしてその女性だけ。
白い肌、白い髪、赤い瞳。
母性を感じさせる色香を持ったその女性は、ミカエラをその指先で止めながら、エルトリスと視線を合わせる。
「……邪魔しないで。まだ足りない、私は――」
『……っ、2級神様、おたすけくだたい!!このバグを殺して、消滅させてくだたい!!』
そして、その姿を見た瞬間、女神は余程慌てたのか。
舌っ足らずになりながら、必死になって救いを求めた。
「2級神……?」
『ん……。まあ、そうだね。一応僕は、そういう立ち位置に居る』
「そう、じゃあそのクソ女を助けに来たんだ。なら――」
エルトリスは、ミカエラを握る刃に力を込める。
それでも、2級神が握った刃は微動だにしない。
それは、圧倒的なまでの力の差だった。
如何に力を得たといえど、女神を圧倒したと言えど。
目の前の神と、エルトリスの間には越えがたい力の差が有ったのだ。
だが、それでもエルトリスはその刃を止めようとはしなかった。
女神はほくそ笑む。
そうだ、もっと刃向かえ。
そうすれば、2級神は歯向かったバグを殺すだろう。
そうしたなら、私は死んだバグからそのリソースを回収して――
『誤解させちゃったかな、ごめんね?僕は、彼女を――3級神カルティエルを救いに来たわけじゃない』
『――へ?』
――その思考が、思わぬ言葉に中断された。
パチン、と2級神が指を鳴らした瞬間、女神は――カルティエルはその身体を透明な水晶玉に包み込まれる。
『な、何を、2級神様!?』
『君は、彼女に死を与えたいんだろう?でもそれは無理だ、僕たち神には死という許しは与えられていないからね』
戸惑うカルティエルを無視するように、2級神はエルトリスを真っ直ぐに見据えたまま、柔らかく笑みを浮かべた。
……エルトリスは、心に浮かんだ感情を振り払うように頭を振るう。
それは、安らぎ。
胸をかき乱していた感情を優しく解きほぐすようなその暖かさに絆されそうになれば、エルトリスは気力を振り絞って2級神を睨んだ。
そんなエルトリスに、2級神は申し訳無さそうに目を伏せて、言葉を続ける。
『――カルティエル。君も知らない訳じゃないだろう、僕たち神の存在意義を』
『それ、は……』
『君はそれを逸脱した。あまつさえ、新たに生まれた者を握りつぶそうとした。それは、許される事じゃあない』
『ま……待って下さい、私は、私は――』
水晶玉に閉じ込められたカルティエルは、必死になってそれを内側から叩く……が、亀裂どころか傷一つさえ入らない。
仮にエルトリスが斬りかかったとしても破壊できないであろうそれは、徐々に小さく、小さく縮んでいく。
『故に。君に罰を与えよう、カルティエル。君にはこれから、すべての神の世界を巡ってもらう――新しい身体でね』
『な』
「……どういう意味?」
『僕たち神は、各々世界を作って管理しているんだ。これからカルティエルにはその世界の全てに“転生”して貰う』
『ま……待て、ふざけないで!!私が――私が、管理される側に、家畜になるっていうの!?』
女神の反応を見て、エルトリスは目を丸くした。
今まで浮かべていた絶望とはまた違う、屈辱と恥辱に満ちた焦り。
それは、恐らく先程までエルトリスが行っていた所業よりも遥かに2級神が告げた罰の方が辛い、という事なのだろう。
「一つだけ、私からお願いしても良い?」
『勿論。君は彼女の被害者だし、何より――ああいや、これは別件で良いかな。これは僕の裁量という事にしておくよ』
『やめ……っ、やめて、やめてぇっ!!すべての神なんて、何億年――!!!』
拳から血がにじむ程に――それもすぐに再生するが――水晶玉を叩きながら、女神はその美しく愛らしい顔を崩しつつ、必死の形相で悲鳴を上げる。
……その姿に、ようやくエルトリスは微かに渦巻いていたものが落ち着いたのか。
「――必ず、どの世界に行くにしても。うんと脆弱で弱々しい、そして愛らしい存在にしてあげて」
『……了解。それじゃあカルティエル、良い旅路を』
『ま――待って、待って待って待って!!お願いやめて、そんなの――』
水晶玉が、小さくなって消える。
それと同時にカルティエルの声は聞こえなくなった。
果たして産まれ落ちたのはどの世界か、それは2級神しか分からない、が。
「……」
「……エルトリス?」
「……ん、大丈夫」
ようやくこれで終わったのか、と。
エルトリスは虚無感にも似た満足を得つつ、力なく笑みを零した。
そんなエルトリスを見つめながら、2級神はさてと、と声を漏らす。
見ればまだ世界は真っ白なまま、今はエルトリスとミカエラ、そして彼女だけになっていて。
『それじゃあ、本題に入ろうか』
カタン、と白い小さな円卓をどこからともなく作り出せば、2級神は椅子に腰掛けた。
円卓の上には、湯気を立てる紅茶が3つ。
エルトリスは一瞬だけ躊躇したが、その敵意のなさと――何より、目的を遂げた虚無感に、言われるままに円卓に着いた。
「……っ、こ、ここ、は……?」
――一方、どこかに有る世界、その片隅。
そこで目を覚ましたカルティエルは、舌っ足らずでたどたどしい声を漏らしながら、体を起こした。
その身体には、何も身に着けていない。
ぷにぷにとした幼く、少し丸い身体を晒しながら、カルティエルは鬱蒼と生い茂る草原の中に居て。
「く……くそっ、くそくそくそっ!!ちくちょう、よくも、よくもあたしに、こんなことぉ……っ!!」
そして、2級神から与えられた罰を思い出せば、カルティエルはとの小さな拳で地面を叩いた。
与えられた罰は、“全ての神”の世界に転生する事。
それはつまり――幾千、幾万という神の全ての世界で、生を歩まなければいけないという事だった。
それは、正しく地獄。
滅びがない神であるカルティエルは、恐らくは自死さえ赦されない。
その世界が滅び、役割を終えるまで生き続け――そして、次の世界へと巡るのだ。
「いっ……!?」
叩きつけた拳から血が滲めば、カルティエルは悲鳴を上げる。
ぷにぷにとした小さな手は傷つき、しかし治る様子は無い。
――うんと脆弱で弱々しい、そして愛らしい存在に。
かつて自分が行った所業が、正しく自分の身に返ってきた。
これからカルティエルは幾つ有るともしれない世界の全てを、その身体で巡る。
「グァゥ……グルルルルゥ……」
「……え」
そんな身体には、当然ながら自衛する機能など有りはしない。
2級神は知っていたのだ。
エルトリスにした所業の全てを。
成長しない、出来ない。
自分の身も守れない、戦うことも出来ない。
ただ、死ねない。致命傷を負い、躯になったとしてもゆるゆると再生してしまうのだろう。
そんな身体である事を、否応なしに自覚させられたカルティエルは、ただの獣の唸り声に顔を青ざめさせる。
「……う、しょ。まって、まって、まって……っ。わ、わた、わたし、あたし、は――っ!!!」
――カルティエルに与えられた罰は、始まったばかり。
その罰が終わりを迎えるまで、カルティエルが自己を保てるかは、神さえも知る由も無かった。