7.追憶の中へ②/巡る前の世界
真っ暗闇の世界をどれほど歩いただろうか。
エルトリスとリリエル、そしてワタツミは時間の感覚さえ無いその闇を進んでいけば、やがて奇妙な感覚を覚えて立ち止まった。
「……この辺りっぽいな」
「何も見えませんが……そうなのですか?」
変わらず暗闇の筈の世界の中、唐突に感じた暖かさ。
否、温度というべきだろうか。
明らかに違う何かを感じ、エルトリスはその指先をまるで明かりでも探すかのように彷徨わせる。
何かがあるわけではない。
ただ、何かきっかけらしいものを探しているかのように、その指先は虚空を切り――
「――お」
――何かを掴んだ感触。
エルトリスの指先がそれを覚えた瞬間、真っ暗だった世界に明かりが灯ったかのように、景色が一変した。
「おい、酒もってこい、酒!!」
「こっちには肉よ!さっさと持ってきなさい!!」
「おい、それは俺の酒だぞ――!!」
目の前に広がるのは、酒場――ではないが、宴会の真っ只中といった風景。
冒険者、というには些かガラの悪い人間たちが、床やら椅子に座りながら、喧々諤々と飲み、喰らい、自由気ままに過ごしているその光景に、エルトリスは小さく息を漏らした。
その光景を、その喧騒をエルトリスは知っていた。
過去と言うには余りにも遠い場所。
かつて、自分が生きていた、存在していた世界。
ここに居る人間たちは皆、ただ一人の強さに惹かれて集まった、文字通りの烏合の衆だ。
目的など無い。
有るとすれば、享楽的に生きることくらいだろうか。
簒奪し、陵辱し、破壊し、生きる。
言うなれば、盗賊団とでも言うべきだろうか――そう呼ぶには、余りにも規模が大きくなりすぎていたが。
「……」
「ん、どうしたリリエル?」
「い、いえ。ただ、その……」
しかし、昔を懐かしむエルトリスとは対照的に、リリエルは珍しく戸惑っている様子だった。
勿論ここが初めて見る光景だという事もある。
だがそれ以上に、リリエルは少し恥ずかしそうに身体をよじり、顔を赤く染めて――そう、どこか恥ずかしそうな様子を見せていて。
エルトリスはそんなリリエルの様子を見れば、不思議そうに首を傾げて。
『……いやまあ、そりゃあ、ねえ?』
「何だよ、ワタツミ」
『こんな大勢の前で、裸を晒して平然としてる方がどうかしてるわ』
……そして、ようやくリリエルがどうして恥ずかしがっていたのかを理解した。
今のリリエル、そしてエルトリスはいわゆる意識に形を持たせただけの状態である。
その姿は当然ながら、僅かに朧げで――何より、文字通り一糸まとわぬ姿だった。
つまり、全裸。
ここが記憶の世界である以上、向こう側がこちらに気づくことも無いだろうが――かといって、全く視線を向けられない訳ではない。
例えば、リリエルの体を通して向こう側を見る時。
例えば、エルトリスの体を通り抜けようとする時。
そんな時は、間違いなくその視線は二人に向かっており――……
「……っ、ば、馬鹿っ!!変なことに気付かせるなよ……っ」
「も、申し訳有りません、エルトリス様……」
「ああもう、もう……っ、良いから気にすんな、どうせ向こうからこっちは見えてないんだからな!」
……それを自覚させられた途端、エルトリスは顔を耳まで赤く染めながら、その抱えきれない程に大きな胸を、そして股間を隠すように両手で覆った。
そうした所で意味がないのは判っていても、一度意識してしまえばそう簡単に払拭できるものではない。
公衆の面前で、全裸を晒している。
そんな痴態を晒すことになど、リリエルもエルトリスも慣れている訳がなかったのだ。
それでもエルトリスは顔を赤く染めたまま歩けば、喧騒に包まれた宴の中を歩き出した。
リリエルも慌てた様子でその後に続いていく。
騒ぎ立てる人間たちは、些か品性らしいものが欠落していた。
喧嘩を始める者。
それを囃し立てながら、酒を浴びるように飲む者。
給仕をさせられている人間に絡み、暴力をふるい、或いは拐かそうとする者。
そんな人間たちに、特に反応することもなくリリエルはエルトリスの背を追う。
リリエルが任されたのは、エルトリスが必要な記憶を見るまでの間、エルトリスを守る事だ。
こんな世界でそんな必要があるのだろうか、とリリエルは僅かに思考して、直様それを振り払った。
何事もなければそれで良い。
ただ私は、エルトリス様の役に立つ――その為に、同行させてもらったのだから。
「――やっぱりか」
「どうかなさいましたか?」
「ああ、ちょっと見るのが早いな。こりゃあ前日だ」
改めて頷いたリリエルの前で、エルトリスが足を止めれば、そんな言葉を口にした。
エルトリスの前に居たのは、宴の様子をさもつまらなさそうに眺めている一人の男。
その傍らには、リリエルもよく知る姿が有り――
「――この方が」
「ああ。元々の、俺だ」
――だから、リリエルにも理解できた。
アシュタールと比較しても遜色ない長身、巨躯をもつ人間。
鍛え抜かれた肉体をもつその厳しい男が、元々のエルトリスなのだと。
男は酒を軽く口にすれば、溜息とともに酒気を吐き出し、目を細める。
『どうした、退屈そうにして』
「言わなくても判ってんだろうが」
『カカ、そうじゃな。今日も実につまらん戦いだったからのう』
そんな男に、ルシエラ――過去の、だが――は、しなだれかかり、肌を寄せた。
男はルシエラを振り払う事もなく、ただ今日の勝利と収穫に湧いている連中を見て、息を吐く。
「――ああ、つまらねぇ。この分じゃあ勇者とやらもまるで期待出来ねぇな」
『まあそう言うな。勇者とやらは破竹の勢いでこちらに進んでいる猛者であろうに』
「そんな連中を今まで何度殺した?何度屠った?何度がっかりさせられてきたと思ってる」
『全く……まあ、エルトリスに比肩しうる存在などそうはおるまいが、のう』
――二人は周囲の宴とはまるで関わりが無いかのように、湧く事もなく静かに酒を飲む。
周囲にはエルトリスに言い寄ろうとする女性たちも居たが、ルシエラが居ればそれも出来ないのをよく理解していた。
彼女がいる前でそんな事をすれば命が無いことは、嫌という程に理解させられていたのだ。
「……あー、あんまり見ないでくれ、頼む」
「エルトリス様?」
――そんな過去の自分を見ながら、エルトリスは目を背ければ蹲り、膝に胸を載せながら顔の熱を冷ましていた。
不思議そうにリリエルが首を傾げれば、ワタツミはふるふると頭を振って。
『昔の自分を見る、ってやっぱり恥ずかしいのよ、きっと』
「一々言わないくて良い……っ」
『男だった自分が、今じゃこんな可愛い女の子だっていうのも――』
「やかましいっ!!」
囃し立てるワタツミの声に、エルトリスは顔を赤く染めながら叫ぶ。
リリエルは、そんなエルトリスの様子に柔らかく笑みを浮かべて――
「大丈夫です、エルトリス様」
「……何だよ、リリエル」
「今のエルトリス様も、このエルトリス様も、どちらも素敵ですから」
「ぐ……」
――虚飾も何もない、本心からのその言葉に、エルトリスはたじろぎ、そしてがっくりと肩を落とした。
『何じゃ、楽しそうにしておるのう』
「うるせぇな、楽しいもんか――」
そんな最中。
エルトリスは聞くはずもない声を聞いて、即座に飛び退いた。
リリエルも即座にワタツミを構え、それを見る。
『くく、そんなに警戒する事もあるまい。どうして消化されずここまでこれたのかは知らんが、既に貴様らは私の腹の中よ』
そこに居たのは、ルシエラだった。
過去の、ではない。
ましてや、エルトリスとともに居たルシエラでもない。
『さて。私の中を歩くのも構わんが、通行料は貰わんとな――』
――無力な状態で私達が出会ったあの世界に放り込まれるのがどれだけ危険か、判らぬ訳ではあるまい。
その言葉を傍らで聞いていたリリエルは、ようやくその意味を理解した。
ルシエラは知っていたのだ。
丸呑みされるにせよ、ルシエラの内に居る以上は何れは消化――喰われてしまうという事を。
『――どちらも美味そうじゃが、そちらは特に格別じゃな。くく、じっくり味わってやろう』
「待って下さい。私は兎も角、エルトリス様はルシエラ様の使い手です。喰われる謂れなど……!」
ただ、それでもリリエルはルシエラに疑問をぶつけた。
そう、エルトリスはルシエラと魂で繋がっている。
エルトリスが死んだならば、ルシエラも死ぬ――逆もまた然り、一蓮托生の契約を。
であれば、ルシエラはエルトリスを攻撃はできない筈――
『知らぬ。少なくとも、ここの私が知るエルトリスは、そのような娘っ子ではないわ』
「――……っ」
――その考えは、瞬く間に一蹴された。
それと同時に、目の前のルシエラの姿が変化していく。
じゃらり、と鎖を背中から、腕から伸ばし、その先端に牙のついた円盤を付けたその姿は、余りにも禍々しく――……
「――エルトリス様は私の後ろに。ここは私が対処します!!」
「……っ、ああ」
『さぁて。どうやって喰らってやろうかのう――良い声を聞かせておくれよ、二人共』
ルシエラ本人ではないとは言えど、その一部にはっきりと否定されたエルトリスは、ひどく動揺した表情を見せつつも。
リリエルの背後に隠れるようにすれば、リリエルはワタツミを構え、呼吸を軽く整えた。