25.竜虎相搏つ③
紅き龍が、吠える。
それは楔から解き放たれた、歓喜の咆哮。
今、初めて――否、アリスと戦って以来の長き年月を経て、久方ぶりにバルバロイは全ての柵から解放された。
あの素晴らしき黒竜を失望させ、地に貶した自身への侮蔑を。
そんな自らが戦いを愉しむ事への疑問を。
その全てを振り払い、バルバロイは笑い、猛る。
ただそれだけで、均衡を保っていた形勢は徐々に、徐々にバルバロイへと傾き始めた。
『――ええい、だからさっき片を付ければよかったものを……!!』
「あはっ、きゃははははっ!!冗談、こんな楽しいのをあんなつまらない終わり方なんて、私が許せないもの――!!」
「くはっ、ハハハハハハ!!実に良い、感謝するぞ!!」
振るわれる爪はそれだけで大気を焼き、紅焔を放つ。
エルトリスがそれを大きく躱せば躱す程に、バルバロイに攻撃をする機会は失われていく。
一挙一動が灼熱を伴い、直撃は愚かその近くに居ただけでも紅焔に焼かれる、その灼熱地獄の真っ只中。
そんな中でさえ笑みを絶やさず、心の底から楽しんでいるエルトリスに、バルバロイは心から悦びを、そして感謝を口にした。
魔王との戦いを前にして思い出した戦いの高揚は、バルバロイにとってこれ以上無い悦びで。
例えあと数瞬後にそれが終わるのだとしても――それへの感謝だけは、告げておきたかったのだ。
一度崩れた均衡は、戻らない。
バランスの崩れた天秤は只管に、只管に傾き続ける。
振るわれる剛腕を躱し、纏う紅焔を避ければ見る見る内にエルトリスは追い詰められていった。
その身体には浅いとは言えど無数の火傷痕が残り、服は既に焼け焦げ、まるで火事の最中にでもいるかのよう。
それでも尚、エルトリスの表情からは笑みが絶えず――バルバロイもまた、変わらず笑みを浮かべていた。
それは、まるで遊びに興じる幼子のようで。
観客たちは身を焦がすような灼熱の中、しかし誰ひとりとしてその場から離れようとはせず、息を呑んで終わりを見守った。
「――ッ」
宙を舞い、バルバロイの猛攻を防ぎ、躱し続けていたエルトリスの動きが止まる。
体力が尽きた訳ではない。
ただ、動けなくさせられたのだ。
エルトリスの周囲に生み出されたのは、灼熱の檻。
バルバロイが振るった爪が、尾の如き下半身が、宙に創り上げた接死の牢獄。
周囲に無数に創り上げられた灼熱の痕から隙間を探そうとするエルトリスだが、それを見逃すバルバロイではない。
「我が最大の力を以て葬ろう、少女よ――……!!」
即座にバルバロイはその顎に眩く輝く光球を創り上げた。
それは、極小の太陽とさえ呼べるエネルギーの塊。
最初にアルケミラたちに放ったそれとは比較にならないほどの熱量を携えたそれは、放たれたならば舞台は愚か、この建造物――否、山を、地形を激変させるであろう程で。
しかしながら、その場から逃れようとするものは居なかった。
ある者は、その威容に見惚れ。
ある者は、もはや逃げた所で無意味と悟り。
ある者は、まだその戦いを諦めず。
ある者は、狂気の内にそれに身を投じようとして――
「――あ、はっ」
――そして、少女は絶体絶命の窮地に置いて、その目を輝かせた。
光球が放たれたのであれば、死は免れない。
エルトリスにあの熱量を防ぎ切る手段は無く、躱すにも範囲が広すぎてダメージは避けられない。
その未来を予見しつつも、少女は諦めるどころか今こそが好機だと、背後のルシエラを解き、一つの形を創り上げた。
それは、黒竜アリスの生命にさえ届き得た刃。
ただただシンプルに、単純に、簡素に。
全てを切り裂くというエルトリスの意思だけが反映された、必殺の白刃。
ルシエラの持つありったけの力を込めたその刃は、無骨で飾り気のない、剣の形をした白い光で――
『決めろエルトリス、後は無いぞ!!』
「うん――ッ!!」
――その一太刀を以て、エルトリスは灼熱の牢獄を断ち切った。
文字通りの万物を断つ刃を化したルシエラに断てない物は無い。
エルトリスが一点の曇りも無く、“断ち切れる”と信じている以上、それを妨げる事はできない。
その刃を保てるのは、ほんの一呼吸程の一瞬のみ。
灼熱を断ち切れば、エルトリスは光の矢のような疾さでバルバロイに疾駆した。
バルバロイは動けない。
自らの持つ最大の一撃を叩き込もうとしたバルバロイは、それがどんなに凄まじく、危険で――素晴らしい物だと理解しても、躱す事が出来なかった。
それは、エルトリスが疾いからという訳ではない。
自らがもし、竜王の咆哮を使おうとしていなければその刃を躱す事は出来ていただろう。
そうすれば、バルバロイの勝利は完全に揺らがなかった。
油断はしていない。
慢心もしていない。
持てる全てを以て、バルバロイはエルトリスを葬ろうとした、ただそれだけ。
「――……ッ、まだだ――!!!」
――その上で、バルバロイは凝縮したエネルギーをエルトリスに向け、放った。
まだ十二分には放つ準備が出来ていなかったそれは、万全からすれば程遠い火力。
だがそれでも、アルケミラ達に放ったそれよりも遥かに強烈で、命あるもの全てを焼き焦がすには十分な熱量を備えていた。
それを、エルトリスは白刃の一振りで切り裂く。
形のない熱量は途端に霧散し、かき消える。
そうして現れた少女に向けて、バルバロイは渾身の力を振り絞って、爪を振り下ろした。
躱すには時間が足りない。
腕を斬り落とされようと構わない。
あれだけの力は決して長くは保たないと、バルバロイは即座に理解したのだ。
後一瞬、時間を稼いだならばあの万物を断つ刃は霧散する。
その為ならば、この少女に勝つ為ならば、片腕は喜んで捧げよう――
「ぬ、ぐ――ッ!?」
――その腕が、強い力に僅かに鈍った。
傷は負わない。
だがしかし、エルトリスを捉えるには、足止めするには致命的な遅れを発する、その鈍りにバルバロイは目を見開く。
ああ、そうだったな。
バルバロイはそんな事さえ忘れる程に夢中になっていた自身に、苦笑した。
その力を放ったのは、自身がすっかり忘れ去っていたアルケミラ達。
残った力のすべてをかき集めて放った、その力がバルバロイの生命には届かずとも、その腕の動きを一瞬だけ鈍らせたのだ。
ならば、この結末も仕方あるまい。
白刃に切り裂かれたその胸に去来したのは、悔恨ではなく、屈辱でさえなく。
ただただ、充実した満足感だった。