17.神からの授かり物
「――さて、それでは終わらせましょうか」
そう言葉にしながら、オフェリアは悠々と舞台の上を歩き出した。
周囲に音はない。
観客である魔族達は声を上げず、目の前にいるリリエルは隙だらけのオフェリアに対して攻撃すらせずに。
そんなリリエルに、オフェリアは微笑みかけながら――技巧も何もなく、その身体を殴りつけた。
細身の身体からは信じられない程の加速を行いつつ放たれたその拳は、リリエルに叩き込まれ、しかしリリエルは微動だにすらしない。
――リリエルは、瞬きさえしていなかった。
否、リリエルだけではない。
周囲に居る誰もが、瞬きをせず、微動だにせず、呼吸さえもしていない。
つまりは、それがオフェリアが女神と崇拝するそれから授かった力。
彼女が一度はアルカンとエスメラルダから逃れ、身体に受けた傷を戻した力である。
時間。
世界の理の一つであるそれを、彼女は操る事が出来たのだ。
時間を収束し加速する事も、時間そのものを止める事も、そして自分に限定すれば時間を逆回しする事さえ。
それは、正しく神に与えられたと考えてもおかしくない、神に等しい力。
オフェリアはただその力のみで、リリエルを蹂躙していた。
「ふぅ。このくらいで十分でしょう」
そうして、どれだけ殴り続けたのか。
拳の皮がすりむけて、血がにじむ程に殴り続ければ、オフェリアは手を軽く振るいながらそう言葉にした。
その拳の怪我でさえ、時が戻れば直ぐに消えてなくなってしまう。
オフェリアは小さく息を吸い、吐いて――
「――ッ、あ、ぐ……ッ!?」
――そして、時が動き出した刹那、リリエルは何十、何百と殴られた衝撃に苦悶の声を上げながら、身体をぐらりと揺らした。
そんなリリエルの姿を見て、オフェリアは残念そうに、憐れむような表情を見せながら、小さく息を漏らす。
これだけ無防備に殴られ続ければ、最早命も無いだろうと、オフェリアはそう判断したのだ。
「さて、勝負有りと言った所でしょう。こうなってしまったのは残念ですが――」
その判断は、正しい。
普通の人間であれば、とっくに絶命していても可笑しくはない程のダメージを、リリエルは受けていた。
内出血、骨折、臓器の損傷――挙げればきりがない程のダメージは、常人であれば死に至らずとも気絶して当然の苦痛でしかない。
「ワタ、ツミ」
「――え」
だが。
リリエルがそんな怪我を負ったのは、これが初めてという訳ではない。
故にオフェリアは、理解できなかった。
もう完全に勝負はついている。
ほら、もうあの白い刀を杖代わりにして辛うじて立っているだけじゃあないか。
このまま放っておいても倒れそうなくらい、彼女は限界のはず。
――なのにどうして、あんな眼を出来るのか。
白装束にも似た外装を纏ったリリエルを見れば、オフェリアは背筋を凍らせて。
『どんなズルしたか知らないけど、今度はこっちの番よ――!!』
「……ッ!?と、止まれ――ッ!!!」
怒りの籠ったワタツミの言葉に、オフェリアは肩をビクッと揺らしながら、再び時を止めた。
それだけで、目の前のリリエルから滴る血が、そんなリリエルの様子に歓声を上げていた魔族達の動きが、音が――そして全てが、停止する。
オフェリアは呼吸を荒くしながら、自分を落ち着かせるように肩を抱いて、深く呼吸をすれば、やがて平静を取り戻した。
問題はない、何も問題はない。
女神様から貰ったこの力が有れば、如何なる相手にも負けようがないのだ、と。
事実、彼女は世界の理そのものを操り、如何なる相手であろうと一方的に攻撃することが出来た。
如何なるダメージを負ったとしても、死ぬまでの一瞬で時間を巻き戻せば死ぬことも無かった。
故に、現実がどうであれ、オフェリアは汎ゆる魔族を相手にしても、負ける気がしなかったのだ。
「……ふぅ。驚きましたが、今度こそ終わらせます」
そうして、再びオフェリアは一方的にリリエルを殴りつけようと、歩き出す。
今度は徹底的に、起き上がる事もできないほどにやろう。
人間相手にそうするのは、些か心が痛むけれど――
――でも、女神様がそうしろと言っている。
目の前の戦いに勝ち、多くの人間とともに魔族を全て討てと、そう言っている。
だから、やらなければ――そんな狂信、或いは盲信の元に、オフェリアは加速した。
「――……え?」
そうして、拳をリリエルに振るおうとした瞬間、オフェリアの動きが止まる。
彼女は自分の拳――否、肘から先を見て、呆けたような表情を見せていた。
白い。
白く、痛みさえ無く、感覚さえ喪失している。
その白は、肘から二の腕に、そして肩へと這い上がって来て――
――それは、彼女が時を止めても無意識の内に停止から除外していたものだった。
停止した世界であっても、空気を吸う事が出来なければオフェリア自身が死んでしまう。
彼女が生きて動ける最低限を存在させた上での停止であるが故に、その中でも停止していないもの――意味を失わない物は、あったのだ。
温度。
オフェリアが停止した世界において動くためには、自由である為にはなければならないものの一つ。
「――ッ、もど――」
リリエルはオフェリアが二度仕留め損ねたその間に、人魔合一を行う事で自身の周囲を極低温で満たしたのだ。
目に見ることの出来ないその極低温に、加速しながら突っ込んだオフェリアは、その身体の先から白く、白く凍てついていく。
時間を戻す――戻った瞬間に身体が凍りつく。
その場から逃れる――既に足先が凍りつき、舞台に張り付いて動かない。
「……嘘、嘘嘘嘘嘘嘘――ッ!?違う、私がこんなはずなんて……!!」
極低温に満ちた空気に身体を入れてしまったオフェリアは、時間を戻そうとも、加速しようとも、ましてや停止しようとも。
授かった力の何を駆使したとしても、その状況から逃れられない事を、知ってしまった。
これが動いている時間の中であったならば、既に満身創痍のリリエルが極低温を出せなくなるまで待てば、話は済んだだろう。
だが、これは停止した時間の世界である。
既に発生した温度は滞留し、散る事無く留まり続けるが故に、オフェリアは何をしようとも詰みの状況から抜け出せず――
『あーあ。折角力を与えてあげたのに、残念。くふっ、まあ良いわ。もう貴女の役割は終わってるし』
――果たして、その声をオフェリアは聞くことが出来たのか。
停止した時間の中、完全に白い氷像と化したオフェリアは、とうとう自身までもが停止してしまい。
「ご、ぽっ。ごほっ、ぁ……」
『ひゃっ!?って、何が起きたの……??』
「――魚が、網にかかった……だけの、話です」
時間が動き出せば、リリエルは口から赤黒い血を吐き出しつつ、膝をつく。
目の前の氷像に、ワタツミは小さく、可愛らしく悲鳴をあげながら。
舞台に有るのは、満身創痍ながらもまだ立っているリリエルと、絶望した表情のまま停止した、白い氷像だけ。
最後の勝敗が決すれば、バルバロイは傷ついている両陣営を見て、暫しの休息を提案した。