2.それは、無知ゆえの狂信
――魔族の住まう地の、その一角。
溶岩やそれに伴う毒沼が広がっているその地の奥に、一際大きな山が聳えていた。
魔族の中でも特に闘争を好むものが住まうその場所を訪れる者は、殆ど居ない。
散々な道を通り抜けて向かった先に娯楽が有るわけでもないし、寧ろ辿り着いてしまったならその先に待っているのは確実な死か、或いは恭順だからである。
その巨きな山脈こそ、六魔将が一人、バルバロイが住まう拠点だった。
六魔将の中で最も闘争を好みながら、しかして敗れる事無く君臨し続ける魔族。
それこそ、アルケミラやアルルーナより以前からその座に就いている彼は、単純な武力においてはアルルーナでさえ接触を避ける程で。
「大丈夫ですか、皆さん」
「はい、オフェリア様。オフェリア様のおかげで私達もこの地を歩けます」
「ふふ、ソレは良かった。
――そんな、有る種戦場よりも死に近いその場所を歩く者たちが居た。
光の壁を超えてきたオフェリアと、その信者たちである。
オフェリアが歩を進めるたびに泡立つ毒沼はまるで凍りつくように動きを止め、信者たちはその上を悠々と歩いていく。
そんな異常な光景を晒しながら、オフェリア達は真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに目の前の巨きな山へと向かっていた。
「あそこが、そうなのですか?」
「はい。女神様が仰言られたのはあの地で間違いないでしょう」
「天高く聳える山、でしたか。光の壁を超える前でしたら、アマツの近くにある山くらいの物でしたが」
「そうですね。あの場所はこことは比較にならない程、穏やかな場所です」
そんな言葉をかわしつつ、オフェリアは迷うこと無く歩く。
“女神からの神託”を、彼女は信じ切っていた。
疑おうとすら考えていなかった。
――オフェリアは、エスメラルダ同様、力を授かった人間である。
何の力もなく、ただベッドに横たわって日々を過ごしてきた彼女にとって、女神……力を与え、この地へと導いた者は、正しく神そのものだった。
疑う余地もない。
彼女こそが自身にとっての神であり、その言葉は絶対なのだと思うほどに。
その力を以て、彼女は女神からの言葉を只管に実践し続けた。
授けられた力を用いて、力なき者を助けた――信奉者が出来た。
女神の神託に従い、未然に事故を防いだ――彼女を崇拝する団体が出来た。
そうして膨れ上がった団体を、宗教じみたそれを彼女は女神の神託通りに魔族が住まう地へと進ませた。
彼女は信じているのだ。
今までのように女神様の言葉に従えば、人を救うことが出来る。
私にはそれをするだけの力があるのだ、と。
「……ふむ」
――故に、彼女はそれを見ても恐れなかった。
巨きな山にぽっかりと口を開けている洞窟。
その中から現れた、赤黒い三つの眼光。
青白い甲殻で覆われた体を動かしながら現れた巨躯は、唸るように、値踏みするようにオフェリア達を見下ろした。
……その姿は、アルケミラやアルルーナ、アリス、それにロアとはまるで違う。
そもそも人の形などしては居らず、その瞳に宿っている知性さえなければ怪物と言われても納得するような姿だった。
上半身は、全身を甲殻に覆われた人型。
その巨躯に見合う逞しい両腕は、振るったならばそれだけで汎ゆる物を破砕してしまいそうな程で。
蛇――否、竜にも似たその頭部には一対の眼と、額にある大きな瞳。
口を開けば、幾重にも生え揃った凶猛な牙が覗く。
下半身は、まるで蛇のように長く、永く。
その半身も青白い甲殻で覆われており、所々に生えた牙の如き脚が大地を蝕むように踏み砕いていた。
「お前達が、光の壁を越えてきた者達か」
「――ええ。そして、貴方達を滅ぼすものです」
軽く4mは越えようかという体躯のバルバロイを前にして、オフェリアは毅然として言葉を放つ。
その言葉に、バルバロイの威容に震え上がっていた信者達は奮い立ち――
「……ふむ。些か物足りぬが、良いか」
――バルバロイは少しだけ肩透かしでも喰らったかのような、残念そうな声で呟いた。
その言葉に、オフェリアは耳を傾けない。
信者たちも各々が手にした武器を構え。
そんな人間たちを見れば、バルバロイは軽く身構えつつ、その大きな口から吐息を吐き出した。
「一つ、聞いておこう」
「……何ですか」
「お前は、多くの人間を率いているな。つまり、人間の代表という事で良いのか?」
バルバロイの問いかけに、オフェリアは眉を顰める。
彼女には、その問いかけにどんな意味があるのか理解ができなかった。
だが、彼女は女神の神託を――少なくとも彼女はそう信じている物を元に、動いている。
故に――……
「ええ。私は女神様の神託の元、人間の代表として貴方達を滅ぼします――!」
「そうか。では相応に相手をしてやろう」
……オフェリアのその言葉に、バルバロイは僅かに口角を釣り上げた。
その言葉が意味するのは一つである。
バルバロイはたった今、人間全てが自らの敵となったと認識したのだ。
例えオフェリアが取り消そうとも、信者たちが許しを請おうとも、それは変わることはない。
何しろバルバロイは親切に、丁寧に応対した。
その上で、多くの人間を率いてきた者が“私達は人間の代表です”と口にしたのだ。
故に、バルバロイはこれからオフェリア達を鏖殺する。
その上で、光の壁が消え次第向こう側の人間もひとり残らず殺すだろう。
バルバロイにとって、戦いとはそういうものだから。
だから、最早バルバロイを止める手段は存在せず――
「――ちょおおおおおおっと待ったああああああああ――ッ!!!!」
――否。
唯一つだけ、この状況を変えられる手段が存在した。
バルバロイとオフェリアは、空から矢のように飛んできた闖入者に視線を向ける。
そこに居たのは、大きな翼を懸命に羽ばたかせて、汗まみれになりながらやってきたクラリッサ。
オフェリアは兎も角バルバロイは既知だったのだろう、クラリッサの言葉に動きを止める。
「……何か用か、アルケミラの従者」
「はぁ、はぁ……っ、げほっ、ごほ……っ、アルケミラ様からの、戦線、布告……」
「――何?」
そして、クラリッサが息を切らせながら口にしたその言葉に、バルバロイは三つの目を見開いた。
それは、バルバロイにとっては望外の喜び。
先日六魔将の一角を切り崩した、正しく強者であるアルケミラが自身に戦いを挑むというのだから、喜ばない道理がない。
「ふむ、そうか……人間」
「魔族同士で協力でもするつもりですか。構いませんよ、私は――」
「――代表者を、五人ほど選べ。このまま鏖殺しても構わんが、折角の機会だ」
故に、バルバロイはオフェリアを指差せば窘めるようにそんな言葉を口にした。
その言葉は、オフェリアだけに向けられたものではない。
「ぜぇ、はぁ……っ、アルケミラ様にも、そう、伝えれ、ば……?」
「……少し休んでからでも構わんぞ、アルケミラの従者。場所はこの地で行おう」
肩で息をしているクラリッサに、バルバロイはそう告げるとずるり、ずるりと洞窟の中へと戻っていく。
オフェリアは即座にバルバロイを追おうとして――
「……っ!?」
――そこで初めて、自分の膝が震えていた事に気がついた。
信仰心、或いは狂信によって覆い固められていたはずの心が、ただバルバロイと相対しただけでヒビ割れた――その事実には気づかぬまま、しかしオフェリアはそこから進む事が出来ず。
クラリッサは少しだけ休憩すれば、直様アルケミラの元へと戻り、事の次第を報告する。
……アルケミラはその報告に軽く頭を抱えつつも、クラリッサを労えばエルトリス達を、自らの部下達を招集したのだった。