1.目覚めの条件
――光の壁の人間側で異変が起きてから、数日後。
突然人間達が魔族達の世界に踏み込んできた事をアルケミラは即座に把握し、対応した。
彼女は別段、全ての人間を救おうなどという博愛主義の持ち主ではない。
ただ、今この段階で大勢の人間を殺害してしまうというのは、彼女の今後の方針に大きな問題が生じる事は明らかだったのだ。
一つは、彼女の求める有能な人間が、自らに反感を覚えるという事。
これが最も致命的だろう。
人間を虐殺した魔族が人間を重用するなど、誰が信じるものか。
アルケミラは人間の内にいる有用な者も重用したいのだから、それの妨げになるような事は出来ないに決まっている。
……そして、もう一つ。
こちらもまた、大きな問題だが――
「なあ、どうして一人も殺そうとしないんだ?」
アルケミラの指揮らしいものを隣で眺めつつ、エルトリスが口を挟む。
エルトリスは不思議でならなかったのだ。
確かに虐殺してしまえば問題になる、というのは判る。
だがどうしてアルケミラが極力殺害そのものを避けているのかが、理解できない。
エルトリスの知るアルケミラはたしかに有能な人間には慈悲深いけれど、そうでは無い人間には決して優しくは無かった筈だ。
……とは言っても、無能な人間を処断した場面を実際に見たわけではないけれど。
クラリッサ達から聞いた、そして実際に目にしたアルケミラを見る限りは、そういった人物なのだろうと、エルトリスは考えていた。
「……私らしくも無いと、思いますか?」
「正直に言えば、まあ」
そんなエルトリスの言葉に、アルケミラは苦笑しつつ小さく呟く。
その呟きにエルトリスが頷き返せば、その隣に立っていたルシエラもうんうんと頷いた。
『割と合理的なタイプだからのう。やはり反感を恐れてか?』
「それも、まあ――随分前のような気もしますが、以前に魔王の事を少し話したのは、覚えていますか?」
「ああ、まあ」
アルケミラの口にしたその単語に、エルトリスは少し渋い顔をする。
魔王。
かつては、自分に押し付けられていたその忌み名を冠している誰か。
出会ったならば会話にすらならず殺されるだろうと言われた、その相手。
「アレを、起こしたくないのです」
『……ふむ?』
「人間を殺すこととそれが何か関係があるのか?」
「ええ、まあ飽くまで伝承ですので真実かは分かりませんが――」
ルシエラとエルトリスが首をひねれば、アルケミラは苦笑混じりに語り始めた。
それは、遠い遠い昔から魔族達の元に伝わっている、不思議と誰もが知っている話。
自分達は魔王という存在から作り出された、創造物だという事。
魔王という存在が如何に強いのか、そのお伽噺の如き伝説の数々。
その伝説の一つに、魔王が目覚める条件が記されていた。
一つは、この世界が平定された時。
世界が安定を取り戻した時、魔王は目覚めその世界を試すだろう。
そして、もう一つは――
「――世界が滅びに瀕した時。その時、魔王は目覚めその世界を刈り取るだろう」
『何じゃそれは。平定されようがされまいが目覚めるのか』
「逆の条件でも目覚めるってのは中々笑える話だな。でも、まあ、うん、納得した」
アルケミラが口にしたその言葉に、エルトリスは笑いながらも小さく頷いた。
実力至上主義で、合理主義なアルケミラが何故取るに足らない人間たちを殺さないのか。
理由はこれ以上なく単純明快だ。
侵入してきた人間の数が、余りにも多すぎる。
一人二人を殺すならまだしも、あれだけの数を殺すともなれば、そのお伽噺の後者に引っかかる危険性があると判断したのだろう。
「無論、アレも目覚めさせる事にはなりますが……その時は、出来る限り他に敵が居ない状況が好ましいですからね」
『アルルーナを倒したとは言え、まだ……ええと、何じゃったか……バルヴァロ?だか何だかがおるからのう』
「バルバロイな、バルバロイ」
ルシエラの言葉に軽く呆れつつ、エルトリスはその名前を口にすると少しだけ口元を緩めた。
それもそうだろう、アルルーナは強くともとにかく嫌らしく、真っ当な戦いからは程遠い事ばかりをする手合だったが、アルケミラから聞いたバルバロイはその正逆。
“絡め手が出来るような手合ではなく、ただ純粋な強者”。
ただそれだけで、あのアルルーナさえも戦いを避けた怪物。
正々堂々たる戦いを好む……と言うよりはそれ以外出来ず、しかしその上で六魔将の一人として君臨しているバルバロイは、エルトリスの感性にガッチリと噛み合っていた。
『あーあー、すっかり恋する乙女の顔じゃのう』
「ぶ……っ!?フザケた事言わないでよ、バカ、バカ!!」
「ふふ、まあこの状況が落ち着いたらバルバロイにも宣戦布告をするつもりです。とは言ってもアルルーナのような事にはならないでしょう」
『……?宣戦布告なら、戦争になるのではないのか?』
「バルバロイが好むのは純粋な力比べですからね。私もそれに――」
「――アルケミラ!不味いことになったぞ!!」
そんな少し和やかでさえある会話の中。
唐突に、それを廊下からの声が遮った。
そこに立っていたのは、アミラ……と、その傍らにいる褐色肌の少年。
気弱そうな少年はアミラにぴたりとくっついたまま離れずに。
『相変わらず情けないのう、小僧』
『う、うぅ……だ、だって、皆怖いんだもん……』
「ルシエラ、マロウトをいじめないでくれ……っと、そうじゃなかった。不味いぞアルケミラ、雪崩込んできた人間の一部が魔族と接触した!」
「……その様子だと、私達の方の陣営ではなさそうですね」
少年――マロウトを傍らに抱き寄せつつ、アミラが口にしたその言葉にアルケミラは唇を噛んだ。
アルケミラはそうなる前に人間たちをどうにかして光の壁の向こう側へと押し返すつもりだったが、それよりも早く人間たちは不味い者に遭遇してしまったらしい。
「――アルケミラちゃん、ちょっと良い?」
アミラの報告に少し遅れて、なにもない所から扉が現れる。
ひょっこりと現れた懐かしい顔――アリスにエルトリスが手を振れば、少女は幸せそうに破顔して。
とことこと足音を立てながら近づけば、軽く腕を組み、体を寄せつつ。
「どうかしたのですか、アリス」
「うん、ちょっと不味いかも。入ってきた人達の一部が、バルバロイの方に向かってる」
「――正気ですか、彼らは」
アリスが口にしたその言葉に、アルケミラは頭を抱えた。
そうならないように、アルケミラは様々な手を尽くしてきたのだ。
人がアルケミラの都合のいい方へ進みやすいように急ピッチで道を整えたり、時折脅かす程度の攻撃を仕掛けたり。
事実、それは多少なりと効果は上げていて、少しだけだが人間を追い返す事が出来ていた、のだが。
「そもそもバルバロイの元へはただの人間では向かうことすら難しい筈です。毒沼や溶岩地帯はどうしたんですか?」
「えっとね、その人達を先導してる人が全部なんとかしてるみたい。あのままだとバルバロイに戦いを挑んじゃうかも」
「~~……ああもう、仕方ありませんね。クラリッサ!!」
「はい、ここに!!」
アルケミラは眉を顰めながら、大きくため息を漏らす。
彼女の呼び声に即座に窓から現れたクラリッサは、エルトリス達に軽く挨拶しながら跪いて。
「バルバロイに宣戦布告を。急いで下さい」
「畏まりました、私にお任せを――ッ」
そして、命を受ければ即座に窓から飛び立った。
その疾さは、正しく神速。
アルルーナに無惨に破壊された翼も治ったのだろう、その事にエルトリス達は笑みを零しながら――
『……で、何故宣戦布告をしたのじゃ?』
「そうしなければ、人間が全て殺される――その危険があるからです」
「……全て?」
――エルトリスとルシエラの言葉に、アルケミラとアリスは小さく頷いた。
全て、というのは恐らくこの魔族の住まう地にやってきた人間だけの話では無いのだろう。
「勿論それは最悪の場合、ではありますが。その最悪を引いた場合は取り返しが付きません」
「あの子は融通とか全然効かないもんね……」
大抵の攻撃が通用しない二人は、頭痛でも感じているかのように頭を抱え――そして、部屋に響き渡る程に大きなため息を、吐き出した。