30.そして、歯車は音を立てた
――光の壁の向こう側。
魔族達の住まう世界での争いが終わりを迎えたその頃。
光の壁の此方側、人間達が住まう世界は平穏――では、決して無かった。
「アルカンさん!南方からも――」
「チィ……ッ、ええい、抑えきれんか……!?」
「ゴタゴタ言ってんじゃねぇぞジジイ!!クソッ、何で人間同士でこんな事しなくちゃならねぇんだ――ッ」
……エスメラルダ、アルカン、そしてメガデス。
人間にとっては最大の戦力であり、守護者でもある三人は軍を統率しながら悲鳴をあげる。
彼ら自身は傷ついていない。
彼らが率いている軍勢もまた、死傷者は少ない。
だが――彼らは、彼らの為すべきことを為せないで居た。
地平線の彼方から押し寄せてくる人の群れ。
その人々が向かう先は、彼らが指揮している軍勢――の向こう側にあるもの。
「――さあ行きなさい!今こそ人間の力を見せるのです!!」
「悍ましき魔族どもをこの世界から一掃しましょう!女神様もそれを望まれています!!」
その集団の中で、綺羅びやかな鎧に身を包んだ数人が、高らかに叫ぶ。
その声に歓声をあげながら、人の群れはうねり、軍勢をくぐり抜けては光の壁へと向かっていた。
――アルカン達は知っている。
魔族と人間の、彼我の実力差を。
アルカン達はそれでも卓越した力を持つが故に、まだ魔族達に対抗する事が出来たが、彼らはそうではない。
人の群れのその殆どは、兵士でさえ無いのだ。
揃いの法衣に身を包み、手には武器や農具を持った彼らの殆どは、魔族は愚か魔物にさえ勝つことは出来ないだろう。
だが、止まらない。
彼らは知らないのだ。
魔族がどのような存在で、自分達がどのような存在なのか、まるで理解出来ていないのだ。
頭にあるのはただ、女神様のお告げが有った、だから自分達は魔族を滅ぼせるのだ――そんな、夢物語とさえ呼べない稚拙な考えだけ。
故に、アルカン達は人の群れを止めようと必死だった。
こんな事に意味など無い。
意図もしない自殺なんて止めろと、呼びかけもした。
だが、届かない。
彼らの耳に届いているのは、女神からの信託を受けたという一人の女性の言葉だけ。
「――さあ行きましょう。私達の手で、人間だけの時代を創り上げるのです」
人の群れの中に一人佇む、黒髪の女性。
見惚れるような美貌と清楚さを備えた彼女は正しく、聖女のようだった。
彼女に見惚れ、彼女の言葉に惚れ込み、人々は狂信とさえ言っていいような信仰を元に歩いていく。
それだけならば、まだ問題は無かったのかも知れない。
清楚であれ、美貌があれど、それだけならば力で抑え込んでしまえばいい。
――問題は、彼女の持つその力。
最初に彼女を暗殺するという案を出したのは、メガデスだった。
狂信的な、宗教じみた集団を潰すのであればその教祖を射止めればいい。
手荒では有るものの、その集団が最早抑え込む事が難しい数となってしまえばそうせざるを得まいと、アルカンは了承し――そして、暗殺は実行に移された。
超長射程からの狙撃。
メガデスだからこそ出来るその確実な暗殺は、即日速やかに行われ――そして、失敗した。
外れた訳ではない。
確かにその矢は、彼女に着弾した。
そのこめかみを穿ち抜き、苦しむこと無く昇天させた筈だったのだ。
――だが、彼女はゆらりと立ち上がれば、事も無げに活動を再開して。
正しく奇跡を見せつけられた信者達は、歓声を上げながら彼女こそが女神の代弁者だと疑わなくなってしまった。
そう、彼女は文字通りの奇跡を幾度となく起こしてみせたのだ。
メガデスの矢を受けながらも蘇生し。
多くの人々を先導――もとい、扇動して光の壁へと導いて。
そして今、三人の英傑さえも振り切って、魔族達の世界へと踏み入ろうとしている。
「オフェリア様、後は我々にお任せを」
「いえ、私はここで人々が来るのを待ちましょう。あなた方は、光の壁に入った人々を守って下さい」
「……畏まりました」
黒髪の女性――オフェリアは優しい声色でそう告げると、側近であろう鎧姿の騎士達を光の壁へと突入させた。
そうしている間にも、北方、南方に広く拡散した彼女の信者達が光の壁に入り込んでいく。
「――貴様は、何が狙いじゃ」
そんな彼女の元に、アルカンとエスメラルダは辿り着いた。
アルカンは既に刃を手にかけており――エスメラルダもまた、直様に魔法を放てるように身構えていて。
人間の中では最高峰の実力を持つ二人を前にして、しかしオフェリアは淡く笑みを零す。
「何が、と言われましても。言っている通りです、私達は魔族をただ滅ぼすだけですよ」
「不可能じゃ。そんな事は出来はしない」
「いいえ、出来ますとも。私は女神様から、それが出来うるだけの力を授かったのです」
「……女神様」
オフェリアの言葉に、エスメラルダはぴく、と肩を揺らす。
力を与えられた、という部分も気にかかったのか。
彼女はまさか、と小さく言葉を口にしつつ――
「貴女は、まさか……この世界の人間じゃ……!?」
「あら……ふふ、そうでしたか。同郷の方がまさか居られるなんて、驚きです」
――オフェリアは、心底嬉しそうに笑みを零した。
彼女の所作に、言葉に、一切の邪気は無い。
彼女は本気で信じているのだ。
人間にとって魔族は敵でしかなく、自分は女神に力を授けられたのだから魔族を滅ぼせるのだと。
「――待って、オフェリアさん!!駄目、ちゃんと自分で考えて!貴女が思うほど、魔族は弱くなんか無い!!」
「無駄じゃ、エスメラルダ――悪いが、手足を貰うぞ」
チン、とアルカンの手にしていた鞘が鳴る。
その瞬間、アルカンは目を見開いた。
切った。
両腕両足を、たしかに今寸断した。
だが――オフェリアの腕と脚には、うっすらと傷ができたかと思えば直ぐに戻り。
「貴方達は優しいですね。きっとその言葉も私達を気遣ってのものなのでしょう」
オフェリアは、少しだけ申し訳無さそうに、しかし笑みを零して――軽く指を、アルカンたちにかざした。
「ええ、ですから暫しの間止まっていて下さい。この力さえあれば、魔族を滅ぼす事も不可能ではない筈ですから」
――驚いたような顔をするアルカンと、オフェリアを止めようと手をのばすエスメラルダ。
二人は、まるで氷漬けにでもなったかのようにその場に停止した。
否、氷漬けどころの話ではない。
髪も、服の揺れも、その何もかもが完全に停止した二人は、呼吸さえもしておらず。
「……お、っと。無駄ですよ、聞こえているかは分かりませんが」
二人に申し訳無さそうに頭を下げたオフェリアの身体を、雷鳴が穿ち抜く。
その身体には風穴が空き、体は焼け焦げて――しかし、それもまるで逆回しでもするかのように癒えれば、オフェリアはにっこりと笑みを浮かべた。
そうして、人々の群れがおおよそ光の壁に入ったのを見届けると、オフェリアも光の壁に消えていく。
――破滅の歯車が、カチリと回った。