29.再会
「――後は俺達で終わりか」
魔族達の避難が終わり、残されたのはアリスとバルバロイ、それに俺達だけになった。
戻ってこないアルケミラを待つ余裕はない。
……元より、無事だとしてもアルケミラは戻っては来ないだろう。
何処かに身を潜め、安全を確保し、後から合流するはずだ。
それを理解しているからか、クラリッサ達は俺の言葉に反論することもなく頷けば、アリスの領域の中へと入っていく。
突然のことで何事かとは思ったが、取り敢えず避難自体は無事とは言えずとも終わりそうだった。
「……急げ、来るぞ」
そう。
少なくとも、後少し。
あと少し暇が有れば、アルケミラのお陰で全ての避難は終わっていた筈だったのだ。
後方から来る強烈な存在感。
視認すら出来ない距離にいる筈のそれが、確かにこちらを捉えたのを感じれば、怖気に汗が吹き出していく。
「アリス、先に行け」
「え――待ってエルちゃん、私も」
「お前が死んだら全部御破算だろうが。バルバロイも行っとけ、怪我も治ってねぇんだろ」
「……判った、良いだろう。だが必ず戻れ」
軽く言葉を交わせば、俺は小さく息を吸い、吐く。
――勝算が見えない。
随分昔にアリスを見た時よりも、更に絶望的な差を感じれば、俺は勝手に呼吸が荒れていくのを感じていた。
怖い訳ではない。
恐ろしいのではなく、ただ――自分にそれが出来るか、緊張して仕方ないのだ。
「……エルトリス様」
「おう」
「御武運を。信じております」
「ああ、戻ったら茶でも淹れてくれると助かる」
リリエルと軽く言葉を交わし、笑みを零す。
……大丈夫、勝算は見えずとも、この場で何をすれば良いのかだけは、判る。
勝たなくても良い。
避難までの時間を稼ぎ、アリスの領域が閉じる寸前に飛び込む。
それで、大凡どうにかなるはずだ。
まあ、それが途轍もなく難しく、遠い事ではあるのだけれど。
『――来るぞ、避けよ!!!』
「うん――ッ!!」
――刹那、黒い剣閃が彼方から飛来した。
受けない。
受けることは出来なくも無いだろうが、一度受けて動きを止めればその瞬間に追撃を雨霰の如く叩き込まれて、塵にされる。
アリスたちが避難を終え、領域を閉じ終えるまでは数秒。
その数秒さえ凌ぎきったなら、それでこの場は終わる――……!!
「さっきの彼女より、やるかな」
彼方からの声に、俺は言葉を返さない。
予想よりも遥かに幼い声だった。
少年、というのがピッタリだろうか――幼くあどけないその声と共に飛来する斬撃を、俺は受けること無く躱しつつ、ルシエラを身に纏う。
『喰えて一撃じゃ、過信はしてくれるな』
「判ってる……っ」
まるで、暴風雨だ。
黒い剣閃は雨あられのごとく押し寄せて、周囲の尽くを凪いで行く。
アリスの領域は閉じつつも移動して、その暴風雨から逃れていたけれど――それが出来るのも、的が2つ有るからだろう。
1秒、ないし2秒そうした後、彼方に居た魔王は地を蹴った。
それが見えた訳じゃないが、ズン、と大地が、空気が震えたのだからきっとそうなのだろう。
「……それを潰した方が、きっと混沌とするよね?」
「出来る、もんなら――ッ!」
そうして、魔王は一瞬で彼方から此方へと踏み込んでくる。
文字通りの神速。
一步、その姿が見える。
二歩、その刃が煌めく。
俺は漆黒の刃から身を翻し、そして切り返すように振られた刃を一度限りと念を圧された上で、ルシエラで受けた。
漆黒の刃は、白熱した鎖に確かに受け止められて――それと同時に、じわりじわりと白熱に漆黒が混じり出す。
だが、それでもルシエラは一步も引く事無く、その漆黒の刃と拮抗し――
『――ぐ、あ……ッ!こ、の――私を舐めてくれるなよ……ッ!?』
「驚いたな。アルスフェイバーを受けられるなんて」
――素直に驚いた様子を見せた少年に、魔王に、俺は思考を停止した。
思ったよりも若かった――それは、問題じゃない。
アルスフェイバーという剣が余りにも強い――それも、問題じゃない。
魔王と言う割には、見敵必殺という割には穏やかで――違う、そんな事は関係ない。
「――嘘」
口から、声が漏れる。
手にしていたルシエラからも、激しい動揺が伝わってくる。
当たり前だ、だって――目の前にいる魔王は、俺もルシエラもよく知っている、知っていた“人間”。
そうだ、コイツは魔王なんかじゃない。
俺が嘗て、この姿になる以前にそう呼ばれていた時にも居たコイツは、断じて魔王なんかじゃない。
「な……んで」
『馬鹿な――馬鹿な、何故貴様がここに居る!?』
「……僕の事を知ってるの?」
俺達の言葉に、魔王と称される少年はキョトンとしてみせた。
その声色を覚えている。
その剣筋も覚えている。
だって、それは――俺が唯一心の底から敬服し、満足し、そして命を奪われた者。
勇者。
嘗ての世界ではそう呼ばれていた、俺を打倒した筈の少年。
それを、自意識さえあやふやな存在へと貶した相手なんて、そんなのただ一人しか居ない。
「――……ッ、あの、クソ女――!!!!」
「そう、君は僕を知っているんだね。少しだけ、残念だな」
口から溢れ出したのは、怨嗟の声。
許せない。
許せない、許せない、許せるわけがない……!!
あの女は、俺どころか……俺を倒したその相手まで侮辱し、穢したのか――!!
「目を覚まして!!あなたは、魔王なんかじゃ――」
「――関係ないんだ。どうあれ、僕がもたらすのは混沌だけなんだから」
なりふり構わず口にした言葉は、届かない。
少年は寂しそうに笑みを浮かべれば、漆黒の刃を振るい――二撃目は受けきれず、俺は意識を明滅させた。
『――起きよ、エルトリス!!追撃が――』
「……っ、か、ふ」
消えかけた意識をかき集め、俺は三度飛んできた刃を見る。
駄目だ、これは――……
「――エルちゃん!!!」
――次の瞬間、エルトリスの視界に入ったのは花畑。
色とりどりの花が咲き乱れるその場所に、鮮血が迸る。
赤ではなく、黒。
彼女の本来の姿を彷彿とさせるその色をした血が、色鮮やかな花畑に飛び散って。
「ん。なら、諸共に――」
「……ッ、永劫の夢――!!」
片腕を切り飛ばされたアリスは、激痛に表情を歪めつつも即座に領域を創り上げた。
少年の周囲に展開されたそれは、天も地も無く、ただフワフワとした夢空間。
自らの存在さえもあやふやにして夢の一部へと還してしまう、永遠のお茶会を攻撃に大きく傾けたそれは、本来ならば必殺に近い。
その世界を、漆黒の刃は一振りで切り裂いた。
夢空間は一瞬で消し去られ、少年は刃を構えながら周囲を見る。
「――逃しちゃったか。でもまあ、大丈夫だよね」
少年は花畑と二人の少女の姿が既に無い事を確認すれば、小さく息を漏らしつつその場に軽く腰掛けた。
少年の視線の先にあるのは、光の壁。
魔王はいかなる手段を持ってしても通過さえ赦されないその障壁は、以前よりも薄れていて。
「……次は、あの光が消えた時。どうか、僕を――」
――少年のその呟きは、誰に聞かれる事もなく溶けていった。