18.最上級の嫌がらせ・急
――目が、醒めない。
ルシエラはきっと、俺が眠りに落ちてから直ぐに起こそうとしてくれている筈だ。
だと言うのに、もう一時間は経っているというのに、目覚めは訪れなかった。
目の前にいるのは、悪辣な笑みを浮かべる幼いアルルーナの姿。
目覚めを待っても待っても醒めない事に、俺が動揺した事にでも気づいたんだろう。
アルルーナは小馬鹿にするような笑い声を上げれば、パチン、と指を鳴らした。
「……また下らねぇ上映会でもするつもりか」
「あら、あれがお気に入りかしら?知恵遅れのエルトリスちゃん♪」
目を閉じることも、逸らすことも、耳を塞ぐことも叶わない悪夢。
あれを再び見せられても良いように、心を、感情を整える。
……大丈夫だ、よしんばアレを見せられたとしても、ちゃんと心構えさえしておけば耐えられる。
前回はどういうものかも判らずに見て、聞いて、反応をしてしまったけれど、要するにあれだ。
あんなものは無視してしまえばそれまでの、ただの精神攻撃に過ぎない。
相変わらずアルルーナは俺を囃し立てるばかりだが、こんなのに反応なんかしてられるか。
反応しない、無視をする、目が覚めたら速攻でボロボロになってるアルルーナを叩き潰す。
それだけだ、それだけを考えていれば良い――……
「でもざぁんねん♪私、毎回同じ事をするのってあんまり好きじゃないの。だから今日は上映会じゃ無いのよね」
「……そうかよ」
「もう、反応が薄いわねぇ。くふっ、ふふ……♪どうせ気をしっかり持てば耐えられるとか思ってるんでしょうけど、ええ、そうね?目が覚めるまでそうしていられたなら、そうだわ♥」
……目の前に砂嵐のような霞がかかる。
俺は何が有っても動揺しない、相手にしないと改めて意思を固めて――
「まあ、そんな事は絶対に無理なのだけど――さあ、それじゃあ始めましょうか♥」
――バツン。
まるで何かが切れるような音を耳にしながら、俺の視界は完全な暗闇に包まれた。
周囲を見てもアルルーナの姿はなく、以前のような光景さえもない、ただの暗闇。
「……?」
ただ、おかしな事が有るとすれば、何やら、身体に奇妙な感覚があるという事。
何や柔らかなものが上から被せられているような、暖かなものに包まれているような、感覚。
体の感覚もはっきりとしていて、もしやもう目覚めたのか、と思いはするけれど、相変わらずルシエラを呼ぼうとしても応えはなくて。
まだ、眠りの中なのかと辟易しつつも、俺は何もしないように、何も考えないようにしつつ、その闇の中で耐え続けた。
耐えているのか、眠っているのかさえ判別がつかない奇妙な感覚の中、やがてカチャ、と何かを開くような音が聞こえれば、静かな足音が俺の元へと近づいてくる。
「……ん……」
……それを確認するくらいは良いだろう、意識をそちらに向ければ、自然と目が開いた。
……開いた?
おかしい、俺はまだ眠っている筈なのに……そもそも、目を閉じていた感覚さえ無かったのに、目を開くなんて。
視界に広がるのは、見覚えのあるような、無いような、どこにでもありそうな天井。
何が起きているのか判らず、俺は身体を起こして――
「――おお、目を覚ましたか。お早うじゃな、エルトリス」
――そして、その声に思わず視線を向けた。
そこに居たのは、あったのは、見間違える筈もないルシエラの姿。
いや、違う。
そんな訳はない、だってこうして目の前に居るのに、俺はルシエラとの繋がりをまるで感じられずにいる。
……つまりは幻影。
或いは、ただの夢の中の光景の一つなのだろう。
俺はわずかに高揚しかけた心を抑え込みながら、小さく息を吸い、吐いて――
「どうした、エルトリス?」
「あ……えっと、ねぇ」
口から出た声に、心の内で舌打ちをする。
口から溢れたのは、のんびりとした、眠たそうな、舌っ足らずな声。
あいも変わらず俺の意思通りに動かないのは、そのままなのだろう。
どこかでアルルーナがゲラゲラと笑っているのを想像すれば、それだけで腸が煮え繰り返るが……かといって、過剰に反応すれば相手を悦ばせるだけ。
俺は口から出る言葉には諦めつつ、何とか今がどういう状態なのかを把握しようと努めて。
「――ははぁん。全く、隠しても仕方なかろうにのう」
「……んぁ?」
「とぼけるでない。ほれ、見せろ――っ」
――そんな俺の意図を察することもなく、ルシエラ……の形をしたそれは、苦笑しながら俺のかぶっていたシーツを捲り上げた。
ひんやりとした空気の感触に、俺は身震いしつつ――妙な、感触に視線を降ろす。
無駄に大きな胸が邪魔で見えないけれど、下半身はなぜだか、嫌にすーすーとして、いて。
「おもらしした時は恥ずかしがらずに言えと言っただろうに。全く、エルトリスはいつまで経ってもおもらしさんじゃな?」
「え……う……っ!?」
……そして、その言葉と同時に、俺の頭は一気に熱くなった。
違う、これは眠りの中だ、夢の中だ。
下半身が妙に冷たいのも、ベッドのシーツが濡れているのも、全部、夢の中――アルルーナがそう見せているだけ……っ!!
「ち、ちがう、のぉ。これ、これはぁ、ゆめでぇ……」
「はいはい、判った判った。ほれ、綺麗にするから脱いで下に降りておくといい。朝食の準備は出来ておるからの」
「う、うん……わかったぁ……」
なのに、口から出るのは言い訳の言葉ばかり。
俺は、否応なしに羞恥で顔を熱くしながらも、ベッドから降りればべっちょりと濡れている下半身が気持ち悪くて、服を脱いでしまい。
ふら、ふらと……ルシエラの姿をしたそれに、濡れている服を渡すと部屋から出て。
だぽんっ、だぽんっ、と揺れるおっぱ……胸が邪魔で、足元が見えないけれど。
ぺたん、ぺたん、と足音を鳴らしながら、俺はゆっくりと廊下を歩いて、階段を降りて……
「え、ぅ……うぅ……っ?」
……おかしい。
おかしい、何でこんなに、階段を降りるのが、怖いんだ?
足元が胸で見えないせいで、一歩踏み出すのもどうしても恐る恐るになってしまって――いや、違う、これもアルルーナがそう見せてる、だけだ。
惑わされるな、動揺するな。
いつもどおり、普通に歩いていれば大丈夫――
――そう思って何段か降りた後、不意に足先が空を切った。
「え、あぅ……っ、きゃ、あああぁぁぁっ!?」
がくん、と身体が揺れ、一気に宙に投げ出される。
思わず溢れた声を気に留める余裕さえもなく、俺は階段を転げ――落ちることはなく、一段、二段と尻もちをついて、止まった。
どすんっ、どすんっ!と音を鳴らしながら、俺は、ずきん、ずきんと痛むお尻を抑えるようにして、俺は立ち上がろうと――
「ひぐ……っ!ふぇっ、うええええ~~ん……っ!!」
――立ち上がろうとしたのに、体が動かなかった。
代わりに溢れてきたのは、情けない大きな声。
お尻を抑え込みながら泣いて、泣いて、泣いて……耐えられる筈の痛みなのに、俺は何故かその痛みが辛くて、辛くて仕方なくて。
「大丈夫ですか、エルトリス。ああ良かった、怪我はなさそうですね」
「ひぐっ、えぐ……っ、え、えるちゃん……えるちゃんねぇ……ころん、じゃってぇ……」
「ああ、心配するな、大丈夫だ。よしよし、良い子良い子――」
リリエルの形をした何かと、アミラの形をした何かが、俺を見下ろしながら優しく笑みを零す。
頭を撫でられれば、それが、嫌なくらいに心地よくて、俺は自然と頬を緩めてしまい――……
【こうして、エルトリスちゃんのながいながーい夢が、始まったのでした……くふっ、くふふっ、きゃははははは――っ♥】
……遠くで微かに、アルルーナの嘲り笑う声が、聞こえたような気がした。
し……しっかりしなくちゃ。
大丈夫、大丈夫、俺は……俺は、正常だ。ちゃんと、自分を保ってる……だから、目が覚めるまでは、ちゃんとしなくちゃ……っ。